「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第21章|リディア、胃痛と不眠

 夜は、長い。

 王宮の夜は灯りが多く、静けさが深い。
 だから余計に、胸の奥の音が大きくなる。
 考えたくないことほど、暗闇に浮かび上がる。

 ——そこまで言わなくても。

 たった一言が、何度も繰り返される。
 声の調子まで、はっきり思い出せる。
 優しさのふりをした、止める声。

 リディアは寝台の上で目を開けたまま、天蓋の影を見つめていた。
 眠ろうとすると、胃のあたりがぎゅっと縮む。
 息を吸うたび、胸の奥が冷たい。

 隣の枕は整ったまま。
 最初から、ここに“二人”の夜はなかった。
 それでも、窓辺の午後の茶会だけが——夫婦の形を保ってくれていた。
 その茶会が終わった今、夜はただの空洞だ。

「……妃殿下」

 ミナの声が、闇の向こうから聞こえた。
 寝台脇の小さな灯りの前で、ミナは椅子に座っている。
 主が眠れない夜、侍女は眠ってはいけない。

「お水をお持ちいたしましょうか」

「……大丈夫よ」

 大丈夫。
 いつも言う言葉。
 大丈夫と言うほど、大丈夫ではなくなる。

 リディアは起き上がろうとして、胃のあたりに鈍い痛みが走った。
 思わず身を折る。

 ミナが立ち上がる音。
 すぐに駆け寄ろうとする気配を、リディアは手のひらだけで制した。

「……騒がないで」

 声が掠れていた。
 自分でも驚くほど、弱い音。

 騒げば女官たちに伝わる。
 女官たちから、噂に伝わる。
 “妃殿下は体調を崩した”
 “殿下の心労で”
 “伯爵令嬢のせいで”
 どんな形でも、妃の痛みは娯楽に変換される。

 リディアは胃を押さえたまま、ゆっくり息を吐く。
 痛みは波のように来て、波のように引いていく。
 引いた後に残るのは、冷たい疲労。

「……いつからですか」

 ミナが、声を震わせた。
 怒りを飲み込む震えだ。

「いつから、こんな……」

 リディアは答えなかった。
 答えれば、原因を言うことになる。
 原因を言えば、夫の言葉を、何度も口にすることになる。

 そのとき、扉の外で小さくノックが鳴った。
 夜更けのノックは、良い知らせではない。

 ミナが警戒して扉へ向かう。
 小声で何かをやり取りし、扉が少し開く。

「妃殿下。宮廷医クラウス殿が……」

 ヘレナの声だった。
 侍女長は、主の変化に最も早く気づく。

 リディアは眉を寄せた。
 医師が来れば、記録が残る。
 記録が残れば、政治になる。
 政治になれば、噂になる。

「必要ないわ」

 即答した。
 でも声が弱い。弱さが拒否を薄くする。

 ヘレナが一歩入ってきた。
 その背後に、白衣の男が立っている。
 宮廷医クラウス。灰色の髪をきちんと整え、表情を動かさない冷静な人。

「妃殿下。失礼いたします」

 クラウスは深く礼を取り、淡々と言った。

「脈を拝見させてください。痛みがあるのなら、今夜のうちに把握すべきです」

 声に感情がない。
 だが“守るための無感情”だと分かる。

 リディアは拒みたかった。
 けれど胃の痛みが、意地を許さないほど強い。

「……手短に」

 リディアが言うと、クラウスは頷き、メモを取る者も呼ばない。
 噂にしないために、余計な人を入れない。
 その配慮に、リディアは少しだけ救われる。

 クラウスが指先で脈を取る。
 静かな沈黙。
 その沈黙の中で、リディアは自分がどれほど浅い呼吸をしているかに気づく。

「眠れていませんね」

 クラウスが言った。断定。
 医師の断定は、言い逃れを奪う。

「……少し」

 リディアは微笑みを作ったが、唇が乾いている。

 クラウスは脈から手を離し、目を上げた。

「胃が荒れています。原因は食事ではありません。緊張と睡眠不足です。——そして、心の負担です」

 心の負担。
 その言葉で、部屋の空気がひとつ重くなる。

 ミナが拳を握る音がした。
 ヘレナが視線を伏せる。
 二人は分かっている。負担の名前を。

 リディアは、目を逸らした。
 医師に、夫の名を言いたくない。

「薬をお出しします。眠るためのものではなく、痛みを抑え、胃を守るものです」

「……記録は」

 リディアが小さく問う。

 クラウスは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
 理解した目。

「必要最低限に。王妃陛下には報告します。宰相には——今は不要です」

 宰相に不要。
 それは、噂の火消しに利用されないという意味でもある。

 リディアは小さく頷いた。
 頷いた瞬間、胸が少しだけ緩む。
 緩んだせいで、胃がまた痛む。

 クラウスが立ち上がる。

「妃殿下。眠れない夜が続けば、心は先に折れます。痛みを“我慢”で押し込めてはいけません」

 医師の言葉は、優しさではない。
 警告だ。
 それが、妙に刺さる。

 リディアは微笑んで礼を取る。
 妃の形のまま。

「……ありがとう」

 クラウスが去り、扉が閉まる。
 また静けさが戻る。

 ミナがそっと水を差し出した。

「妃殿下……」

 言いたいことがある顔。
 でも言えない顔。

 リディアは水を一口飲み、喉を潤した。
 水が冷たく、胃に落ちる瞬間が痛い。

「ミナ。明日からは……公務だけよ」

 それは、自分に言い聞かせる言葉でもあった。

 ミナの目に涙が滲む。
 でも泣かない。泣けば主が泣くから。

 リディアは寝台に戻り、横になった。
 薬の効き目がじわじわと広がる。
 痛みが少しだけ遠のく。

 けれど眠りは来ない。

 眠りが来ないのは、痛みのせいではない。
 ——期待を捨てた心が、まだ置き場所を見つけられないからだ。

 窓の外で、風が鳴った。
 あの窓辺の茶会室のカーテンも、同じ風に揺れているだろう。
 けれどもう、二人で見る午後はない。

 リディアは目を閉じ、静かに息を吐いた。

 ——私は、もう言葉で守られない。
 ——だから、私が私を守る。

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