「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第29章|公爵令嬢シルヴィアが妃に小さく味方を示す

――“味方”は叫ばない。呼吸の端に、そっと寄り添う。

 舞踏会の翌朝、王宮の空気は甘く冷たかった。

 昨夜の灯りは消えたのに、噂だけが明るいまま残っている。
 廊下を行き交う女官の目は、礼より先に“何か”を探す。
 控えめな声で交わされる挨拶の裏に、確かめるような間がある。

 ——妃殿下は、どうだった?
 ——殿下は、どうした?
 ——伯爵令嬢は、どこまで?

 リディアはその視線を、衣装のように受け流した。

 青磁の花瓶に挿された白椿の影が、薄い朝日で床に伸びる。
 窓の外では、庭師が落葉を掃く音がかすかに響く。
 静かな音ほど、胸に刺さる。夜よりも朝のほうが、耐えるのが難しい時がある。

 寝不足は顔に出ないよう整えた。
 胃の痛みは白湯で誤魔化した。
 誤魔化しきれない分だけ、背筋を伸ばした。

 ——妃は、崩れない。
 崩れた瞬間に、噂が勝つ。
 それだけは許せなかった。

「妃殿下、本日のご予定でございます」

 侍女長ヘレナが、淡々と書類を差し出す。
 ミナは白湯を置く手を静かにして、主の表情を読まないふりをする。

 リディアは頷き、書類に目を落とした。
 指先は揺れない。けれど文字が目に入るまでに、ほんの少し時間がかかる。

 その時、扉が控えめに叩かれた。

「妃殿下。公爵令嬢シルヴィア様がお越しでございます」

 公爵令嬢。
 その肩書きが、部屋の空気を少しだけ変えた。
 軽い噂の客ではない。立場のある客だ。

 リディアは一瞬だけ目を伏せ、呼吸を整えた。
 昨日の舞踏会で見た視線の数々が、薄い膜のように蘇る。
 だがここは自室ではない。妃の執務室だ。
 仕事の顔で迎える。

「通して」

 扉が開き、シルヴィアが入ってきた。

 淡い灰紫のドレス。胸元は控えめで、装飾は上品な範囲に抑えられている。
 髪はきっちりと結い上げ、耳元に小さな真珠。
 派手ではない。派手にできない。
 公爵家の令嬢は、存在そのものが政治だから。

 彼女は深く礼を取った。
 その礼は、媚びではなく、規範だった。

「妃殿下。昨夜は、ご挨拶が十分に叶いませんでした。改めて、舞踏会の御礼を申し上げます」

 言葉は形式。
 だが声の温度が、他の者と違う。
 同情でも、好奇心でもない。
 “理解している者”の静けさがある。

「お越しいただき、ありがとうございます。シルヴィア様」

 リディアは微笑み、席を勧める。
 微笑みは薄いまま。厚くする気力はない。厚くすれば、心が動く。
 動いたら、また痛む。

 侍女が茶を運び、扉の外へ下がる。
 部屋に残るのは、二人の女と、薄い湯気だけ。

 シルヴィアはカップに指を添え、すぐには飲まなかった。
 “本題”へ入る前の間。
 王宮で言葉を選ぶ者の間。

「……妃殿下」

 彼女は声を落とした。
 落とし方が、噂話の囁きとは違う。
 秘密を守る者の落とし方だ。

「昨夜のこと、私から申し上げるのは僭越かもしれません」

 僭越。
 その言葉だけで、彼女がどれほど慎重に踏み込もうとしているか分かる。

 リディアは微笑んだまま、頷いた。

「お気遣いだけで十分です」

 線を引く言葉。
 けれどシルヴィアは、引かない。
 引かないのに、押し付けない。

「……妃殿下が礼節でお止めになったのは、正しいことです」

 リディアの指先が、ほんの僅かに止まった。
 止まったことを悟られないよう、すぐにカップを持ち上げる。

 正しい。
 その言葉は、刃にもなるし、救いにもなる。
 今のリディアには、救いにしかならないのが、悔しい。

 シルヴィアは続けた。

「王宮は、正しい者に冷たい。……けれど、正しい者がいなければ、王宮は崩れます」

 その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
 誰も褒めない正しさを、価値として言い切った言葉。

 リディアは、礼儀の微笑みを保ったまま、息を吐いた。
 息がわずかに震えそうになって、止める。

「ありがとうございます。ですが——」

 言いかけて、言葉が途切れる。
 “ですが”の先に出るのは、弱さだ。
 弱さは、王宮では武器にされる。

 シルヴィアはそれ以上、踏み込まなかった。
 踏み込まないのに、確かに寄り添う。

 彼女は視線だけで、机の端に置かれた薄い薬包を見た。
 胃薬だ。昨夜から、片づけられずにそこに残っている。

 リディアはそれに気づいて、微かに胸が締まった。
 隠したはずのものを見られるのは怖い。
 けれどシルヴィアの目には好奇心がない。責めもない。
 ただ、静かな確認がある。

「……体調は、いかがですか」

 小さな声。
 小さな質問。
 それだけで、リディアの喉の奥が熱くなる。

「問題ございません」

 嘘が、すぐに出る。
 嘘の出方が、あまりにも上手い。
 それが妃の訓練の成果で、それが今の彼女を追い詰める。

 シルヴィアは微笑みを崩さず、言葉を変えた。

「では、どうか“問題が起きる前に”休んでください」

 優しい命令。
 妃に命令できる者は少ない。
 それを命令ではなく、祈りの形で渡してくる。

 リディアはようやく、ほんの少しだけ微笑みの温度を落とした。
 礼のための微笑みではなく、感情のための微笑みが、微かに混ざる。

「……お気遣い、痛み入ります」

 シルヴィアはそこで、視線をほんの少しだけずらした。
 扉の方ではなく、窓の方でもなく——“王太子がいるはずの方向”へ。

「妃殿下。私は軽々しく殿下を責めることはできません」

 立場がある。
 公爵家は王太子を支える側だ。
 その制約が、言葉の端に滲む。

「けれど、ひとつだけ申し上げられるなら……」

 シルヴィアはカップをそっと置き、指先を揃えた。
 揃えた指先が、震えていない。
 彼女もまた、王宮の女だ。

「妃殿下の正しさが“争い”にされる時、殿下が止めなければならないのは妃殿下ではなく——周囲の解釈です」

 リディアの胸が、静かに痛んだ。
 それはまるで、言ってほしかった言葉を、別の誰かが代わりに言ってくれたみたいで。

 シルヴィアは続けた。

「昨夜、妃殿下は広間から消えませんでしたね。あれは……強さです」

 強いから守られない、の“強い”ではない。
 守るために選んだ強さだと、理解している“強い”。

 リディアは、喉の奥の熱を飲み込んだ。
 涙は出ない。出さない。
 でも、胸の奥で閉じていた扉がほんの少し軋む。

 シルヴィアは立ち上がり、礼を取った。
 礼は完璧。
 けれど、礼の角度にほんの少しだけ、個人の温度が混ざっていた。

「妃殿下。私は常に妃殿下の側に立てるわけではありません」

 それが、この章の痛さだ。
 味方がいても、立場がある。
 公爵家の令嬢は、正面からは味方できない。

「ですが——妃殿下が正しいと知っている者がいることだけは、どうか忘れないでください」

 忘れないで。
 その言葉が、リディアの胸の奥に小さな灯を残す。
 灯は弱い。弱いからこそ、消さないように息を整えたくなる。

 シルヴィアが扉へ向かい、最後に振り返った。

「妃殿下。王宮は“愛される者が勝つ”と、誰かが言うでしょう。けれど私は、違うと思っています」

 リディアは微かに目を上げる。
 シルヴィアの瞳が揺れない。

「王宮は、正しい者がいなければ滅びます。妃殿下は——その正しさです」

 それだけ言って、シルヴィアは去った。

 扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
 静けさは重い。
 けれど今の静けさは、昨夜の孤独と同じではない。

 リディアは机の端の薬包を見つめ、そっと指で触れた。
 冷たい紙。
 冷たいのに、なぜか少しだけ息がしやすい。

 ミナがそっと入ってきて、控えめに尋ねる。

「妃殿下……お加減は」

 リディアは微笑みを作ろうとして、やめた。
 やめて、代わりにほんの小さく頷いた。

「……少しだけ、大丈夫よ」

 大丈夫ではない。
 でも、少しだけ。
 それが、今日の精一杯の本音だった。

 窓の外で、庭師の箒が落葉を集める音がした。
 さらさら、と。
 音は静かで、確かで、続いていく。

 王宮も同じだ。
 噂も礼節も、続いていく。
 その中で、誰かが小さく味方を示してくれたことが、どれほど救いになるか。

 リディアはまだ戻らない。
 けれど、孤独の形が少しだけ変わった。

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