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第5話「使用人の秘密」
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公爵邸に来て、一週間が経った。
朝食は二人で食堂で。夕食も、あの日以来ずっと一緒にとるようになった。会話は少ない。でも少しずつ、沈黙の質が変わってきている気がする。最初の頃の凍りついたような沈黙ではなく、どこか——息のしやすい静けさ、とでも言えばいいのか。
毎朝扉の前に花が置かれることも、変わらず続いていた。
今朝は淡いオレンジ色のカーネーション。昨日は青いデルフィニウム。その前は白いフリージア。
どれも私が好きな花ばかりで、どれも決して派手ではなく、ただ丁寧に束ねられていた。
公爵様が、置いているのだろうか。
四日前の夕食で「知っている」と言いかけた公爵の顔を思い出す。それ以来、直接聞こうとするたびに話を逸らされてしまって、確かめられないままでいた。
聞いてしまえばいい。でもなぜか、聞けない。
答えを知ってしまったら、今この柔らかい気持ちが——壊れてしまう気がして。
馬鹿みたい。どうせ契約なのに。
私は首を振って、カーネーションを花瓶に活けた。
「奥様、本日は午後からお時間はございますか」
朝食を終えて部屋に戻ったところで、マリアが声をかけてきた。
「はい、特に予定はないですが」
「よろしければ、屋敷の作法について少しご説明できればと思いまして」
「作法、ですか」
「はい。来月、ご主人様が主催される小さな夜会がございます。奥様として同席していただくことになりますので、その前に」
そうか、夜会。契約書にも書いてあった。公爵の妻として社交界に同行すること。それが私の役目だ。
「わかりました、よろしくお願いします」
午後、マリアと向かい合って座った。
テーブルの上には紅茶とクッキー。マリアはいつも通り背筋を伸ばして、表情を変えずに座っている。
「まず夜会でのご挨拶の仕方から——」
「マリアさん」
「はい」
「少し、聞いてもいいですか。作法とは別のことを」
マリアが静かに私を見た。
「……なんでしょう」
「公爵様のことを、教えてください」
間があった。
マリアは紅茶のカップをソーサーに戻して、しばらく私を見つめていた。断られるかと思ったとき、
「……何をお聞きになりたいですか」
思いがけず、柔らかい声だった。
私は少し驚いて、それから素直に言った。
「どんな方なのか、知りたいんです。毎日一緒にいるのに、公爵様のことが全然わからなくて」
マリアがかすかに目を細めた。
「……十五年お仕えして、私にもわからないことの方が多いですよ」
「それでも、教えてもらえることだけで」
マリアはしばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「ご主人様は、幼い頃から感情を表に出されない方でした」
「生まれつきですか?」
「……いいえ」
マリアの声が、少しだけ低くなった。
「ご主人様が八歳のとき、奥様——先代の奥様、つまりご主人様のお母上が亡くなりました」
「……そうですか」
「病でございました。先代のご主人様、つまりお父上は再婚されましたが、継母の方は子供に無関心な方で。ご主人様は広い屋敷の中で、ほとんど一人で育ったようなものでした」
私は黙って聞いていた。
「魔法の才能が早くから現れましたので、十歳から王立魔法学院に入られました。そこでも——孤立されていたようです」
「なぜ」
「魔力が強すぎると、周りが怖がるものでございます。ご主人様の魔力は、同年代の生徒とは比べものにならないほどで」
冷血公爵、という異名の意味が少し変わって聞こえた。
冷たいのではなく、孤独だったのかもしれない。感情を出しても、誰にも届かなかったのかもしれない。
「……公爵様は、友人は」
「一人だけ、おられます。王宮騎士団の副団長、エリック・ハイドン様。幼馴染でいらっしゃいます」
「その方だけですか」
「はい。ご主人様は——人を信用するのが、苦手な方なのです」
マリアが静かに言った。
「長年お仕えして、ご主人様が声を出して笑われたのを、私は一度も見たことがありません」
私は胸の奥がじわりと痛むのを感じた。
笑ったことが、一度もない。
二十七年間、一度も。
「……そんな公爵様が」
「はい」
「なぜ契約結婚を」
マリアがわずかに視線を落とした。
「それは……私には申し上げられません」
また壁が来た。でも今日のマリアは、それ以上話を切り上げようとはしなかった。
「ただ」
静かな声で、続けた。
「ご主人様が自らご婚約の手続きを進められたのは、今回が初めてでございます」
「……初めて?」
「これまで何度かご縁談はございましたが、全てご主人様がお断りになっていました。今回だけは——ご主人様の方から動かれました」
私はそれを聞いて、しばらく何も言えなかった。
公爵様の方から、動いた。
「奥様」
マリアが、初めて私を真っ直ぐに見た。
「ご主人様は口下手で、不器用で、感情を伝えることが大変苦手な方です。ですが」
一拍置いて、
「嘘はつかれません。行動で示す方です」
それだけ言って、マリアは背筋を正した。
「では、夜会の作法についてご説明いたします」
話は終わった。
私は紅茶のカップを両手で包んで、窓の外を見た。庭に白い薔薇が風に揺れている。
行動で示す方。
毎朝の花。好物の朝食。「また、明日」のひと言。
全部——言葉の代わりだったのかもしれない。
胸の奥がじわじわと温かくなって、私は慌てて紅茶を一口飲んだ。
いけない。心を動かしてはいけないのに。
でもその温かさは、紅茶よりずっと長く、胸の中に残り続けた。
夜。
夕食を終えて廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから声が聞こえた。
公爵の声と、それから——知らない男の声。
「アルデン、お前が自分から動くなんて珍しい。よほど気に入ったのか?」
軽い調子の、からかうような声だった。
「……余計なことを言うな、エリック」
低く、押し殺したような公爵の声。
エリック。マリアが言っていた、幼馴染の騎士だ。
「いやあ、でも奥方の話をするときのお前の顔、見たことないぞ。なんというか——」
「エリック」
「生き生きしてる」
沈黙。
私は廊下の角で、息を止めた。
「……余計なことを言うな」
「はいはい。でも——良かったな、アルデン」
また沈黙。
それから、低くて短い声が聞こえた。
「……ああ」
たった一言。でもその声は、いつもの公爵の声より——ほんのわずかに、柔らかかった。
私は音を立てないように、そっとその場を離れた。
胸が、うるさいくらいに鳴っていた。
いけない。いけない。いけない。
部屋に戻って扉を閉めて、私はそのまま扉にもたれかかった。
——どうしよう。
心を動かしてはいけないと、毎日言い聞かせていたのに。
もう、動いている。
翌朝。
扉を開けると、今日の花が置かれていた。
真っ白な、小さなスズランの花束。
最初の日と同じ、私の一番好きな花。
私はそれを拾い上げて、胸に抱きしめた。
公爵様。
あなたのことを、もっと知りたい。
笑ったことがないというなら——いつか、笑わせてみたい。
そんなことを思いながら、私は顔を上げた。廊下の奥、公爵の部屋の扉が、今まさに静かに閉まるところだった。
「……おはようございます、公爵様」
扉越しに、声をかけた。
少しの間があって。
「……ああ」
低い声が、扉の向こうから返ってきた。
私は花束を抱えたまま、声が聞こえないくらい小さく笑った。
朝食は二人で食堂で。夕食も、あの日以来ずっと一緒にとるようになった。会話は少ない。でも少しずつ、沈黙の質が変わってきている気がする。最初の頃の凍りついたような沈黙ではなく、どこか——息のしやすい静けさ、とでも言えばいいのか。
毎朝扉の前に花が置かれることも、変わらず続いていた。
今朝は淡いオレンジ色のカーネーション。昨日は青いデルフィニウム。その前は白いフリージア。
どれも私が好きな花ばかりで、どれも決して派手ではなく、ただ丁寧に束ねられていた。
公爵様が、置いているのだろうか。
四日前の夕食で「知っている」と言いかけた公爵の顔を思い出す。それ以来、直接聞こうとするたびに話を逸らされてしまって、確かめられないままでいた。
聞いてしまえばいい。でもなぜか、聞けない。
答えを知ってしまったら、今この柔らかい気持ちが——壊れてしまう気がして。
馬鹿みたい。どうせ契約なのに。
私は首を振って、カーネーションを花瓶に活けた。
「奥様、本日は午後からお時間はございますか」
朝食を終えて部屋に戻ったところで、マリアが声をかけてきた。
「はい、特に予定はないですが」
「よろしければ、屋敷の作法について少しご説明できればと思いまして」
「作法、ですか」
「はい。来月、ご主人様が主催される小さな夜会がございます。奥様として同席していただくことになりますので、その前に」
そうか、夜会。契約書にも書いてあった。公爵の妻として社交界に同行すること。それが私の役目だ。
「わかりました、よろしくお願いします」
午後、マリアと向かい合って座った。
テーブルの上には紅茶とクッキー。マリアはいつも通り背筋を伸ばして、表情を変えずに座っている。
「まず夜会でのご挨拶の仕方から——」
「マリアさん」
「はい」
「少し、聞いてもいいですか。作法とは別のことを」
マリアが静かに私を見た。
「……なんでしょう」
「公爵様のことを、教えてください」
間があった。
マリアは紅茶のカップをソーサーに戻して、しばらく私を見つめていた。断られるかと思ったとき、
「……何をお聞きになりたいですか」
思いがけず、柔らかい声だった。
私は少し驚いて、それから素直に言った。
「どんな方なのか、知りたいんです。毎日一緒にいるのに、公爵様のことが全然わからなくて」
マリアがかすかに目を細めた。
「……十五年お仕えして、私にもわからないことの方が多いですよ」
「それでも、教えてもらえることだけで」
マリアはしばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「ご主人様は、幼い頃から感情を表に出されない方でした」
「生まれつきですか?」
「……いいえ」
マリアの声が、少しだけ低くなった。
「ご主人様が八歳のとき、奥様——先代の奥様、つまりご主人様のお母上が亡くなりました」
「……そうですか」
「病でございました。先代のご主人様、つまりお父上は再婚されましたが、継母の方は子供に無関心な方で。ご主人様は広い屋敷の中で、ほとんど一人で育ったようなものでした」
私は黙って聞いていた。
「魔法の才能が早くから現れましたので、十歳から王立魔法学院に入られました。そこでも——孤立されていたようです」
「なぜ」
「魔力が強すぎると、周りが怖がるものでございます。ご主人様の魔力は、同年代の生徒とは比べものにならないほどで」
冷血公爵、という異名の意味が少し変わって聞こえた。
冷たいのではなく、孤独だったのかもしれない。感情を出しても、誰にも届かなかったのかもしれない。
「……公爵様は、友人は」
「一人だけ、おられます。王宮騎士団の副団長、エリック・ハイドン様。幼馴染でいらっしゃいます」
「その方だけですか」
「はい。ご主人様は——人を信用するのが、苦手な方なのです」
マリアが静かに言った。
「長年お仕えして、ご主人様が声を出して笑われたのを、私は一度も見たことがありません」
私は胸の奥がじわりと痛むのを感じた。
笑ったことが、一度もない。
二十七年間、一度も。
「……そんな公爵様が」
「はい」
「なぜ契約結婚を」
マリアがわずかに視線を落とした。
「それは……私には申し上げられません」
また壁が来た。でも今日のマリアは、それ以上話を切り上げようとはしなかった。
「ただ」
静かな声で、続けた。
「ご主人様が自らご婚約の手続きを進められたのは、今回が初めてでございます」
「……初めて?」
「これまで何度かご縁談はございましたが、全てご主人様がお断りになっていました。今回だけは——ご主人様の方から動かれました」
私はそれを聞いて、しばらく何も言えなかった。
公爵様の方から、動いた。
「奥様」
マリアが、初めて私を真っ直ぐに見た。
「ご主人様は口下手で、不器用で、感情を伝えることが大変苦手な方です。ですが」
一拍置いて、
「嘘はつかれません。行動で示す方です」
それだけ言って、マリアは背筋を正した。
「では、夜会の作法についてご説明いたします」
話は終わった。
私は紅茶のカップを両手で包んで、窓の外を見た。庭に白い薔薇が風に揺れている。
行動で示す方。
毎朝の花。好物の朝食。「また、明日」のひと言。
全部——言葉の代わりだったのかもしれない。
胸の奥がじわじわと温かくなって、私は慌てて紅茶を一口飲んだ。
いけない。心を動かしてはいけないのに。
でもその温かさは、紅茶よりずっと長く、胸の中に残り続けた。
夜。
夕食を終えて廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから声が聞こえた。
公爵の声と、それから——知らない男の声。
「アルデン、お前が自分から動くなんて珍しい。よほど気に入ったのか?」
軽い調子の、からかうような声だった。
「……余計なことを言うな、エリック」
低く、押し殺したような公爵の声。
エリック。マリアが言っていた、幼馴染の騎士だ。
「いやあ、でも奥方の話をするときのお前の顔、見たことないぞ。なんというか——」
「エリック」
「生き生きしてる」
沈黙。
私は廊下の角で、息を止めた。
「……余計なことを言うな」
「はいはい。でも——良かったな、アルデン」
また沈黙。
それから、低くて短い声が聞こえた。
「……ああ」
たった一言。でもその声は、いつもの公爵の声より——ほんのわずかに、柔らかかった。
私は音を立てないように、そっとその場を離れた。
胸が、うるさいくらいに鳴っていた。
いけない。いけない。いけない。
部屋に戻って扉を閉めて、私はそのまま扉にもたれかかった。
——どうしよう。
心を動かしてはいけないと、毎日言い聞かせていたのに。
もう、動いている。
翌朝。
扉を開けると、今日の花が置かれていた。
真っ白な、小さなスズランの花束。
最初の日と同じ、私の一番好きな花。
私はそれを拾い上げて、胸に抱きしめた。
公爵様。
あなたのことを、もっと知りたい。
笑ったことがないというなら——いつか、笑わせてみたい。
そんなことを思いながら、私は顔を上げた。廊下の奥、公爵の部屋の扉が、今まさに静かに閉まるところだった。
「……おはようございます、公爵様」
扉越しに、声をかけた。
少しの間があって。
「……ああ」
低い声が、扉の向こうから返ってきた。
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