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第23話 ダンスカード事件
春の夜会は、王宮でもとくに華やかな催しの一つだった。
高い天井から吊るされた幾重もの燭台が、金色の光を惜しみなく降らせる。
磨き上げられた床は鏡のように輝き、色とりどりのドレスが滑るたび、広間全体がひとつの大きな絵巻のように揺れた。
弦楽器の音色は甘く、花と香油の香りがゆるやかに漂う。
だが今夜のリシェルにとって、その美しさは少しも慰めにはならなかった。
胸元に小さな銀の刺繍が入った淡い灰青のドレス。
目立たないように、けれどみすぼらしくは見えないように整えられた装い。
ミラは「とてもお綺麗です」と言ってくれたが、リシェル自身は鏡の前で何度も息を整えるしかなかった。
王妃に目立つなと言われた。
それでも消えるつもりはないと言った。
アシュレイは待つと言った。
カイルはなれないと言われたことと、本当になれないことは同じではないと言った。
何ひとつ片づいていないまま、また夜会が来る。
「お嬢様」
出がけに、ミラがダンスカードをそっと差し出した。
「失くされませんように」
「ええ」
「今夜はとくに」
その言い方に、リシェルは少しだけ目を瞬いた。
「どういう意味?」
「嫌な予感がするからです」
ミラは珍しく、はっきり言った。
「こういう華やかな場ほど、静かな意地悪は目立ちません」
その言葉が、今も胸のどこかに引っかかっている。
広間へ入ると、すでに多くの貴族たちが集まっていた。
王妃の近くには、当然のようにセレフィーナがいる。
今夜の彼女は、淡い蜂蜜色に若葉を溶かしたようなドレスをまとっていた。
蜂蜜色の髪はゆるく結い上げられ、青緑の瞳は灯りを映してきらめいている。
ただ立っているだけで、人の視線が寄る。
王妃の傍らで笑う姿は、誰の目にもふさわしいものに映るだろう。
少し離れた位置にはカイルもいた。
茶金の髪、深い青の瞳、肩の力の抜けた立ち姿。
この国の貴公子たちとは少し違う、洗練された余裕がある。
何人かの令嬢がすでに彼のほうを気にしている様子が見えたが、カイル自身はいつもの穏やかな微笑みのまま、必要な相手にだけ言葉を返していた。
そしてアシュレイ。
濃紺の礼装に身を包んだ姿は、今夜も誰より目を引いた。淡い金髪は灯りの下で冷たく光り、灰青の瞳は静かだ。
静かだが、その静けさが昔よりずっと危ういものに見える。
今の彼は、感情を抑えているからこそ、かえって目が離せない。
リシェルは息を整え、壁際へ寄った。
今夜は、できるだけ波風を立てずに過ごす。
そう決めている。
ダンスカードを手袋越しにそっと確かめる。
白い小ぶりなカードには、踊りの順番を書き込む欄が並んでいる。まだほとんど空白だった。
もともと、自分のカードがすべて埋まることなどない。
それは慣れている。
けれど、空白であることと、空白にされることは違う。
夜会の前半は、思っていたより穏やかに過ぎた。
数人の令嬢と挨拶を交わし、王妃付き女官から進行上の確認を一つ頼まれ、壁際へ戻る。
セレフィーナは絶えず誰かに囲まれていた。
王妃の近くで笑い、年配の侯爵夫人にも若い令嬢にも軽やかに応じている。
カイルは途中、一度だけリシェルに視線を向け、軽くグラスを傾けるようにして挨拶を寄越した。
それに会釈を返すだけで、少しだけ周囲の空気が動いた気がした。
見られている。
その感覚が増している。
「リシェル様」
柔らかな声で呼ばれ、振り向くとセレフィーナだった。
「お楽しみですか?」
「……ええ、それなりに」
「それはよかったですわ」
青緑の瞳が花のように笑う。
「今夜はたくさんの方がおいでですもの。ダンスカードもきっとすぐ埋まってしまいますわね」
その言葉に、リシェルの指先がわずかに止まる。
セレフィーナは、さも何気ない顔をしている。
けれど、その視線は一瞬だけリシェルの手元のカードへ落ちていた。
「どうでしょう」
リシェルは静かに返す。
「わたくしは、もともと多くは望んでおりませんので」
「まあ」
セレフィーナは小さく笑う。
「そういうところ、本当に奥ゆかしいですわ」
それから、少しだけ近づいて声を落とす。
「でも今夜は、壁際にいすぎると余計に目立つかもしれませんわよ」
そう言い残し、彼女はまた人の輪の中へ戻っていった。
胸の奥が、ひやりと冷える。
何だろう。
何かが引っかかる。
けれど、今この時点ではまだ形にならない。
やがて最初のダンスが始まり、広間の中央へ何組もの男女が進み出た。
音楽に合わせて揺れるドレス。
交わされる笑み。
人々の視線。
リシェルは壁際でそれを見ていた。
自分のダンスカードは、まだ一曲も埋まっていない。
それは珍しいことではない。
けれど今夜は、なぜか少しだけ胸に響く。
その時、近くにいた伯爵令嬢が声を弾ませた。
「まあ、セレフィーナ様のカード、もうほとんど埋まっているそうですわ」
「さすがですわね」
「カイル殿下のお名前もあったとか」
「本当に? では王太子殿下は?」
令嬢たちの囁きに、リシェルは目を伏せた。
セレフィーナならそうだろう。
誰もが踊りたがる。
それは自然なことだ。
そう思いながら、自分もカードを開いて確認しようとした。
だが――
ない。
リシェルは一瞬、何を見ているのかわからなかった。
カードが、ない。
さっきまで確かに手に持っていたはずの白いカードが、どこにも見当たらない。
手袋の上、外套の袖口、ドレスの脇。
どこにもない。
心臓が大きく跳ねる。
「……まさか」
小さく呟いて、周囲を見回す。
だが床にも落ちていない。
嫌な予感が、一気に現実味を帯びる。
「お嬢様?」
いつの間にか近くへ来ていたミラが、リシェルの顔色に気づいて声をひそめた。
「どうなさいました」
「ダンスカードが」
「え?」
「ないの」
ミラの表情が変わる。
「そんな」
「さっきまで持っていたはずなのに」
胸の奥が冷える。
ダンスカードを失くす。
それだけなら不注意で済むかもしれない。
でも夜会では、それが誰にも誘われなかったから隠したのではマナーも守れないのではという別の意味に変わりうる。
「探します」
ミラがすぐに動こうとするが、その時だった。
「まあ、リシェル様」
やわらかな声が、すぐ近くで響いた。
セレフィーナだ。
彼女は数人の令嬢を伴ってこちらへ歩み寄ってくる。青緑の瞳には、心配そうな光が浮かんでいた。
「どうかなさいましたの?」
「……少し、カードを」
「ダンスカードを?」
セレフィーナが目を丸くする。
「なくされたの?」
周囲の令嬢たちが一斉にこちらを見る。
しまった、と思った。
声にしなければよかった。
でももう遅い。
「もしかして、落としてしまわれたのかしら」
「大変ですわ」
「こんな時に」
悪意のない顔で交わされる言葉が、じわじわと場を狭くしていく。
「わたくし」
リシェルは何とか声を整える。
「すぐに探しますので」
「でも、もう次の曲が始まってしまいますわ」
セレフィーナは困ったように眉を下げる。
「カードがないままだと、どなたと何曲踊るご予定だったかも確認できませんでしょう?」
それは、あまりにも親切な指摘だった。
誰もまだ責めていない。
でも、少しずつ困ったことをした人という空気ができていく。
「お気になさらず」
リシェルが答えようとした、その時だった。
「リシェル嬢のカードなら、こちらに」
低く穏やかな男の声が、場を切った。
全員が振り向く。
カイルだった。
彼は白い小さなカードを手にして、こちらへ歩いてくる。
茶金の髪が灯りを受けてやわらかく光り、深い青の瞳は少しも慌てていない。
「温室へ続く回廊の手前で見つけました」
自然な声音。
「落とされたのだろうと思って」
リシェルの胸から、一瞬だけ力が抜ける。
「……ありがとうございます」
「いいえ」
カイルはカードを差し出し、それから周囲を見渡した。
「ですが、不思議ですね」
その一言に、場の空気がわずかに止まる。
「落ちたにしては、ずいぶん人目につきにくい場所にありました」
セレフィーナの笑顔が、ほんの少しだけ固まる。
誰も何も言わない。
カイルはにこりともせず、ただ穏やかに続けた。
「誰かが拾って、置き忘れたのでしょうか」
その問いに返事をする者はいなかった。
だが、それだけで十分だった。
これは単なる不注意ではなかったかもしれない。
その可能性を、見る目のある男が静かに示してしまったのだ。
リシェルはカードを受け取る。
指先が少し震えている。
「助かりました、殿下」
「気になさらず」
カイルはやわらかく視線を落とした。
「こういうものは、失くさないほうがよいですから」
その言葉は優しい。
だが同時に、失くしたのではなく、失くされたのではという含みも感じさせる。
セレフィーナが、ようやく笑みを整えた。
「まあ、本当によかったですわ」
青緑の瞳がわずかに細まる。
「リシェル様、安心いたしました」
「……ありがとうございます」
リシェルは静かに答える。
でも、その瞬間にはもうわかっていた。
これは事故ではない。
誰かが意図的に動かした。
そしてその誰かが誰なのか、完全に証明はできなくても、感じ取れてしまう。
場がぎこちなく解け始めた、その時だった。
「次の曲を」
低い声が、広間の空気をさらに変えた。
アシュレイだった。
いつの間に近くへ来ていたのか、濃紺の礼装のまま、灰青の瞳でまっすぐリシェルを見ている。
「俺がもらう」
一瞬、誰も動かなかった。
広間がしんと静まり返る。
次の曲を、王太子がリシェルに申し込んだ。
それだけで、意味は十分すぎるほどあった。
「殿下……」
リシェルの声はわずかに掠れた。
「嫌か」
「そんなことは」
「なら来い」
有無を言わせない声音だった。
けれど、その奥には押しつけではない熱がある。
リシェルはカードを握ったまま、一瞬だけ迷う。
王妃の視線が遠くから刺さるように感じる。
セレフィーナの青緑の瞳は、もはや笑っていない。
それでも。
「……はい」
その手を取った。
アシュレイの手は熱かった。
いつもよりも、ずっと。
広間の中央へ導かれる。
何人もの視線が追ってくる。
見られている。
今夜いちばん、見られている。
それでも、アシュレイは一歩も迷わなかった。
音楽が始まる。
彼の腕がリシェルの腰へ回り、定められた距離ができる。
近い。
近いのに、今夜の彼はいつもより静かに見えた。
「……怒っていらっしゃるの?」
リシェルが小さく問うと、アシュレイの灰青の瞳がわずかに細まる。
「ああ」
「誰に」
「全部にだ」
低い声。
「母上にも、セレフィーナにも、気づいていて何も言わない連中にも」
一拍。
「そして一番は、自分自身に」
その答えが、胸に刺さる。
「殿下」
「お前のカードがなくなった時、俺はすぐに気づけなかった」
音楽に合わせて足を運びながら、アシュレイは続ける。
「また遅れた」
「でも、カイル殿下が」
「わかっている」
その声が少しだけ硬くなる。
「だから余計に腹が立つ」
リシェルは息を呑んだ。
嫉妬。
その言葉を口にしなくても、もう隠しようがないほど、彼の熱は近くにあった。
「……殿下は」
「何だ」
「今、かなりわかりやすいわ」
そう言うと、アシュレイは一瞬だけ目を見開き、次の瞬間にはほんのわずかに口元を歪めた。
「そうか」
「ええ」
「もう隠す気がない」
その言葉に、また胸が鳴る。
ダンスの輪の端で、セレフィーナがこちらを見ている。
王妃も、動かない表情のまま見ている。
カイルは少し離れた場所でグラスを持ち、深い青の瞳で静かに見守っていた。
みんな見ている。
それなのに、アシュレイは今さら引かなかった。
「リシェル」
低い声が、音楽の隙間に落ちる。
「次にこういうことがあったら」
「え?」
「今度は、俺が最初に見つける」
その言葉が、涙が出るほど嬉しくて、同じくらい苦しかった。
遅かったことは消えない。
でも、今ここでこの人が本気で怒っていることも、守ろうとしていることも、もう疑いようがない。
曲が終わる。
拍手が小さく広がる中、アシュレイはまだリシェルの手を離さなかった。
その灰青の瞳は、広間の向こう、セレフィーナのほうを静かに見ていた。
それは、これ以上は好きにさせないという目だった。
ダンスカード事件。
それは小さな意地悪のはずだった。
けれど結果として、セレフィーナの静かな敵意を誰の目にも匂わせ、カイルに庇われ、そしてアシュレイの本気を公の場でさらに露わにしてしまった。
春の夜会はまだ続いている。
だが、今夜を境に、もう誰もこれをただのすれ違いだとは思わないだろう。
高い天井から吊るされた幾重もの燭台が、金色の光を惜しみなく降らせる。
磨き上げられた床は鏡のように輝き、色とりどりのドレスが滑るたび、広間全体がひとつの大きな絵巻のように揺れた。
弦楽器の音色は甘く、花と香油の香りがゆるやかに漂う。
だが今夜のリシェルにとって、その美しさは少しも慰めにはならなかった。
胸元に小さな銀の刺繍が入った淡い灰青のドレス。
目立たないように、けれどみすぼらしくは見えないように整えられた装い。
ミラは「とてもお綺麗です」と言ってくれたが、リシェル自身は鏡の前で何度も息を整えるしかなかった。
王妃に目立つなと言われた。
それでも消えるつもりはないと言った。
アシュレイは待つと言った。
カイルはなれないと言われたことと、本当になれないことは同じではないと言った。
何ひとつ片づいていないまま、また夜会が来る。
「お嬢様」
出がけに、ミラがダンスカードをそっと差し出した。
「失くされませんように」
「ええ」
「今夜はとくに」
その言い方に、リシェルは少しだけ目を瞬いた。
「どういう意味?」
「嫌な予感がするからです」
ミラは珍しく、はっきり言った。
「こういう華やかな場ほど、静かな意地悪は目立ちません」
その言葉が、今も胸のどこかに引っかかっている。
広間へ入ると、すでに多くの貴族たちが集まっていた。
王妃の近くには、当然のようにセレフィーナがいる。
今夜の彼女は、淡い蜂蜜色に若葉を溶かしたようなドレスをまとっていた。
蜂蜜色の髪はゆるく結い上げられ、青緑の瞳は灯りを映してきらめいている。
ただ立っているだけで、人の視線が寄る。
王妃の傍らで笑う姿は、誰の目にもふさわしいものに映るだろう。
少し離れた位置にはカイルもいた。
茶金の髪、深い青の瞳、肩の力の抜けた立ち姿。
この国の貴公子たちとは少し違う、洗練された余裕がある。
何人かの令嬢がすでに彼のほうを気にしている様子が見えたが、カイル自身はいつもの穏やかな微笑みのまま、必要な相手にだけ言葉を返していた。
そしてアシュレイ。
濃紺の礼装に身を包んだ姿は、今夜も誰より目を引いた。淡い金髪は灯りの下で冷たく光り、灰青の瞳は静かだ。
静かだが、その静けさが昔よりずっと危ういものに見える。
今の彼は、感情を抑えているからこそ、かえって目が離せない。
リシェルは息を整え、壁際へ寄った。
今夜は、できるだけ波風を立てずに過ごす。
そう決めている。
ダンスカードを手袋越しにそっと確かめる。
白い小ぶりなカードには、踊りの順番を書き込む欄が並んでいる。まだほとんど空白だった。
もともと、自分のカードがすべて埋まることなどない。
それは慣れている。
けれど、空白であることと、空白にされることは違う。
夜会の前半は、思っていたより穏やかに過ぎた。
数人の令嬢と挨拶を交わし、王妃付き女官から進行上の確認を一つ頼まれ、壁際へ戻る。
セレフィーナは絶えず誰かに囲まれていた。
王妃の近くで笑い、年配の侯爵夫人にも若い令嬢にも軽やかに応じている。
カイルは途中、一度だけリシェルに視線を向け、軽くグラスを傾けるようにして挨拶を寄越した。
それに会釈を返すだけで、少しだけ周囲の空気が動いた気がした。
見られている。
その感覚が増している。
「リシェル様」
柔らかな声で呼ばれ、振り向くとセレフィーナだった。
「お楽しみですか?」
「……ええ、それなりに」
「それはよかったですわ」
青緑の瞳が花のように笑う。
「今夜はたくさんの方がおいでですもの。ダンスカードもきっとすぐ埋まってしまいますわね」
その言葉に、リシェルの指先がわずかに止まる。
セレフィーナは、さも何気ない顔をしている。
けれど、その視線は一瞬だけリシェルの手元のカードへ落ちていた。
「どうでしょう」
リシェルは静かに返す。
「わたくしは、もともと多くは望んでおりませんので」
「まあ」
セレフィーナは小さく笑う。
「そういうところ、本当に奥ゆかしいですわ」
それから、少しだけ近づいて声を落とす。
「でも今夜は、壁際にいすぎると余計に目立つかもしれませんわよ」
そう言い残し、彼女はまた人の輪の中へ戻っていった。
胸の奥が、ひやりと冷える。
何だろう。
何かが引っかかる。
けれど、今この時点ではまだ形にならない。
やがて最初のダンスが始まり、広間の中央へ何組もの男女が進み出た。
音楽に合わせて揺れるドレス。
交わされる笑み。
人々の視線。
リシェルは壁際でそれを見ていた。
自分のダンスカードは、まだ一曲も埋まっていない。
それは珍しいことではない。
けれど今夜は、なぜか少しだけ胸に響く。
その時、近くにいた伯爵令嬢が声を弾ませた。
「まあ、セレフィーナ様のカード、もうほとんど埋まっているそうですわ」
「さすがですわね」
「カイル殿下のお名前もあったとか」
「本当に? では王太子殿下は?」
令嬢たちの囁きに、リシェルは目を伏せた。
セレフィーナならそうだろう。
誰もが踊りたがる。
それは自然なことだ。
そう思いながら、自分もカードを開いて確認しようとした。
だが――
ない。
リシェルは一瞬、何を見ているのかわからなかった。
カードが、ない。
さっきまで確かに手に持っていたはずの白いカードが、どこにも見当たらない。
手袋の上、外套の袖口、ドレスの脇。
どこにもない。
心臓が大きく跳ねる。
「……まさか」
小さく呟いて、周囲を見回す。
だが床にも落ちていない。
嫌な予感が、一気に現実味を帯びる。
「お嬢様?」
いつの間にか近くへ来ていたミラが、リシェルの顔色に気づいて声をひそめた。
「どうなさいました」
「ダンスカードが」
「え?」
「ないの」
ミラの表情が変わる。
「そんな」
「さっきまで持っていたはずなのに」
胸の奥が冷える。
ダンスカードを失くす。
それだけなら不注意で済むかもしれない。
でも夜会では、それが誰にも誘われなかったから隠したのではマナーも守れないのではという別の意味に変わりうる。
「探します」
ミラがすぐに動こうとするが、その時だった。
「まあ、リシェル様」
やわらかな声が、すぐ近くで響いた。
セレフィーナだ。
彼女は数人の令嬢を伴ってこちらへ歩み寄ってくる。青緑の瞳には、心配そうな光が浮かんでいた。
「どうかなさいましたの?」
「……少し、カードを」
「ダンスカードを?」
セレフィーナが目を丸くする。
「なくされたの?」
周囲の令嬢たちが一斉にこちらを見る。
しまった、と思った。
声にしなければよかった。
でももう遅い。
「もしかして、落としてしまわれたのかしら」
「大変ですわ」
「こんな時に」
悪意のない顔で交わされる言葉が、じわじわと場を狭くしていく。
「わたくし」
リシェルは何とか声を整える。
「すぐに探しますので」
「でも、もう次の曲が始まってしまいますわ」
セレフィーナは困ったように眉を下げる。
「カードがないままだと、どなたと何曲踊るご予定だったかも確認できませんでしょう?」
それは、あまりにも親切な指摘だった。
誰もまだ責めていない。
でも、少しずつ困ったことをした人という空気ができていく。
「お気になさらず」
リシェルが答えようとした、その時だった。
「リシェル嬢のカードなら、こちらに」
低く穏やかな男の声が、場を切った。
全員が振り向く。
カイルだった。
彼は白い小さなカードを手にして、こちらへ歩いてくる。
茶金の髪が灯りを受けてやわらかく光り、深い青の瞳は少しも慌てていない。
「温室へ続く回廊の手前で見つけました」
自然な声音。
「落とされたのだろうと思って」
リシェルの胸から、一瞬だけ力が抜ける。
「……ありがとうございます」
「いいえ」
カイルはカードを差し出し、それから周囲を見渡した。
「ですが、不思議ですね」
その一言に、場の空気がわずかに止まる。
「落ちたにしては、ずいぶん人目につきにくい場所にありました」
セレフィーナの笑顔が、ほんの少しだけ固まる。
誰も何も言わない。
カイルはにこりともせず、ただ穏やかに続けた。
「誰かが拾って、置き忘れたのでしょうか」
その問いに返事をする者はいなかった。
だが、それだけで十分だった。
これは単なる不注意ではなかったかもしれない。
その可能性を、見る目のある男が静かに示してしまったのだ。
リシェルはカードを受け取る。
指先が少し震えている。
「助かりました、殿下」
「気になさらず」
カイルはやわらかく視線を落とした。
「こういうものは、失くさないほうがよいですから」
その言葉は優しい。
だが同時に、失くしたのではなく、失くされたのではという含みも感じさせる。
セレフィーナが、ようやく笑みを整えた。
「まあ、本当によかったですわ」
青緑の瞳がわずかに細まる。
「リシェル様、安心いたしました」
「……ありがとうございます」
リシェルは静かに答える。
でも、その瞬間にはもうわかっていた。
これは事故ではない。
誰かが意図的に動かした。
そしてその誰かが誰なのか、完全に証明はできなくても、感じ取れてしまう。
場がぎこちなく解け始めた、その時だった。
「次の曲を」
低い声が、広間の空気をさらに変えた。
アシュレイだった。
いつの間に近くへ来ていたのか、濃紺の礼装のまま、灰青の瞳でまっすぐリシェルを見ている。
「俺がもらう」
一瞬、誰も動かなかった。
広間がしんと静まり返る。
次の曲を、王太子がリシェルに申し込んだ。
それだけで、意味は十分すぎるほどあった。
「殿下……」
リシェルの声はわずかに掠れた。
「嫌か」
「そんなことは」
「なら来い」
有無を言わせない声音だった。
けれど、その奥には押しつけではない熱がある。
リシェルはカードを握ったまま、一瞬だけ迷う。
王妃の視線が遠くから刺さるように感じる。
セレフィーナの青緑の瞳は、もはや笑っていない。
それでも。
「……はい」
その手を取った。
アシュレイの手は熱かった。
いつもよりも、ずっと。
広間の中央へ導かれる。
何人もの視線が追ってくる。
見られている。
今夜いちばん、見られている。
それでも、アシュレイは一歩も迷わなかった。
音楽が始まる。
彼の腕がリシェルの腰へ回り、定められた距離ができる。
近い。
近いのに、今夜の彼はいつもより静かに見えた。
「……怒っていらっしゃるの?」
リシェルが小さく問うと、アシュレイの灰青の瞳がわずかに細まる。
「ああ」
「誰に」
「全部にだ」
低い声。
「母上にも、セレフィーナにも、気づいていて何も言わない連中にも」
一拍。
「そして一番は、自分自身に」
その答えが、胸に刺さる。
「殿下」
「お前のカードがなくなった時、俺はすぐに気づけなかった」
音楽に合わせて足を運びながら、アシュレイは続ける。
「また遅れた」
「でも、カイル殿下が」
「わかっている」
その声が少しだけ硬くなる。
「だから余計に腹が立つ」
リシェルは息を呑んだ。
嫉妬。
その言葉を口にしなくても、もう隠しようがないほど、彼の熱は近くにあった。
「……殿下は」
「何だ」
「今、かなりわかりやすいわ」
そう言うと、アシュレイは一瞬だけ目を見開き、次の瞬間にはほんのわずかに口元を歪めた。
「そうか」
「ええ」
「もう隠す気がない」
その言葉に、また胸が鳴る。
ダンスの輪の端で、セレフィーナがこちらを見ている。
王妃も、動かない表情のまま見ている。
カイルは少し離れた場所でグラスを持ち、深い青の瞳で静かに見守っていた。
みんな見ている。
それなのに、アシュレイは今さら引かなかった。
「リシェル」
低い声が、音楽の隙間に落ちる。
「次にこういうことがあったら」
「え?」
「今度は、俺が最初に見つける」
その言葉が、涙が出るほど嬉しくて、同じくらい苦しかった。
遅かったことは消えない。
でも、今ここでこの人が本気で怒っていることも、守ろうとしていることも、もう疑いようがない。
曲が終わる。
拍手が小さく広がる中、アシュレイはまだリシェルの手を離さなかった。
その灰青の瞳は、広間の向こう、セレフィーナのほうを静かに見ていた。
それは、これ以上は好きにさせないという目だった。
ダンスカード事件。
それは小さな意地悪のはずだった。
けれど結果として、セレフィーナの静かな敵意を誰の目にも匂わせ、カイルに庇われ、そしてアシュレイの本気を公の場でさらに露わにしてしまった。
春の夜会はまだ続いている。
だが、今夜を境に、もう誰もこれをただのすれ違いだとは思わないだろう。
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* 短編です。
ご感想欄は都合により、閉じさせて頂きます。
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