9 / 25
第九章「装いを変える」
十二月に入ると、王都の社交界は一年で最も賑やかな季節を迎える。
冬の夜会、クリスマスの舞踏会、年末の晩餐会。貴族たちは競うように華やかなドレスを新調し、宝飾店には令嬢たちの姿が絶えなくなる。
リーゼロッテはその年、初めて自分のために服飾店の扉を開いた。
いつも使っていた服飾店ではなかった。
アルテンベルク侯爵家御用達の、格式ある老舗。そこではなく、王都の少し外れにある、新しい店に入った。
若い女性デザイナーが一人で営む小さな店で、斬新な色使いと独特の仕立てが評判だと、慈善事業で知り合った伯爵夫人から聞いた。
店の扉を開けると、ベルが鳴った。
小柄な若い女性が奥から出てきた。二十代半ばだろうか。亜麻色の髪を無造作にまとめ、指先にチョークの跡がついている。
「いらっしゃいませ」
それからリーゼロッテを見て、少し目を丸くした。
「アルテンベルク侯爵令嬢様……ですか?」
「ええ。ハンナ・ベルク様でいらっしゃいますか」
「はい、私がハンナです。まさかお越しいただけるとは」
「伯爵夫人にご紹介いただきました。よろしくお願いできますか」
ハンナは一瞬だけ、リーゼロッテを頭から足まで見た。
服飾師としての目だった。
「……今まで、どんな色をお召しになっていましたか」
「控えめな色が多かったわ。ブルーグレーか、ベージュか」
「誰かのために?」
リーゼロッテは少し考えてから、答えた。
「そうね。誰かの隣にいるための色だったかもしれない」
ハンナは頷いた。
「これからは?」
「自分のための色が着たいの」
ハンナはもう一度リーゼロッテを見た。
今度は少し違う目で。
「……少し待っていてください」
奥に引っ込んで、いくつかの布地を抱えて戻ってきた。
テーブルに広げながら言った。
「お嬢様には、深い色が似合います。今まで避けていたはずの色が、本当は一番映える」
「なぜ分かるの?」
「黒髪と白い肌に、淡い色は溶けてしまう。でも深い色は、逆に際立てる」
リーゼロッテは広げられた布地を見た。
深いエメラルドグリーン。濃いワインレッド。夜空のようなネイビー。
「この中で」
ハンナが一枚の布地を持ち上げた。
深いガーネットレッドだった。
「これは、どうでしょう」
リーゼロッテは布地に触れた。
滑らかで、重みがある。
「……今まで一度も、こういう色を着たことがなかったわ」
「だから、いいんです」
ハンナははっきりと言った。
「今まで着ていなかった色が、これからのお嬢様の色になる」
仕立ては三着頼んだ。
ガーネットレッドのドレス。深いネイビーのドレス。そして夜会用に、漆黒に近いダークグリーンのもの。
ハンナは採寸しながら、さりげなく聞いた。
「どんな場に着ていかれますか」
「社交界の夜会と、舞踏会と」
「誰かに見せたい方はいますか」
リーゼロッテは少し考えた。
「いいえ」
「……誰かを見返したい方は?」
リーゼロッテは少し笑った。
「それも、少し違うわ」
「では?」
「自分が、自分を認めるために」
ハンナは採寸の手を止めた。
少し間があった。
「……分かりました」
静かに言った。
「必ず、そういうドレスを作ります」
マリアは採寸の間、部屋の隅で控えていた。
帰り道の馬車の中で、珍しく自分から口を開いた。
「お嬢様」
「なに?」
「ハンナさんに、正直におっしゃいましたね」
「何を?」
「自分を認めるために、と」
リーゼロッテは窓の外を見た。
「嘘をつく必要がなかったから」
「……あの方には、仮面をつけなかったですね」
リーゼロッテは少し考えた。
「そうね。仮面をつける必要のない人間が、たまにいるのよ」
「アレクシス殿下も、そうでしたか」
「……ええ」
短く、答えた。
マリアはそれ以上聞かなかった。
ただ、小さく微笑んだ。
ドレスが仕立て上がったのは、二週間後のことだった。
最初に着たのは、ガーネットレッドのドレスだった。
冬の夜会の日の朝、マリアが衣装箱を開けた瞬間、声を上げた。
「……綺麗」
「まだ着ていないのに」
「でも、もう綺麗です」
リーゼロッテは鏡の前に立ち、ドレスを身につけた。
深い赤が、黒髪に映えた。白い肌が、より白く見えた。胸元の小さなルビーのブローチが、光を受けて輝いた。
マリアが後ろで、髪を整えながら小さく言った。
「お嬢様」
「なに?」
「今まで見たことのないお顔をされています」
「どんな顔?」
マリアは少し考えてから、答えた。
「……自分のお顔をされています」
リーゼロッテは鏡の中の自分を見た。
確かに、と思った。
いつもの完璧な微笑みではない。
怒ってもいない、悲しんでもいない。
ただ、静かに、自分の顔をしていた。
(これでいい)
「参りましょう、マリア」
夜会の会場に入った瞬間、リーゼロッテは変化に気づいた。
視線が、違った。
いつもは「公爵の婚約者」として形式的に挨拶を受けた。
今夜は違った。
リーゼロッテ自身を見る目だった。
「アルテンベルク令嬢、今夜はまた一段と」
「そのドレス、どちらで?」
「とても素敵ですわ」
令嬢たちが声をかけてくる。
リーゼロッテは微笑んで答えた。
完璧な微笑みで。しかし今夜の完璧さは、仮面の完璧さではなかった。
自信から来る、そういう完璧さだった。
エドワードはリーゼロッテを見た瞬間、足を止めた。
「……そのドレスは」
「新しく仕立てました」
「随分と、派手ではないか」
リーゼロッテは少し首を傾けた。
「派手でございますか」
「今までとは、随分と違う」
「ええ」
リーゼロッテは微笑んだ。
「今までとは、随分と違うわたくしでございますので」
エドワードは何か言おうとした。
しかしその瞬間、別の貴族が近づいてきて、外交の話を切り出した。
エドワードの視線が、そちらへ移った。
リーゼロッテは静かに、その場を離れた。
夜会の半ばで、アレクシスがリーゼロッテの近くに来た。
今夜もフォルスタット語で話しかけてきた。
「そのドレス、似合っている」
「ありがとうございます、殿下」
「初めて見る色だな」
「初めて着る色なので」
アレクシスは少し目を細めた。
「何かあったか」
「何かとは?」
「前回会ったときと、少し違う」
リーゼロッテは少し考えてから答えた。
「自分のための色を選んだだけです」
「今まで自分のために選んでいなかったのか」
「……ええ、そうだったかもしれません」
アレクシスは少し黙った。
それから、静かに言った。
「似合っている。さっきも言ったが、もう一度言いたかった」
リーゼロッテは少し笑った。
本物の、困ったような笑顔で。
「殿下は、いつも正直ですね」
「褒め言葉は正直に言わないと意味がないからな」
「……ありがとうございます」
「それから」
アレクシスは少し声を低くした。
「あなたが自分のために何かを選んだなら、それは正しいことだと思う」
リーゼロッテは何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
夜会の終わり頃、クロエがリーゼロッテに近づいてきた。
「素敵なドレスね、リーゼロッテ様」
「ありがとうございます」
「随分と、印象が変わったわ」
「そうですか」
「エドワード様も、驚いていらしたわよ」
「……そうでしたか」
クロエは少し笑った。
可憐に、柔らかく。
「でも、リーゼロッテ様には少し派手すぎるんじゃないかって、心配されていたわ」
リーゼロッテは微笑んだ。
「そうでございますか」
「でも公爵様のご意見より」
穏やかに、しかしはっきりと言った。
「私自身が、似合うと思っておりますので」
クロエの目が、一瞬だけ止まった。
「……そう」
「ええ」
リーゼロッテは微笑んだまま、続けた。
「それに殿下も、似合っていると言ってくださいました」
「殿下、というのは」
「フォルスタットの王子殿下です」
クロエは何も言わなかった。
ただ、笑顔のまま、黙っていた。
リーゼロッテは一礼した。
「失礼いたします、クロエ様」
帰りの馬車の中で、マリアが言った。
「お嬢様、クロエ様のお顔」
「見ていたわ」
「笑顔が、固まっていました」
「ええ」
「よかったです」
マリアは珍しく、きっぱりと言った。
「よかったと言っていいか分かりませんが、でもよかったと思いました」
リーゼロッテは少し笑った。
「正直なのね、マリアも」
「お嬢様に感染したのかもしれません」
「感染?」
「アレクシス殿下みたいに、正直になってしまいました」
リーゼロッテは笑った。
本物の笑い声で、少し声に出して、笑った。
マリアは目を丸くした。
お嬢様が声に出して笑うのを、久しぶりに聞いた気がした。
「お嬢様が笑うと、私まで嬉しくなります」
「さっきと逆のことを言っているわ」
「さっき?」
「泣くと泣きたくなる、と言っていたでしょう」
「……ええ、そうですね」
マリアも、笑った。
夜の馬車の中で、二人は少しの間、笑っていた。
帰宅して、記録帳を開いた。
今日の分を書き足した。
第三十五項。本日の夜会にて、新しいドレスを着用。
婚約者より「派手すぎるのではないか」との意見あり。
クロエ・アンセル伯爵令嬢を通じた間接的な発言もあり確認。
ペンを置いた。
もう一冊の手帳を開いた。
今日の最後のページに、一行だけ書いた。
今夜、声に出して笑った。
それだけ書いた。
閉じた。
立ち上がり、鏡の前に立った。
ガーネットレッドのドレスを着たまま、鏡の中の自分を見た。
(自分の顔をしている)
マリアがそう言った。
確かに、と思った。
いつもの完璧な仮面ではない。
でも弱い顔でも、ない。
ただ、自分の顔だった。
(これが)
蝋燭の炎が、静かに揺れた。
(二年間、仮面の下にあった顔なのかもしれない)
リーゼロッテは蝋燭を吹き消した。
暗くなった部屋の中で、鏡の中の自分は見えなくなった。
でも、確かに、そこにいた。
翌朝、社交界に小さな噂が生まれた。
「アルテンベルク侯爵令嬢、最近変わられたわね」
「ドレスも、立ち振る舞いも」
「なんというか……前より、ずっと」
言葉を探すように、夫人たちは囁いた。
「ご自身のお顔をされているわ」
誰かがそう言った。
――その言葉が、一番正しかった。
冬の夜会、クリスマスの舞踏会、年末の晩餐会。貴族たちは競うように華やかなドレスを新調し、宝飾店には令嬢たちの姿が絶えなくなる。
リーゼロッテはその年、初めて自分のために服飾店の扉を開いた。
いつも使っていた服飾店ではなかった。
アルテンベルク侯爵家御用達の、格式ある老舗。そこではなく、王都の少し外れにある、新しい店に入った。
若い女性デザイナーが一人で営む小さな店で、斬新な色使いと独特の仕立てが評判だと、慈善事業で知り合った伯爵夫人から聞いた。
店の扉を開けると、ベルが鳴った。
小柄な若い女性が奥から出てきた。二十代半ばだろうか。亜麻色の髪を無造作にまとめ、指先にチョークの跡がついている。
「いらっしゃいませ」
それからリーゼロッテを見て、少し目を丸くした。
「アルテンベルク侯爵令嬢様……ですか?」
「ええ。ハンナ・ベルク様でいらっしゃいますか」
「はい、私がハンナです。まさかお越しいただけるとは」
「伯爵夫人にご紹介いただきました。よろしくお願いできますか」
ハンナは一瞬だけ、リーゼロッテを頭から足まで見た。
服飾師としての目だった。
「……今まで、どんな色をお召しになっていましたか」
「控えめな色が多かったわ。ブルーグレーか、ベージュか」
「誰かのために?」
リーゼロッテは少し考えてから、答えた。
「そうね。誰かの隣にいるための色だったかもしれない」
ハンナは頷いた。
「これからは?」
「自分のための色が着たいの」
ハンナはもう一度リーゼロッテを見た。
今度は少し違う目で。
「……少し待っていてください」
奥に引っ込んで、いくつかの布地を抱えて戻ってきた。
テーブルに広げながら言った。
「お嬢様には、深い色が似合います。今まで避けていたはずの色が、本当は一番映える」
「なぜ分かるの?」
「黒髪と白い肌に、淡い色は溶けてしまう。でも深い色は、逆に際立てる」
リーゼロッテは広げられた布地を見た。
深いエメラルドグリーン。濃いワインレッド。夜空のようなネイビー。
「この中で」
ハンナが一枚の布地を持ち上げた。
深いガーネットレッドだった。
「これは、どうでしょう」
リーゼロッテは布地に触れた。
滑らかで、重みがある。
「……今まで一度も、こういう色を着たことがなかったわ」
「だから、いいんです」
ハンナははっきりと言った。
「今まで着ていなかった色が、これからのお嬢様の色になる」
仕立ては三着頼んだ。
ガーネットレッドのドレス。深いネイビーのドレス。そして夜会用に、漆黒に近いダークグリーンのもの。
ハンナは採寸しながら、さりげなく聞いた。
「どんな場に着ていかれますか」
「社交界の夜会と、舞踏会と」
「誰かに見せたい方はいますか」
リーゼロッテは少し考えた。
「いいえ」
「……誰かを見返したい方は?」
リーゼロッテは少し笑った。
「それも、少し違うわ」
「では?」
「自分が、自分を認めるために」
ハンナは採寸の手を止めた。
少し間があった。
「……分かりました」
静かに言った。
「必ず、そういうドレスを作ります」
マリアは採寸の間、部屋の隅で控えていた。
帰り道の馬車の中で、珍しく自分から口を開いた。
「お嬢様」
「なに?」
「ハンナさんに、正直におっしゃいましたね」
「何を?」
「自分を認めるために、と」
リーゼロッテは窓の外を見た。
「嘘をつく必要がなかったから」
「……あの方には、仮面をつけなかったですね」
リーゼロッテは少し考えた。
「そうね。仮面をつける必要のない人間が、たまにいるのよ」
「アレクシス殿下も、そうでしたか」
「……ええ」
短く、答えた。
マリアはそれ以上聞かなかった。
ただ、小さく微笑んだ。
ドレスが仕立て上がったのは、二週間後のことだった。
最初に着たのは、ガーネットレッドのドレスだった。
冬の夜会の日の朝、マリアが衣装箱を開けた瞬間、声を上げた。
「……綺麗」
「まだ着ていないのに」
「でも、もう綺麗です」
リーゼロッテは鏡の前に立ち、ドレスを身につけた。
深い赤が、黒髪に映えた。白い肌が、より白く見えた。胸元の小さなルビーのブローチが、光を受けて輝いた。
マリアが後ろで、髪を整えながら小さく言った。
「お嬢様」
「なに?」
「今まで見たことのないお顔をされています」
「どんな顔?」
マリアは少し考えてから、答えた。
「……自分のお顔をされています」
リーゼロッテは鏡の中の自分を見た。
確かに、と思った。
いつもの完璧な微笑みではない。
怒ってもいない、悲しんでもいない。
ただ、静かに、自分の顔をしていた。
(これでいい)
「参りましょう、マリア」
夜会の会場に入った瞬間、リーゼロッテは変化に気づいた。
視線が、違った。
いつもは「公爵の婚約者」として形式的に挨拶を受けた。
今夜は違った。
リーゼロッテ自身を見る目だった。
「アルテンベルク令嬢、今夜はまた一段と」
「そのドレス、どちらで?」
「とても素敵ですわ」
令嬢たちが声をかけてくる。
リーゼロッテは微笑んで答えた。
完璧な微笑みで。しかし今夜の完璧さは、仮面の完璧さではなかった。
自信から来る、そういう完璧さだった。
エドワードはリーゼロッテを見た瞬間、足を止めた。
「……そのドレスは」
「新しく仕立てました」
「随分と、派手ではないか」
リーゼロッテは少し首を傾けた。
「派手でございますか」
「今までとは、随分と違う」
「ええ」
リーゼロッテは微笑んだ。
「今までとは、随分と違うわたくしでございますので」
エドワードは何か言おうとした。
しかしその瞬間、別の貴族が近づいてきて、外交の話を切り出した。
エドワードの視線が、そちらへ移った。
リーゼロッテは静かに、その場を離れた。
夜会の半ばで、アレクシスがリーゼロッテの近くに来た。
今夜もフォルスタット語で話しかけてきた。
「そのドレス、似合っている」
「ありがとうございます、殿下」
「初めて見る色だな」
「初めて着る色なので」
アレクシスは少し目を細めた。
「何かあったか」
「何かとは?」
「前回会ったときと、少し違う」
リーゼロッテは少し考えてから答えた。
「自分のための色を選んだだけです」
「今まで自分のために選んでいなかったのか」
「……ええ、そうだったかもしれません」
アレクシスは少し黙った。
それから、静かに言った。
「似合っている。さっきも言ったが、もう一度言いたかった」
リーゼロッテは少し笑った。
本物の、困ったような笑顔で。
「殿下は、いつも正直ですね」
「褒め言葉は正直に言わないと意味がないからな」
「……ありがとうございます」
「それから」
アレクシスは少し声を低くした。
「あなたが自分のために何かを選んだなら、それは正しいことだと思う」
リーゼロッテは何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
夜会の終わり頃、クロエがリーゼロッテに近づいてきた。
「素敵なドレスね、リーゼロッテ様」
「ありがとうございます」
「随分と、印象が変わったわ」
「そうですか」
「エドワード様も、驚いていらしたわよ」
「……そうでしたか」
クロエは少し笑った。
可憐に、柔らかく。
「でも、リーゼロッテ様には少し派手すぎるんじゃないかって、心配されていたわ」
リーゼロッテは微笑んだ。
「そうでございますか」
「でも公爵様のご意見より」
穏やかに、しかしはっきりと言った。
「私自身が、似合うと思っておりますので」
クロエの目が、一瞬だけ止まった。
「……そう」
「ええ」
リーゼロッテは微笑んだまま、続けた。
「それに殿下も、似合っていると言ってくださいました」
「殿下、というのは」
「フォルスタットの王子殿下です」
クロエは何も言わなかった。
ただ、笑顔のまま、黙っていた。
リーゼロッテは一礼した。
「失礼いたします、クロエ様」
帰りの馬車の中で、マリアが言った。
「お嬢様、クロエ様のお顔」
「見ていたわ」
「笑顔が、固まっていました」
「ええ」
「よかったです」
マリアは珍しく、きっぱりと言った。
「よかったと言っていいか分かりませんが、でもよかったと思いました」
リーゼロッテは少し笑った。
「正直なのね、マリアも」
「お嬢様に感染したのかもしれません」
「感染?」
「アレクシス殿下みたいに、正直になってしまいました」
リーゼロッテは笑った。
本物の笑い声で、少し声に出して、笑った。
マリアは目を丸くした。
お嬢様が声に出して笑うのを、久しぶりに聞いた気がした。
「お嬢様が笑うと、私まで嬉しくなります」
「さっきと逆のことを言っているわ」
「さっき?」
「泣くと泣きたくなる、と言っていたでしょう」
「……ええ、そうですね」
マリアも、笑った。
夜の馬車の中で、二人は少しの間、笑っていた。
帰宅して、記録帳を開いた。
今日の分を書き足した。
第三十五項。本日の夜会にて、新しいドレスを着用。
婚約者より「派手すぎるのではないか」との意見あり。
クロエ・アンセル伯爵令嬢を通じた間接的な発言もあり確認。
ペンを置いた。
もう一冊の手帳を開いた。
今日の最後のページに、一行だけ書いた。
今夜、声に出して笑った。
それだけ書いた。
閉じた。
立ち上がり、鏡の前に立った。
ガーネットレッドのドレスを着たまま、鏡の中の自分を見た。
(自分の顔をしている)
マリアがそう言った。
確かに、と思った。
いつもの完璧な仮面ではない。
でも弱い顔でも、ない。
ただ、自分の顔だった。
(これが)
蝋燭の炎が、静かに揺れた。
(二年間、仮面の下にあった顔なのかもしれない)
リーゼロッテは蝋燭を吹き消した。
暗くなった部屋の中で、鏡の中の自分は見えなくなった。
でも、確かに、そこにいた。
翌朝、社交界に小さな噂が生まれた。
「アルテンベルク侯爵令嬢、最近変わられたわね」
「ドレスも、立ち振る舞いも」
「なんというか……前より、ずっと」
言葉を探すように、夫人たちは囁いた。
「ご自身のお顔をされているわ」
誰かがそう言った。
――その言葉が、一番正しかった。
あなたにおすすめの小説
婚約破棄ですか???実家からちょうど帰ってこいと言われたので好都合です!!!これからは復讐をします!!!~どこにでもある普通の令嬢物語~
tartan321
恋愛
婚約破棄とはなかなか考えたものでございますね。しかしながら、私はもう帰って来いと言われてしまいました。ですから、帰ることにします。これで、あなた様の口うるさい両親や、その他の家族の皆様とも顔を合わせることがないのですね。ラッキーです!!!
壮大なストーリーで奏でる、感動的なファンタジーアドベンチャーです!!!!!最後の涙の理由とは???
一度完結といたしました。続編は引き続き書きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
選ばれなくてよかったと、今は思います
たくわん
恋愛
五年間の婚約を、一夜で破棄された。
理由は「家格の不一致」。
傷ついた翌朝、私は泣くのをやめて仕事着を着た。
王立文書院の渉外部職員として、今日も書類と向き合う。それだけでいいと思っていた。
出勤すると、一枚の張り紙があった。
新長官着任。エドワード・ヴァルツ・シュタイン侯爵。
昨夜の晩餐会で、遠くに座っていた「氷の侯爵」がそのまま上司になった。
彼は口数が少なく、笑わず、感情を見せない。
でも仕事の評価だけは正確だった。
「君の報告書は読みやすい」「渉外部はあの職員が要になっている」——誰かに選ばれたくて生きてきたわけではないのに、仕事を通じて初めて、自分の輪郭がはっきりしてくる気がした。
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
砕けた愛
篠月珪霞
恋愛
新婚初夜に男に襲われた公爵令嬢エヴリーヌは、不義密通の罪を被せられた。反逆罪に問われた彼女の一族は処刑されるが、気付くと時間が巻き戻っていた。
あなたへの愛? そんなものとうに、砕け散ってしまいました。
『「ママは我慢してればいいんでしょ?」と娘に言われた日、私は妻をやめた』~我慢をやめた母と、崩れていく家族、そして再生~
まさき
恋愛
私はずっと「いい妻」でいようとしてきた。
夫に逆らわず、空気を読み、波風を立てないように生きる。
それが、この家を守る唯一の方法だと思っていた。
娘にも、そうであってほしかった。
けれど──
その願いは、静かに歪んでいく。
夫の言葉をなぞるように、娘は私を軽んじるようになった。
そしてある日、夕食の後片付けをしていた私に、娘は言った。
「ママはさ、我慢してればいいんでしょ?」
その一言で、何かが壊れた。
我慢することが、母である証だと思っていた。
だがそれは、私自身をすり減らすだけの“呪い”だった。
──もう、我慢するのはやめる。
妻であることをやめ、母として生き直すために。
私は、自分の人生を取り戻す決意をした。
その選択は、家族を大きく揺るがしていく。
崩れていく夫婦関係。
離れていく娘の心。
そして、待ち受ける“ざまぁ”の行方。
それでも私は問い続ける。
母とは何か。
家族とは何か。
そして──私は、どう生きるべきなのか。
「言ってくれれば手伝ったのに」過労で倒れた私に微笑む無神経な夫。~親友を優先させ続けた夫の末路~
水上
恋愛
夫の持病を和らげるため、徹夜で煮詰めた特製コーディアル。
彼はそれを数秒で飲み干し、私の血を吐くような努力を「ただの甘い水だね。もっとパッと作れないの?」と笑った。
彼の健康も商会の名声も、私が裏で支えているとも知らずに。
ある日、過労で倒れた私は、「言ってくれれば手伝ったのに」と無神経な夫に微笑まれた時、心の中で決意した。
地下室にあるコーディアルの瓶は残り15本。
これがすべて空になるまでに彼が変わらなければ、離縁状を叩きつけよう。
私を失い、体調も商会も崩壊して這いつくばる夫をよそに、私は真の評価を得て自分の人生を歩み始める。
これは、透明な存在として扱われ続けた私が、失望のカウントダウンを進めて自立するまでの、そして、すべてを失った夫が惨めに後悔するまでの物語。
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢
岡暁舟
恋愛
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢マリアは、それでも婚約者を憎むことはなかった。なぜか?
「すまない、マリア。ソフィアを正式な妻として迎え入れることにしたんだ」
「どうぞどうぞ。私は何も気にしませんから……」
マリアは妹のソフィアを祝福した。だが当然、不気味な未来の陰が少しずつ歩み寄っていた。
《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから
ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。
彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。