「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

文字の大きさ
45 / 60

第45章|医師の命令

しおりを挟む
――倒れた妃は、“負けた物語”にされる。
――だから医師は、命令する。王宮の空気に逆らってでも。

 舞踏会の翌朝。
 王宮の廊下は、昨夜の光を忘れたように白い。
 窓から差す冬の薄日が、磨かれた床に淡く伸び、そこを人々が無音で踏んでいく。
 夜の囁きは消えない。
 ただ、昼の礼節が上から塗りつぶすだけだ。

 リディアはいつも通り、朝の公務へ向かっていた。
 歩幅は一定。背筋は真っすぐ。
 プラチナブロンドの髪はきちんとまとめられ、肌は陶器のように整って見える。
 整っている。
 整いすぎている。

 ミナが半歩後ろで、主の背に影を落とすように付き従う。
 侍女は言葉を飲む仕事だ。
 けれど今朝のミナは、飲み込んだ言葉が喉で痛んでいた。

「妃殿下……昨夜は……」

「大丈夫よ」

 リディアは立ち止まらずに答える。
 大丈夫、という音は軽い。
 軽すぎる音は、嘘に近い。

 曲がり角の先、柱影から一人の男が現れた。
 宮廷医クラウス。
 白衣ではない。医師が白衣で歩くのは“演出”だ。
 彼は貴族と同じ礼装をまとい、ただ襟元だけが潔く、身に余計な飾りがない。

「妃殿下。失礼いたします」

 声が低い。
 低い声は、余計な感情を削ぐ。
 削いだ先に残るのは、事実だ。

 リディアは足を止めた。
 目元だけでクラウスを見る。

「おはよう、クラウス。何かしら」

 この場で“医師”に見られることは危険だ。
 危険だと知っているから、いつも通りに振る舞う。
 いつも通りに振る舞うほど、体は限界に近い。

 クラウスは一歩近づき、しかし距離を保った。
 距離を保つのは礼儀ではない。
 “噂”を作らないためだ。

「診察が必要です。いま」

 命令に近い言い方。
 医師の言葉は、本来そうあるべきだ。
 だが王宮では、命令は嫌われる。
 嫌われるのは、空気を守る者たちだ。

 リディアは微笑んだ。
 微笑みが薄い。薄いほど、危うい。

「公務がございます。あとに——」

「あとでは遅い」

 クラウスは遮った。
 遮ること自体が、彼の“決意”だった。

 ミナが息を呑み、両手をぎゅっと握る。
 侍女の胸にだけ、昨夜の膝の揺れが残っている。
 主は隠した。
 隠せた。
 だからこそ、隠しきれなくなる瞬間が怖い。

 そこへ、重たい足音が廊下を満たす。
 宰相。
 影の色が違う男。
 人の体調よりも、国益と体面を先に見る男。

「妃殿下に診察? 今この時刻に?」

 宰相の言葉は丁寧だ。
 丁寧な言葉ほど、拒絶が強い。

「公務の進行に差し障りが出ますな。
 殿下もお忙しい。王宮の予定は——」

 予定。
 予定という言葉で人は壊れる。
 壊れても、予定は守られる。
 それが王宮の恐ろしさだ。

 クラウスは宰相を見た。
 彼の目は冷たい。
 冷たい目は、感情ではない。判断だ。

「差し障りが出るのは、妃殿下が倒れてからです」

 言い切り。
 言い切りは波を立てる。
 波を立てることが、医師の仕事になる瞬間がある。

 宰相の眉がわずかに動いた。
 動いた眉が、いら立ちを隠せない。

「倒れるなど——大げさでは?」

 大げさ。
 この言葉は、痛みを“演出”に変える。
 リディアが最も嫌う種類の言葉だ。
 そして、かつてアーヴィンが“争う必要はない”と言った時と同じ種類の言葉だ。

 リディアは微笑みを保ったまま、視線を落とした。
 落とした瞬間、胃の奥がきゅっと縮む。
 胃が痛い。
 睡眠が浅い。
 指先が冷たい。
 ——全部、言わない。
 言えば“弱い”物語が出来上がるから。

「わたくしは……」

 言いかけた声が少し掠れた。
 掠れが、彼女の鎧に小さな亀裂を作る。

 その瞬間、廊下の奥から黒が現れた。
 アーヴィンだ。
 王太子の黒髪が、朝の白い廊下でやけに目立つ。

「どうした」

 短い声。
 短い声は、焦りを隠す。
 焦りは、遅れて気づいた者の証拠。

 宰相が素早く口を挟む。

「殿下。医師が妃殿下を“今すぐ”診察したいと。
 しかし本日は重要な——」

「黙れ」

 アーヴィンの声が、思っていたより低く落ちた。
 廊下の空気が、一瞬だけ止まる。

 宰相が目を見開く。
 王太子に“黙れ”と言われることは、彼の想定にない。

 アーヴィンはリディアを見た。
 昨夜、彼女の膝の揺れに気づかなかった。
 気づかなかったことが、今になって胸を刺す。
 気づかなかったのは——彼女が完璧だったからだ。

「……リディア。診察を受けてくれ」

 頼む、という言い方ができない。
 王太子は命令の言葉に慣れている。
 けれど彼の声には、明らかに“頼み”が混じっていた。

 リディアは、ゆっくり瞬きをした。
 瞬きの間に、胸の奥がひやりとする。
 この人は、昨夜守った。
 けれど守りが遅かった。
 遅かった守りは、今さらの償いに見える。
 償いは温度にならない。

「承知いたしました、殿下」

 言葉は従順。
 声も柔らかい。
 しかし、そこに“妻”はない。

 クラウスが、淡々と告げた。

「公務停止です。正式に」

 宰相が即座に反発する。

「医師殿、それは越権では?」

「越権ではありません。医師権限です」

 クラウスは一歩も引かない。
 引かない医師は、王宮では珍しい。
 珍しいからこそ目立ち、目立つからこそ噂になる。
 ——それでも彼は引かない。

「妃殿下が倒れれば、王宮はこう言う。
 “妃は弱い”。
 “王太子は可哀想”。
 “伯爵令嬢の方が素直で——”
 ……物語が完成します」

 クラウスの言葉は淡々としている。
 淡々としているから、残酷だ。
 残酷なほど、真実だ。

 アーヴィンの喉が鳴った。
 彼はその物語を、これまで止められなかった。
 空気を守ることで、妻を壊した。

 クラウスは続ける。

「倒れた妃は、“負けた物語”にされる。
 私は医師として、それを許しません」

 沈黙。
 廊下の白さが、やけに眩しい。

 リディアは、ほんの少しだけ息を吐いた。
 吐いた息が震えたのを、ミナだけが見た。
 主はまだ崩れない。
 崩れないために、公務を止めることすら“恥”に感じている。

 宰相が歯噛みする。

「では、妃殿下が“休まれる”と周囲に伝えるのですか。
 それはそれで、噂の火種になりますぞ」

 火種。
 噂の火種は、いつも“正論”の形をしている。

 その時、廊下の向こうから女性の足音が響いた。
 迷いのない、女王の歩幅。

 マルグリット王妃が現れた。
 衣擦れの音すら、命令に聞こえる。

「火種なら、私が消す」

 彼女の一言で、宰相の肩が固まった。
 王妃は笑わない。
 笑わない王妃ほど怖いものはない。

「妃案件は王妃管轄。
 医師の命令に異を唱える権利は、あなたにはない」

 宰相が口を開こうとした。
 だがマルグリットは、さらに一歩踏み込む。

「あなたは“空気”を守りたいのでしょう。
 なら守りなさい。——あなた自身の体面だけを」

 切り捨て。
 刃は見えない。
 見えない刃ほど、深い。

 宰相は言葉を失い、礼だけを残して下がった。
 下がる背中が、王妃の勝利を示す。
 けれどこの勝利は、夫婦の勝利ではない。
 夫婦の勝利は、まだ遠い。

 クラウスがリディアへ向き直った。

「妃殿下。こちらへ」

 リディアは頷く。
 頷きが小さい。
 小さい頷きに、長い我慢が詰まっている。

 アーヴィンが彼女の隣へ歩こうとした。
 歩こうとして、止まる。
 止まったのは、自分が隣に立つ資格を失った気がしたからだ。

 リディアは、振り返らない。
 振り返らないことが、彼への罰ではない。
 自分が折れないための、最低限の距離。

 マルグリットが、低く言った。

「殿下。
 “休ませる”ことが終わりではない。
 休ませたあと、あなたが何を守るかが始まりよ」

 アーヴィンは唇を噛んだ。
 噛むほどに血が滲むほどではない。
 その程度の痛みで済ませようとしている自分を、彼は嫌悪した。

 リディアの姿が廊下の角へ消える。
 消え方が、静かすぎる。
 静かすぎる消え方は、取り返しのつかないものを奪っていく。

 そして——その静かな消失のあと。
 王宮はすぐに“物語”を探し始める。

 休ませるはずだった。
 守るはずだった。
 だが空気は、勝手に言う。

 ——妃は逃げた。
 ——殿下が可哀想。
 ——やっぱり伯爵令嬢の方が——

 その火種が、いま確かに生まれたことを、マルグリットは知っている。
 クラウスも知っている。
 ルシアンも知っている。

 アーヴィンだけが、まだ知らない。
 守るのは、診察室の扉ではない。
 扉の外で燃える“物語”の方だ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約破棄されたので、愛のない契約結婚を選んだはずでした

鍛高譚
恋愛
王太子の婚約者だった伯爵令嬢・カーテンリンゼ。 しかし、王太子エドワルドは突然の婚約破棄を言い渡し、彼女を冷たく突き放す。 ――だが、それは彼女にとってむしろ好都合だった。 「婚約破棄? 結構なことですわ。むしろ自由を満喫できますわね!」 ところが、婚約破棄された途端、カーテンリンゼは別の求婚者たちに目をつけられてしまう。 身分を利用されるだけの結婚などごめんだと思っていた彼女の前に現れたのは、冷徹と噂される若き公爵・レオポルド。 「契約結婚だ。君の自由は保証しよう」 「まあ、それは理想的ですわね」 互いに“愛のない”結婚を選んだ二人だったが、次第に相手の本当の姿を知り、想いが変わっていく――。 一方、王太子エドワルドは、自分が捨てたはずのカーテンリンゼを取り戻そうと動き出し……!?

「格が違う」なら、どうぞお好きに。あなたも、鍵印のない範囲でお幸せに。

なかすあき
恋愛
王都の大聖堂で迎えた結婚式当日。 花嫁セレナは控室で、婚約者アルトから突然の破棄を告げられる。 「格が違う」 それが理由だった。代わりに祭壇へ立つのは名門令嬢ミレイア。会場は勝者を祝福し、アルトの手首には華やかな血盟紋が輝く。 だが、盟約の儀が進むほどに“信用”の真実が姿を現していく。大司教が読み上げる盟約文、求められる「信用主体確認」。そしてセレナの鎖骨にだけ浮かび上がった、真層の印「鍵印」。 拍手が止まった瞬間、彼の勝利は終わる。 泣かず、怒鳴らず、おごそかに。セレナは契約を“手続き”として完了し、最後に一言だけ置いて去っていく。 静かな処刑がもたらす、痛快な逆転劇。

婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい

神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。  嘘でしょう。  その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。  そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。 「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」  もう誰かが護ってくれるなんて思わない。  ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。  だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。 「ぜひ辺境へ来て欲しい」  ※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m  総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ  ありがとうございます<(_ _)>

白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』

鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」 華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。 王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。 そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。 レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。 「お願いだ……戻ってきてくれ……」 王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。 「もう遅いわ」 愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。 裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。 これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。

妻よりも幼馴染が大事? なら、家と慰謝料はいただきます

佐藤 美奈
恋愛
公爵令嬢セリーヌは、隣国の王子ブラッドと政略結婚を果たし、幼い娘クロエを授かる。結婚後は夫の王領の離宮で暮らし、義王家とも程よい関係を保ち、領民に親しまれながら穏やかな日々を送っていた。 しかし数ヶ月前、ブラッドの幼馴染である伯爵令嬢エミリーが離縁され、娘アリスを連れて実家に戻ってきた。元は豊かな家柄だが、母子は生活に困っていた。 ブラッドは「昔から家族同然だ」として、エミリー母子を城に招き、衣装や馬車を手配し、催しにも同席させ、クロエとアリスを遊ばせるように勧めた。 セリーヌは王太子妃として堪えようとしたが、だんだんと不満が高まる。

あなたが捨てた花冠と后の愛

小鳥遊 れいら
恋愛
幼き頃から皇后になるために育てられた公爵令嬢のリリィは婚約者であるレオナルド皇太子と相思相愛であった。 順調に愛を育み合った2人は結婚したが、なかなか子宝に恵まれなかった。。。 そんなある日、隣国から王女であるルチア様が側妃として嫁いでくることを相談なしに伝えられる。 リリィは強引に話をしてくるレオナルドに嫌悪感を抱くようになる。追い打ちをかけるような出来事が起き、愛ではなく未来の皇后として国を守っていくことに自分の人生をかけることをしていく。 そのためにリリィが取った行動とは何なのか。 リリィの心が離れてしまったレオナルドはどうしていくのか。 2人の未来はいかに···

【完結】恋は、終わったのです

楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。 今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。 『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』 身長を追い越してしまった時からだろうか。  それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。 あるいは――あの子に出会った時からだろうか。 ――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。

病弱な幼馴染を守る彼との婚約を解消、十年の恋を捨てて結婚します

佐藤 美奈
恋愛
セフィーナ・グラディウスという貴族の娘が、婚約者であるアルディン・オルステリア伯爵令息との関係に苦悩し、彼の優しさが他の女性に向けられることに心を痛める。 セフィーナは、アルディンが幼馴染のリーシャ・ランスロット男爵令嬢に特別な優しさを注ぐ姿を見て、自らの立場に苦しみながらも、理想的な婚約者を演じ続ける日々を送っていた。 婚約して十年間、心の中で自分を演じ続けてきたが、それももう耐えられなくなっていた。

処理中です...