あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様

柴田はつみ

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第五章「公爵の本心は謎」

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馬蹄の音が、石畳に響いていた。

 夕暮れ時の王都は、橙色に染まっていた。商人たちが店じまいを始め、街灯に火が入り、行き交う人々の影が長く伸びる。


石造りの建物が夕陽を受けてあたたかな色に輝き、遠くの教会の鐘が、低く、ゆっくりと六回、鳴った。
 エリアーナは馬車の窓から外を眺めながら、膝の上で両手を静かに重ねていた。

 向かいに、レオナルドがいた。
 二人きりで、馬車に乗っている。

 王家主催の展示会の帰り道。本来ならソフィアも一緒になるはずだったのだが、彼女は途中で体調が優れないと言って先に帰った——それが本当のことかどうか、エリアーナにはわからなかったけれど。

 いずれにせよ、二人きりになった。
 狭い馬車の中で、向かい合って。

 レオナルドは、窓の外を見ていた。
 夕陽の中で、琥珀色の瞳が静かに光っている。長い指が膝の上で組まれ、背筋は微塵も崩れていない。どこにいても、何をしていても、この人はいつだって絵になる。

 (見ていたい)

 そう思ってしまってから、エリアーナは慌てて視線を窓の外へ逃がした。
 街並みが流れていく。
 沈黙が続く。
 馬車の揺れだけが、規則正しく二人を揺らしていた。

 「……今日の展示会は、どうだった」

 先に口を開いたのは、レオナルドだった。
 エリアーナは少し驚いて、向き直った。
 彼はまだ窓の外を見ていた。こちらを向かないまま、問いかけてくる。

 「とても素晴らしかったです。特に第三展示室の絵画が……あの青い湖を描いたもの、ご覧になりましたか?」

 「見た」
 「綺麗でしたよね。見ていたら、子どもの頃に家族で行った湖を思い出してしまって」
 「……どこの湖だ」
 「北部のルシエ湖です。ご存知ですか?」
 「名前は知っている」

 短い返答。でも聞いている。
 エリアーナは、それだけでほんの少し嬉しくなってしまう自分を、心の中でそっとたしなめた。

 (些細なことで喜ぶのはやめなさい)
 (でも——)
 (でも嬉しいものは、嬉しいのよ)

 馬車が大通りに差し掛かり、少し速度が上がった。
 夕陽が傾いて、橙色が深みを増していく。

 レオナルドが、ようやくエリアーナの方へ視線を向けた。
 真っ直ぐな、琥珀色の瞳。
 エリアーナの胸が、さりげなく跳ねた。

 「エリアーナ」
 「……はい」
 「一つ、聞いていいか」

 改まった声だった。
 いつもの素っ気なさの中に、わずかな——何か、逡巡のようなものが混じっているような気がして。エリアーナは背筋を伸ばした。

 「もちろんです」

 レオナルドが、少しの間、黙った。
 窓の外で、夕陽がまた少し沈んだ。

 「……この婚約を、どう思っている」

 静かな声だった。
 責めているわけでも、試しているわけでも——ない。ただ、本当に知りたいと思っているような、そういう真剣さが、声の奥に滲んでいた。

 エリアーナは、息を止めた。

 (どう思っている、か)

 心の中で、繰り返す。
 どう思っている。この婚約を。政略で結ばれた、この関係を。

 答えなど、決まっている。三年前から、ずっと決まっている。
 あなたのことが好きです。この婚約が政略だとしても、そんなことはどうでもいいくらい、ずっと好きでした——

 (言えない)

 喉の奥で、言葉が固まった。
 言えない。今は、まだ。

 だって彼の表情は変わらないままで、琥珀色の瞳は静かで、この問いかけがどういう意味を持つのかが、エリアーナにはわからなかったから。
 気持ちを伝えて——そっぽを向かれたら。
 彼の顔が、ソフィアの方を向いたら。
 今持っているものさえ、失ってしまうような気がして。

 沈黙が、長くなった。
 レオナルドが、じっとエリアーナを見ていた。
 答えを待っている。急かしてはいない。ただ静かに、真剣に——待っていた。

 エリアーナは、唇を少しだけ動かした。

 「……わたしは」

 馬車が、石畳の継ぎ目を越えた。
 がたり、と揺れた。
 その拍子に、窓の外で夕陽が木々の向こうに隠れた。橙色が、薄紫に変わり始めた。

 「……大切に、したいと思っています」

 結局、そう言った。
 本当のことを言えなかった。
 でも嘘でもなかった。

 この婚約を。この関係を。あなたのことを——大切にしたいと、思っている。それは本当のことだから。

 レオナルドが、少しだけ目を細めた。
 「……そうか」

 何を考えているのか、わからなかった。
 嬉しいのか、がっかりしたのか、それとも何も感じていないのか——琥珀色の瞳は静かなままで、表情は動かなくて、エリアーナにはまるで読めなかった。

 (ごめんなさい)

 心の中で、謝った。
 誰に向かってかは、自分でもわからなかった。

 それからまた、沈黙が続いた。
 今度は、少し重い沈黙だった。

 エリアーナは窓の外を見た。夕暮れが、夜に向かって深くなっていく。街灯の光が、一つ、また一つと増えていく。

 (正直に言えばよかった)
 そう思う気持ちと。
 (言えるわけがなかった)
 そう思う気持ちが、胸の中で静かに揺れていた。

 ウィンター公爵家の門が、馬車の窓に見えてきた。
 もうすぐ着く。
 この時間が終わる。

 エリアーナは、小さく息を吸った。

 「今日は、ありがとうございました。展示会、とても楽しかったです」

 精一杯の、笑顔で言った。
 レオナルドが、エリアーナを見た。

 一秒。
 二秒。

 馬車が、止まった。

 御者が扉を開けた。
 エリアーナが立ち上がろうとした、その瞬間。

 「エリアーナ」

 名前を、呼ばれた。
 「……はい」

「では、また」
レオナルドが言った。


そして、レオナルドがエリアーナを見ていた。
 夕闇の中で、馬車に灯った小さなランプの光が、彼の横顔を照らしていた。
 琥珀色の瞳が、静かに——エリアーナだけを、見ていた。

 屋敷の前に立って、馬車が走り去っていくのを見送った。
 石畳に馬蹄の音が遠ざかって、やがて消えた。
 夜の帳が、静かに降りてくる。

 エリアーナは、その場に立ったままだった。
 動けなかった。

 胸の中で、何かが溢れそうになっていた。
 涙ではない。かといって笑いたいわけでもない。ただ、胸がいっぱいで——言葉にならない何かが、喉元まで込み上げてきていた。

 「お嬢様! お帰りなさいませ。お寒くなかったですか?」

 屋敷の扉が開き、クロエが飛び出してきた。
 黒髪のおさげを揺らして、心配そうに眉を寄せている。

 「……ええ、大丈夫よ」

 エリアーナは微笑んだ。

 「クロエ、今夜のお夕食、少し後にしてもらえる?」
 「承知しました。……お嬢様、お顔が赤いですよ?」
 「……夕風が冷たかっただけ」
 「本当ですか?」

 クロエが、じぃっと見てくる。
 エリアーナは視線を逸らした。

 「本当よ。早く中に入りましょう」
 「……なんか絶対そうじゃないと思いますけど」
 「クロエ」
 「はい」
 「余計なことは言わなくていいの」
 「……はぁい」

 自室に戻って、扉を閉めた。
 一人になった。

 鏡の前に立つ。

 鏡の中の自分の顔が——頬が、かすかに、赤かった。
 夕風のせいではない。自分でわかっている。

 唇の端が、ゆっくりと上がった。
 鏡の中の自分が、笑っていた。

 夜会の時の、完璧な仮面の笑顔ではなく。
 誰かに見せるための、作り物の微笑みでもなく。

 誰にも見せたことのない——隠しようのない、本物の笑顔が、そこにあった。

 その夜、エリアーナはまた眠れなかった。
 でも昨夜とは、少し違う理由で。

 白い天蓋を見上げながら、琥珀色の瞳を思い浮かべた。
 夕闇の中で、ランプの光に照らされた横顔を。

 (ねえ、レオナルド様)
 夜の闇の中で、エリアーナは静かに思った。
 (あなたは本当に、何を考えているの?)

 政略婚約だと、わかっている。
 感情のない人だと、思っていた。
 なのに——どうして、そんな目で見るの。

 窓の外で、星が瞬いていた。
 エリアーナは目を閉じた。

 胸の奥に、小さな炎が灯ったまま——その夜は、なかなか消えなかった。
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