「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第34章|危機報告

――崩れない人ほど、崩れる瞬間は音がしない。

 謁見前室は、冬の光を柔らかく受け止めていた。
 高い天井、白い壁、磨かれた床。声を出せば、礼の形のまま吸い込まれていく静けさ。

 リディアは、その静けさの中心に立っていた。

 薄い絹の手袋の下で、指先が冷たい。
 外気の冷えではない。
 体の内側から、熱が抜けていく冷えだ。

 ——大丈夫。

 心の中でそう言い、息を整える。
 息は浅く、胸の奥が少しだけ痛い。
 痛みはいつものこと。
 胃の奥の鈍い締めつけも、昨夜から続いている。

 それでも背筋は真っ直ぐだった。
 真っ直ぐに立てば、崩れない。
 崩れないふりをすれば、誰も踏み込んでこない。

 それが王太子妃の仕事であり、彼女が選んだ“鎧”だった。

「妃殿下、こちらの名簿を」

 女官が差し出す文書に、リディアは微笑みを添えて受け取った。
 紙の端が、ほんのわずかに震える。
 指ではなく、視界が揺れている。
 眩暈に似た、薄い暗さが目の奥をかすめた。

 ——まだ、倒れない。

 言葉にしない。
 言葉にした瞬間、弱さが形を持ってしまうから。

 背後で、ミナが静かに近づいた。
 侍女の足音は、絹が床を撫でる音しかしない。
 その音が、今は救いだった。

「……お水をお持ちいたしましょうか」

 囁きは、主の品位を壊さないための小さな気遣いだった。
 リディアは首を横に振る。

「不要よ。ありがとう、ミナ」

 声は穏やかで、笑みも崩れない。
 崩れない笑みは、時に刃になる。
 自分自身に向けた刃だ。

 侍女長ヘレナが、少し離れた位置で状況を見ていた。
 視線が鋭い。けれどそれは誰かを責めるためではなく、守るための視線だ。

 ヘレナは近づかない。
 妃殿下が“自分で立つ”意志を、最後まで尊重するために。

 それでも、リディアの足元がほんの一瞬、床を探した。

 見えない揺れ。
 誰にも気づかれない揺れ。

 ——気づかれてはいけない。

 その時、扉の外がざわめいた。
 謁見の準備を整える足音が、少しだけ速くなる。
 儀礼の空気が、濃くなる。

 貴族たちが前室に通される。
 香水の匂いが混じり、刺すような甘さが喉に残った。
 胃が、きゅ、と縮む。

 リディアは息を止めないように、ゆっくり吸い、吐く。

 隣に、アーヴィンはいない。
 前室で妻を待つ夫ではない。
 彼は——王太子として、別の導線にいる。

 それが普通だ。
 それが王宮だ。

 ——分かっている。分かっているはず。

 なのに、胸のどこかが、ひどく静かに冷える。
 冷えが言葉に変わる前に、リディアは微笑みを深くする。

 すると、前室の端の方で、小さな笑い声がした。
 軽い。
 上品なふりをした軽さ。

 子爵令嬢ローラだった。
 彼女は誰かと囁き合い、視線を一瞬だけリディアへ滑らせる。
 そしてすぐに、同情の形を作る。

「まあ……妃殿下、お顔色が……お疲れなのでは?」

 言葉は心配の仮面。
 仮面の下にあるのは、情報の収集だ。

 リディアは微笑みを崩さず答える。

「ご心配なく。公務は滞りなく」

 ——滞りなく。
 その言葉は、王太子妃の盾。
 同時に、檻。

 ローラは目を細め、やわらかく頷いた。
 そして背後の誰かに、まるで花の香りを分けるように囁く。

「妃殿下って、強いのね。……強いけれど、無理をなさっているのかしら」

 聞こえるか聞こえないかの距離。
 わざとだ。

 ミナの指先が、リディアの背の少し後ろで緊張した。
 怒りを飲む。
 主の品位のために。

 ヘレナの視線が、ローラへ向く。
 けれどヘレナは動かない。
 今はまだ。
 今動けば、妃が“弱さを隠すために侍女に守られた”物語が出来てしまう。

 王宮は、真実より物語が強い。
 そして物語は、妃を孤立させる。

 リディアはローラを見ない。
 見ないことで、線を引く。

 その線を保つために、胃の痛みを飲み込む。

 ——いつものこと。

 その“いつものこと”が、今日に限って重い。

 視界の端が、ふっと暗くなった。
 光が遠のく。
 音が薄くなる。

 手の中の文書が、紙ではなく石に変わったように重い。

 ミナが、ほんの半歩近づく。

「妃殿下……」

 声は小さい。
 主の名誉を傷つけないための小ささ。

 リディアは頷き、息を整えようとした。
 ——その瞬間。

 床が、少し上に来た。

 上に来た、という感覚。
 足が自分のものではなくなる。
 身体が礼を失う前に、意識が礼を手放しそうになる。

 音がしない。
 崩れる音がしない。

 ただ、世界が一拍遅れる。

 ミナの手が、背中に触れる。
 触れるだけ。抱きとめない。
 抱きとめれば“倒れた”と見えるから。

 ヘレナが一歩前に出た。
 視線で周囲を制し、言葉で空気を変える。

「妃殿下、お召し替えの件で控室へ。少々お時間を」

 理由は嘘ではない。
 控室へ向かうことは礼のうち。
 上品な嘘ほど、妃を守る。

 貴族たちが「そういうこともありますわね」と勝手に頷く。
 勝手に納得し、勝手に物語を作る。

 ローラだけが、目を輝かせた。
 それは悪意ではない。
 面白がりだ。

 ——“妃が弱っている”。
 その情報は、今日一番甘い。

 リディアは歩こうとした。
 歩ける。歩けるはず。
 でも足元がふわりと浮く。
 胃が反転するように痛む。

 吐き気が込み上げ、喉の奥が熱くなる。

 ——ここで吐いてはいけない。

 その思いが、逆に喉を締める。

 ヘレナは妃の肩に手を添え、支えるのではなく“姿勢を整える”位置で押さえた。
 支えではない。
 礼の補助だ。

 控室の扉が閉まった瞬間、リディアは息を吐いた。
 吐いた息が震える。
 その震えに、自分が驚く。

 震えるほど、怖かったのだ。

 ミナが水を差し出す。
 リディアは受け取り、一口だけ含んだ。
 冷たい水が喉を通るのに、胃が拒む。

 ヘレナが短く言った。

「……殿下へ、今すぐ報告を」

 ミナが頷き、扉へ向かう。
 その背中が消えた時、リディアは椅子の背に軽く指を置いた。
 座らない。
 座ったら、崩れる気がした。

 それでも、目の前が白くなる。

 その瞬間、控室の奥の扉が開いた。
 宮廷医クラウスが入ってくる。
 白衣ではない。王宮の医師は礼服の上に、医療の徽章をつけている。

 クラウスは礼を取り、声を落とした。

「妃殿下。……限界です」

 その言葉は優しくない。
 優しくなくていい。
 優しくすれば、妃はまた笑ってしまう。

 リディアは微笑みを作ろうとして、失敗した。
 唇がわずかに震える。
 震えが、悔しい。

「限界……など」

 言いかけて、胃がまた痛む。
 痛みが言葉を途切れさせる。

 クラウスは一歩近づき、しかし跪かない。
 医師としての距離を守ったまま、はっきり言った。

「このままでは倒れます。倒れた時、妃殿下は“弱い”ではなく、“負けた”と語られます。……王宮はそういう場所です」

 負けた。
 その言葉が、刺さる。
 負けたくないのではない。
 “負けた物語”にされるのが怖い。

 ヘレナが静かに続けた。

「妃殿下は、もう十分に守っておられます。……守るべきものを、ひとりで」

 ひとりで。

 その二文字が、胸の奥を締めつけた。
 本当は言いたかった。
 ひとりではない、と。

 けれど、ひとりだった。

 ——あの一言の日から。

 外では、謁見の準備が進む。
 王宮は止まらない。
 止まらないからこそ、妃は止まれない。

 その時、廊下が騒がしくなった。
 急ぎ足。近衛の気配。

 扉が開く。
 ルシアンが入ってきた。その後ろに、黒い外套の影。

 アーヴィンだった。

 彼の瞳が、リディアを捉える。
 捉えた瞬間、瞳の奥が揺れる。
 揺れるのに、彼は王太子の顔を崩さない。

 ——崩さないふり。

 夫婦は似るのだろうか、とリディアはぼんやり思う。
 似たくなかった。
 似るほどに、遠い。

 アーヴィンは一歩近づいた。
 距離を詰めるだけで、触れない。
 触れれば、今の自分には“優しさ”が痛いから。

「……リディア」

 名を呼ぶ声が、静かだった。
 静かだからこそ、遅さが刺さる。

 リディアは微笑もうとした。
 いつも通りに。
 妃として。
 妻として。

 でも、笑えなかった。

 笑えないまま、背筋だけを整える。
 崩れない。
 崩れないという意地が、最後の支えになる。

 ローラの視線が、きっと控室の外で待っている。
 アデラの“物語”が、どこかで息をしている。
 ミレーユの涙の印象が、まだ広間に残っている。

 王宮は、今日も“誰かの物語”を欲しがっている。

 その物語の中で、リディアは負けたくない。
 負けたくないのに——体が、もう勝てない。

 クラウスの声が、静かに落ちた。

「殿下。妃殿下を、今夜の公務から外してください。……これは医師の命令です」

 医師の命令。
 公務を動かす唯一の強い言葉。

 アーヴィンが息を吸う。
 迷いが、ほんの一瞬だけ瞳に映る。

 ——また、空気を守るか。
 ——それとも、妻を守るか。

 リディアはそれを見て、胸の奥が冷えた。
 もう、期待しない。
 期待は、痛みになる。

 だからこそ——次の言葉で、世界が少し変わる。

 アーヴィンは短く言った。

「……予定は動かす。妃の限界より優先される予定はない」

 その言葉は、遅い。
 遅いけれど、嘘ではない。

 リディアの胸は、温まらない。
 温まらないまま——ほんの少しだけ、息が深くなった。

 そしてそれが、悔しいほど救いだった。

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