大人しい令嬢は怒りません。ただ二年間、準備していただけです。――婚約解消の申請が受理されましたので、失礼いたします

柴田はつみ

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第十章「マリアの涙」

記録帳が五十項を超えたのは、十二月の半ばのことだった。

特別な出来事があったわけではない。

いつもと変わらない朝に、いつもと変わらない記録を書き足したとき、ふとページを数えたら、五十一項になっていた。

リーゼロッテはしばらく、その数字を見ていた。

五十一。

二年間で、五十一回。

一ヶ月に直せば、およそ二回。

一週間に直せば、約二日に一度。

感情は書いていない。

事実だけが、淡々と並んでいる。

それでも五十一という数字は、静かに、確かに、そこにあった。

その日の午後、マリアが洗濯物を畳みながら言った。

「お嬢様、今日のエドワード様からのご連絡ですが」

「なに?」

「来週の面会を、一週間延期したいとのことで」

「理由は」

「クロエ様の体調が優れないため、そばにいたいと」

リーゼロッテはペンを持ったまま、少し間を置いた。

「分かったわ。そうお伝えして」

「……はい」

マリアは洗濯物を畳む手を止めなかった。

止めなかったが、手の動きが少し、ゆっくりになった。

リーゼロッテは記録帳にペンを走らせた。

第五十二項。
来週の定例面会を一週間延期。
理由:幼馴染の体調不良に伴う付き添い。

書き終えた。

インクが乾くのを待った。

部屋に、静寂が落ちた。

どれくらい経っただろう。

微かな音がした。

リーゼロッテはペンを置いて、振り返った。

マリアが、洗濯物を胸に抱えたまま、立っていた。

俯いていた。

肩が、小さく震えていた。

「……マリア」

答えがなかった。

「マリア」

もう一度呼んだ。

マリアは顔を上げなかった。

ただ、震えた声で言った。

「……申し訳ございません」

「何が」

「泣かないと、約束したのに」

リーゼロッテは椅子から立ち上がった。

マリアに近づいた。

マリアはまだ俯いていた。

目から、一粒、涙が落ちた。

「お嬢様の体調が悪いときも、来なかった」

震える声が続いた。

「誕生日にも、三時間来なかった」

「……ええ」

「記念日も、舞踏会も、プレゼントをお渡しした日も」

「ええ」

「それなのに」

マリアは声を詰まらせた。

「クロエ様が体調を崩したら、面会を延期して、そばにいる」

涙が、また一粒落ちた。

「おかしい。おかしいです、お嬢様」

リーゼロッテは何も言わなかった。

「二年間、お嬢様がどれほど我慢されてきたか、私は全部見ていました」

「……マリア」

「笑顔が本物じゃないことも、帰宅するたびに少しずつ疲れていくことも、それでも次の朝には完璧に仮面をつけて出かけることも」

「マリア、泣かないで」

「泣きます」

マリアははっきりと言った。

顔を上げた。

目が赤かった。頬が濡れていた。

「お嬢様が泣かないから、私が泣きます」

「……」

「お嬢様が怒らないから、私が怒ります」

「……」

「それくらい、させてください」

リーゼロッテは、何も言えなかった。

しばらく、部屋が静かだった。

マリアは泣いていた。声を抑えながら、しかし確かに泣いていた。

リーゼロッテは立ったまま、マリアを見ていた。

何か言おうとした。

泣かないで、と言おうとした。

大丈夫よ、と言おうとした。

でも言葉が、出てこなかった。

(大丈夫)

その言葉を探した瞬間、気づいた。

(大丈夫じゃない)

本当は。

ずっと、本当は。

面会が延期されるたびに、少し、胸が痛かった。

記録帳に書くたびに、少し、手が重かった。

五十二項を数えたとき、少し、息が苦しかった。

全部、大丈夫じゃなかった。

ただ、大丈夫じゃない顔を、したことがなかっただけで。

(マリア)

リーゼロッテは思った。

(あなたは私が泣けない分まで、泣いてくれているのね)

リーゼロッテは、マリアの隣に座った。

応接用のソファではなく、床に近い低い椅子に、静かに腰を下ろした。

マリアはまだ泣いていた。

リーゼロッテは黙って、その隣にいた。

何も言わなかった。

慰めなかった。

泣きやませようとしなかった。

ただ、隣にいた。

しばらくして、マリアが洗濯物を畳みながら言った。

「……お嬢様は、泣かないのですか」

「泣き方を忘れてしまったかもしれない」

マリアは少し黙った。

「いつから、ですか」

「……母が亡くなってから、かしら」

「そんなに前から」

「ええ」

リーゼロッテは膝の上で手を組んだ。

「泣いていると、父が心配するから。使用人たちが不安になるから。侯爵家の令嬢が人前で泣くのは、みっともないから」

「……」

「そうやって我慢しているうちに、泣き方が分からなくなったのよ」

マリアはまた涙を落とした。

「お嬢様」

「なに?」

「全部終わったら」

「ええ」

「その日だけは、泣いていいですか」

リーゼロッテは少し考えた。

「あなたが?」

「私も、お嬢様も」

リーゼロッテは窓の外を見た。

冬の空は低く、灰色だった。

「……そうね」

静かに言った。

「その日だけは、泣きましょう」

「約束ですか」

「約束よ」

マリアは、また泣いた。

今度は少し、違う泣き方で。

悲しみではない、少し温かい涙を、静かに流した。

その夜、リーゼロッテは書斎に一人でいた。

記録帳を開いた。

五十二項。

一項一項を、最初から読み返した。

第一項。誕生日のディナーに、三時間不在。

第二項。劇場の約束をキャンセル。

第三項。舞踏会で一曲と四曲。

……

第五十二項。面会を延期。
理由:幼馴染の体調不良。

読み終えた。

ペンを取った。

最後のページを開いた。

何かを書こうとした。

止まった。

(五十二項)

二年間の積み重ねが、そこにあった。

感情は一行もない。

事実だけが並んでいる。

でも今夜だけは、リーゼロッテは記録帳ではなく、別の紙を取り出した。

誰にも見せない紙に、一行だけ書いた。

今夜、マリアが泣いた。私の代わりに。

それだけ書いた。

折りたたんだ。

記録帳の最初のページと最後のページの間に、そっと挟んだ。

証拠書類には関係ない。

法的な意味もない。

ただ、覚えておきたかった。

マリアが泣いてくれた夜のことを。

翌朝、マリアは普段通りの顔で現れた。

目の腫れは、もうほとんど引いていた。

「おはようございます、お嬢様」

「おはよう、マリア」

「昨夜は失礼いたしました」

「謝らないで」

リーゼロッテはマリアを見た。

「約束を覚えている?」

「……はい」

「全部終わったら、泣く」

「はい」

「だからそれまでは」

リーゼロッテは立ち上がった。

「二人で、動きましょう」

マリアは深く頷いた。

「……はい、お嬢様」

「それから、マリア」

「はい」

リーゼロッテは少し間を置いてから、静かに言った。

「ありがとう」

マリアは目を丸くした。

「泣いてくれて、ありがとう」

マリアは何も言えなかった。

ただ、深く、頭を下げた。

頭を下げながら、また少しだけ、目が滲んだ。

昨夜と同じ涙ではなかった。

温かい方の涙だった。

その日の午後、リーゼロッテはヴェルナー老人を訪ねた。

「記録帳が五十二項になりました」

「ほう」

ヴェルナーは老眼鏡を外した。

「二年間で、五十二項」

「ええ」

「十分です」

老人はきっぱりと言った。

「法的に必要な項目は、すでに揃っています。継続的な軽視の記録、義務の不履行、第三者を通じた介入。どれも明確に記録されている」

「では」

「あとは、いつ申請するかだけです」

リーゼロッテは少し考えた。

「もう少し、待ちます」

「なぜですか」

「完璧にしたい」

ヴェルナーは老眼鏡を磨きながら言った。

「すでに完璧ですが」

「数字の完璧さではなくて」

リーゼロッテは静かに言った。

「私自身が、完璧に準備できたと思えたとき、にしたいのです」

ヴェルナーは老人の目で、しばらくリーゼロッテを見た。

それから、静かに頷いた。

「……分かりました。いつでも来てください」

「ありがとうございます」

「お嬢様」

ヴェルナーは立ち上がりかけたリーゼロッテを、静かに呼び止めた。

「はい」

「侯爵令嬢の中で、これほど冷静に、これほど完璧に準備をされた方を、私は見たことがありません」

リーゼロッテは少し黙った。

「……それは、褒め言葉でしょうか」

「もちろんです」

老人は静かに言った。

「しかし同時に」


「これほど長い間、一人で抱えてこられたかと思うと」

ヴェルナーは言いかけて、止めた。

「……いいえ。余計なことでした」

「いいえ」

リーゼロッテは首を振った。

「一人ではないわ」

「え?」

「マリアがいます」

静かに言った。

「私の代わりに泣いてくれる侍女が、一人います」

ヴェルナーは黙った。

老いた目が、少しだけ細くなった。

「……それは、心強い」

「ええ」

リーゼロッテは微笑んだ。

本物の笑顔で。

「とても、心強いわ」

帰り道の馬車の中で、マリアが聞いた。

「ヴェルナー様は、なんとおっしゃっていましたか」

「五十二項で十分だと」

「では」

「ええ」

リーゼロッテは窓の外を見た。

冬の王都が、夕暮れに染まっていた。

「あとは、私自身の問題だけよ」

「お嬢様自身の、問題?」

「完璧に準備できたと思えるまで、もう少し」

マリアは黙っていた。

しばらくしてから、聞いた。

「お嬢様、一つ聞いてもよいですか」

「なに?」

「怖くないですか」

リーゼロッテは少し考えた。

「怖いかどうか」

「二年間準備してきて、いざとなったら」

「……そうね」

リーゼロッテは窓の外を見たまま、静かに答えた。

「怖いという感情は」

「はい」

「記録帳に閉じ込めた、と思っていたわ」

「思っていた?」

「でも昨夜」

リーゼロッテは少し間を置いた。

「マリアが泣いてくれたとき、少し分かった気がした」

「何を、ですか」

「怖さは、閉じ込められないのかもしれない」

マリアは黙って聞いていた。

「ただ、怖くても動ける、ということは分かっている」

「……はい」

「怖くなくなるまで待っていたら、一生動けないから」

リーゼロッテは窓から視線を外し、正面を向いた。

「だから、怖いまま、動く」

マリアは深く頷いた。

「……はい、お嬢様」

「一緒に動いてくれる?」

「もちろんでございます」

マリアははっきりと言った。

「どこまでも」

その夜、記録帳の五十二項目の下に、
リーゼロッテは小さく書き足した。
感情ではない。

事実として。
備考。本日、侍女マリアが泣いた。
私の分まで、泣いてくれた。

それもまた、二年間の記録の一つだ。
ペンを置いた。
記録帳を閉じた。

引き出しにしまった。
鍵をかけた。
――令嬢の準備は、あと少しで、完成する。

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