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第三章「いつもの日常」
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午後の光は、どこか眠たげだった。
白いレースのカーテン越しに差し込む陽射しが、テーブルの上に柔らかな格子模様を描いている。
銀のティーセットが静かに輝き、湯気が細く、ゆっくりと立ち上っていた。焼きたてのスコーンの香りが部屋に満ちて、窓の外では庭師が遠くの生垣を刈り込む音が、規則正しく響いている。
穏やかな、午後だった。
エリアーナは、カップを両手で包むようにして持ち、向かいの椅子を見た。
レオナルドが座っていた。
いつもと同じ無表情で、書類に目を落としている。長い指が紙の端をめくる。黒髪が額にかかっても、払いのけようとしない。琥珀色の瞳が、静かに文字を追っている。
二人きりだった。
今日は——珍しく、二人きりだった。
月に一度、婚約者として顔を合わせるお茶の時間が、ヴァルフォード公爵家とウィンター公爵家の間で取り決められていた。形式的なものだ。両家の仲を対外的に示すための、いわば儀式に近い時間。それでも——
(二人きりって、いつ以来かしら)
エリアーナは、そっと考えた。
先月は途中でソフィアが現れた。先々月も。その前も。気がつけばいつも、三人になっていた。
だから今日は、少しだけ——ほんの少しだけ、心臓の音が速かった。
「……レオナルド様」
沈黙に耐えきれず、エリアーナは口を開いた。
レオナルドが書類から顔を上げる。琥珀色の瞳が、まっすぐにエリアーナを見た。
その視線に、毎回ドキリとする。慣れない。三年経っても、全然慣れない。
「なんだ」
「……今日は、お忙しいところをすみません。お仕事の邪魔をしてしまって」
「邪魔だと思っているなら持ち込まない」
短く、それだけ。
エリアーナは少しだけ目を瞬かせた。
(それって……来るのが嫌ではない、ということ?)
深読みしてはいけないとわかっていても、胸の奥がほんの少し温かくなる。
「……そう、ですか」
エリアーナは微笑んだ。
「では、お言葉に甘えて」
スコーンに手を伸ばす。クロテッドクリームをたっぷりのせて、一口かじる。
さくりと崩れる感触と、バターの豊かな香りが広がった。
(美味しい)
思わず、顔が綻びそうになる。
ヴァルフォード家の料理長が作るスコーンは、エリアーナが知る中で一番好きな味だった。三年前に初めて食べた時から、ずっとそうだった。
「……気に入っているのか」
不意に、声がした。
エリアーナは顔を上げた。レオナルドが、書類から目を離して、こちらを見ていた。視線の先が、エリアーナの手元——スコーンに向いている。
「え?」
「毎回、よく食べる」
言葉は素っ気ない。でも責めているわけでも、揶揄しているわけでも、ない。
ただ、気づいていた。
毎回、気づいていた。
エリアーナは一瞬止まってから、少し頬が熱くなるのを感じながら答えた。
「……はい。こちらのスコーン、とても好きで」
「そうか」
「毎回楽しみにしているくらい、好きで……その、お恥ずかしいですけれど」
「恥ずかしくはないだろう」
レオナルドが、さらりと言った。
「好きなものを好きと言うのは、普通のことだ」
エリアーナは、少しの間、言葉を失った。
(この人は……)
こういう時に限って、不意打ちのようなことを言う。感情のない声で、表情も変えずに——それなのに、言葉だけが真っ直ぐに届いてくる。
「……そうですね」
エリアーナは、静かに笑った。
「好きなものは、好き、と言えた方がいいですね」
(好きなものは、好きと)
心の中で、繰り返した。
(好きな人のことも——いつか、ちゃんと言えたら)
窓の外で、風が吹いた。
カーテンが揺れて、午後の光が揺らいだ。
湯気の立つカップ。銀のティーセット。スコーンの香り。
レオナルドが書類に目を戻す。エリアーナがカップを傾ける。
言葉のない時間が、流れた。
でも今日の沈黙は、悪くなかった。少なくともエリアーナには、そう感じられた。同じ部屋の空気を吸っているだけで——それだけで、今日はもう充分かもしれないと思えるくらいには。
(今日は、二人きりで、最後まで——)
扉が、開いた。
「レ~オ! いたいた! 探したよ~!」
弾むような声が、部屋に飛び込んできた。
エリアーナは、静かに目を閉じた。
一秒。
また、開ける。
扉の向こうで、ソフィア・ロゼッタが笑っていた。
栗色の巻き毛を揺らして、蜂蜜色の瞳をきらきらさせて。薄いピンクのドレスが、まるで春の花のように、彼女を可愛らしく包んでいる。
「あ、エリアーナ様もいたんですか! よかった、丁度二人に会いたかったんです!」
にこりと笑う。
作り物ではない笑顔に見える。そこが、ソフィアの恐ろしいところだとエリアーナは思う。
「ソフィア」
レオナルドの声は、少し低くなった。
「今日は——」
「スコーン、私の分もある? 昨日から食べたくて食べたくて! レオのとこのスコーン、王都で一番美味しいんだもん」
ソフィアがテーブルへと近寄り——当然のように、レオナルドの隣の椅子に座った。
エリアーナのいる向かいではなく。
エリアーナの斜め向かいでもなく。
レオナルドの、真隣に。
「ね、レオ。今日ここに来たのはね、こないだの話の続きがしたくて。ほら、子どもの頃に迷い込んだ森の話、途中で終わっちゃったじゃない?」
「……あの話か」
「そう! あの後どうなったか、ずっと気になってたの。教えてよ」
ソフィアがレオナルドの腕にそっと手を置く。上目遣いで、甘えるように。
レオナルドが僅かに眉を動かした。追い払いもしないし、引き離しもしない。
「……大したことではない。帰り道を見つけただけだ」
「えーっ! それだけ? もっと詳しく教えてよ。ねえってば」
「うるさい」
「もう、レオってば!」
二人の世界が、始まった。
エリアーナは、カップを傾けた。
紅茶の温度が、さっきより少し下がっていた。
(また……いつもそう)
心の中で、静かに呟く。
責める気持ちは、もうほとんどない。悲しむ気持ちも、慣れてしまって形を失いつつある。ただ胸の奥に、じわりと滲むような痛みだけが——消えずに、残っている。
テーブルの上。エリアーナとレオナルドの間。
さっきまで、言葉が届いていた場所。
そこに今は、ソフィアがいる。
(当たり前のことだわ)
エリアーナは自分に言い聞かせた。
(二人は幼馴染で、長い時間を共に過ごしてきた。私には、その時間がない。それだけのことよ)
わかっている。
全部、わかっている。
わかっているのに——どうして、スコーンの味が、さっきより少し薄く感じるのだろう。
「エリアーナ様、スコーンお口に合いますか?」
不意に、ソフィアが声をかけてきた。
エリアーナは表情を整えて、微笑んだ。
「ええ、とても美味しいわ。いつも楽しみにしているの」
「そうなんですね! 私もなんですよ~。……あ、でも」
ソフィアが、少し首を傾けた。
蜂蜜色の瞳が、細くなった。
「エリアーナ様って、甘いもの好きなんですか? なんとなく、お好きじゃないのかなって思っていました」
「どうして?」
「だって、夜会とかでは全然召し上がっていないから……あ、でも気にしていらっしゃるのかしら、体型とか。ごめんなさい、変なこと言いましたね」
花のような笑顔で、言った。
エリアーナの手の中のカップが、微かに揺れた。
(上手いわね)
内心で、静かに思う。
責める言葉は一つもない。むしろ謝っている。それなのにこの会話の後、レオナルドの頭の中に「エリアーナは体型を気にしている」という印象が残ってしまう。
さりげなく、自然に、笑顔で——ソフィアはいつもそうやって、エリアーナを小さく見せる。
「夜会では緊張してしまうから、あまり食べられないの」
エリアーナは、穏やかに答えた。
「こうして落ち着いた場所では、美味しいものは美味しくいただきたいわ」
「あら、そうなんですか! じゃあ今日はたくさん食べてください」
ソフィアが、にっこりと笑った。
エリアーナも、にっこりと笑い返した。
水面下で、火花が散る。
レオナルドは書類に目を戻していて、気づいていない。
それから一時間、二人の世界は続いた。
幼い頃の話。共通の知人の話。ソフィアが「レオだけが知っている私の秘密」を楽しそうに話して、レオナルドが「勝手に話すな」と短く言って、ソフィアが「えー、だって可愛い話じゃない」と膨れる。
エリアーナは相槌を打ちながら、紅茶を飲みながら、スコーンを食べながら——ずっと笑顔でいた。
完璧な笑顔で。
どこにも綻びのない、令嬢の仮面で。
お茶の時間が終わり、エリアーナが席を立った時、レオナルドが顔を上げた。
「エリアーナ」
名前を呼ばれた。
様付けではなく、名前だけで。
エリアーナの胸が、小さく跳ねた。
「……はい」
「今日のドレス」
レオナルドの視線が、エリアーナの青いドレスに落ちた。
一秒の沈黙。
「……よく似合っている」
それだけ言って、また書類に目を落とした。
エリアーナは、部屋を出た。
廊下に出た途端、足が止まった。
胸の奥で、何かが弾けたような気がした。痛くも苦しくもない——でも、じんわりと目の奥が熱くなるような、そんな感覚。
クロエが言っていた。
「似合いますよ、きっと」
エリアーナは廊下の壁に、そっと背中を預けた。
天井を仰ぐ。
(レオナルド様……)
好きだ、と思った。
今日も、やっぱり——好きだと思った。
二人の世界を見せられても。ソフィアに小さな棘を刺されても。それでも最後に名前を呼んで、青いドレスを褒めてくれたその一言が——全部を塗り替えてしまうくらい、嬉しかった。
(こんなんだから、諦められないのよ)
エリアーナは苦笑した。
泣きそうな顔で、でも本物の笑みで。
廊下の窓から差し込む午後の光が、青いドレスを静かに照らしていた。
その頃、部屋の中では。
ソフィアが、エリアーナが出て行った扉をじっと見ていた。
「……レオ」
「なんだ」
「エリアーナ様のこと、名前で呼んだんですね」
蜂蜜色の瞳が、少しだけ揺れた。
レオナルドは書類から目を上げなかった。
「婚約者だからな」
「……そうですね」
ソフィアは、微笑んだ。
誰にも見せない顔で、静かに——微笑んだ。
白いレースのカーテン越しに差し込む陽射しが、テーブルの上に柔らかな格子模様を描いている。
銀のティーセットが静かに輝き、湯気が細く、ゆっくりと立ち上っていた。焼きたてのスコーンの香りが部屋に満ちて、窓の外では庭師が遠くの生垣を刈り込む音が、規則正しく響いている。
穏やかな、午後だった。
エリアーナは、カップを両手で包むようにして持ち、向かいの椅子を見た。
レオナルドが座っていた。
いつもと同じ無表情で、書類に目を落としている。長い指が紙の端をめくる。黒髪が額にかかっても、払いのけようとしない。琥珀色の瞳が、静かに文字を追っている。
二人きりだった。
今日は——珍しく、二人きりだった。
月に一度、婚約者として顔を合わせるお茶の時間が、ヴァルフォード公爵家とウィンター公爵家の間で取り決められていた。形式的なものだ。両家の仲を対外的に示すための、いわば儀式に近い時間。それでも——
(二人きりって、いつ以来かしら)
エリアーナは、そっと考えた。
先月は途中でソフィアが現れた。先々月も。その前も。気がつけばいつも、三人になっていた。
だから今日は、少しだけ——ほんの少しだけ、心臓の音が速かった。
「……レオナルド様」
沈黙に耐えきれず、エリアーナは口を開いた。
レオナルドが書類から顔を上げる。琥珀色の瞳が、まっすぐにエリアーナを見た。
その視線に、毎回ドキリとする。慣れない。三年経っても、全然慣れない。
「なんだ」
「……今日は、お忙しいところをすみません。お仕事の邪魔をしてしまって」
「邪魔だと思っているなら持ち込まない」
短く、それだけ。
エリアーナは少しだけ目を瞬かせた。
(それって……来るのが嫌ではない、ということ?)
深読みしてはいけないとわかっていても、胸の奥がほんの少し温かくなる。
「……そう、ですか」
エリアーナは微笑んだ。
「では、お言葉に甘えて」
スコーンに手を伸ばす。クロテッドクリームをたっぷりのせて、一口かじる。
さくりと崩れる感触と、バターの豊かな香りが広がった。
(美味しい)
思わず、顔が綻びそうになる。
ヴァルフォード家の料理長が作るスコーンは、エリアーナが知る中で一番好きな味だった。三年前に初めて食べた時から、ずっとそうだった。
「……気に入っているのか」
不意に、声がした。
エリアーナは顔を上げた。レオナルドが、書類から目を離して、こちらを見ていた。視線の先が、エリアーナの手元——スコーンに向いている。
「え?」
「毎回、よく食べる」
言葉は素っ気ない。でも責めているわけでも、揶揄しているわけでも、ない。
ただ、気づいていた。
毎回、気づいていた。
エリアーナは一瞬止まってから、少し頬が熱くなるのを感じながら答えた。
「……はい。こちらのスコーン、とても好きで」
「そうか」
「毎回楽しみにしているくらい、好きで……その、お恥ずかしいですけれど」
「恥ずかしくはないだろう」
レオナルドが、さらりと言った。
「好きなものを好きと言うのは、普通のことだ」
エリアーナは、少しの間、言葉を失った。
(この人は……)
こういう時に限って、不意打ちのようなことを言う。感情のない声で、表情も変えずに——それなのに、言葉だけが真っ直ぐに届いてくる。
「……そうですね」
エリアーナは、静かに笑った。
「好きなものは、好き、と言えた方がいいですね」
(好きなものは、好きと)
心の中で、繰り返した。
(好きな人のことも——いつか、ちゃんと言えたら)
窓の外で、風が吹いた。
カーテンが揺れて、午後の光が揺らいだ。
湯気の立つカップ。銀のティーセット。スコーンの香り。
レオナルドが書類に目を戻す。エリアーナがカップを傾ける。
言葉のない時間が、流れた。
でも今日の沈黙は、悪くなかった。少なくともエリアーナには、そう感じられた。同じ部屋の空気を吸っているだけで——それだけで、今日はもう充分かもしれないと思えるくらいには。
(今日は、二人きりで、最後まで——)
扉が、開いた。
「レ~オ! いたいた! 探したよ~!」
弾むような声が、部屋に飛び込んできた。
エリアーナは、静かに目を閉じた。
一秒。
また、開ける。
扉の向こうで、ソフィア・ロゼッタが笑っていた。
栗色の巻き毛を揺らして、蜂蜜色の瞳をきらきらさせて。薄いピンクのドレスが、まるで春の花のように、彼女を可愛らしく包んでいる。
「あ、エリアーナ様もいたんですか! よかった、丁度二人に会いたかったんです!」
にこりと笑う。
作り物ではない笑顔に見える。そこが、ソフィアの恐ろしいところだとエリアーナは思う。
「ソフィア」
レオナルドの声は、少し低くなった。
「今日は——」
「スコーン、私の分もある? 昨日から食べたくて食べたくて! レオのとこのスコーン、王都で一番美味しいんだもん」
ソフィアがテーブルへと近寄り——当然のように、レオナルドの隣の椅子に座った。
エリアーナのいる向かいではなく。
エリアーナの斜め向かいでもなく。
レオナルドの、真隣に。
「ね、レオ。今日ここに来たのはね、こないだの話の続きがしたくて。ほら、子どもの頃に迷い込んだ森の話、途中で終わっちゃったじゃない?」
「……あの話か」
「そう! あの後どうなったか、ずっと気になってたの。教えてよ」
ソフィアがレオナルドの腕にそっと手を置く。上目遣いで、甘えるように。
レオナルドが僅かに眉を動かした。追い払いもしないし、引き離しもしない。
「……大したことではない。帰り道を見つけただけだ」
「えーっ! それだけ? もっと詳しく教えてよ。ねえってば」
「うるさい」
「もう、レオってば!」
二人の世界が、始まった。
エリアーナは、カップを傾けた。
紅茶の温度が、さっきより少し下がっていた。
(また……いつもそう)
心の中で、静かに呟く。
責める気持ちは、もうほとんどない。悲しむ気持ちも、慣れてしまって形を失いつつある。ただ胸の奥に、じわりと滲むような痛みだけが——消えずに、残っている。
テーブルの上。エリアーナとレオナルドの間。
さっきまで、言葉が届いていた場所。
そこに今は、ソフィアがいる。
(当たり前のことだわ)
エリアーナは自分に言い聞かせた。
(二人は幼馴染で、長い時間を共に過ごしてきた。私には、その時間がない。それだけのことよ)
わかっている。
全部、わかっている。
わかっているのに——どうして、スコーンの味が、さっきより少し薄く感じるのだろう。
「エリアーナ様、スコーンお口に合いますか?」
不意に、ソフィアが声をかけてきた。
エリアーナは表情を整えて、微笑んだ。
「ええ、とても美味しいわ。いつも楽しみにしているの」
「そうなんですね! 私もなんですよ~。……あ、でも」
ソフィアが、少し首を傾けた。
蜂蜜色の瞳が、細くなった。
「エリアーナ様って、甘いもの好きなんですか? なんとなく、お好きじゃないのかなって思っていました」
「どうして?」
「だって、夜会とかでは全然召し上がっていないから……あ、でも気にしていらっしゃるのかしら、体型とか。ごめんなさい、変なこと言いましたね」
花のような笑顔で、言った。
エリアーナの手の中のカップが、微かに揺れた。
(上手いわね)
内心で、静かに思う。
責める言葉は一つもない。むしろ謝っている。それなのにこの会話の後、レオナルドの頭の中に「エリアーナは体型を気にしている」という印象が残ってしまう。
さりげなく、自然に、笑顔で——ソフィアはいつもそうやって、エリアーナを小さく見せる。
「夜会では緊張してしまうから、あまり食べられないの」
エリアーナは、穏やかに答えた。
「こうして落ち着いた場所では、美味しいものは美味しくいただきたいわ」
「あら、そうなんですか! じゃあ今日はたくさん食べてください」
ソフィアが、にっこりと笑った。
エリアーナも、にっこりと笑い返した。
水面下で、火花が散る。
レオナルドは書類に目を戻していて、気づいていない。
それから一時間、二人の世界は続いた。
幼い頃の話。共通の知人の話。ソフィアが「レオだけが知っている私の秘密」を楽しそうに話して、レオナルドが「勝手に話すな」と短く言って、ソフィアが「えー、だって可愛い話じゃない」と膨れる。
エリアーナは相槌を打ちながら、紅茶を飲みながら、スコーンを食べながら——ずっと笑顔でいた。
完璧な笑顔で。
どこにも綻びのない、令嬢の仮面で。
お茶の時間が終わり、エリアーナが席を立った時、レオナルドが顔を上げた。
「エリアーナ」
名前を呼ばれた。
様付けではなく、名前だけで。
エリアーナの胸が、小さく跳ねた。
「……はい」
「今日のドレス」
レオナルドの視線が、エリアーナの青いドレスに落ちた。
一秒の沈黙。
「……よく似合っている」
それだけ言って、また書類に目を落とした。
エリアーナは、部屋を出た。
廊下に出た途端、足が止まった。
胸の奥で、何かが弾けたような気がした。痛くも苦しくもない——でも、じんわりと目の奥が熱くなるような、そんな感覚。
クロエが言っていた。
「似合いますよ、きっと」
エリアーナは廊下の壁に、そっと背中を預けた。
天井を仰ぐ。
(レオナルド様……)
好きだ、と思った。
今日も、やっぱり——好きだと思った。
二人の世界を見せられても。ソフィアに小さな棘を刺されても。それでも最後に名前を呼んで、青いドレスを褒めてくれたその一言が——全部を塗り替えてしまうくらい、嬉しかった。
(こんなんだから、諦められないのよ)
エリアーナは苦笑した。
泣きそうな顔で、でも本物の笑みで。
廊下の窓から差し込む午後の光が、青いドレスを静かに照らしていた。
その頃、部屋の中では。
ソフィアが、エリアーナが出て行った扉をじっと見ていた。
「……レオ」
「なんだ」
「エリアーナ様のこと、名前で呼んだんですね」
蜂蜜色の瞳が、少しだけ揺れた。
レオナルドは書類から目を上げなかった。
「婚約者だからな」
「……そうですね」
ソフィアは、微笑んだ。
誰にも見せない顔で、静かに——微笑んだ。
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