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第十七章 「夫が守った約束」
翌朝、エリシアは机の上に置いた便箋を読み返した。
昨夜、勢いで書いた一行だった。
お兄様、私は今、離れる理由よりも、残って確かめたい理由の方を多く見つけています。
朝になって読み返せば、気持ちが変わっているかもしれないと思っていた。昨日は村へ行き、病人の手当てをし、レオンハルトと一緒に領主夫妻として動いた。その高揚感で、少し前向きになりすぎていたのかもしれない。
けれど、文字を見ても後悔はなかった。
エリシアは便箋をそっと畳み、封筒には入れずに引き出しへ戻した。まだ送らない。クラウスへの正式な返事は、一週間が終わってから書くと決めている。
それでも、心の中ではもう、答えの輪郭が見え始めていた。
離れたいのではない。
傷ついた過去をなかったことにはできない。初夜の言葉を忘れたわけでもない。好きになってはいけないと言われた夜の冷たさは、今でも胸の奥に残っている。
けれど今は、それだけではなくなっていた。
レオンハルトは、エリシアの言葉を聞こうとしてくれる。公爵夫人としての仕事を認め、隣で支え、エリシアが傷ついたことも怒ったことも受け止めてくれる。
もう一度だけ、この人を信じてみたい。
その気持ちが、日ごとに大きくなっていた。
身支度を整え、朝食の間へ向かうと、レオンハルトはすでに席に着いていた。今朝も書類は置かれていない。代わりに、エリシアの席には小さな紙包みが置かれていた。
「おはよう、エリシア」
「おはようございます、旦那様。これは何でしょうか」
「昨日、村で君が使っていた手袋が傷んでいた。薬草を扱う時に使えるものを用意させた」
エリシアは紙包みを開いた。
中には、柔らかな革で作られた手袋が入っていた。指先が動かしやすいよう薄く仕立てられているが、手のひらの部分はしっかりしている。薬草畑でも、村での手当てでも使いやすそうだった。
「ありがとうございます。とても使いやすそうです」
「君の手は、薬草を扱う大事な手だ。傷めないでほしい」
まっすぐに言われ、エリシアは手袋を持つ指に力を込めた。
以前なら、こういう言葉はもらえなかった。そもそもレオンハルトは、エリシアがどんな手袋を使っているかなど見ていなかったはずだ。
今は、見てくれている。
それが嬉しくて、胸が詰まりそうになった。
「大切に使います」
「ああ」
食事が始まると、レオンハルトは昨日の村の報告を話した。
「医師から連絡が来た。子どもの熱は下がり始めている。年配者の一人はまだ体力が戻らないが、危険な状態ではないそうだ」
「よかったです」
エリシアは心から息をついた。
「食料の配分も始まった。村長から礼の言葉が届いている。君に直接伝えてほしいと言っていた」
「私にですか」
「ああ。公爵夫人が来てくれたことが、村人たちには大きかったようだ」
「私は薬草を持っていっただけです」
「それを必要としている人のところへ、自分で届けた。そこに意味がある」
レオンハルトは、以前よりずっと自然にエリシアの努力を言葉にしてくれるようになった。
そのたびに、エリシアの中に少しずつ自信が積もっていく。自分のしていることは無駄ではないのだと、誰かの役に立てているのだと、胸を張ってもいいのだと思える。
「旦那様」
「何だ」
「私、昨日の村へまた行きたいです。医師の邪魔にならない範囲で、薬草の使い方を村の女性たちに伝えたいと思っています」
「行こう」
即答だった。
エリシアは思わず顔を上げた。
「よろしいのですか」
「君が必要だと思うなら、行くべきだ。私も都合をつける」
「旦那様も毎回ご一緒されるのですか」
「君が一人で行きたいなら、護衛をつける。私がいた方がいいなら、私も行く。どちらにするかは君が決めていい」
エリシアは、少しだけ考えた。
「次は、私とベアトリスで行ってもよろしいでしょうか。女性たちに薬草の使い方を説明するなら、その方が話しやすいと思います。もちろん護衛はお願いします」
「わかった。ローレンに護衛を出させる。帰ったら報告を聞かせてくれ」
「はい」
自分で決めることを許される。
それは、とても大きなことだった。
レオンハルトが何もかも決めるのではなく、エリシアの考えを聞いて、必要な支えだけを用意してくれる。その距離が、今のエリシアにはとても心地よかった。
朝食の後、エリシアは書斎で慈善会への返書を整えた。
薬草の小袋を正式に試作するなら、乾燥薬草の量、布袋の大きさ、説明書の文面、医師による確認、配布先の選定など、決めることは多い。
忙しくなるはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
自分で選んだ仕事だからだ。
ベアトリスと共に返書を確認していると、フェリクスが扉を叩いて入ってきた。
「奥様、旦那様より、昨日の差出人不明の手紙についてご報告がございます。旦那様の執務室へお越しいただけますでしょうか」
エリシアはペンを置いた。
胸の奥が少し緊張した。
差出人不明の手紙。忘れていたわけではない。けれど、昨日は村の件で頭がいっぱいになり、考える時間がなかった。
「わかりました。すぐに参ります」
ベアトリスも一緒に行こうとしたが、エリシアは首を横に振った。
「大丈夫です。旦那様と話してきます」
そう言える自分に、エリシア自身が少し驚いた。
執務室へ入ると、レオンハルトは机の前に立っていた。机上には差出人不明の手紙と、いくつかの報告書が置かれている。
「来てくれてありがとう」
「手紙のことですね」
「ああ。差出人はまだ断定していない。ただ、経路はわかった」
レオンハルトは報告書を一枚エリシアへ渡した。
「手紙は王都の郵便所を通して出されていた。差出人名は偽名だが、封蝋に使われていた蝋と紙は、ラングレー伯爵家がよく使っている店のものと一致した」
エリシアは息をのんだ。
ラングレー伯爵家。
セレスティアの家だ。
「セレスティア様が出したということですか」
「まだ決めつけない。伯爵家の使用人や出入りの者が同じ店の紙を使った可能性もある。ただ、偶然と片づけるには近すぎる」
レオンハルトは、落ち着いた声で続けた。
「それから、茶会で君の離縁の相談について触れたのはセレスティアだった。その翌朝に、似た内容の手紙が届いた。無関係とは考えにくい」
エリシアは手元の報告書を見つめた。
やはり、と思う気持ちはあった。だが、はっきりした証拠がない以上、感情だけで責めるわけにはいかない。
「旦那様は、どうされるおつもりですか」
「まず、ラングレー伯爵に正式な問い合わせを出す。差出人不明の中傷文が届き、使用された紙が伯爵家と関係の深い店のものだった。伯爵家内で同じ紙を使った者がいないか、確認してほしいという形にする」
「それは、かなり強い牽制になりますね」
「必要な牽制だ。君を傷つけた手紙を放置するつもりはない」
レオンハルトは、はっきりそう言った。
エリシアは胸の奥が温かくなる一方で、少しだけ不安も覚えた。
「セレスティア様と、旦那様のご関係が悪くなるのではありませんか」
「君が心配することではない」
レオンハルトは一度そう言ってから、すぐに言い直した。
「いや、そうではないな。君が気にするのは当然だ。だから、きちんと答える」
エリシアはレオンハルトを見た。
以前の彼なら、これで終わらせていたかもしれない。君が心配することではない。そう言われれば、エリシアは黙るしかなかった。
けれど今、レオンハルトは自分で言葉を直した。
そのことに、エリシアは小さく胸を打たれた。
「セレスティアは幼い頃からの知人だ。家同士の付き合いもある。だからこそ、曖昧にしない方がいい。友人として大切にすることと、間違いを見過ごすことは別だ」
「私のために、そこまでしてくださるのですか」
「君のためでもあり、公爵家のためでもある。そして、私自身のためでもある」
「旦那様のため、ですか」
「ああ。君が傷つけられているのに、私が何もせずにいれば、私はまた初夜と同じ過ちを繰り返す。君に我慢させ、私は面倒から逃げる。もう、それはしたくない」
エリシアは、報告書を胸元に抱えた。
この人は、本当に変わろうとしている。
単に優しい言葉をかけるだけではない。自分がこれまでどこで間違えたのかを見つめ、その間違いを繰り返さないように行動している。
「ありがとうございます」
エリシアは静かに言った。
「でも、私もただ守られているだけにはなりたくありません。もしラングレー伯爵家から返事が来たら、私にも教えてください。必要なら、私の言葉でも伝えたいです」
「わかった。君を抜きにして決めない」
その返事が、エリシアには何より嬉しかった。
昼過ぎ、ラングレー伯爵家へ正式な問い合わせが送られた。
フェリクスが文面を整え、レオンハルトが署名した。そこには強い非難の言葉はなかったが、公爵家がこの件を把握しており、見過ごすつもりがないことは十分に伝わる内容だった。
エリシアはその文面を確認した後、書斎へ戻った。
机の上には、慈善会へ送る返書と薬草の説明書が並んでいる。忙しさは増していたが、心は昨日よりずっと落ち着いていた。
嫌な手紙は届いた。
噂もまだ消えていない。
けれど、もう一人で抱え込まなくていい。
そのことが、エリシアに力をくれた。
午後になると、王宮から急ぎの使いが来た。王太子妃付きの女官からで、薬草の説明書を王宮救護室の侍医に見せたところ、直接話を聞きたいとのことだった。
エリシアが返事を書こうとしていると、レオンハルトが書斎へ来た。
「王宮から連絡が来たそうだな」
「はい。侍医の方が、薬草の小袋について直接話を聞きたいそうです」
「王宮へ行くか」
「はい。行きたいです」
「では、日程を調整しよう」
レオンハルトは当然のように言った。
エリシアは、ふと尋ねた。
「旦那様は、私が王宮へ行くことに不安はありませんか」
「心配はある。だが、不安だから止めるという考えはない。君が自分の仕事として行きたいなら、行くべきだ」
「旦那様は、変わりましたね」
「君に何度もそう言われるが、自分ではまだ足りないと思っている」
「足りないと思えることが、変わった証拠かもしれません」
エリシアがそう言うと、レオンハルトは少しだけ表情をやわらげた。
「それなら、少しは前に進めているのかもしれない」
「はい。かなり進んでいます」
エリシアの口から自然に出た言葉に、レオンハルトはわずかに目を見開いた。
「かなり、か」
「はい。今日の評価は高いです」
「それは、嬉しいな」
レオンハルトは、まるで仕事で大きな成果を得た時のように真剣に頷いた。
その様子がおかしくて、エリシアは小さく笑った。
この人は本当に不器用で、真面目で、少しずつしか変われない。けれど、少しずつでも確かに歩いてくる。
その歩幅を、エリシアはもう嫌だと思っていなかった。
夕方、ラングレー伯爵家から返事が届いた。
早すぎる返事だった。つまり、伯爵家側も公爵家からの問い合わせを重大なものとして受け止めたのだろう。
レオンハルトはエリシアを執務室へ呼び、封を開ける前に言った。
「一緒に確認していいか」
「はい」
封筒の中には、伯爵直筆の手紙が入っていた。
内容は簡潔だった。
差出人不明の手紙に使われた紙は、確かにラングレー伯爵家が出入りの店から購入しているものと同じであること。伯爵家の侍女の一人が、最近その紙を持ち出していたこと。現在、事情を確認していること。そして、公爵夫人に不快な思いをさせたなら、伯爵家として深く詫びるというものだった。
最後に、セレスティア本人が明日、公爵家へ謝罪に伺いたいと書かれていた。
エリシアは手紙を読み終え、静かに息を吐いた。
「侍女が勝手にしたこと、という形になるのでしょうか」
「その可能性は高い。だが、セレスティアが謝罪に来るということは、少なくとも無関係ではないと伯爵家が判断したのだろう」
「旦那様は、会われますか」
「君が会いたくないなら、私だけで会う。君が同席したいなら、私も隣にいる。決めるのは君だ」
エリシアは、少し考えた。
怖くないわけではない。セレスティアに真正面から謝罪されるのか、それとも形だけの謝罪になるのかもわからない。だが、このままレオンハルトだけに任せれば、自分の中に何かが残る気がした。
「同席します」
「無理はしなくていい」
「無理ではありません。私は傷つきました。だから、その謝罪は私自身で受け取るかどうか決めたいです」
レオンハルトは、静かに頷いた。
「わかった。明日は私も同席する。君が途中で退席したくなったら、すぐにそうしていい」
「ありがとうございます」
「それから、明日は私が最初に話す。これは君個人への中傷であると同時に、公爵家への侮辱でもある。そこは私が引き受ける」
エリシアは、レオンハルトを見た。
「旦那様」
「何だ」
「私は今、旦那様を頼っているのだと思います」
口にしてから、エリシアは少し恥ずかしくなった。
けれど、取り消したくはなかった。
レオンハルトは、ゆっくりと息を吸った。
「そう思ってくれたなら、私は嬉しい」
「以前は、頼ってはいけないと思っていました」
「そう思わせたのは私だ」
「でも、今は違います」
エリシアは、手紙を机に置いた。
「明日、隣にいてください」
「ああ。必ずいる」
その返事を聞いて、エリシアの中で何かが決まった気がした。
一週間が終わる前に答えを出してはいけないと、自分に言い聞かせている。けれど心はもう、ほとんど決まっているのかもしれない。
残りたい。
この人と、もう少し先を見たい。
そう思い始めていた。
その夜、エリシアはクラウスへの手紙を書き直した。
まだ封はしない。だが、今日の気持ちを残しておきたかった。
お兄様へ。
まだ一週間は終わっていません。
けれど私は今、旦那様に頼ってもいいと思えるようになっています。
傷ついたことは消えていません。
でも、旦那様はそれをなかったことにせず、私が怒ることも、迷うことも、待ってくださっています。
私はもう少し、この屋敷で自分の答えを見つけたいです。
そこまで書いたところで、扉が叩かれた。
侍女が盆を運んできた。いつものカモミールティーと、レオンハルトからの紙が添えられている。
エリシアは紙を開いた。
明日は、君が傷ついたことを軽く扱わせない。
だが、君の言葉を奪うこともしない。
私は隣にいる。
レオンハルト
エリシアは、その短い手紙を胸元に引き寄せた。
隣にいる。
その言葉が、今はもう怖くなかった。
初夜に遠ざけられた場所へ、レオンハルトは自分の足で戻ってこようとしている。エリシアの心を無理に開けるのではなく、開けてもいいと思えるまで待とうとしてくれている。
エリシアは、クラウスへの手紙の最後に一行だけ書き足した。
私は、離れるためではなく、残るための勇気を持ちたいと思い始めています。
ペンを置いた後、エリシアはしばらくその文字を見つめた。
明日、セレスティアが来る。
きっと簡単な話にはならない。
けれどもう、一人で扉の前に立つ必要はなかった。
レオンハルトが隣にいると約束してくれた。その約束を、今のエリシアは信じたいと思っていた。
昨夜、勢いで書いた一行だった。
お兄様、私は今、離れる理由よりも、残って確かめたい理由の方を多く見つけています。
朝になって読み返せば、気持ちが変わっているかもしれないと思っていた。昨日は村へ行き、病人の手当てをし、レオンハルトと一緒に領主夫妻として動いた。その高揚感で、少し前向きになりすぎていたのかもしれない。
けれど、文字を見ても後悔はなかった。
エリシアは便箋をそっと畳み、封筒には入れずに引き出しへ戻した。まだ送らない。クラウスへの正式な返事は、一週間が終わってから書くと決めている。
それでも、心の中ではもう、答えの輪郭が見え始めていた。
離れたいのではない。
傷ついた過去をなかったことにはできない。初夜の言葉を忘れたわけでもない。好きになってはいけないと言われた夜の冷たさは、今でも胸の奥に残っている。
けれど今は、それだけではなくなっていた。
レオンハルトは、エリシアの言葉を聞こうとしてくれる。公爵夫人としての仕事を認め、隣で支え、エリシアが傷ついたことも怒ったことも受け止めてくれる。
もう一度だけ、この人を信じてみたい。
その気持ちが、日ごとに大きくなっていた。
身支度を整え、朝食の間へ向かうと、レオンハルトはすでに席に着いていた。今朝も書類は置かれていない。代わりに、エリシアの席には小さな紙包みが置かれていた。
「おはよう、エリシア」
「おはようございます、旦那様。これは何でしょうか」
「昨日、村で君が使っていた手袋が傷んでいた。薬草を扱う時に使えるものを用意させた」
エリシアは紙包みを開いた。
中には、柔らかな革で作られた手袋が入っていた。指先が動かしやすいよう薄く仕立てられているが、手のひらの部分はしっかりしている。薬草畑でも、村での手当てでも使いやすそうだった。
「ありがとうございます。とても使いやすそうです」
「君の手は、薬草を扱う大事な手だ。傷めないでほしい」
まっすぐに言われ、エリシアは手袋を持つ指に力を込めた。
以前なら、こういう言葉はもらえなかった。そもそもレオンハルトは、エリシアがどんな手袋を使っているかなど見ていなかったはずだ。
今は、見てくれている。
それが嬉しくて、胸が詰まりそうになった。
「大切に使います」
「ああ」
食事が始まると、レオンハルトは昨日の村の報告を話した。
「医師から連絡が来た。子どもの熱は下がり始めている。年配者の一人はまだ体力が戻らないが、危険な状態ではないそうだ」
「よかったです」
エリシアは心から息をついた。
「食料の配分も始まった。村長から礼の言葉が届いている。君に直接伝えてほしいと言っていた」
「私にですか」
「ああ。公爵夫人が来てくれたことが、村人たちには大きかったようだ」
「私は薬草を持っていっただけです」
「それを必要としている人のところへ、自分で届けた。そこに意味がある」
レオンハルトは、以前よりずっと自然にエリシアの努力を言葉にしてくれるようになった。
そのたびに、エリシアの中に少しずつ自信が積もっていく。自分のしていることは無駄ではないのだと、誰かの役に立てているのだと、胸を張ってもいいのだと思える。
「旦那様」
「何だ」
「私、昨日の村へまた行きたいです。医師の邪魔にならない範囲で、薬草の使い方を村の女性たちに伝えたいと思っています」
「行こう」
即答だった。
エリシアは思わず顔を上げた。
「よろしいのですか」
「君が必要だと思うなら、行くべきだ。私も都合をつける」
「旦那様も毎回ご一緒されるのですか」
「君が一人で行きたいなら、護衛をつける。私がいた方がいいなら、私も行く。どちらにするかは君が決めていい」
エリシアは、少しだけ考えた。
「次は、私とベアトリスで行ってもよろしいでしょうか。女性たちに薬草の使い方を説明するなら、その方が話しやすいと思います。もちろん護衛はお願いします」
「わかった。ローレンに護衛を出させる。帰ったら報告を聞かせてくれ」
「はい」
自分で決めることを許される。
それは、とても大きなことだった。
レオンハルトが何もかも決めるのではなく、エリシアの考えを聞いて、必要な支えだけを用意してくれる。その距離が、今のエリシアにはとても心地よかった。
朝食の後、エリシアは書斎で慈善会への返書を整えた。
薬草の小袋を正式に試作するなら、乾燥薬草の量、布袋の大きさ、説明書の文面、医師による確認、配布先の選定など、決めることは多い。
忙しくなるはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
自分で選んだ仕事だからだ。
ベアトリスと共に返書を確認していると、フェリクスが扉を叩いて入ってきた。
「奥様、旦那様より、昨日の差出人不明の手紙についてご報告がございます。旦那様の執務室へお越しいただけますでしょうか」
エリシアはペンを置いた。
胸の奥が少し緊張した。
差出人不明の手紙。忘れていたわけではない。けれど、昨日は村の件で頭がいっぱいになり、考える時間がなかった。
「わかりました。すぐに参ります」
ベアトリスも一緒に行こうとしたが、エリシアは首を横に振った。
「大丈夫です。旦那様と話してきます」
そう言える自分に、エリシア自身が少し驚いた。
執務室へ入ると、レオンハルトは机の前に立っていた。机上には差出人不明の手紙と、いくつかの報告書が置かれている。
「来てくれてありがとう」
「手紙のことですね」
「ああ。差出人はまだ断定していない。ただ、経路はわかった」
レオンハルトは報告書を一枚エリシアへ渡した。
「手紙は王都の郵便所を通して出されていた。差出人名は偽名だが、封蝋に使われていた蝋と紙は、ラングレー伯爵家がよく使っている店のものと一致した」
エリシアは息をのんだ。
ラングレー伯爵家。
セレスティアの家だ。
「セレスティア様が出したということですか」
「まだ決めつけない。伯爵家の使用人や出入りの者が同じ店の紙を使った可能性もある。ただ、偶然と片づけるには近すぎる」
レオンハルトは、落ち着いた声で続けた。
「それから、茶会で君の離縁の相談について触れたのはセレスティアだった。その翌朝に、似た内容の手紙が届いた。無関係とは考えにくい」
エリシアは手元の報告書を見つめた。
やはり、と思う気持ちはあった。だが、はっきりした証拠がない以上、感情だけで責めるわけにはいかない。
「旦那様は、どうされるおつもりですか」
「まず、ラングレー伯爵に正式な問い合わせを出す。差出人不明の中傷文が届き、使用された紙が伯爵家と関係の深い店のものだった。伯爵家内で同じ紙を使った者がいないか、確認してほしいという形にする」
「それは、かなり強い牽制になりますね」
「必要な牽制だ。君を傷つけた手紙を放置するつもりはない」
レオンハルトは、はっきりそう言った。
エリシアは胸の奥が温かくなる一方で、少しだけ不安も覚えた。
「セレスティア様と、旦那様のご関係が悪くなるのではありませんか」
「君が心配することではない」
レオンハルトは一度そう言ってから、すぐに言い直した。
「いや、そうではないな。君が気にするのは当然だ。だから、きちんと答える」
エリシアはレオンハルトを見た。
以前の彼なら、これで終わらせていたかもしれない。君が心配することではない。そう言われれば、エリシアは黙るしかなかった。
けれど今、レオンハルトは自分で言葉を直した。
そのことに、エリシアは小さく胸を打たれた。
「セレスティアは幼い頃からの知人だ。家同士の付き合いもある。だからこそ、曖昧にしない方がいい。友人として大切にすることと、間違いを見過ごすことは別だ」
「私のために、そこまでしてくださるのですか」
「君のためでもあり、公爵家のためでもある。そして、私自身のためでもある」
「旦那様のため、ですか」
「ああ。君が傷つけられているのに、私が何もせずにいれば、私はまた初夜と同じ過ちを繰り返す。君に我慢させ、私は面倒から逃げる。もう、それはしたくない」
エリシアは、報告書を胸元に抱えた。
この人は、本当に変わろうとしている。
単に優しい言葉をかけるだけではない。自分がこれまでどこで間違えたのかを見つめ、その間違いを繰り返さないように行動している。
「ありがとうございます」
エリシアは静かに言った。
「でも、私もただ守られているだけにはなりたくありません。もしラングレー伯爵家から返事が来たら、私にも教えてください。必要なら、私の言葉でも伝えたいです」
「わかった。君を抜きにして決めない」
その返事が、エリシアには何より嬉しかった。
昼過ぎ、ラングレー伯爵家へ正式な問い合わせが送られた。
フェリクスが文面を整え、レオンハルトが署名した。そこには強い非難の言葉はなかったが、公爵家がこの件を把握しており、見過ごすつもりがないことは十分に伝わる内容だった。
エリシアはその文面を確認した後、書斎へ戻った。
机の上には、慈善会へ送る返書と薬草の説明書が並んでいる。忙しさは増していたが、心は昨日よりずっと落ち着いていた。
嫌な手紙は届いた。
噂もまだ消えていない。
けれど、もう一人で抱え込まなくていい。
そのことが、エリシアに力をくれた。
午後になると、王宮から急ぎの使いが来た。王太子妃付きの女官からで、薬草の説明書を王宮救護室の侍医に見せたところ、直接話を聞きたいとのことだった。
エリシアが返事を書こうとしていると、レオンハルトが書斎へ来た。
「王宮から連絡が来たそうだな」
「はい。侍医の方が、薬草の小袋について直接話を聞きたいそうです」
「王宮へ行くか」
「はい。行きたいです」
「では、日程を調整しよう」
レオンハルトは当然のように言った。
エリシアは、ふと尋ねた。
「旦那様は、私が王宮へ行くことに不安はありませんか」
「心配はある。だが、不安だから止めるという考えはない。君が自分の仕事として行きたいなら、行くべきだ」
「旦那様は、変わりましたね」
「君に何度もそう言われるが、自分ではまだ足りないと思っている」
「足りないと思えることが、変わった証拠かもしれません」
エリシアがそう言うと、レオンハルトは少しだけ表情をやわらげた。
「それなら、少しは前に進めているのかもしれない」
「はい。かなり進んでいます」
エリシアの口から自然に出た言葉に、レオンハルトはわずかに目を見開いた。
「かなり、か」
「はい。今日の評価は高いです」
「それは、嬉しいな」
レオンハルトは、まるで仕事で大きな成果を得た時のように真剣に頷いた。
その様子がおかしくて、エリシアは小さく笑った。
この人は本当に不器用で、真面目で、少しずつしか変われない。けれど、少しずつでも確かに歩いてくる。
その歩幅を、エリシアはもう嫌だと思っていなかった。
夕方、ラングレー伯爵家から返事が届いた。
早すぎる返事だった。つまり、伯爵家側も公爵家からの問い合わせを重大なものとして受け止めたのだろう。
レオンハルトはエリシアを執務室へ呼び、封を開ける前に言った。
「一緒に確認していいか」
「はい」
封筒の中には、伯爵直筆の手紙が入っていた。
内容は簡潔だった。
差出人不明の手紙に使われた紙は、確かにラングレー伯爵家が出入りの店から購入しているものと同じであること。伯爵家の侍女の一人が、最近その紙を持ち出していたこと。現在、事情を確認していること。そして、公爵夫人に不快な思いをさせたなら、伯爵家として深く詫びるというものだった。
最後に、セレスティア本人が明日、公爵家へ謝罪に伺いたいと書かれていた。
エリシアは手紙を読み終え、静かに息を吐いた。
「侍女が勝手にしたこと、という形になるのでしょうか」
「その可能性は高い。だが、セレスティアが謝罪に来るということは、少なくとも無関係ではないと伯爵家が判断したのだろう」
「旦那様は、会われますか」
「君が会いたくないなら、私だけで会う。君が同席したいなら、私も隣にいる。決めるのは君だ」
エリシアは、少し考えた。
怖くないわけではない。セレスティアに真正面から謝罪されるのか、それとも形だけの謝罪になるのかもわからない。だが、このままレオンハルトだけに任せれば、自分の中に何かが残る気がした。
「同席します」
「無理はしなくていい」
「無理ではありません。私は傷つきました。だから、その謝罪は私自身で受け取るかどうか決めたいです」
レオンハルトは、静かに頷いた。
「わかった。明日は私も同席する。君が途中で退席したくなったら、すぐにそうしていい」
「ありがとうございます」
「それから、明日は私が最初に話す。これは君個人への中傷であると同時に、公爵家への侮辱でもある。そこは私が引き受ける」
エリシアは、レオンハルトを見た。
「旦那様」
「何だ」
「私は今、旦那様を頼っているのだと思います」
口にしてから、エリシアは少し恥ずかしくなった。
けれど、取り消したくはなかった。
レオンハルトは、ゆっくりと息を吸った。
「そう思ってくれたなら、私は嬉しい」
「以前は、頼ってはいけないと思っていました」
「そう思わせたのは私だ」
「でも、今は違います」
エリシアは、手紙を机に置いた。
「明日、隣にいてください」
「ああ。必ずいる」
その返事を聞いて、エリシアの中で何かが決まった気がした。
一週間が終わる前に答えを出してはいけないと、自分に言い聞かせている。けれど心はもう、ほとんど決まっているのかもしれない。
残りたい。
この人と、もう少し先を見たい。
そう思い始めていた。
その夜、エリシアはクラウスへの手紙を書き直した。
まだ封はしない。だが、今日の気持ちを残しておきたかった。
お兄様へ。
まだ一週間は終わっていません。
けれど私は今、旦那様に頼ってもいいと思えるようになっています。
傷ついたことは消えていません。
でも、旦那様はそれをなかったことにせず、私が怒ることも、迷うことも、待ってくださっています。
私はもう少し、この屋敷で自分の答えを見つけたいです。
そこまで書いたところで、扉が叩かれた。
侍女が盆を運んできた。いつものカモミールティーと、レオンハルトからの紙が添えられている。
エリシアは紙を開いた。
明日は、君が傷ついたことを軽く扱わせない。
だが、君の言葉を奪うこともしない。
私は隣にいる。
レオンハルト
エリシアは、その短い手紙を胸元に引き寄せた。
隣にいる。
その言葉が、今はもう怖くなかった。
初夜に遠ざけられた場所へ、レオンハルトは自分の足で戻ってこようとしている。エリシアの心を無理に開けるのではなく、開けてもいいと思えるまで待とうとしてくれている。
エリシアは、クラウスへの手紙の最後に一行だけ書き足した。
私は、離れるためではなく、残るための勇気を持ちたいと思い始めています。
ペンを置いた後、エリシアはしばらくその文字を見つめた。
明日、セレスティアが来る。
きっと簡単な話にはならない。
けれどもう、一人で扉の前に立つ必要はなかった。
レオンハルトが隣にいると約束してくれた。その約束を、今のエリシアは信じたいと思っていた。
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