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第21話 辞退願い
晩餐の翌朝、リシェルはまだ薄暗い部屋で目を覚ました。
窓の外は、夜明けと朝のあいだの曖昧な色をしている。
鳥の声もまだ少なく、王宮全体が息を潜めているような静けさだった。
けれど、リシェルの胸の内だけは少しも静かではなかった。
昨夜の晩餐
カイルの言葉
アシュレイの硬い表情
王妃の変わらぬ静けさ
セレフィーナの完璧な笑顔
すべてが、まるで一つの糸でつながっているみたいに頭の中で絡まっている。
目立つなと言われた
消えるなとも言われた
妃向きだと告げられた
お前だったから妃にしたかったとも言われた。
もう、どの言葉だけを信じればいいのかわからない。
ただ一つだけはっきりしていることがあった。
このままでは、誰かの思惑の中で揺さぶられ続けるだけだということだ。
王妃はセレフィーナを前へ出したい。
セレフィーナは自分を静かに退かせたい。
アシュレイは退かせたくない。
カイルは見る目のある男として、自分へ別の良さを投げかけてくる。
その真ん中で、肝心の自分だけが何も決めずにいる。
「……それでは、だめね」
小さく呟くと、自分の声が思ったよりはっきりしていて、リシェルは少しだけ驚いた。
だめだ。
このままでは。
少なくとも一度、自分の意思を形にしなければならない。
それが受け入れられるかどうかは別としても、
どうせ決められるだけだからと黙っているのは、もうやめたかった。
朝の支度を手伝いに来たミラは、リシェルの表情を見るなり、少しだけ目を細めた。
「お嬢様」
「なに?」
「何か、お決めになりましたね」
その言い方に、リシェルは苦笑する。
「そんなにわかりやすい?」
「少しだけ」
「その少しだけは、もう信用しないわ」
「ですが本当です」
ミラは髪を梳かしながら続けた。
「迷っている時のお嬢様ではありません。今は、怖くても進もうと決めたお顔です」
「……そう見えるのね」
「はい」
リシェルは鏡の中の自分を見る。
淡い栗色の髪
白い肌
榛色の瞳
華やかではない。
王妃が言う意味も、セレフィーナが前に出される理由もわかる。
でも、それだけで終わりたくないと思ってしまった。
「ミラ」
「はい」
「紙を用意してくれる?」
ミラの手が止まる。
「紙、でございますか」
「ええ」
「……どのような用途に」
「辞退願いを書くの」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
ミラがゆっくり鏡越しにこちらを見る。
その顔には驚きと、少しの痛みが混ざっていた。
「お嬢様」
「わかっているわ」
リシェルは先に言う。
「今さら、と思うでしょう」
「そのようなことではありません」
ミラは低く返した。
「本気なのですか」
「……ええ」
「昨日までのお気持ちは」
そこを問われると、胸が少しだけ痛んだ。
昨日まで。
いや、今日の朝まで、アシュレイの言葉に揺れていた。
カイルの言葉に救われてもいた。
だからこそ苦しい。
「気持ちは、なくなっていないわ」
正直に言う。
「では、なぜ」
「なくなっていないからこそよ」
ミラの目がわずかに揺れる。
リシェルはゆっくりと言葉を選んだ。
「このまま王宮にいれば、わたしはきっと、何かを期待してしまう」
「……」
「アシュレイ殿下の言葉も、カイル殿下の視線も、王妃殿下の命令も、セレフィーナ様の敵意も、全部受けながら、決めないままでいることになる」
喉の奥が少し痛む。
「それは、もう……耐えられなくなる気がするの」
ミラは何も言わなかった。
しばらくの間は、否定ではない。
ちゃんと聞いてくれている間だった。
「わたしが自分で退くと決めることと」
リシェルは続ける。
「誰かに静かに沈められることは、違うと思いたいの」
「お嬢様……」
「だから、一度だけでも、自分の言葉で終わらせたい」
それが本音だった。
終わらせたい。
そう言ってしまうと苦しい。
でも、終わらないまま削られていくよりは、自分で線を引きたかった。
しばらく考え込んだあと、ミラは静かに頭を下げた。
「承知しました」
その声は少し掠れていた。
「紙をお持ちします」
「ありがとう」
「ですが」
ミラが顔を上げる。
「ひとつだけ」
「なに?」
「本当に、お一人だけで決めてしまってよろしいのですか」
その問いに、リシェルは少しだけハッとした。
兄の顔が浮かぶ。
父と母のことも。
アシュレイの、退かないという声も。
それでも、リシェルは小さく頷いた。
「……今は、これを自分で書きたいの」
「わかりました」
ミラはもう止めなかった。
紙の上に最初の一文字を書くまでに、思ったより時間がかかった。
妃候補辞退の願い。
正式な表現。
王妃への礼。
王家への詫び。
そして、自分の意思であること。
どれも必要だった。
どれも間違ってはいけない。
けれど本当につらいのは、文面そのものではなかった。
書けば、形になる。
形になれば、戻れない。
リシェルは何度もペンを止めた。
それでも、最後には書き上げる。
王太子妃候補の立場を辞退したく存じます。
力不足を深く自覚し、これ以上王家のお立場を曇らせぬよう、どうかお許しください。
端正な字で綴られた文面は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
まるで他人が書いたもののようだ。
「お嬢様」
ミラがそっと近づく。
「……できましたか」
「ええ」
紙を見下ろしたまま答える。
「できてしまったわ」
ミラはその紙を見て、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せる。
「王妃殿下へお持ちしますか」
「ええ」
「今すぐ?」
「そうね」
リシェルは深く息を吸う。
「迷っているうちに、また揺らいでしまうもの」
その言葉に、ミラは小さく頷いた。
「では、お供いたします」
「ありがとう」
王妃の私室へ向かう回廊は、妙に長く感じられた。
紙一枚が、こんなにも重いとは思わなかった。
封をしていても、その中に入っている言葉が胸に響く。
辞退。
終わらせるための言葉。
自分で引くための言葉。
途中で何度も足が止まりそうになった。
けれど止まらない。
止まったら、もう行けなくなる気がした。
私室の前で、王妃付き女官へ取り次ぎを頼む。
女官は一礼して中へ消え、しばらくして戻ってきた。
「お入りください」
「……はい」
扉の向こうでは、王妃が机に向かっていた。
白い薔薇。
整いすぎた部屋。
最初に“あなたは妃になれません”と告げられた時と、よく似た空気。
「来ましたか、リシェル」
「お時間をいただき、ありがとうございます、王妃殿下」
「何の用件です」
淡々とした問いだった。
リシェルは封を両手で持ち、まっすぐ差し出した。
「辞退願いをお持ちしました」
その瞬間、王妃の手が止まった。
ほんのわずかに。
でも、確かに止まった。
「……辞退願い」
「はい」
「誰の意思ですか」
その問いは鋭かった。
「わたくし自身の意思です」
「家の意向ではなく?」
「はい」
「誰かに何かを言われたのではなく?」
一拍置いてから、リシェルは答える。
「いろいろな言葉はございました。ですが、これはわたくし自身で決めたことです」
王妃はしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと手を差し出す。
「こちらへ」
封を渡す。
王妃は開封し、文面を目で追った。
部屋の中は静まり返っている。
紙の擦れる音だけが小さく響く。
やがて王妃は顔を上げた。
「……本気なのですね」
「はい」
「なぜ今です」
リシェルは息を整えた。
「このままでは、わたくしは誰かに決められるばかりになります」
王妃の瞳が静かに向けられる。
「それでは嫌だと思いました」
「……」
「妃になれないと言われた時、わたくしは受け入れるしかないと思いました。ですが、そのあとも王宮に留まり、前へ出るなと言われ、目立つなと言われ、それでも周囲の思惑の中へ置かれ続けて」
言葉を続けるたび、喉が少しずつ痛む。
「これ以上は、自分で終わらせなければ、わたくしがわたくしでなくなる気がしたのです」
王妃はすぐには答えなかった。
「……そうですか」
ようやく落ちた声は、とても静かだった。
「あなたを、そこまで追い詰めてしまったのですね。」
その言葉に、リシェルは少しだけ目を見開いた。
王妃がそんな言い方をするとは思わなかった。
でも同時に、それはまるで他人事のようでもある。
「王妃殿下は」
気づけば問い返していた。
「わたくしが追い詰められていることを、ご存じだったのですか」
王妃の目が、わずかに細まる。
「知っていました」
「でしたら」
「だからこそ、目立つなと言ったのです」
その答えに、胸が少しだけ痛い。
やはりそうだ。
王妃は見ていた。
見ていてなお、自分を…
「……でも、それでは遅かったのです」
リシェルは静かに言う。
「わたくしはもう、ただ従うだけではいられませんでした」
王妃は辞退願いへ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
そして、次の瞬間。
「認めません」
その一言に、リシェルは顔を上げた。
「……え」
「この辞退は、今この場では認めません」
王妃はまっすぐにリシェルを見る。
「あなたは感情の中で決めている」
「わたくしは」
「静かに決めているように見えて、まだ揺れています」
その指摘は、痛いほど正しかった。
揺れている。
その通りだ。
アシュレイのことも、カイルのことも、王妃のことも、まだ何一つ整理しきれていない。
「今のあなたに必要なのは、辞退ではなく」
王妃の声が低く落ちる。
「自分が何を望むのかを、最後まで見極めることです」
その言葉に、リシェルは混乱した。
認めない?
王妃が?
ずっと自分を前から外そうとしてきたはずの王妃が、なぜ今さら。
「王妃殿下……?」
「あなたは賢い」
王妃は静かに言う。
「賢いから、今、自分を守るために辞退という形を選んだのでしょう」
「……」
「ですが、それが本当にあなたの望みなのか、私はまだ疑っています」
胸が大きく鳴る。
望み。
そんなもの、今はもう自分でもうまく言えないのに。
「下がりなさい、リシェル」
王妃は辞退願いを机の上に置いた。
「この件は預かります」
「ですが」
「下がりなさい」
低く、揺るがない声。
それ以上は言えなかった。
リシェルは一礼し、何とか足を動かして部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、力が抜けそうになった。
認めません。
あの一言がまだ耳に残っている。
ようやく自分の意思で差し出した辞退願い。
それが、王妃に受け取られたのに、認められなかった。
終わらせることすら、自分の思うようにはいかない。
「お嬢様!」
ミラがすぐに駆け寄る。
「どうなりましたか」
リシェルはゆっくり顔を上げた。
「……預かられたわ」
「え」
「でも、認めないって」
ミラが目を見開く。
「認めない?」
「わたくしがまだ揺れているからですって」
自分で言いながら、笑いそうになる。
泣きそうにもなる。
ミラは言葉を失っていた。
その時だった。
少し離れた回廊の先で、重い足音が止まる気配がした。
振り向くと、アシュレイが立っていた。
濃紺の上着のまま、灰青の瞳でまっすぐこちらを見ている。
その視線は、今まで見た誰よりも静かで、そして冷たかった。
彼はたぶん、聞いたのだ。
辞退願い。
その言葉を。
胸が、痛いほど締め付ける。
終わらせるために差し出した願いが、今度は別の嵐を呼んでしまったのかもしれない。
窓の外は、夜明けと朝のあいだの曖昧な色をしている。
鳥の声もまだ少なく、王宮全体が息を潜めているような静けさだった。
けれど、リシェルの胸の内だけは少しも静かではなかった。
昨夜の晩餐
カイルの言葉
アシュレイの硬い表情
王妃の変わらぬ静けさ
セレフィーナの完璧な笑顔
すべてが、まるで一つの糸でつながっているみたいに頭の中で絡まっている。
目立つなと言われた
消えるなとも言われた
妃向きだと告げられた
お前だったから妃にしたかったとも言われた。
もう、どの言葉だけを信じればいいのかわからない。
ただ一つだけはっきりしていることがあった。
このままでは、誰かの思惑の中で揺さぶられ続けるだけだということだ。
王妃はセレフィーナを前へ出したい。
セレフィーナは自分を静かに退かせたい。
アシュレイは退かせたくない。
カイルは見る目のある男として、自分へ別の良さを投げかけてくる。
その真ん中で、肝心の自分だけが何も決めずにいる。
「……それでは、だめね」
小さく呟くと、自分の声が思ったよりはっきりしていて、リシェルは少しだけ驚いた。
だめだ。
このままでは。
少なくとも一度、自分の意思を形にしなければならない。
それが受け入れられるかどうかは別としても、
どうせ決められるだけだからと黙っているのは、もうやめたかった。
朝の支度を手伝いに来たミラは、リシェルの表情を見るなり、少しだけ目を細めた。
「お嬢様」
「なに?」
「何か、お決めになりましたね」
その言い方に、リシェルは苦笑する。
「そんなにわかりやすい?」
「少しだけ」
「その少しだけは、もう信用しないわ」
「ですが本当です」
ミラは髪を梳かしながら続けた。
「迷っている時のお嬢様ではありません。今は、怖くても進もうと決めたお顔です」
「……そう見えるのね」
「はい」
リシェルは鏡の中の自分を見る。
淡い栗色の髪
白い肌
榛色の瞳
華やかではない。
王妃が言う意味も、セレフィーナが前に出される理由もわかる。
でも、それだけで終わりたくないと思ってしまった。
「ミラ」
「はい」
「紙を用意してくれる?」
ミラの手が止まる。
「紙、でございますか」
「ええ」
「……どのような用途に」
「辞退願いを書くの」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
ミラがゆっくり鏡越しにこちらを見る。
その顔には驚きと、少しの痛みが混ざっていた。
「お嬢様」
「わかっているわ」
リシェルは先に言う。
「今さら、と思うでしょう」
「そのようなことではありません」
ミラは低く返した。
「本気なのですか」
「……ええ」
「昨日までのお気持ちは」
そこを問われると、胸が少しだけ痛んだ。
昨日まで。
いや、今日の朝まで、アシュレイの言葉に揺れていた。
カイルの言葉に救われてもいた。
だからこそ苦しい。
「気持ちは、なくなっていないわ」
正直に言う。
「では、なぜ」
「なくなっていないからこそよ」
ミラの目がわずかに揺れる。
リシェルはゆっくりと言葉を選んだ。
「このまま王宮にいれば、わたしはきっと、何かを期待してしまう」
「……」
「アシュレイ殿下の言葉も、カイル殿下の視線も、王妃殿下の命令も、セレフィーナ様の敵意も、全部受けながら、決めないままでいることになる」
喉の奥が少し痛む。
「それは、もう……耐えられなくなる気がするの」
ミラは何も言わなかった。
しばらくの間は、否定ではない。
ちゃんと聞いてくれている間だった。
「わたしが自分で退くと決めることと」
リシェルは続ける。
「誰かに静かに沈められることは、違うと思いたいの」
「お嬢様……」
「だから、一度だけでも、自分の言葉で終わらせたい」
それが本音だった。
終わらせたい。
そう言ってしまうと苦しい。
でも、終わらないまま削られていくよりは、自分で線を引きたかった。
しばらく考え込んだあと、ミラは静かに頭を下げた。
「承知しました」
その声は少し掠れていた。
「紙をお持ちします」
「ありがとう」
「ですが」
ミラが顔を上げる。
「ひとつだけ」
「なに?」
「本当に、お一人だけで決めてしまってよろしいのですか」
その問いに、リシェルは少しだけハッとした。
兄の顔が浮かぶ。
父と母のことも。
アシュレイの、退かないという声も。
それでも、リシェルは小さく頷いた。
「……今は、これを自分で書きたいの」
「わかりました」
ミラはもう止めなかった。
紙の上に最初の一文字を書くまでに、思ったより時間がかかった。
妃候補辞退の願い。
正式な表現。
王妃への礼。
王家への詫び。
そして、自分の意思であること。
どれも必要だった。
どれも間違ってはいけない。
けれど本当につらいのは、文面そのものではなかった。
書けば、形になる。
形になれば、戻れない。
リシェルは何度もペンを止めた。
それでも、最後には書き上げる。
王太子妃候補の立場を辞退したく存じます。
力不足を深く自覚し、これ以上王家のお立場を曇らせぬよう、どうかお許しください。
端正な字で綴られた文面は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
まるで他人が書いたもののようだ。
「お嬢様」
ミラがそっと近づく。
「……できましたか」
「ええ」
紙を見下ろしたまま答える。
「できてしまったわ」
ミラはその紙を見て、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せる。
「王妃殿下へお持ちしますか」
「ええ」
「今すぐ?」
「そうね」
リシェルは深く息を吸う。
「迷っているうちに、また揺らいでしまうもの」
その言葉に、ミラは小さく頷いた。
「では、お供いたします」
「ありがとう」
王妃の私室へ向かう回廊は、妙に長く感じられた。
紙一枚が、こんなにも重いとは思わなかった。
封をしていても、その中に入っている言葉が胸に響く。
辞退。
終わらせるための言葉。
自分で引くための言葉。
途中で何度も足が止まりそうになった。
けれど止まらない。
止まったら、もう行けなくなる気がした。
私室の前で、王妃付き女官へ取り次ぎを頼む。
女官は一礼して中へ消え、しばらくして戻ってきた。
「お入りください」
「……はい」
扉の向こうでは、王妃が机に向かっていた。
白い薔薇。
整いすぎた部屋。
最初に“あなたは妃になれません”と告げられた時と、よく似た空気。
「来ましたか、リシェル」
「お時間をいただき、ありがとうございます、王妃殿下」
「何の用件です」
淡々とした問いだった。
リシェルは封を両手で持ち、まっすぐ差し出した。
「辞退願いをお持ちしました」
その瞬間、王妃の手が止まった。
ほんのわずかに。
でも、確かに止まった。
「……辞退願い」
「はい」
「誰の意思ですか」
その問いは鋭かった。
「わたくし自身の意思です」
「家の意向ではなく?」
「はい」
「誰かに何かを言われたのではなく?」
一拍置いてから、リシェルは答える。
「いろいろな言葉はございました。ですが、これはわたくし自身で決めたことです」
王妃はしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと手を差し出す。
「こちらへ」
封を渡す。
王妃は開封し、文面を目で追った。
部屋の中は静まり返っている。
紙の擦れる音だけが小さく響く。
やがて王妃は顔を上げた。
「……本気なのですね」
「はい」
「なぜ今です」
リシェルは息を整えた。
「このままでは、わたくしは誰かに決められるばかりになります」
王妃の瞳が静かに向けられる。
「それでは嫌だと思いました」
「……」
「妃になれないと言われた時、わたくしは受け入れるしかないと思いました。ですが、そのあとも王宮に留まり、前へ出るなと言われ、目立つなと言われ、それでも周囲の思惑の中へ置かれ続けて」
言葉を続けるたび、喉が少しずつ痛む。
「これ以上は、自分で終わらせなければ、わたくしがわたくしでなくなる気がしたのです」
王妃はすぐには答えなかった。
「……そうですか」
ようやく落ちた声は、とても静かだった。
「あなたを、そこまで追い詰めてしまったのですね。」
その言葉に、リシェルは少しだけ目を見開いた。
王妃がそんな言い方をするとは思わなかった。
でも同時に、それはまるで他人事のようでもある。
「王妃殿下は」
気づけば問い返していた。
「わたくしが追い詰められていることを、ご存じだったのですか」
王妃の目が、わずかに細まる。
「知っていました」
「でしたら」
「だからこそ、目立つなと言ったのです」
その答えに、胸が少しだけ痛い。
やはりそうだ。
王妃は見ていた。
見ていてなお、自分を…
「……でも、それでは遅かったのです」
リシェルは静かに言う。
「わたくしはもう、ただ従うだけではいられませんでした」
王妃は辞退願いへ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
そして、次の瞬間。
「認めません」
その一言に、リシェルは顔を上げた。
「……え」
「この辞退は、今この場では認めません」
王妃はまっすぐにリシェルを見る。
「あなたは感情の中で決めている」
「わたくしは」
「静かに決めているように見えて、まだ揺れています」
その指摘は、痛いほど正しかった。
揺れている。
その通りだ。
アシュレイのことも、カイルのことも、王妃のことも、まだ何一つ整理しきれていない。
「今のあなたに必要なのは、辞退ではなく」
王妃の声が低く落ちる。
「自分が何を望むのかを、最後まで見極めることです」
その言葉に、リシェルは混乱した。
認めない?
王妃が?
ずっと自分を前から外そうとしてきたはずの王妃が、なぜ今さら。
「王妃殿下……?」
「あなたは賢い」
王妃は静かに言う。
「賢いから、今、自分を守るために辞退という形を選んだのでしょう」
「……」
「ですが、それが本当にあなたの望みなのか、私はまだ疑っています」
胸が大きく鳴る。
望み。
そんなもの、今はもう自分でもうまく言えないのに。
「下がりなさい、リシェル」
王妃は辞退願いを机の上に置いた。
「この件は預かります」
「ですが」
「下がりなさい」
低く、揺るがない声。
それ以上は言えなかった。
リシェルは一礼し、何とか足を動かして部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、力が抜けそうになった。
認めません。
あの一言がまだ耳に残っている。
ようやく自分の意思で差し出した辞退願い。
それが、王妃に受け取られたのに、認められなかった。
終わらせることすら、自分の思うようにはいかない。
「お嬢様!」
ミラがすぐに駆け寄る。
「どうなりましたか」
リシェルはゆっくり顔を上げた。
「……預かられたわ」
「え」
「でも、認めないって」
ミラが目を見開く。
「認めない?」
「わたくしがまだ揺れているからですって」
自分で言いながら、笑いそうになる。
泣きそうにもなる。
ミラは言葉を失っていた。
その時だった。
少し離れた回廊の先で、重い足音が止まる気配がした。
振り向くと、アシュレイが立っていた。
濃紺の上着のまま、灰青の瞳でまっすぐこちらを見ている。
その視線は、今まで見た誰よりも静かで、そして冷たかった。
彼はたぶん、聞いたのだ。
辞退願い。
その言葉を。
胸が、痛いほど締め付ける。
終わらせるために差し出した願いが、今度は別の嵐を呼んでしまったのかもしれない。
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