大人しい令嬢は怒りません。ただ二年間、準備していただけです。――婚約解消の申請が受理されましたので、失礼いたします

柴田はつみ

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第十二章「エドワード、初めて見る」

クロエからの手紙が届いたのは、夜のことだった。

エドワードは書斎で外交会議の資料を読んでいた。

侍従が封筒を持ってきた。

差出人を見た瞬間、資料を置いた。

クロエからの手紙は、いつでも最優先だった。

それは二年前も、一年前も、今も変わらない。

封を開けた。

読んだ。

リーゼロッテ様が、何か記録をつけているようです。
気になったので、お伝えしておきます。

短かった。

エドワードはしばらく、その一文を見ていた。

(記録)

何の記録だろう。

侯爵家の娘として、日常の記録をつけることは珍しくない。家計の管理や、社交界での出来事を記録する令嬢は多い。

おそらく、そういうことだろう。

エドワードはそう結論づけた。

しかし、何かが引っかかった。

クロエがわざわざ手紙で知らせてくるほどのことか、という引っかかりが。

翌朝、エドワードはリーゼロッテに会いに行った。

延期していた面会を、予告なしに訪ねた。

アルテンベルク侯爵邸の玄関で、マリアが出迎えた。

「公爵様、本日はお約束が」

「急に来てすまない。リーゼロッテに会いたい」

マリアは少し間を置いた。

その間は、ほんの二秒ほどだった。

しかしエドワードには、その二秒が少し長く感じられた。

「……少々お待ちください」

応接室に通された。

しばらくして、リーゼロッテが現れた。

今日のドレスは深いネイビーだった。

先日の夜会で着ていたガーネットレッドとは違う色だが、同じ印象を持っていた。

自分のための色、という印象を。

「突然いらっしゃるとは、珍しいですね」

「急に会いたくなった」

「そうでございますか」

リーゼロッテは向かいに座った。

マリアが茶を用意し始めた。

エドワードはリーゼロッテを見た。

(変わった)

そう思った。

ドレスだけではない。

何か、もっと根本的なところが。

以前のリーゼロッテは、エドワードが部屋に入ると、すぐに完璧な微笑みを向けた。

反射的に、と言っていいほど早く。

今日は違った。

微笑んでいる。しかしそれは、反射的な微笑みではない。

自分のペースで、自分の顔で、微笑んでいた。

(いつからこうだったのだろう)

エドワードは気づかなかった。

いつから変わったのか、分からなかった。

それが、少し、奇妙だった。

「クロエから手紙が来た」

エドワードは率直に言った。

リーゼロッテは茶を受け取りながら、答えた。

「そうでございますか」

「君が何か記録をつけていると」

「ええ」

「何の記録だ」

リーゼロッテは茶を一口飲んだ。

慌てなかった。

表情も変わらなかった。

「婚約期間中の出来事を、記録しております」

「婚約期間中の」

「はい。日時と、状況と、事実だけを」

エドワードは少し眉を動かした。

「なぜそんなものを」

「侯爵家の娘として、大切な記録だと思いまして」

「大切な記録?」

「ええ」

リーゼロッテは微笑んだ。

完璧に。一点の曇りもなく。

「何かございましたか、公爵様」

エドワードは少し黙った。

「いや……ただ、気になったので」

「左様でございますか」

「クロエが心配していた」

「クロエ様が」

「ああ。君が何か、思い詰めているのではないかと」

リーゼロッテは少し首を傾けた。

「思い詰めている、とおっしゃいますと」

「記録をつけるというのは、何か目的があってのことだろう。普通の日記とは違う、そういう気がして」

「普通の日記と、どう違うとお感じになったのですか」

エドワードは答えられなかった。

感覚的なものだった。

クロエの手紙の短さ。その短さの中にある、微かな不安の気配。

しかし言葉にできなかった。

「……気のせいかもしれない」

「そうかもしれませんね」

リーゼロッテは穏やかに言った。

「ご心配をおかけしたなら申し訳ございません」

「いや、こちらこそ突然来て」

「いいえ、嬉しゅうございました」

「嬉しい?」

「ええ」

リーゼロッテは微笑んだ。

「公爵様が突然いらっしゃるのは、珍しいことですから」

エドワードは少し黙った。

珍しいことだと、自分でも分かっていた。

面会はいつも週に一度、定例の日に行っていた。

突然訪ねたのは、二年間で初めてだった。

(初めて、か)

その事実が、妙に重くのしかかった。

茶を飲みながら、少し話した。

外交会議の話。来週のアレクシスの帰国の話。年末の夜会の話。

いつもと変わらない会話だった。

しかしエドワードは、今日は少し違う聞き方をしていた。

リーゼロッテが話すとき、ちゃんと聞いていた。

いつもは相槌を打ちながら、頭の半分で別のことを考えていた。

今日は違った。

リーゼロッテの言葉を、ちゃんと聞いていた。

(なぜだろう)

自分でも分からなかった。

ただ、気になっていた。

変わった、という感覚が。

根本的な何かが変わった、という感覚が。

「公爵様」

「なに?」

「少し、顔色がお悪いですね」

「そうか?」

「外交会議で、お疲れではないですか」

「……まあ、少し」

「無理をされないでください」

エドワードはリーゼロッテを見た。

心配している、と言った。

その言葉は本物に聞こえた。

(リーゼは、いつも私の心配をする)

思った。

(私は、リーゼの心配を、したことがあっただろうか)

体調を崩したとき、来なかった。

誕生日に、三時間いなかった。

面会を、二週間延期した。

(したことが、なかったかもしれない)

その事実が、今日は妙に、はっきりと見えた。

「エドワード様」

「ああ」

「お茶、冷めてしまいますよ」

エドワードは茶に視線を落とした。

「……そうだな」

一口飲んだ。

冷えていた。

帰り際、エドワードは玄関で立ち止まった。

振り返った。

リーゼロッテが見送りに来ていた。

「リーゼ」

「はい」

「……いや」

何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。

ただ、何か言わなければならない気がした。

しかし言葉が出てこなかった。

「また来る」

それだけ言った。

リーゼロッテは微笑んだ。

「ええ、いつでも」

エドワードは馬車に乗り込んだ。

馬車が動き始めた。

窓の外に、アルテンベルク侯爵邸が遠ざかっていった。

エドワードはその景色を見ながら、思った。

(記録)

何の記録をつけているのか。

クロエは「気になった」と言った。

エドワードも、気になっていた。

しかし、なぜ気になるのかが分からなかった。

(リーゼが何かを記録している)

(二年間、婚約期間中の出来事を)

馬車が石畳を進む音が響いた。

(二年間の出来事を、記録している)

エドワードは窓の外を見た。

冬の王都が流れていく。

(二年間で、何が起きただろう)

思い返そうとした。

ところが。

(……思い出せない)

リーゼロッテと過ごした時間を、思い返そうとした。

しかし、浮かぶ場面が、あまりにも少なかった。

誕生日のディナー。

週に一度の面会。

社交界での挨拶。

それだけだった。

(それだけ、か)

二年間で、それだけ、か。

エドワードは窓の外を向いたまま、しばらく動かなかった。

一方、アルテンベルク侯爵邸では。

リーゼロッテが書斎に戻るなり、マリアが言った。

「お嬢様、記録帳のことを知られてしまいましたね」

「ええ」

「クロエ様が話したのでしょう」

「そうね」

リーゼロッテは机に座り、記録帳を開いた。

ペンを走らせた。

第五十五項。本日、予告なしに公爵来訪。

クロエ・アンセル伯爵令嬢からの手紙を受け、記録帳の存在を確認しに来た模様。
「婚約期間中の出来事の記録」と説明したところ、それ以上の追及なし。

書き終えた。

「怖くないですか、お嬢様」

マリアが心配そうに聞いた。

「何が?」

「記録帳のことが、公爵様に知られて」

リーゼロッテはペンを置いた。

「ヴェルナー様は何とおっしゃっていたかしら」

「……書類は完成している、と」

「そう。記録帳は、すでにヴェルナー様の金庫の中にある」

マリアは目を丸くした。

「いつの間に」

「先週、預けてきたの」

「では、エドワード様が何を調べようとしても」

「この部屋にはもう、記録帳の写しだけよ」

リーゼロッテは引き出しを開けた。

深い緑色の革表紙の手帳が、そこにあった。

「本物は、安全な場所にある」

マリアは少し安堵した顔をした。

それから、また心配そうな顔に戻った。

「でもお嬢様、今日の公爵様は」

「なに?」

「いつもと、少し違いませんでしたか」

リーゼロッテは少し考えた。

「……そうね」

「何か、気づき始めているような」

「かもしれない」

「それは、まずくないですか」

リーゼロッテは窓の外を見た。

夕暮れが近かった。

空の端が、橙色に染まり始めていた。

「気づき始めているなら」

静かに言った。

「遅すぎる、ということよ」

「遅すぎる?」

「二年間、気づかなかった。今頃気づき始めても」

リーゼロッテは立ち上がった。

「記録帳は完成している。書類はヴェルナー様の金庫にある。私の準備は、もう終わっているの」

マリアは黙った。

「エドワード様が今から何かに気づいても、それは私には関係ない」

「……はい」

「私はもう、次のことを考えている」

「次のこと?」

リーゼロッテは微笑んだ。

今度は完璧な仮面の微笑みでも、本物の温かい笑顔でもない。

静かで、強い、そういう微笑みだった。

「宣言の日のことを」

その夜、エドワード・ヴァルト公爵は書斎で、
珍しく手が止まっていた。

資料が読めなかった。
今日のリーゼロッテの顔が、頭から離れなかった。
変わった。

でも何が変わったのか、分からなかった。
ドレスの色。立ち振る舞い。微笑み方。
全部、少しずつ違う。
しかし一番違うのは、そういうことではない気がした。
(何だろう)

エドワードはペンを置いた。
窓の外の夜を見た。
(二年間で、思い出せる場面が少なすぎる)
その事実が、今夜は妙に、重かった。
――見ていなかったのだ、と。

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