冷血公爵の契約花嫁、実は溺愛されていました〜氷の旦那様は、私にだけ甘すぎる〜

柴田はつみ

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第6話「社交界デビュー」

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 夜会まで、あと三日。

 マリアとの作法の練習は毎日続いていた。挨拶の仕方、ドレスの裾の持ち方、扇の使い方、会話の流し方——貴族社会には、私の知らないルールが山ほどあった。

「奥様、扇はもう少し高い位置で」

「こうですか」

「もう少し。そうです。それから視線は相手の目より少し上を——」

「難しいですね」

「慣れればすぐでございます」

 マリアは厳しいが、教え方は丁寧だった。練習の合間にさりげなくお茶を出してくれるし、私が失敗しても溜め息ひとつつかない。

 最初の頃の冷たい空気が、少しずつ溶けてきている気がした。

「マリアさんは、夜会が好きですか」

 練習の合間に聞いてみた。マリアは少し考えてから、

「好きではありませんが、嫌いでもありません」

「正直ですね」

「奥様は?」

「私は……正直、少し怖いです」

 マリアが静かに私を見た。

「公爵の妻として見られるんですよね。皆さん、いろいろ思うでしょうし」

「……そうですね」

 否定しないところが、マリアらしかった。

「でも」

 マリアが続けた。

「ご主人様がそばにいらっしゃいます」

「公爵様が?」

「ご主人様は、ご自分の隣に立つ方を、必ず守ります。それだけは確かです」

 私はその言葉を、胸の中でそっと繰り返した。

 必ず守る。

 夜会前日の夜、夕食のあとで公爵に呼ばれた。

 書斎に入ると、公爵が机の前に立っていた。机の上には細長い箱が一つ。

「明日のために用意した」

「……これは?」

「開けろ」

 促されて、私は箱の蓋を開けた。

「……あ」

 思わず声が出た。

 箱の中には、淡い水色のドレスが丁寧に畳まれていた。シンプルだけれど、布地が上質で、光の当たり方によって色が微妙に変わる。裾には細かな白い刺繍が施されていて、まるで霜の模様のようだった。

「綺麗……」

「似合うと思ったが、好みでなければ別のものを」

「いいえ、とても好きです」

 顔を上げると、公爵がこちらを見ていた。

「ありがとうございます、公爵様」

 公爵は小さく頷いた。それから、もう一つ小さな箱を机の上に置いた。

「これも」

 開けると、小さな白い薔薇のモチーフのブローチが入っていた。

「ドレスに合わせた」

 私はブローチを手のひらに乗せて、じっと見つめた。

 白い薔薇。

 私の好きな花。

「……公爵様は、白い薔薇が好きではないのですか」

「なぜそれを聞く」

「扉の前に毎朝、花を置いてくださっているでしょう」

 公爵が静かになった。

「最初の日も、白い薔薇でした。公爵様のお好みかと思って」

「……お前の好みに合わせた」

「じゃあ、やっぱり公爵様が」

「……厨房の者に頼んだ」

「公爵様が頼んだんですね」

「…………」

 完全に沈黙した。

 私はブローチを箱に戻しながら、笑いをこらえた。

「ありがとうございます、公爵様。毎朝、とても嬉しかったです」

 公爵は何も言わなかった。でも視線を窓の外に逸らしたその横顔で——耳が、今夜も赤かった。

 夜会当日。

 マリアに髪を整えてもらい、水色のドレスに袖を通した。胸元に白い薔薇のブローチをつけると、鏡の中の自分が、いつもより少しだけ違って見えた。

「……お似合いでございます、奥様」

 マリアが後ろから鏡越しに言った。その声がいつもより少し柔らかくて、私は驚いて振り返った。

 マリアは表情を変えずにいたが、目の端が、わずかに緩んでいた。

「マリアさん、今笑いましたか」

「笑っておりません」

「絶対笑いました」

「参りましょう、ご主人様がお待ちです」

 また話を切り上げて歩き出した。でも今度は、その背中がどことなく嬉しそうに見えた。

 玄関ホールに下りると、公爵が待っていた。

 いつもの黒い軍服ではなく、深紺の夜会用の上着を纏っていた。整った顔が、いつにも増して近寄りがたく見える。

 公爵が私を見た。

 上から下まで、ゆっくりと視線が動く。

 私は少し緊張して、「おかしいですか」と聞こうとした。

「……」

 公爵は何も言わなかった。ただ無言のまま、私の前に歩いてきて——右手を差し出した。

「参るか」

 低い声。

 私はその手に自分の手を重ねた。公爵の手は大きくて、少し冷たかった。

「はい」

 馬車に乗り込む前に、公爵が静かに言った。

「何かあれば、私の袖を引け」

「袖を?」

「それだけでいい。あとは私がする」

 私は公爵の横顔を見上げた。真剣な目だった。

「……わかりました」

 夜会の会場は、王都の中心にある侯爵家の邸宅だった。

 馬車を降りた瞬間から、視線を感じた。

 囁き声が聞こえる。

 あれがクロイツ公爵夫人?

 どこの家の令嬢かしら

 ヴァルモン家って、確か借金が

 聞こえないふりをした。笑顔を保ちながら、公爵の隣を歩く。

 公爵は視線一つ変えなかった。ただまっすぐ前を向いて歩いている。その堂々とした姿に、私は少し背筋が伸びる気がした。

「クロイツ公爵、ご出席ありがとうございます」

 主催の侯爵夫人が近づいてきた。五十代の、笑顔の上手な女性だ。

「こちらが奥様ですか。まあ、可愛らしい」

「ヴァルモンのリーナと申します。本日はお招きいただきありがとうございます」

 マリアに教えてもらった通りに挨拶すると、侯爵夫人が目を細めた。

「礼儀正しいのね。公爵、良いお嫁さんじゃないの」

「……そうだ」

 公爵が静かに答えた。

 私は少し驚いて公爵を見た。公爵は前を向いたままだ。

 そうだ、って言った。

 胸がどきりとした。

 夜会が進むにつれて、いくつかの貴族から声をかけられた。

 好奇の目、探るような目、値踏みする目——様々な視線が飛んでくる中で、私は笑顔を崩さないようにしながら、必死に作法を思い出していた。

 公爵は私のそばを離れなかった。

 誰かと話すときも、必ず少し後ろに立っている。まるで——壁のように。

「奥方様、少しよろしいですか」

 声をかけてきたのは、三十代ほどの男性貴族だった。金髪で、笑顔の作り方が上手い。名前はロッシュ子爵、と名乗った。

「ヴァルモン家のご令嬢とは存じ上げませんでした。お美しい」

「ありがとうございます」

「公爵のお隣にいらっしゃるのはもったいない。よろしければ私と一曲——」

「彼女は私の妻だ」

 低い声が割って入った。

 公爵が一歩前に出た。ロッシュ子爵の笑顔が、わずかに引きつる。

「こ、これは公爵。失礼しました、そういう意図では——」

「踊るなら私と踊る」

 公爵が私の方を見た。

 灰色の瞳が、まっすぐ私を見ている。

「……え、あ、はい」

 気づいたら頷いていた。

 公爵が私の手を取って、ダンスフロアへ向かった。後ろでロッシュ子爵が何か言っていたが、もう聞こえなかった。

 フロアの中央で、公爵と向かい合った。

 音楽が始まる。

 公爵の手が私の腰に回った瞬間、心臓が跳ね上がった。

「あの、私あまり上手くないですよ」

「構わない」

「転んでも?」

「転ばせない」

 きっぱりと言われた。

 踊り始めると、公爵がリードしてくれるので、確かに転びそうにはなかった。でも近い。公爵との距離が、これまでで一番近い。

「……公爵様、ダンスがお上手なんですね」

「そうでもない」

「充分上手いです」

「……お前が言うな」

「え、私下手ですか」

「下手ではない」

「じゃあ何ですか」

 公爵が少し黙った。

「……緊張しているだろう」

「して……ます、少し」

「わかる」

「わかるんですか」

「手が、冷たい」

 私はそこで初めて気づいた。自分の手が冷えていることに。緊張していたのだ。思っていたより、ずっと。

「……すみません」

「謝るな」

 公爵の声が、少し低くなった。

「ここにいる誰より、お前の方が正しく振る舞っている」

 私は顔を上げた。公爵は真面目な顔をしていた。

「……公爵様」

「初めての夜会で、よくやっている」

 不器用な、褒め言葉だった。でも——

 胸の奥が、じんわりと温かくなった。

「……ありがとうございます」

 音楽が続く。

 フロアの周りから視線を感じる。囁き声も聞こえる。でも今だけは、そんなものがどこか遠くに感じられた。

 公爵の手が、私の冷えた手をそっと、ほんの少しだけ——強く握った。

 気のせいかもしれない。

 でも私は、残りの曲が終わるまで、顔を上げることができなかった。

 帰りの馬車の中。

 向かい合って座った二人の間に、静かな時間が流れた。

 馬車の揺れに身を任せながら、私はぼんやりと窓の外の夜景を眺めていた。

「疲れたか」

「少し。でも——楽しかったです」

 公爵が静かに私を見た。

「怖くなかったか」

「最初は怖かったです。でも公爵様がそばにいてくれたので」

 言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。

「……そうか」

 公爵が窓の外に視線を向けた。夜の街灯が、その横顔を照らしている。

「公爵様」

「なんだ」

「今日、ありがとうございました。ドレスも、ブローチも、それから——踊ってくれたことも」

 公爵は答えなかった。

 でも窓ガラスに反射した横顔が——かすかに、ほんのかすかに——口元が緩んでいた。

 笑った。

 笑ったことが一度もない、と言っていたのに。

 私は胸の高鳴りを悟られないように、そっと窓の外に視線を戻した。

 夜空に星が出ていた。

 マリアさん。

 公爵様を笑わせることは——もしかしたら、思ったより難しくないかもしれません。
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