あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様

柴田はつみ

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第四章「あざとさの正体」

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 花の香りが、部屋に溢れていた。

 ウィンター公爵家の小さな応接室は、今日に限って普段より華やいでいた。テーブルの上には色とりどりの焼き菓子が並び、淡いクリーム色のクロスが陽の光を柔らかく受け止めている。

窓辺の一輪挿しに白い薔薇が揺れて、午後の風がレースのカーテンを静かにはらませていた。

 婦人方のお茶会。
 男性のいない、女性だけの集まり。

 エリアーナは上座に腰を下ろし、集まった令嬢たちに微笑みを向けた。侯爵令嬢、子爵令嬢、そして——

 「エリアーナ様、今日はお招きいただいてありがとうございます」

 向かいの席で、ソフィアが花のように微笑んだ。
 栗色の巻き毛が、揺れた。

 エリアーナがソフィアを自邸のお茶会に招いたのは、自分の意志ではなかった。
 母から「ロゼッタ家との関係も大切に」と言われ、仕方なく声をかけたのだ。ソフィアは即座に承諾した。断られることを、最初から期待していなかったように。

 他の令嬢たちは、ソフィアのことが好きだった。
 無理もないとエリアーナは思う。話は上手く、場の空気を読む能力に長けていて、誰に対しても愛想よく接する。

天真爛漫で、可愛らしくて、一緒にいると楽しい。男性の前だけでなく、女性に対しても——少なくとも表向きは——ソフィアはいつも完璧な令嬢だった。

 (でも)
 エリアーナはティーカップを傾けながら、静かに思う。
 (女性の前では、少しだけ、牙を出す)

 お茶会は和やかに進んだ。
 最近の夜会の話、新しいドレスの話、どこそこの侯爵家の子息が素敵だという話。令嬢たちの会話は花が咲くように広がり、笑い声が部屋に弾んだ。

 ソフィアはその中心にいた。自然に、当たり前のように、場の主役になっていた。

 「ねえ聞いてください、この間の夜会で転びそうになったんですよ、私ったら。ドレスの裾を踏んじゃって」
 「まあ! 大丈夫でしたか?」
 「すごく恥ずかしくて。でもそしたら隣にいたクロフォード様がさっと手を貸してくれて……もう、顔から火が出るかと思いました」

 令嬢たちが一斉にきゃあと声を上げた。

 「それ、絶対に好意があるってことですよね?」
 「どうかな~。でも、ちょっとドキドキしちゃいました。あ、でも私にはレオがいるから!」

 ソフィアが笑いながら手を振る。
 令嬢たちがまたきゃあと沸いた。

 (レオがいるから、か)
 エリアーナは微笑んだまま、指先にほんの少し力を込めた。

 しばらくして、令嬢たちが庭を見たいと言い出し、ぞろぞろと外へ出ていった。
 エリアーナは給仕の確認があると言って、一人残った。

 部屋にいたのは、エリアーナと——

 「エリアーナ様も、庭に行かないんですか?」

 ソフィアも、残っていた。
 窓辺に立って、庭を眺めながら、こちらに振り返らないまま言った。外では令嬢たちの笑い声が遠く響いている。

 室内には、二人だけになった。

 「少し疲れてしまって」
 エリアーナは答えた。

 「そうですか」

 ソフィアが、ゆっくりと振り返った。
 窓を背にして立つと、逆光で表情が少し見えにくくなる。でもエリアーナには、その蜂蜜色の瞳が細くなったのが、わかった。

 「……ねえ、エリアーナ様」

 声のトーンが、変わった。
 ほんの少しだけ。でも確かに。
 さっきまでの、場を盛り上げる弾んだ声とは——違う声に。

 「エリアーナ様って、レオのことが好きなんですか?」

 花が咲くような笑顔のまま、言った。
 エリアーナの胸の中で、何かが静止した。

 表情は、崩さなかった。三年間で培った仮面は、そう簡単には外れない。

 「……どういう意味かしら」
 穏やかに、聞き返した。

 「そのままの意味ですよ。婚約者として好き、ということじゃなくて……本当に、恋愛感情として、好きなのかなって」

 ソフィアが、首を傾けた。
 憐れむような、探るような——それでいて、どこか楽しんでいるような。

 「政略婚約なのに、そんな気持ちを持っていたら……辛いですよね、エリアーナ様」
 「可哀想だと思いませんか、私にレオがいたら」

 そう言って、ソフィアは微笑んだ。
 甘く、柔らかく——毒を包んだ砂糖菓子のような笑顔で。

 エリアーナは、一瞬だけ息を止めた。

 (上手い)

 心の中で、静かに思う。
 責めていない。問い詰めてもいない。ただ「可哀想」と言っただけ。心配しているような声音で、心配などしていない言葉を、笑顔で包んで差し出してくる。

 これが、ソフィアだ。
 男性の前では儚げで、か弱くて、守ってあげたくなるような姿を見せる。でも女性の前では——こうして、静かに、確実に、棘を刺してくる。
 傷をつけながら、傷をつけていないような顔をして。

 エリアーナは、ゆっくりとカップをソーサーに置いた。
 かちり、と小さな音がした。

 それから——微笑んだ。

 「ソフィア様」
 「はい?」
 「あなたって、とても賢い方ね」

 ソフィアの目が、微かに揺れた。

 「……どういう意味ですか?」
 「そのままの意味よ」

 エリアーナは、穏やかに、しかし真っ直ぐに言った。

 「場を読む力も、言葉の選び方も——本当に、上手だと思っているわ」

 褒めている。
 でも、わかっているとも言っている。

 ソフィアが、一瞬だけ、息を詰めた。
 それからまた——花のように笑った。

 「……ありがとうございます」
 「どういたしまして」

 二人は微笑み合った。
 言葉の裏に言葉があって、笑顔の裏に笑顔がある。表面だけを切り取れば、仲の良い令嬢同士の穏やかなやりとりにしか見えないだろう。
 水面下では、確かに火花が散っているのに。

 「でも——」

 ソフィアが続けた。
 窓辺から離れて、ゆっくりとエリアーナに近づいてくる。薄いピンクのドレスが、午後の光を受けて柔らかく輝く。
 テーブルを挟んで、向かいに立った。

 「エリアーナ様が何を考えているかなんて、レオには伝わりませんよ」

 声が、低くなった。

 「あの人、鈍いから。ずっと側にいる私でも、まだわからないことがたくさんある。……エリアーナ様みたいに、完璧な仮面を被ったままでいたら」

 蜂蜜色の瞳が、エリアーナを見下ろした。

 「一生、気づかれませんよ」

 エリアーナは、静かにソフィアを見上げた。
 何も言わなかった。
 言い返せなかったわけではない。ただ——その言葉の中に、一粒だけ、本当のことが混じっていたから。

 (そうね)
 心の中で、静かに認めた。
 (仮面を被ったままでは、伝わらない)

 わかっている。
 わかっていて、それでも外せないのだ。仮面を。

 だって、仮面の下を見せて——それで、彼が何も感じなかったら。
 そっぽを向かれたら。
 ソフィアの方を見たら。
 そんなことが怖くて、怖くて——

 「ソフィア様」

 扉の向こうから、声がした。
 二人が同時に振り返る。

 扉の隙間から、セバスチャンが顔を覗かせていた。エリアーナの兄。淡い金色の髪と深い青の瞳が、妹とよく似ている。いつもは穏やかな表情の彼が、今日はどこか硬い顔をしていた。

 「失礼。エリアーナ、少し話があるんだが……」

 言いながら、セバスチャンの視線がソフィアの上で止まった。
 ほんの一瞬。
 でもエリアーナには、その一瞬の中に何かがあるのがわかった。兄の目が、珍しく冷たかったから。

 「セバスチャン兄様」
 「……ソフィア嬢も、庭に行かれてはどうですか。皆さんお待ちでしょう」

 穏やかな声だった。
 でも有無を言わせない、静かな圧があった。

 ソフィアが、にっこりと微笑んだ。

 「そうですね! ではエリアーナ様、また後で」

 こちらに向き直り、花のように笑う。
 さっきの会話など、なかったかのような顔で。

 「ええ、またね」
 エリアーナも、笑顔で答えた。

 ソフィアが出て行って、扉が閉まった。
 セバスチャンが部屋に入ってきた。

 エリアーナの向かいに腰を下ろし、腕を組んで、深い息をついた。

 「……何を話していたんだ、二人で」
 「お茶の話よ」
「嘘をつくな、エリアーナ」

 兄の青い瞳が、真剣だった。
 エリアーナは少しだけ視線を落として、また上げた。

 「大したことじゃないわ。いつものことだもの」
 「いつものことだから、問題なんだ」

 セバスチャンが、静かに言った。

 「あの女には気をつけろ。……俺は、あいつを信用していない」
 「兄様」
 「笑顔で人を傷つけるやつが、一番たちが悪い」

 珍しく、硬い声だった。
 普段の穏やかな兄とは、少し違う顔をしていた。まるで——自分自身の経験から言っているような、そんな重さがあった。

 エリアーナは、少しの間、兄を見つめた。

 「……兄様は、ソフィア様のことを、前から知っていたの?」

 セバスチャンが、答えるまでに少し間があった。

 「……まあな」

 それだけ言って、視線を逸らした。

 エリアーナは、それ以上は聞かなかった。
 聞けなかったのかもしれない。兄の横顔に、何か触れてはいけないものが、かすかに見えた気がしたから。

 「エリアーナ」

 セバスチャンが、また妹を見た。
 今度は、優しい目で。

 「お前は、自分が思うよりずっと——」

 言いかけて、止めた。

 「……なんでもない。ただ、無理するな」
 「……うん」
 「笑顔が苦しくなったら、俺に言えよ」

 エリアーナは、兄の言葉を胸の中に受け取った。
 こぼれそうになるものを、ぐっと奥に押しこんで。

 「ありがとう、兄様」

 微笑んだ。
 今度は——仮面ではない、本物の笑顔で。

 窓の外では、令嬢たちの笑い声が続いていた。
 薔薇の香りが、風に乗って流れてくる。

 エリアーナは窓の方を見た。
 白い薔薇が、午後の光の中で、静かに揺れていた。

 (仮面を、外さなければ)

 いつかそう思えた時——
 (その時は、ちゃんと自分の言葉で、伝えよう)

 まだ遠い話かもしれない。
 でも今日は、昨日より少しだけ——その「いつか」が、近くなった気がした。
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