あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様

柴田はつみ

文字の大きさ
6 / 8

第六章「親友マリアンヌの喝」

しおりを挟む
 朝の光が、カフェの窓ガラスを透けて差し込んでいた。

 王都の目抜き通りに面した小さなカフェは、貴族の令嬢たちが密かに好む隠れ家のような場所だった。天井が低く、丸テーブルが窓際に並び、焼きたてのタルトの甘い香りが店内に満ちている。給仕の少女たちが慣れた手つきでカップを運び、窓の外では朝の人通りが賑やかに流れていく。

 エリアーナは、向かいの席を見た。
 マリアンヌ・ホワイトが、頬杖をついてエリアーナを見ていた。

 赤みがかったブラウンのショートボブが、朝の光を受けて艶やかに輝いている。明るいグリーンの瞳が、まっすぐに——いや、どこか探るように——エリアーナを見つめていた。

 「で?」

 開口一番、マリアンヌが言った。
 「昨日、何かあったでしょ」

 エリアーナは、カップを傾けかけた手を止めた。

 「……おはよう、マリアンヌ」
 「おはよう。で、何があったの」
 「何もなかったわよ」
 「嘘」

 間髪入れず、言い切られた。

 「今日のエリィ、歩き方が違う」
 「……歩き方?」
 「なんていうか——ふわふわしてる」

 マリアンヌが、ずいっと身を乗り出してきた。
 グリーンの瞳が、好奇心でキラキラしている。

 「ねえ、公爵様と何かあった?」

 エリアーナは、カップをそっとソーサーに置いた。
 窓の外を見た。朝の街並みが流れている。馬車が通り、花売りの少女が声を上げ、パン屋の主人が店先に看板を出している。

 普通の朝だ。
 でも昨夜から、胸の中に灯ったあの炎が——まだ消えていなかった。

 「……少し、だけ」

 小さく、答えた。

 マリアンヌが、弾かれたように身を起こした。
 「少しって何!? どのくらいの少し!?」
 「声が大きいわよ」
 「ごめん! でも——ちょっと待って、落ち着く」

 マリアンヌが深呼吸をした。一回。二回。
 それから、改めてエリアーナを見た。

 「話して。全部」

 エリアーナは、話した。
 昨日の展示会のこと。二人きりになった馬車の中のこと。レオナルドに「婚約をどう思っているか」と聞かれたこと。本当のことを言えなかったこと。そして——馬車を降りる間際に、ドレスが似合っていると言われたこと。

 話しながら、また頬が熱くなるのを感じた。
 マリアンヌは、最初から最後まで黙って聞いていた。
 途中でタルトを一口食べて、紅茶を飲んで、また聞いた。
 エリアーナが話し終えると、少しの間、沈黙があった。

 「……エリィ」

 マリアンヌが、静かに言った。
 「うん」
 「一個だけ聞いていい?」
 「何?」
 「なんで言わなかったの」

 エリアーナは、視線を落とした。

 「……怖かったから」
 「何が?」
 「言って、拒絶されることが」
 「……」
 「ソフィア様の方を向かれたら、と思ったら——言葉が出なくて」

 テーブルの上で、指先が微かに震えた。

 「政略婚約だって、わかっているの。彼が私に恋愛感情を持っていないことも、たぶん、わかっている。だから——言っても意味がないかもしれないって」

 「——エリアーナ・ウィンター」

 マリアンヌの声が、変わった。
 エリアーナは顔を上げた。

 親友の顔が、そこにあった。
 いつもの軽やかさはなかった。グリーンの瞳が、真剣で——その奥が、少し、揺れていた。

 「三年間よ」

 静かな、でも確かな声で、マリアンヌが言った。

 「三年間、あなた、ずっと一人で抱えてきたの?」
 「……」
 「誰にも言わないで。泣かないで。笑顔でいて。ずっと、ずっと一人で——」

 マリアンヌが、唇を噛んだ。

 「なんで私に言ってくれなかったのよ」

 声が、わずかに震えていた。
 エリアーナは、目を瞬かせた。

 「……マリアンヌ?」
 「怒ってるの! 私が!」

 マリアンヌが、ぱんとテーブルに手をついた。
 周囲の客が振り返る。マリアンヌは気づかない。

 「エリィが三年間苦しんでたのに、親友の私が何も知らなかったなんて——そっちの方がよっぽど悲しいわよ!」

 「……ごめんなさい」
 「謝らなくていい! ただ——」

 マリアンヌが、少しだけ声を落とした。

 「次からは、言って。絶対に、言って」

 グリーンの瞳が、潤んでいた。
 エリアーナは、喉の奥が熱くなるのを感じた。

 「……うん」

 小さく、答えた。
 「うん、言う。ごめんね、マリアンヌ」

 「……もう」

 マリアンヌが、ふい、と顔を逸らした。
 指先で目元をさっと拭う。そしてすぐに、また向き直った。今度は、いつもの顔で。

 「よし! じゃあ作戦会議ね!」

 切り替えが、あまりにも早かった。

 「作戦会議?」
 「そう。どうやってエリィが公爵様に気持ちを伝えるか——の!」

 マリアンヌが、ぐっと拳を握った。

 「待って、そんな話になるの?」
 「なるに決まってるでしょ! 三年分の片思いよ? このまま指くわえて見てろっていうの?」
 「で、でも……」

 「エリィ」

 マリアンヌが、真剣な顔で言った。

 「あなたは婚約者よ。もうすでに一番近くにいる。あとは——あなたの気持ちを届けるだけじゃない」
 「……簡単に言うわね」
 「簡単じゃないのはわかってる。でもエリィ、聞いて」

 マリアンヌが、テーブルの上でエリアーナの手に、自分の手を重ねた。
 温かい手だった。

 「昨日、ドレスを褒めてくれたんでしょ。婚約の話を、二人きりで、ちゃんと聞こうとしてくれたんでしょ」
 「……そう、だけど」
 「それって——何もない人間がすることじゃないと思うけどな、私は」

 エリアーナは、息を止めた。

 「……どういう意味?」
 「わからない。でも——ゼロじゃないと思う」

 マリアンヌが、まっすぐに言った。

 「だから、諦めないで」

 窓の外で、花売りの少女が大きな声で呼び込みをしていた。
 白い花束が、朝の光の中で揺れている。

 エリアーナは、マリアンヌの手を見た。
 自分の手の上に重なった、温かくて心強い手を。

 (諦めないで)

 三年間で何度、自分に言い聞かせただろう。
 でも今日のその言葉は——自分自身に言う時とは、少し違う重さで、胸に届いた。

 「……マリアンヌ」
 「何?」
 「ありがとう」

 マリアンヌが、ぱっと顔を輝かせた。

 「どういたしまして! じゃあ早速——」
 「早速って、何を」
 「食事会よ!」

 マリアンヌが、パンっと手を叩いた。

 「四人でご飯食べるの。エリィと公爵様と——あと、アラン・クロフォードも呼んで」
 「クロフォード様を? なぜ?」
 「彼、公爵様の親友でしょ。公爵様をほぐすのに、あの人ほど適任はいないわ」

 マリアンヌが、自信満々に言った。

 「あとちょっと……私も、会いたいし」

 最後の一言が、少しだけ小さかった。
 エリアーナは気づかなかったふりをした。

 (マリアンヌも、なかなかね)

 心の中で、そっと思いながら。

 「でも、うまくいくかしら……」
 「うまくいかせるの! 細かいことは任せて」
 「……頼もしいわね」
 「でしょ! 私ね、エリィが幸せになるまで絶対に諦めないから」

 マリアンヌが、ニカっと笑った。
 曇りのない、真っ直ぐな笑顔。

 エリアーナは、その笑顔を見ていたら——胸の奥が、じんわりと温かくなってきた。
 三年間、一人で抱えてきた。
 でも一人じゃなかった。この子がいた。ずっとそこにいた。

 「……マリアンヌって」
 「うん?」
 「本当に、いい子ね」

 マリアンヌが、ぱちりと瞬きをした。
 それからみるみる顔が赤くなった。

 「なっ——何よ突然! 殺し文句じゃない!」
 「本当のことを言っただけよ」
 「もうっ! そういうことはいきなり言わないで! 心臓に悪いわ!」
 「ふふ」

 エリアーナは、笑った。
 作り物ではない、本物の笑いが——自然に、零れ出た。

 「……あ」

 マリアンヌが、笑顔のまま、少し目を細めた。

 「エリィ、今の笑い方」
 「え?」
 「すごく可愛い」

 今度は、エリアーナの頬が赤くなる番だった。

 「……もう、マリアンヌ」
 「本当のことを言っただけよ」

 さっき自分が言った言葉を、そのまま返された。
 エリアーナは、また笑った。
 マリアンヌも笑った。
 二人の笑い声が、小さなカフェに溶けていった。

 食事会は、三日後に設定された。
 マリアンヌが手配するとあって、あっという間に話が決まった——ただし。

 その夜、エリアーナは自室で机に向かっていた。
 窓の外に星が瞬いている。

 手元には、食事会の案内状の下書き。
 レオナルドへ宛てた、招待の言葉。

 ペンを持つ指が、なぜか上手く動かない。
 書き出しの「レオナルド様」という五文字を、もう三回書き直していた。

 (情けない)

 自分でも思う。
 (たった五文字なのに)

 クロエが部屋を覗いてきた。

 「お嬢様、まだ起きていらっしゃるんですか?」
 「……案内状を書いているの」
「あら、誰への?」
 「……ヴァルフォード公爵家へ」

 クロエが、しばらく沈黙した。
 それから、そっとエリアーナの横に来た。
 机の上の、五文字だけ書かれた紙を見た。

 「……お嬢様」
 「何?」
 「もしよろしければ」

 クロエが、小さな声で言った。

 「私が代わりに書きましょうか?」

 エリアーナは、少し考えて——

 「……お願いしようかしら」
 「はい! 任せてください!」

 クロエが、ぱっと顔を輝かせた。

 エリアーナは苦笑しながら、ペンを渡した。

 (本当に、情けない)

 でも——胸の中は、今夜もあたたかかった。

 三日後の食事会が、今から少しだけ——楽しみだと思っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

【完結】精霊に選ばれなかった私は…

まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。 しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。 選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。 選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。 貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…? ☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。

今更……助けてくれと……言われても……

#Daki-Makura
ファンタジー
出奔した息子から手紙が届いた…… 今更……助けてくれと……言われても……

処理中です...