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第35話 選ばれるのではなく
慈善訪問の翌朝、王宮はまた何事もなかったような顔をしていた。
窓の外では春の光がやわらかく庭を照らし、廊下を行き交う侍従たちの足音も静かだ。
昨日、孤児院で子どもたちが笑い、施療院で痛みを抱えた人々が息をついていたことさえ、ここでは遠い出来事のように思える。
けれどリシェルの中では、何かが確かに変わっていた。
比べられるのが怖い。
足りないと言われるのも苦しい。
それでも、自分の目で見て、自分の手で触れてしまったものは、もう見なかったことにできない。
わたしにも、できることがある。
その実感はまだ小さく、頼りなくて、少し触れれば消えてしまいそうだった。
それでも、もう以前のように何もないとは思えなかった。
「お嬢様」
ミラが部屋へ入ってくる。
「王妃殿下がお呼びです」
その一言で、胸の奥がわずかに強張る。
「……今すぐ?」
「はい」
「そう」
リシェルは小さく息をついた。
来ると思っていた。
慈善訪問のあと、王妃が何も言わずに終えるはずがない。
ミラが外套を整えながら、静かに言う。
「今日は、何を言われても」
「ええ」
「お嬢様が決めてよろしいのだと、どうかお忘れなく」
その言葉に、リシェルは鏡の中の自分を見る。
淡い栗色の髪。
榛色の瞳。
華やかではない。けれど、もう足りないという言葉だけで自分を見たくはなかった。
「……わかったわ」
そう答えると、ミラは小さく頷いた。
王妃の私室には、すでにセレフィーナがいた。
そして少し遅れて入ったリシェルに、王妃はいつも通りの静かな声で言う。
「来ましたか。座りなさい」
白い薔薇。
整いすぎた部屋。
けれど今日は、以前と少しだけ空気が違う。
何かを決めるための静けさだと、すぐにわかった。
セレフィーナは今日も美しかった。
淡い若草色のドレスに、蜂蜜色の髪。青緑の瞳はやわらかく微笑んでいる。
外から見れば、王妃の傍らにもっともふさわしい娘だろう。
王妃は二人を見比べるように視線を動かし、それから口を開いた。
「昨日の慈善訪問、ご苦労でした」
「ありがとうございます、王妃殿下」
セレフィーナが先に応じる。
リシェルも一礼し、小さく頷いた。
「結果としては、悪くありませんでした」
王妃は続ける。
「施療院への支援内容も明確になった。孤児院の現状も把握できた」
「そのうえで、今日は今後について話します」
胸の奥が、静かに鳴る。
今後。
つまり、もう曖昧なままではいさせないということだ。
「セレフィーナ」
「はい、王妃殿下」
「次の公開の場では、あなたに王太子の傍らへ立ってもらいます」
セレフィーナの青緑の瞳が、わずかに輝いた。
「身に余る光栄ですわ」
「まだ決定ではありません」
王妃は淡々と言う。
「ですが、王家としての印象を整えるためには必要です」
必要。
その言葉の中に、すでに多くの意味が含まれている。
セレフィーナは頭を下げながらも、口元に抑えきれない微かな熱を宿していた。
そして王妃の視線が、今度はリシェルへ向く。
「リシェル」
「はい、王妃殿下」
「あなたについても、整理をつけなければなりません」
その声音は平坦だった。
けれど、だからこそ冷たく響く。
「……整理、ですか」
「ええ」
王妃はまっすぐに言う。
「あなたの辞退願いは、まだ預かったままです」
「はい」
「私は、あれを感情の中で書かれたものだと判断しました」
「……」
「ですが、いつまでも曖昧にしておくつもりもありません」
リシェルは膝の上で指を重ねた。
ここまでは予想していた。
王妃は続ける。
「アストラディア王太子カイル殿下は、あなたに明らかな関心を示している」
息が止まりそうになる。
セレフィーナの視線も、ほんのわずかにこちらへ向く。
「それが一時の興味かどうかは、まだわかりません」
王妃は静かに言う。
「ですが、もしあちらに正式な打診の意思があるなら」
「それは、あなたにとって穏当な道になり得ます」
穏当な道。
その言葉で、すべてがはっきりした。
王妃は、リシェルをただ捨てるのではない。
収まりのよい出口として差し出そうとしているのだ。
「王妃殿下」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「それは、わたくしのためでしょうか」
「あなたのためでもあり、王宮のためでもあります」
迷いのない答え。
「このまま王太子の感情に振り回され、セレフィーナとの対立の中で削られるよりは、よほど」
「そして」
リシェルは続ける。
「殿下にとっても穏当なのですね」
王妃の瞳が、わずかに細められる。
「そうです」
はっきりとした答えだった。
「アシュレイが国を担う立場である以上、いつまでも個人の感情だけでは動けません」
「……」
「ならば、誰も大きく傷つかずに収まる場所を選ぶべきです」
誰も大きく傷つかずに収まる場所。
その整いすぎた言葉が、妙に遠く感じられた。
孤児院の子どもの小さな膝。
老女の恥ずかしさ。
若い母親の震える肩。
昨日見たものは、もっと不格好で、もっと生々しかった。
こんなふうに美しく整理されるものではなかった。
「リシェル様」
そこで、セレフィーナがやわらかく口を開く。
「わたくし、王妃殿下のお考えはお優しいと思いますわ」
花のような笑み。
「あなたが静かに、穏やかに、新しい場所へ向かえるのなら、それが一番……」
「それは」
リシェルはゆっくり顔を上げた。
「わたくしが、誰かに選ばれて収まるということですね」
空気が変わる。
セレフィーナの笑みが、ほんのわずかに止まった。
王妃は黙っている。
「王太子殿下に選ばれなかったから、隣国王太子殿下に選ばれる」
自分で言葉にすると、その構図の異様さがますますはっきりする。
「それが穏当だと、王妃殿下はお考えなのですか」
「言い方を選びなさい」
王妃の声が少しだけ冷える。
「本質は同じです」
リシェルは静かに答えた。
「わたくしが自分でどこへ立つかではなく、誰の隣へ置くと整うかという話なのでしょう」
しん、と部屋が静まり返る。
白い薔薇の香りが、今は少しだけ息苦しい。
「……それの何がいけないのです」
王妃が問うた。
「王家も、隣国も、あなたも、すべてが無理なく収まる」
「無理なく」
リシェルはその言葉を繰り返した。
無理なく、ではない。
少なくとも、自分の胸はそう感じていない。
「王妃殿下」
リシェルはゆっくりと言う。
「わたくしは、誰かに選ばれて収まるために、ここまで苦しんだのではありません」
その言葉に、自分でも少し驚いた。
でも、もう止まらなかった。
「王太子妃候補として残るのも」
「辞退願いを書くのも」
「……」
「全部、自分で決めたかったのです」
榛色の瞳を、まっすぐ王妃へ向ける。
「誰かの都合のよい場所へ、静かに置かれるためではなく」
王妃が黙る。
セレフィーナもまた、何も言わない。
「ですから」
リシェルは静かに息を整えた。
「わたくしは、選ばれるのを待つのをやめます」
その一言は、部屋の空気を決定的に変えた。
「……どういう意味です」
王妃の声が低くなる。
「そのままの意味です」
リシェルは答える。
「王太子殿下に選ばれるのか、カイル殿下に選ばれるのか、誰にふさわしいのか」
一つずつ、はっきりと言う。
「そういう問い方を、もう受け入れません」
「わたくしが、わたくし自身で選びます」
セレフィーナの青緑の瞳が、はっきりと揺れた。
今まで彼女は、リシェルがここまで言葉を持つとは思っていなかったのだろう。
王妃もまた、まっすぐにリシェルを見ていた。
「あなたは」
王妃が静かに言う。
「何を選ぶつもりなのです」
「まだ、わかりません」
正直に答える。
「ですが、わからないからといって、誰かの用意した出口へ入るつもりはありません」
「……」
「今のわたくしに必要なのは、選ばれることではなく」
リシェルは息を吸う。
「自分で答えを決めることです」
長い沈黙が落ちた。
王妃の表情は変わらない。
けれど、その沈黙の重さは今までと違った。
以前ならまだ幼いとでも切られていたかもしれない。
だが今は、王妃もすぐには否定しない。
「……そうですか」
やがて、マティルダ王妃は静かに言った。
「では、その答えを見せてもらいましょう」
その声音からは、賛成も反対も読み取れない。
「曖昧なままでは、もう誰も動かせません」
「はい」
リシェルは頷いた。
「わかっております」
セレフィーナが、そこでようやく口を開いた。
「リシェル様」
花のような笑みは保っている。
だが、その奥の冷たさは隠れていない。
「ご自分で選ぶとおっしゃるのですね」
「ええ」
「それは、殿下に選ばれるのではなく?」
「はい」
「カイル殿下に望まれるのでもなく?」
「ええ」
静かに答えると、セレフィーナの口元がわずかに強張る。
「……ずいぶん強くなられましたのね」
「そうかもしれません」
リシェルはまっすぐ見返す。
「でも、ようやく普通になっただけかもしれません」
その返しに、セレフィーナは初めて完全な笑みを失った。
王妃が椅子から立ち上がる。
「今日はここまでです」
短い声。
「リシェル、あなたの意思はわかりました」
「はい」
「ですが、選ぶという以上、曖昧なままでは済まされません」
「承知しております」
「近いうちに、答えを出しなさい」
それは命令だった。
けれど同時に、王妃が初めて選ぶ権利そのものを否定しなかった瞬間でもあった。
「はい、王妃殿下」
リシェルは一礼した。
部屋を出ると、回廊の空気が少しだけ軽かった。
重かったはずなのに、胸の奥には奇妙な静けさがある。
怖くないわけではない。
足が震えていないわけでもない。
でも今、初めてはっきり言えた。
誰かに選ばれるのではなく、自分で選ぶのだと。
「お嬢様」
待っていたミラが、すぐに表情を変える。
「何か……ございましたね」
「ええ」
リシェルは小さく笑った。
「やっと、言えたの」
「何をですか」
「わたしは、選ばれるのを待つのをやめるって」
ミラの目が少しだけ見開かれる。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……それは」
「うん」
「とても、お嬢様らしいです」
その言葉に、リシェルは思わず足を止めた。
「わたしらしい?」
「ええ」
ミラは静かに頷く。
「ずっと誰かのために整えようとなさっていた方が、最後にご自分の気持ちを整えようとなさるのですもの」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
自分の気持ちを整える。
そうかもしれない。
いままでずっと、周囲の思惑や王宮の空気ばかり見ていた。
でも最後に必要なのは、自分の心がどこへ向くのかを、自分で確かめることなのだ。
回廊の窓から、春の光が差し込んでいる。
その光は、以前と同じようでいて、今は少し違って見えた。
まだ答えは出ていない。
王妃も、セレフィーナも、アシュレイも、カイルも、それぞれの場所で待っている。
それでも、もう怖さだけではなかった。
選ばれるのではなく、自分で選ぶ。
その言葉を胸の中で繰り返した時、リシェルはようやく、自分の足で立っている感覚を少しだけ取り戻した気がした。
窓の外では春の光がやわらかく庭を照らし、廊下を行き交う侍従たちの足音も静かだ。
昨日、孤児院で子どもたちが笑い、施療院で痛みを抱えた人々が息をついていたことさえ、ここでは遠い出来事のように思える。
けれどリシェルの中では、何かが確かに変わっていた。
比べられるのが怖い。
足りないと言われるのも苦しい。
それでも、自分の目で見て、自分の手で触れてしまったものは、もう見なかったことにできない。
わたしにも、できることがある。
その実感はまだ小さく、頼りなくて、少し触れれば消えてしまいそうだった。
それでも、もう以前のように何もないとは思えなかった。
「お嬢様」
ミラが部屋へ入ってくる。
「王妃殿下がお呼びです」
その一言で、胸の奥がわずかに強張る。
「……今すぐ?」
「はい」
「そう」
リシェルは小さく息をついた。
来ると思っていた。
慈善訪問のあと、王妃が何も言わずに終えるはずがない。
ミラが外套を整えながら、静かに言う。
「今日は、何を言われても」
「ええ」
「お嬢様が決めてよろしいのだと、どうかお忘れなく」
その言葉に、リシェルは鏡の中の自分を見る。
淡い栗色の髪。
榛色の瞳。
華やかではない。けれど、もう足りないという言葉だけで自分を見たくはなかった。
「……わかったわ」
そう答えると、ミラは小さく頷いた。
王妃の私室には、すでにセレフィーナがいた。
そして少し遅れて入ったリシェルに、王妃はいつも通りの静かな声で言う。
「来ましたか。座りなさい」
白い薔薇。
整いすぎた部屋。
けれど今日は、以前と少しだけ空気が違う。
何かを決めるための静けさだと、すぐにわかった。
セレフィーナは今日も美しかった。
淡い若草色のドレスに、蜂蜜色の髪。青緑の瞳はやわらかく微笑んでいる。
外から見れば、王妃の傍らにもっともふさわしい娘だろう。
王妃は二人を見比べるように視線を動かし、それから口を開いた。
「昨日の慈善訪問、ご苦労でした」
「ありがとうございます、王妃殿下」
セレフィーナが先に応じる。
リシェルも一礼し、小さく頷いた。
「結果としては、悪くありませんでした」
王妃は続ける。
「施療院への支援内容も明確になった。孤児院の現状も把握できた」
「そのうえで、今日は今後について話します」
胸の奥が、静かに鳴る。
今後。
つまり、もう曖昧なままではいさせないということだ。
「セレフィーナ」
「はい、王妃殿下」
「次の公開の場では、あなたに王太子の傍らへ立ってもらいます」
セレフィーナの青緑の瞳が、わずかに輝いた。
「身に余る光栄ですわ」
「まだ決定ではありません」
王妃は淡々と言う。
「ですが、王家としての印象を整えるためには必要です」
必要。
その言葉の中に、すでに多くの意味が含まれている。
セレフィーナは頭を下げながらも、口元に抑えきれない微かな熱を宿していた。
そして王妃の視線が、今度はリシェルへ向く。
「リシェル」
「はい、王妃殿下」
「あなたについても、整理をつけなければなりません」
その声音は平坦だった。
けれど、だからこそ冷たく響く。
「……整理、ですか」
「ええ」
王妃はまっすぐに言う。
「あなたの辞退願いは、まだ預かったままです」
「はい」
「私は、あれを感情の中で書かれたものだと判断しました」
「……」
「ですが、いつまでも曖昧にしておくつもりもありません」
リシェルは膝の上で指を重ねた。
ここまでは予想していた。
王妃は続ける。
「アストラディア王太子カイル殿下は、あなたに明らかな関心を示している」
息が止まりそうになる。
セレフィーナの視線も、ほんのわずかにこちらへ向く。
「それが一時の興味かどうかは、まだわかりません」
王妃は静かに言う。
「ですが、もしあちらに正式な打診の意思があるなら」
「それは、あなたにとって穏当な道になり得ます」
穏当な道。
その言葉で、すべてがはっきりした。
王妃は、リシェルをただ捨てるのではない。
収まりのよい出口として差し出そうとしているのだ。
「王妃殿下」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「それは、わたくしのためでしょうか」
「あなたのためでもあり、王宮のためでもあります」
迷いのない答え。
「このまま王太子の感情に振り回され、セレフィーナとの対立の中で削られるよりは、よほど」
「そして」
リシェルは続ける。
「殿下にとっても穏当なのですね」
王妃の瞳が、わずかに細められる。
「そうです」
はっきりとした答えだった。
「アシュレイが国を担う立場である以上、いつまでも個人の感情だけでは動けません」
「……」
「ならば、誰も大きく傷つかずに収まる場所を選ぶべきです」
誰も大きく傷つかずに収まる場所。
その整いすぎた言葉が、妙に遠く感じられた。
孤児院の子どもの小さな膝。
老女の恥ずかしさ。
若い母親の震える肩。
昨日見たものは、もっと不格好で、もっと生々しかった。
こんなふうに美しく整理されるものではなかった。
「リシェル様」
そこで、セレフィーナがやわらかく口を開く。
「わたくし、王妃殿下のお考えはお優しいと思いますわ」
花のような笑み。
「あなたが静かに、穏やかに、新しい場所へ向かえるのなら、それが一番……」
「それは」
リシェルはゆっくり顔を上げた。
「わたくしが、誰かに選ばれて収まるということですね」
空気が変わる。
セレフィーナの笑みが、ほんのわずかに止まった。
王妃は黙っている。
「王太子殿下に選ばれなかったから、隣国王太子殿下に選ばれる」
自分で言葉にすると、その構図の異様さがますますはっきりする。
「それが穏当だと、王妃殿下はお考えなのですか」
「言い方を選びなさい」
王妃の声が少しだけ冷える。
「本質は同じです」
リシェルは静かに答えた。
「わたくしが自分でどこへ立つかではなく、誰の隣へ置くと整うかという話なのでしょう」
しん、と部屋が静まり返る。
白い薔薇の香りが、今は少しだけ息苦しい。
「……それの何がいけないのです」
王妃が問うた。
「王家も、隣国も、あなたも、すべてが無理なく収まる」
「無理なく」
リシェルはその言葉を繰り返した。
無理なく、ではない。
少なくとも、自分の胸はそう感じていない。
「王妃殿下」
リシェルはゆっくりと言う。
「わたくしは、誰かに選ばれて収まるために、ここまで苦しんだのではありません」
その言葉に、自分でも少し驚いた。
でも、もう止まらなかった。
「王太子妃候補として残るのも」
「辞退願いを書くのも」
「……」
「全部、自分で決めたかったのです」
榛色の瞳を、まっすぐ王妃へ向ける。
「誰かの都合のよい場所へ、静かに置かれるためではなく」
王妃が黙る。
セレフィーナもまた、何も言わない。
「ですから」
リシェルは静かに息を整えた。
「わたくしは、選ばれるのを待つのをやめます」
その一言は、部屋の空気を決定的に変えた。
「……どういう意味です」
王妃の声が低くなる。
「そのままの意味です」
リシェルは答える。
「王太子殿下に選ばれるのか、カイル殿下に選ばれるのか、誰にふさわしいのか」
一つずつ、はっきりと言う。
「そういう問い方を、もう受け入れません」
「わたくしが、わたくし自身で選びます」
セレフィーナの青緑の瞳が、はっきりと揺れた。
今まで彼女は、リシェルがここまで言葉を持つとは思っていなかったのだろう。
王妃もまた、まっすぐにリシェルを見ていた。
「あなたは」
王妃が静かに言う。
「何を選ぶつもりなのです」
「まだ、わかりません」
正直に答える。
「ですが、わからないからといって、誰かの用意した出口へ入るつもりはありません」
「……」
「今のわたくしに必要なのは、選ばれることではなく」
リシェルは息を吸う。
「自分で答えを決めることです」
長い沈黙が落ちた。
王妃の表情は変わらない。
けれど、その沈黙の重さは今までと違った。
以前ならまだ幼いとでも切られていたかもしれない。
だが今は、王妃もすぐには否定しない。
「……そうですか」
やがて、マティルダ王妃は静かに言った。
「では、その答えを見せてもらいましょう」
その声音からは、賛成も反対も読み取れない。
「曖昧なままでは、もう誰も動かせません」
「はい」
リシェルは頷いた。
「わかっております」
セレフィーナが、そこでようやく口を開いた。
「リシェル様」
花のような笑みは保っている。
だが、その奥の冷たさは隠れていない。
「ご自分で選ぶとおっしゃるのですね」
「ええ」
「それは、殿下に選ばれるのではなく?」
「はい」
「カイル殿下に望まれるのでもなく?」
「ええ」
静かに答えると、セレフィーナの口元がわずかに強張る。
「……ずいぶん強くなられましたのね」
「そうかもしれません」
リシェルはまっすぐ見返す。
「でも、ようやく普通になっただけかもしれません」
その返しに、セレフィーナは初めて完全な笑みを失った。
王妃が椅子から立ち上がる。
「今日はここまでです」
短い声。
「リシェル、あなたの意思はわかりました」
「はい」
「ですが、選ぶという以上、曖昧なままでは済まされません」
「承知しております」
「近いうちに、答えを出しなさい」
それは命令だった。
けれど同時に、王妃が初めて選ぶ権利そのものを否定しなかった瞬間でもあった。
「はい、王妃殿下」
リシェルは一礼した。
部屋を出ると、回廊の空気が少しだけ軽かった。
重かったはずなのに、胸の奥には奇妙な静けさがある。
怖くないわけではない。
足が震えていないわけでもない。
でも今、初めてはっきり言えた。
誰かに選ばれるのではなく、自分で選ぶのだと。
「お嬢様」
待っていたミラが、すぐに表情を変える。
「何か……ございましたね」
「ええ」
リシェルは小さく笑った。
「やっと、言えたの」
「何をですか」
「わたしは、選ばれるのを待つのをやめるって」
ミラの目が少しだけ見開かれる。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……それは」
「うん」
「とても、お嬢様らしいです」
その言葉に、リシェルは思わず足を止めた。
「わたしらしい?」
「ええ」
ミラは静かに頷く。
「ずっと誰かのために整えようとなさっていた方が、最後にご自分の気持ちを整えようとなさるのですもの」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
自分の気持ちを整える。
そうかもしれない。
いままでずっと、周囲の思惑や王宮の空気ばかり見ていた。
でも最後に必要なのは、自分の心がどこへ向くのかを、自分で確かめることなのだ。
回廊の窓から、春の光が差し込んでいる。
その光は、以前と同じようでいて、今は少し違って見えた。
まだ答えは出ていない。
王妃も、セレフィーナも、アシュレイも、カイルも、それぞれの場所で待っている。
それでも、もう怖さだけではなかった。
選ばれるのではなく、自分で選ぶ。
その言葉を胸の中で繰り返した時、リシェルはようやく、自分の足で立っている感覚を少しだけ取り戻した気がした。
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