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第六章「王子、来訪」
隣国フォルスタット王国からの外交使節団が王都に入ったのは、十一月の半ばのことだった。
通商交渉のための来訪で、滞在は三週間の予定。エドワードが面会の席で話していた、あの使節団だ。
王都は少しだけ、浮き足立った。
フォルスタットは北方の大国で、王国とは長年友好関係を保っている。しかし直接の交流は多くなく、異国の言葉や文化を持つ使節団の来訪は、社交界にとって格好の話題だった。
「フォルスタットの第二王子が直々においでになるそうよ」
「まあ、王子様が」
「アレクシス殿下とおっしゃるのですって。まだお若いのに優秀な方で、外交手腕も素晴らしいとか」
「どんな方かしら」
令嬢たちが噂する声を、リーゼロッテは少し離れたところで聞いていた。
(アレクシス殿下)
心の中で、その名前を一度だけ繰り返した。
歓迎晩餐会の知らせが届いたのは、使節団到着の翌日だった。
国王主催の正式な晩餐会。王族、公爵以上の貴族、および外交に関わる主要人物が招待される、格式の高い集まりだ。
エドワードはもちろん出席する。
リーゼロッテも、婚約者として同席する予定だった。
招待状を手に取りながら、マリアが言った。
「晩餐会でございますね、お嬢様」
「ええ」
「どのドレスになさいますか」
「そうね」
リーゼロッテは少し考えた。
いつもなら、控えめな色を選ぶ。淡いブルーグレーか、落ち着いたベージュ。公爵の婚約者として、出しゃばらず、品よく、目立たず。
でも今日は。
「深いエメラルドグリーンのものを出して」
マリアは目を丸くした。
「あの……お嬢様が一度もお召しになっていない、あのドレスですか」
「ええ」
「二年前に仕立てたのに、地味になりすぎるからとずっとしまっておいた」
「地味ではなかったわ」
リーゼロッテは静かに言った。
「ただ、あの頃の私には、似合わなかっただけ」
マリアはしばらくリーゼロッテを見てから、深く頷いた。
「……かしこまりました」
晩餐会の夜、リーゼロッテはエメラルドグリーンのドレスで現れた。
深い緑色は、彼女の黒髪と白い肌に映えた。胸元には侯爵家の紋章が入ったペンダント。髪は複雑に結い上げられ、細いリボンで留められている。
マリアが仕上げを確認しながら、小さく言った。
「……綺麗です、お嬢様」
「ありがとう」
「本当に、綺麗です」
「そんなに繰り返さなくていいわ」
「でも本当のことですので」
リーゼロッテは鏡を見た。
確かに、と思った。
二年前にこのドレスを仕立てたときは、着る勇気がなかった。目立ちすぎる。公爵の隣で浮いてしまう。そう思って、ずっとしまっておいた。
今は違う。
目立っていい。
浮いてもいい。
(これからは、私のための仮面だから)
「参りましょう」
王宮の大広間は、夜の光に満ちていた。
無数の蝋燭が灯り、正装した貴族たちが行き交う中、フォルスタットの使節団が上座に並んでいた。
リーゼロッテはエドワードと並んで入場した。
エドワードはリーゼロッテのドレスを見て、一瞬目を細めた。
「今日は随分と華やかだな」
「晩餐会ですから」
「よく似合っている」
「ありがとうございます」
それだけだった。
エドワードは前を向き、知り合いの貴族に挨拶をしながら進んでいった。
リーゼロッテも微笑みながら歩いた。
(よく似合っている、か)
二年間、一度も言われなかった言葉だった。
今日初めて言われた。
(遅い)
フォルスタットの使節団は十二名だった。
上座の中央に座った青年が、アレクシス第二王子だと、リーゼロッテにはすぐ分かった。
二十四、五歳だろうか。
栗色の髪、透き通るような灰青色の瞳。体格は良いが圧迫感はなく、周囲への目配りが細かい。話しかけられると真っ直ぐ相手を見て答える。表情は穏やかだが、目の奥に鋭さがある。
権謀術数の渦巻く王宮で育ちながら、それに染まっていない目だと、リーゼロッテは思った。
晩餐会が始まり、挨拶と乾杯が済んだ頃。
困ったことが起きた。
フォルスタットの使節団の一人、老齢の書記官が、料理の内容についてフォルスタット語で何かを聞いているのだが、対応できる者がいなかった。
通訳として同席していた外務省の担当官は、フォルスタット語に堪能ではなかった。
ざわめきが起きた。
エドワードが困り顔で周囲を見渡した。
「誰かフォルスタット語が話せる者は」
誰も手を挙げなかった。
リーゼロッテは少しの間、黙っていた。
(さて)
心の中で、静かに呼吸を整えた。
(始めましょうか)
「公爵様」
リーゼロッテは穏やかに言った。
「よろしければ、私が」
エドワードは目を丸くした。
「君が? フォルスタット語を?」
「少々、嗜んでおりますので」
リーゼロッテは立ち上がり、書記官のもとへ歩いた。
流暢なフォルスタット語で、料理の内容を説明した。食材、調理法、この地方の伝統的な作り方。書記官が更に質問をした。リーゼロッテはそれにも答えた。
書記官は目を丸くした。それから深く頷き、礼を言った。
礼もフォルスタット語だったが、リーゼロッテはフォルスタット式の会釈で返した。
大広間が、少しだけ静まった。
リーゼロッテが席に戻ると、エドワードが言った。
「君はいつからフォルスタット語を」
「独学で、少しずつ」
「どうして言わなかった」
リーゼロッテは微笑んだ。
「聞かれたことが、ございませんでしたので」
エドワードは黙った。
「フォン・アルテンベルク嬢」
食事が進んだ頃、声をかけられた。
顔を上げると、アレクシス第二王子が、テーブル越しにリーゼロッテを見ていた。
フォルスタット語だった。
「先ほどは助かった。ヴィルヘルム爺さんは食べ物に五月蠅くてな、毎食必ず何か聞く」
「お役に立てて光栄でございます、殿下」
リーゼロッテもフォルスタット語で答えた。
アレクシスは少し目を細めた。
「美しい発音だ。どこで学ばれた?」
「独学でございます。本が好きで、フォルスタットの文学を読むうちに」
「独学で、あの発音は」
アレクシスは少し考えるような顔をした。
「フォルスタットの文学では、どなたの作品を」
「ハルテン公の詩集が特に好きでございます。それからエーデル女史の小説も」
アレクシスは少し笑った。
「ハルテン公とエーデル女史は、フォルスタットでも読書家の間でしか知られていない。よほど深く読んでいらっしゃる」
「お恥ずかしい限りです」
「恥ずかしいことなど何もない」
アレクシスはまっすぐリーゼロッテを見た。
「それだけの教養を持つ方が、独学で身につけられたとは」
一拍置いて、続けた。
「公爵殿は、あなたの語学をご存知か?」
リーゼロッテはエドワードの方向を、ちらと見た。
エドワードは斜め前の席で、別の貴族と話している。
「さあ」
リーゼロッテは静かに答えた。
「聞かれたことがございませんでしたので」
アレクシスは少し黙った。
リーゼロッテの答えの意味を、測るように。
「……そうか」
それだけ言って、ワインを一口飲んだ。
晩餐会が終わり、歓談の時間になった。
令嬢たちがアレクシスの周りに集まり、通訳を介して話しかけている。アレクシスは丁寧に対応しながら、それでも時折リーゼロッテの方に目をやった。
エドワードはその視線に気づいて、眉をわずかに動かした。
「リーゼ、王子が見ている」
「そうですか」
「気にならないか」
「何を気にするのですか」
「いや、その……」
エドワードは珍しく言葉を探した。
リーゼロッテは微笑んだ。
「公爵様、ご心配には及びません」
穏やかに、しかしはっきりと言った。
「私はどこにも参りませんよ」
(今はまだ)
心の中だけで、付け加えた。
帰りの馬車の中で、マリアがそわそわしながら言った。
「お嬢様、王子殿下がずっとお嬢様を見ておられましたね」
「そうだったかしら」
「そうでしたとも。目が合うたびに、にっこりされていましたもの」
「社交的な方なのでしょう」
「でも他の令嬢方への目配りとは、明らかに違いました」
リーゼロッテは窓の外を見た。
夜の王都が流れていく。
「マリア」
「はい」
「今日初めて気づいたことがあるの」
「何でございますか」
リーゼロッテは少し間を置いてから言った。
「私がフォルスタット語を話せることを、公爵様は今まで知らなかった」
「……はい」
「三ヶ国語、習得したのよ。二年かけて」
「はい、存じております」
「でも一度も、聞かれなかった」
マリアは黙った。
「今日、初めて人前で使った。そうしたら」
リーゼロッテは窓から視線を外し、手のひらを見た。
「王子殿下は、最初の一言で気づいてくださった。発音が美しいと言ってくださった。どの作家が好きかと聞いてくださった」
「……はい」
「初めて会った方が、二年間一度も気づかなかったことに、五分で気づいてくださった」
馬車が石畳を進む音が響いた。
マリアは何も言えなかった。
「別に」
リーゼロッテは静かに続けた。
「王子殿下が特別なのではないわ」
「え?」
「気づく人間は、気づく。それだけのことよ」
少し間があった。
「気づかない人間は、何年経っても気づかない。それもまた、そういうことなのでしょう」
マリアは窓の外を向いた。
涙をこらえていた。
「……泣かないで、マリア」
「はい」
「約束でしょう」
「……はい。でもお嬢様」
「なに」
「今日のお嬢様は」
マリアは声を整えてから、言った。
「今日のお嬢様は、本当に輝いていらっしゃいました」
リーゼロッテは少し黙った。
「そう」
「はい。エメラルドグリーンのドレスも、フォルスタット語も、王子殿下とのお話も、全部」
「……ありがとう」
「お嬢様が輝いていると、私まで嬉しくなります」
リーゼロッテは窓の外に目をやった。
夜空に、星が出ていた。
(輝いていた、か)
公爵の婚約者として座っていた二年間、そんな言葉をかけられたことは、なかった。
(なら)
静かに、思った。
(これが、私の本来の場所なのかもしれない)
帰宅して、記録帳を開いた。
今日の分を書き足した。
第二十九項。歓迎晩餐会にて、フォルスタット語通訳を担当。婚約者は本人の語学力を二年間把握していなかった。
ペンを置いた。
もう一冊、別の手帳を取り出した。
こちらは記録帳ではない。
メモ帳だ。
新しいページを開いて、書いた。
フォルスタット王国第二王子 アレクシス殿下。外交滞在期間:三週間。通商交渉の担当者として、今後も接点あり。
それだけ書いて、閉じた。
感情は書かなかった。
ただ事実だけを、書いた。
(さて)
蝋燭を吹き消した。
(これからが、少し楽しくなりそうね)
暗くなった部屋の中で、リーゼロッテは珍しく、自分から笑った。
完璧な微笑みではない。
本物の、少しだけ弾んだような、そういう笑顔で。
その夜、アレクシス第二王子は側近にこう言った。
「ヴィルヘルム爺さんの通訳をしてくれた令嬢を調べてくれ」
側近は頷いた。
「婚約者がいることは知っています、殿下」
アレクシスはワインを傾けながら、窓の外の夜を見た。
「知っている」
少し間があった。
「だが」
「はい」
「婚約者が、彼女の真価を知っているかどうかは」
――別の話だ。
通商交渉のための来訪で、滞在は三週間の予定。エドワードが面会の席で話していた、あの使節団だ。
王都は少しだけ、浮き足立った。
フォルスタットは北方の大国で、王国とは長年友好関係を保っている。しかし直接の交流は多くなく、異国の言葉や文化を持つ使節団の来訪は、社交界にとって格好の話題だった。
「フォルスタットの第二王子が直々においでになるそうよ」
「まあ、王子様が」
「アレクシス殿下とおっしゃるのですって。まだお若いのに優秀な方で、外交手腕も素晴らしいとか」
「どんな方かしら」
令嬢たちが噂する声を、リーゼロッテは少し離れたところで聞いていた。
(アレクシス殿下)
心の中で、その名前を一度だけ繰り返した。
歓迎晩餐会の知らせが届いたのは、使節団到着の翌日だった。
国王主催の正式な晩餐会。王族、公爵以上の貴族、および外交に関わる主要人物が招待される、格式の高い集まりだ。
エドワードはもちろん出席する。
リーゼロッテも、婚約者として同席する予定だった。
招待状を手に取りながら、マリアが言った。
「晩餐会でございますね、お嬢様」
「ええ」
「どのドレスになさいますか」
「そうね」
リーゼロッテは少し考えた。
いつもなら、控えめな色を選ぶ。淡いブルーグレーか、落ち着いたベージュ。公爵の婚約者として、出しゃばらず、品よく、目立たず。
でも今日は。
「深いエメラルドグリーンのものを出して」
マリアは目を丸くした。
「あの……お嬢様が一度もお召しになっていない、あのドレスですか」
「ええ」
「二年前に仕立てたのに、地味になりすぎるからとずっとしまっておいた」
「地味ではなかったわ」
リーゼロッテは静かに言った。
「ただ、あの頃の私には、似合わなかっただけ」
マリアはしばらくリーゼロッテを見てから、深く頷いた。
「……かしこまりました」
晩餐会の夜、リーゼロッテはエメラルドグリーンのドレスで現れた。
深い緑色は、彼女の黒髪と白い肌に映えた。胸元には侯爵家の紋章が入ったペンダント。髪は複雑に結い上げられ、細いリボンで留められている。
マリアが仕上げを確認しながら、小さく言った。
「……綺麗です、お嬢様」
「ありがとう」
「本当に、綺麗です」
「そんなに繰り返さなくていいわ」
「でも本当のことですので」
リーゼロッテは鏡を見た。
確かに、と思った。
二年前にこのドレスを仕立てたときは、着る勇気がなかった。目立ちすぎる。公爵の隣で浮いてしまう。そう思って、ずっとしまっておいた。
今は違う。
目立っていい。
浮いてもいい。
(これからは、私のための仮面だから)
「参りましょう」
王宮の大広間は、夜の光に満ちていた。
無数の蝋燭が灯り、正装した貴族たちが行き交う中、フォルスタットの使節団が上座に並んでいた。
リーゼロッテはエドワードと並んで入場した。
エドワードはリーゼロッテのドレスを見て、一瞬目を細めた。
「今日は随分と華やかだな」
「晩餐会ですから」
「よく似合っている」
「ありがとうございます」
それだけだった。
エドワードは前を向き、知り合いの貴族に挨拶をしながら進んでいった。
リーゼロッテも微笑みながら歩いた。
(よく似合っている、か)
二年間、一度も言われなかった言葉だった。
今日初めて言われた。
(遅い)
フォルスタットの使節団は十二名だった。
上座の中央に座った青年が、アレクシス第二王子だと、リーゼロッテにはすぐ分かった。
二十四、五歳だろうか。
栗色の髪、透き通るような灰青色の瞳。体格は良いが圧迫感はなく、周囲への目配りが細かい。話しかけられると真っ直ぐ相手を見て答える。表情は穏やかだが、目の奥に鋭さがある。
権謀術数の渦巻く王宮で育ちながら、それに染まっていない目だと、リーゼロッテは思った。
晩餐会が始まり、挨拶と乾杯が済んだ頃。
困ったことが起きた。
フォルスタットの使節団の一人、老齢の書記官が、料理の内容についてフォルスタット語で何かを聞いているのだが、対応できる者がいなかった。
通訳として同席していた外務省の担当官は、フォルスタット語に堪能ではなかった。
ざわめきが起きた。
エドワードが困り顔で周囲を見渡した。
「誰かフォルスタット語が話せる者は」
誰も手を挙げなかった。
リーゼロッテは少しの間、黙っていた。
(さて)
心の中で、静かに呼吸を整えた。
(始めましょうか)
「公爵様」
リーゼロッテは穏やかに言った。
「よろしければ、私が」
エドワードは目を丸くした。
「君が? フォルスタット語を?」
「少々、嗜んでおりますので」
リーゼロッテは立ち上がり、書記官のもとへ歩いた。
流暢なフォルスタット語で、料理の内容を説明した。食材、調理法、この地方の伝統的な作り方。書記官が更に質問をした。リーゼロッテはそれにも答えた。
書記官は目を丸くした。それから深く頷き、礼を言った。
礼もフォルスタット語だったが、リーゼロッテはフォルスタット式の会釈で返した。
大広間が、少しだけ静まった。
リーゼロッテが席に戻ると、エドワードが言った。
「君はいつからフォルスタット語を」
「独学で、少しずつ」
「どうして言わなかった」
リーゼロッテは微笑んだ。
「聞かれたことが、ございませんでしたので」
エドワードは黙った。
「フォン・アルテンベルク嬢」
食事が進んだ頃、声をかけられた。
顔を上げると、アレクシス第二王子が、テーブル越しにリーゼロッテを見ていた。
フォルスタット語だった。
「先ほどは助かった。ヴィルヘルム爺さんは食べ物に五月蠅くてな、毎食必ず何か聞く」
「お役に立てて光栄でございます、殿下」
リーゼロッテもフォルスタット語で答えた。
アレクシスは少し目を細めた。
「美しい発音だ。どこで学ばれた?」
「独学でございます。本が好きで、フォルスタットの文学を読むうちに」
「独学で、あの発音は」
アレクシスは少し考えるような顔をした。
「フォルスタットの文学では、どなたの作品を」
「ハルテン公の詩集が特に好きでございます。それからエーデル女史の小説も」
アレクシスは少し笑った。
「ハルテン公とエーデル女史は、フォルスタットでも読書家の間でしか知られていない。よほど深く読んでいらっしゃる」
「お恥ずかしい限りです」
「恥ずかしいことなど何もない」
アレクシスはまっすぐリーゼロッテを見た。
「それだけの教養を持つ方が、独学で身につけられたとは」
一拍置いて、続けた。
「公爵殿は、あなたの語学をご存知か?」
リーゼロッテはエドワードの方向を、ちらと見た。
エドワードは斜め前の席で、別の貴族と話している。
「さあ」
リーゼロッテは静かに答えた。
「聞かれたことがございませんでしたので」
アレクシスは少し黙った。
リーゼロッテの答えの意味を、測るように。
「……そうか」
それだけ言って、ワインを一口飲んだ。
晩餐会が終わり、歓談の時間になった。
令嬢たちがアレクシスの周りに集まり、通訳を介して話しかけている。アレクシスは丁寧に対応しながら、それでも時折リーゼロッテの方に目をやった。
エドワードはその視線に気づいて、眉をわずかに動かした。
「リーゼ、王子が見ている」
「そうですか」
「気にならないか」
「何を気にするのですか」
「いや、その……」
エドワードは珍しく言葉を探した。
リーゼロッテは微笑んだ。
「公爵様、ご心配には及びません」
穏やかに、しかしはっきりと言った。
「私はどこにも参りませんよ」
(今はまだ)
心の中だけで、付け加えた。
帰りの馬車の中で、マリアがそわそわしながら言った。
「お嬢様、王子殿下がずっとお嬢様を見ておられましたね」
「そうだったかしら」
「そうでしたとも。目が合うたびに、にっこりされていましたもの」
「社交的な方なのでしょう」
「でも他の令嬢方への目配りとは、明らかに違いました」
リーゼロッテは窓の外を見た。
夜の王都が流れていく。
「マリア」
「はい」
「今日初めて気づいたことがあるの」
「何でございますか」
リーゼロッテは少し間を置いてから言った。
「私がフォルスタット語を話せることを、公爵様は今まで知らなかった」
「……はい」
「三ヶ国語、習得したのよ。二年かけて」
「はい、存じております」
「でも一度も、聞かれなかった」
マリアは黙った。
「今日、初めて人前で使った。そうしたら」
リーゼロッテは窓から視線を外し、手のひらを見た。
「王子殿下は、最初の一言で気づいてくださった。発音が美しいと言ってくださった。どの作家が好きかと聞いてくださった」
「……はい」
「初めて会った方が、二年間一度も気づかなかったことに、五分で気づいてくださった」
馬車が石畳を進む音が響いた。
マリアは何も言えなかった。
「別に」
リーゼロッテは静かに続けた。
「王子殿下が特別なのではないわ」
「え?」
「気づく人間は、気づく。それだけのことよ」
少し間があった。
「気づかない人間は、何年経っても気づかない。それもまた、そういうことなのでしょう」
マリアは窓の外を向いた。
涙をこらえていた。
「……泣かないで、マリア」
「はい」
「約束でしょう」
「……はい。でもお嬢様」
「なに」
「今日のお嬢様は」
マリアは声を整えてから、言った。
「今日のお嬢様は、本当に輝いていらっしゃいました」
リーゼロッテは少し黙った。
「そう」
「はい。エメラルドグリーンのドレスも、フォルスタット語も、王子殿下とのお話も、全部」
「……ありがとう」
「お嬢様が輝いていると、私まで嬉しくなります」
リーゼロッテは窓の外に目をやった。
夜空に、星が出ていた。
(輝いていた、か)
公爵の婚約者として座っていた二年間、そんな言葉をかけられたことは、なかった。
(なら)
静かに、思った。
(これが、私の本来の場所なのかもしれない)
帰宅して、記録帳を開いた。
今日の分を書き足した。
第二十九項。歓迎晩餐会にて、フォルスタット語通訳を担当。婚約者は本人の語学力を二年間把握していなかった。
ペンを置いた。
もう一冊、別の手帳を取り出した。
こちらは記録帳ではない。
メモ帳だ。
新しいページを開いて、書いた。
フォルスタット王国第二王子 アレクシス殿下。外交滞在期間:三週間。通商交渉の担当者として、今後も接点あり。
それだけ書いて、閉じた。
感情は書かなかった。
ただ事実だけを、書いた。
(さて)
蝋燭を吹き消した。
(これからが、少し楽しくなりそうね)
暗くなった部屋の中で、リーゼロッテは珍しく、自分から笑った。
完璧な微笑みではない。
本物の、少しだけ弾んだような、そういう笑顔で。
その夜、アレクシス第二王子は側近にこう言った。
「ヴィルヘルム爺さんの通訳をしてくれた令嬢を調べてくれ」
側近は頷いた。
「婚約者がいることは知っています、殿下」
アレクシスはワインを傾けながら、窓の外の夜を見た。
「知っている」
少し間があった。
「だが」
「はい」
「婚約者が、彼女の真価を知っているかどうかは」
――別の話だ。
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