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第十五章「出会いの予感」
アレクシスが帰国した翌朝、王都は静かだった。
三週間の賑わいが嘘のように、街は年末の落ち着いた空気を取り戻していた。
リーゼロッテは朝食を一人で食べながら、窓の外を見ていた。
冬の空は今日も低く、灰色だった。
雪が降るかもしれない、とマリアが言っていた。
「お嬢様、今日のご予定ですが」
マリアが朝食の片付けをしながら言った。
「ヴェルナー様のところへ参ります」
「最終確認でございますか」
「ええ」
リーゼロッテはカップを置いた。
「それから、宣言の日を決めます」
マリアは片付ける手を止めた。
「……決めるのですか。いよいよ」
「ええ」
「いつ頃に、とお考えですか」
リーゼロッテは少し考えた。
「年が明けてから。一月の、大きな夜会の日に」
マリアは黙っていた。
「王都中の貴族が集まる場所で、王都中に聞こえる声で言いたいから」
「……はい」
「それが一番、完璧な形だと思うから」
マリアは深く頷いた。
「かしこまりました」
「怖い?」
「……はい、少し」
「私も少し、怖い」
マリアは顔を上げた。
「お嬢様も?」
「ええ」
リーゼロッテは微笑んだ。
「でも怖くても動ける、と十章で言ったでしょう」
マリアは少し笑った。
「……はい、言っていらっしゃいました」
「だから動く」
「はい、お嬢様」
「一緒に動いてくれる?」
「どこまでも」
マリアははっきりと言った。
前に言ったのと、同じ言葉で。
ヴェルナー老人の事務所は、年末の静けさの中にあった。
分厚い本が並んだ書斎で、老人はリーゼロッテを迎えた。
「いらっしゃいました。書類の最終確認でございますか」
「はい。それから、申請の日程についてもご相談したいことがあります」
「どうぞ、おかけください」
リーゼロッテは椅子に座った。
マリアは後ろで控えた。
ヴェルナーは金庫から書類を取り出した。
記録帳の内容を法的な書式に整えた、婚約解消申請書だった。
「先日から少し手を加えました。より明確な表現にしたところと、法的根拠の条文を追加したところがございます」
「拝見します」
リーゼロッテは書類を受け取り、読み始めた。
一ページ、また一ページ。
記録帳の内容が、法的な言葉に変換されていた。
感情は一行もない。
事実と、法律と、証拠だけが並んでいた。
読み終えた。
「完璧です」
ヴェルナーは少し目を細めた。
「お嬢様から『完璧』と言っていただけるとは」
「ヴェルナー様の仕事が完璧なのです」
「いいえ」
老人は首を振った。
「記録が完璧だったから、書類も完璧になった。土台が良ければ、建物も良くなります」
リーゼロッテは書類をテーブルに置いた。
「申請の日程のことですが」
「はい」
「一月の第二土曜日に、王都最大の夜会がございます」
「存じております。毎年恒例の冬の大夜会ですね」
「その夜に、申請を行いたいと思います」
ヴェルナーは少し考えた。
「夜会の席で、ですか」
「夜会の席で、公爵様に直接、婚約解消をお伝えします。同時に、書類が国王陛下のもとへ提出済みであることも」
「……なるほど」
「その前日に、書類を国王陛下の執務室に提出していただけますか」
「可能です。陛下の側近には、私からご連絡できます」
「お願いします」
ヴェルナーは手帳にメモを書き取りながら、静かに聞いた。
「夜会の席で直接お伝えになる理由は」
リーゼロッテは少し間を置いた。
「二年間、社交界の場で、ずっと完璧な婚約者を演じてきました」
「……はい」
「だから最後も、社交界の場で。完璧に、締めくくりたいのです」
ヴェルナーは手帳を閉じた。
老人の目が、少し細くなった。
「……分かりました」
静かに言った。
「一月の第二土曜日、前日に書類を提出します」
「ありがとうございます」
「ただ、一つだけ」
「はい」
「当日、何かあったとき。つまり、予期せぬことが起きたときは」
ヴェルナーは真剣な顔で言った。
「すぐに私に連絡をください。どんな時間でも参ります」
リーゼロッテは少し驚いた。
七十近い老人が、どんな時間でも、と言っていた。
「……ありがとうございます、ヴェルナー様」
「礼には及びません」
老人は少し照れたように、老眼鏡を拭いた。
「私もこの仕事をして四十年になりますが」
「はい」
「これほど筋の通った依頼を受けたのは、初めてです」
「筋が通っている、とは」
「感情で動いていない。でも、感情がないわけでもない」
ヴェルナーは静かに言った。
「怒りを記録に変えた。悲しみを準備に変えた。それでいて、最後まで品を失わなかった」
リーゼロッテは何も言えなかった。
「それが、筋が通っている、ということです」
帰り道の馬車の中で、マリアがそっと言った。
「ヴェルナー様、お嬢様のことをとても大切に思っていらっしゃいますね」
「そうかしら」
「はい。『どんな時間でも参ります』とおっしゃっていました」
「……そうね」
リーゼロッテは窓の外を見た。
王都の街が、年末の飾りつけで彩られていた。
「いい人に恵まれたわ」
「はい」
「ヴェルナー様も、あなたも」
マリアは少し間を置いた。
「お嬢様が、いい人を引きつけるのだと思います」
「そんなことは」
「いいえ、本当のことです」
マリアははっきりと言った。
「お嬢様が誠実だから、誠実な人が集まってくる」
リーゼロッテは少し考えた。
「……アレクシス殿下も、そうだったかしら」
「はい」
「殿下は誠実な方だったわ」
「はい」
「正直で、まっすぐで」
「はい」
マリアは少し笑った。
「お嬢様、今日で三回、殿下のお名前を出されましたよ」
「……数えていたの」
「はい」
「難儀な侍女ね」
「はい、存じております」
リーゼロッテは少し笑った。
本物の声で、少しだけ。
「でも」
「はい?」
「三回くらいは、いいでしょう」
マリアは目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「はい、もちろんでございます」
年が明けた。
新年の挨拶回りが続いた。
エドワードとの新年の面会もあった。
「今年もよろしく頼む、リーゼ」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします、公爵様」
いつもと変わらない挨拶だった。
しかしリーゼロッテの中では、全く違う言葉が響いていた。
(今年の一月で、全部終わる)
エドワードは知らなかった。
いつもと変わらない婚約者の微笑みを見ながら、何も知らなかった。
「最近、顔色がいいな」
エドワードが言った。
「そうですか」
「何かいいことでもあったか」
リーゼロッテは微笑んだ。
「さあ、どうかしら」
「いや、確かに変わった。何か、吹っ切れたような」
「公爵様の気のせいではないですか」
「……そうかもしれないが」
エドワードは少し首を傾けた。
「でも、変わった」
「変わったとすれば」
リーゼロッテは穏やかに言った。
「新しい年になったからでしょう」
「そうか」
「ええ」
(新しい年には、新しい自分になれるから)
心の中でだけ、付け加えた。
夜会まで、一週間になった。
リーゼロッテは自室の鏡の前に立った。
夜会に着ていくドレスを、確認するためだった。
ハンナが仕立てた、漆黒に近いダークグリーンのドレス。
最初に試着したとき、マリアが声を上げた。
今日も、マリアは声を上げた。
「……本当に、綺麗です、お嬢様」
「ありがとう」
「これを着て行かれるのですか、夜会に」
「ええ」
「公爵様は、また驚かれるでしょうね」
「そうかもしれない」
リーゼロッテは鏡の中の自分を見た。
ダークグリーンのドレス。
結い上げた黒髪。
侯爵家の紋章が入ったペンダント。
これが、宣言の夜に着る衣装だ。
(これでいい)
思った。
(アルテンベルク侯爵令嬢として、最後まで完璧に)
「マリア」
「はい」
「当日の段取りを確認しましょう」
「はい」
マリアは手帳を取り出した。
「まず、夜会の開始は夜の八時です」
「ええ」
「エドワード様との同行は、七時半に侯爵邸にお迎えが来る予定です」
「ええ」
「ヴェルナー様が前日に書類を提出されますので、当日の時点で書類はすでに国王陛下のもとに」
「ええ」
「あとは、お嬢様が宣言されるだけです」
リーゼロッテは鏡の中の自分を見た。
「あとは、私が宣言するだけ」
「はい」
「怖い?」
マリアは少し考えた。
「……正直に言いますか」
「ええ」
「怖いです。とても怖いです」
「そう」
「でも」
マリアははっきりと言った。
「やらなかったことの方が、もっと怖い、とお嬢様が言っていました」
リーゼロッテは少し笑った。
「覚えていてくれたのね」
「全部、覚えています」
「全部?」
「お嬢様がこの二年間でおっしゃった言葉を、全部」
リーゼロッテは鏡から視線を外し、マリアを見た。
「全部?」
「はい」
「それはまた、大変な記憶力ね」
「大切なことは忘れません」
マリアはまっすぐ言った。
「お嬢様の言葉は、全部大切なことだったので」
リーゼロッテは少し黙った。
それから、静かに言った。
「……ありがとう、マリア」
「いいえ」
「二年間、一緒にいてくれて」
「お礼を言うのは、こちらです」
マリアは深く頭を下げた。
「お嬢様のそばにいられて、よかった」
部屋に静寂が落ちた。
ダークグリーンのドレスが、ランプの明かりの中で静かに輝いていた。
夜会まで、三日になった。
リーゼロッテは父の書斎を訪ねた。
「お父様」
「ああ、入りなさい」
いつもの書斎。いつもの炎。亡き母の肖像画。
「一月の第二土曜日の夜会で、宣言します」
父は書類から顔を上げた。
「決めたか」
「はい」
「ヴェルナーには」
「前日に書類を提出していただけるよう、お願いしました」
「そうか」
父は少し黙った。
暖炉の炎を見た。
「一人で行くのか」
「エドワード様と同行する予定です。いつも通り」
「……その、いつも通りが、最後になるのだな」
「はい」
父はまた黙った。
リーゼロッテは肖像画の母を見た。
母は微笑んでいた。
「お父様」
「ああ」
「覚えていらっしゃいますか。以前、全部終わったら幸せかどうか答える、と言いました」
「覚えている」
「もうすぐ答えられます」
父は娘を見た。
深緑色の瞳で、じっと。
「……楽しみにしている」
リーゼロッテは微笑んだ。
「はい」
立ち上がった。
扉を開けようとしたとき、父が言った。
「リーゼロッテ」
「はい」
「お前は強い子だ」
リーゼロッテは少し間を置いた。
「お父様に、そう言っていただけるとは思っていませんでした」
「なぜだ」
「反対されると思っていたから」
「反対はしない、と言っただろう」
「はい」
「お前が決めたことだ」
父は書類に視線を戻した。
「ただ、一つだけ言っていいか」
「はい」
「その強さは、お前が一人で身につけたものじゃない」
リーゼロッテは振り返った。
「……どういう意味ですか」
「マリアがいた。ヴェルナーがいた。そして」
父は少し間を置いた。
「お前の母が、そういう娘に育てた」
リーゼロッテは何も言えなかった。
肖像画の母が、微笑んでいた。
「……はい」
静かに言った。
「そうですね」
扉を閉めた。
廊下に出た。
マリアが待っていた。
「お父様は、なんとおっしゃっていましたか」
「強い子だと」
「……そうですね」
「それから」
リーゼロッテは廊下を歩きながら言った。
「その強さは、一人で身につけたものじゃないと」
マリアは少し黙った。
「……お父様の言う通りです」
「ええ」
「お嬢様は一人じゃなかった」
「ええ」
リーゼロッテは前を向いたまま、静かに言った。
「だから、ここまで来られた」
夜会まで、あと一日になった。
ヴェルナーから使いが来た。
「書類、提出いたしました。国王陛下の側近が受理されました」
それだけだった。
リーゼロッテはその報告を聞いて、少し目を閉じた。
(もう、後戻りできない)
思った。
怖かった。
本当に、少し、怖かった。
でも。
(後戻りするつもりは、ない)
目を開けた。
マリアを見た。
「書類が提出されたわ」
「……はい」
「明日よ、マリア」
「はい、お嬢様」
「一緒に来てくれる?」
「もちろんでございます」
マリアははっきりと言った。
「どこまでも」
リーゼロッテは微笑んだ。
「ありがとう」
「いいえ」
「二年間、本当に」
「お嬢様」
マリアは少し声を詰まらせながら言った。
「全部終わってから、お礼は言ってください」
「なぜ?」
「今言われると、泣いてしまうので」
リーゼロッテは少し笑った。
「では、明日終わってから」
「はい」
「約束よ」
「はい、お嬢様」
その夜、リーゼロッテは机に向かった。
白い紙を一枚取り出した。
今日の日付を書いた。
それから、書いた。
明日、宣言する。
二年間の準備が、明日終わる。
怖い。でも、やる。
泣くのは、全部終わってから。
書き終えた。
折りたたんだ。
引き出しにしまった。
立ち上がり、窓の外を見た。
夜空に、星が出ていた。
二年前の誕生日の夜。
蝋燭が溶け切って、ペンを取ったあの夜から、ずっと見てきた星だ。
(明日で、終わる)
思った。
(いや)
訂正した。
(明日から、始まる)
蝋燭を吹き消した。
暗くなった部屋の中で、リーゼロッテは目を閉じた。
眠れないかもしれないと思っていた。
しかし。
(不思議と、眠れそうだわ)
思った。
(二年間、ずっと続けてきたから)
(明日のために、ずっと準備してきたから)
(怖いけれど、大丈夫)
(怖いけれど、やれる)
リーゼロッテは闇の中で、静かに微笑んだ。
本物の顔で。
(さあ)
(明日、宣言しましょう)
その夜、王都は静かだった。
雪が降り始めていた。
初雪だった。
マリアは自室の窓から、雪を見ながら日記に書いた。
明日、お嬢様が宣言される。
二年間の準備が、明日終わる。
怖い。
でも、お嬢様が怖くても動けると言っていた。
私も、怖くても一緒にいる。
それだけは、約束できる。
ペンを置いた。
窓の外の雪を見た。
初雪は、いつも静かだ。
音もなく、ただ白く、降り積もる。
(お嬢様みたいだ)
マリアは思った。
静かで、白くて、でも確かに積もる)
三週間の賑わいが嘘のように、街は年末の落ち着いた空気を取り戻していた。
リーゼロッテは朝食を一人で食べながら、窓の外を見ていた。
冬の空は今日も低く、灰色だった。
雪が降るかもしれない、とマリアが言っていた。
「お嬢様、今日のご予定ですが」
マリアが朝食の片付けをしながら言った。
「ヴェルナー様のところへ参ります」
「最終確認でございますか」
「ええ」
リーゼロッテはカップを置いた。
「それから、宣言の日を決めます」
マリアは片付ける手を止めた。
「……決めるのですか。いよいよ」
「ええ」
「いつ頃に、とお考えですか」
リーゼロッテは少し考えた。
「年が明けてから。一月の、大きな夜会の日に」
マリアは黙っていた。
「王都中の貴族が集まる場所で、王都中に聞こえる声で言いたいから」
「……はい」
「それが一番、完璧な形だと思うから」
マリアは深く頷いた。
「かしこまりました」
「怖い?」
「……はい、少し」
「私も少し、怖い」
マリアは顔を上げた。
「お嬢様も?」
「ええ」
リーゼロッテは微笑んだ。
「でも怖くても動ける、と十章で言ったでしょう」
マリアは少し笑った。
「……はい、言っていらっしゃいました」
「だから動く」
「はい、お嬢様」
「一緒に動いてくれる?」
「どこまでも」
マリアははっきりと言った。
前に言ったのと、同じ言葉で。
ヴェルナー老人の事務所は、年末の静けさの中にあった。
分厚い本が並んだ書斎で、老人はリーゼロッテを迎えた。
「いらっしゃいました。書類の最終確認でございますか」
「はい。それから、申請の日程についてもご相談したいことがあります」
「どうぞ、おかけください」
リーゼロッテは椅子に座った。
マリアは後ろで控えた。
ヴェルナーは金庫から書類を取り出した。
記録帳の内容を法的な書式に整えた、婚約解消申請書だった。
「先日から少し手を加えました。より明確な表現にしたところと、法的根拠の条文を追加したところがございます」
「拝見します」
リーゼロッテは書類を受け取り、読み始めた。
一ページ、また一ページ。
記録帳の内容が、法的な言葉に変換されていた。
感情は一行もない。
事実と、法律と、証拠だけが並んでいた。
読み終えた。
「完璧です」
ヴェルナーは少し目を細めた。
「お嬢様から『完璧』と言っていただけるとは」
「ヴェルナー様の仕事が完璧なのです」
「いいえ」
老人は首を振った。
「記録が完璧だったから、書類も完璧になった。土台が良ければ、建物も良くなります」
リーゼロッテは書類をテーブルに置いた。
「申請の日程のことですが」
「はい」
「一月の第二土曜日に、王都最大の夜会がございます」
「存じております。毎年恒例の冬の大夜会ですね」
「その夜に、申請を行いたいと思います」
ヴェルナーは少し考えた。
「夜会の席で、ですか」
「夜会の席で、公爵様に直接、婚約解消をお伝えします。同時に、書類が国王陛下のもとへ提出済みであることも」
「……なるほど」
「その前日に、書類を国王陛下の執務室に提出していただけますか」
「可能です。陛下の側近には、私からご連絡できます」
「お願いします」
ヴェルナーは手帳にメモを書き取りながら、静かに聞いた。
「夜会の席で直接お伝えになる理由は」
リーゼロッテは少し間を置いた。
「二年間、社交界の場で、ずっと完璧な婚約者を演じてきました」
「……はい」
「だから最後も、社交界の場で。完璧に、締めくくりたいのです」
ヴェルナーは手帳を閉じた。
老人の目が、少し細くなった。
「……分かりました」
静かに言った。
「一月の第二土曜日、前日に書類を提出します」
「ありがとうございます」
「ただ、一つだけ」
「はい」
「当日、何かあったとき。つまり、予期せぬことが起きたときは」
ヴェルナーは真剣な顔で言った。
「すぐに私に連絡をください。どんな時間でも参ります」
リーゼロッテは少し驚いた。
七十近い老人が、どんな時間でも、と言っていた。
「……ありがとうございます、ヴェルナー様」
「礼には及びません」
老人は少し照れたように、老眼鏡を拭いた。
「私もこの仕事をして四十年になりますが」
「はい」
「これほど筋の通った依頼を受けたのは、初めてです」
「筋が通っている、とは」
「感情で動いていない。でも、感情がないわけでもない」
ヴェルナーは静かに言った。
「怒りを記録に変えた。悲しみを準備に変えた。それでいて、最後まで品を失わなかった」
リーゼロッテは何も言えなかった。
「それが、筋が通っている、ということです」
帰り道の馬車の中で、マリアがそっと言った。
「ヴェルナー様、お嬢様のことをとても大切に思っていらっしゃいますね」
「そうかしら」
「はい。『どんな時間でも参ります』とおっしゃっていました」
「……そうね」
リーゼロッテは窓の外を見た。
王都の街が、年末の飾りつけで彩られていた。
「いい人に恵まれたわ」
「はい」
「ヴェルナー様も、あなたも」
マリアは少し間を置いた。
「お嬢様が、いい人を引きつけるのだと思います」
「そんなことは」
「いいえ、本当のことです」
マリアははっきりと言った。
「お嬢様が誠実だから、誠実な人が集まってくる」
リーゼロッテは少し考えた。
「……アレクシス殿下も、そうだったかしら」
「はい」
「殿下は誠実な方だったわ」
「はい」
「正直で、まっすぐで」
「はい」
マリアは少し笑った。
「お嬢様、今日で三回、殿下のお名前を出されましたよ」
「……数えていたの」
「はい」
「難儀な侍女ね」
「はい、存じております」
リーゼロッテは少し笑った。
本物の声で、少しだけ。
「でも」
「はい?」
「三回くらいは、いいでしょう」
マリアは目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「はい、もちろんでございます」
年が明けた。
新年の挨拶回りが続いた。
エドワードとの新年の面会もあった。
「今年もよろしく頼む、リーゼ」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします、公爵様」
いつもと変わらない挨拶だった。
しかしリーゼロッテの中では、全く違う言葉が響いていた。
(今年の一月で、全部終わる)
エドワードは知らなかった。
いつもと変わらない婚約者の微笑みを見ながら、何も知らなかった。
「最近、顔色がいいな」
エドワードが言った。
「そうですか」
「何かいいことでもあったか」
リーゼロッテは微笑んだ。
「さあ、どうかしら」
「いや、確かに変わった。何か、吹っ切れたような」
「公爵様の気のせいではないですか」
「……そうかもしれないが」
エドワードは少し首を傾けた。
「でも、変わった」
「変わったとすれば」
リーゼロッテは穏やかに言った。
「新しい年になったからでしょう」
「そうか」
「ええ」
(新しい年には、新しい自分になれるから)
心の中でだけ、付け加えた。
夜会まで、一週間になった。
リーゼロッテは自室の鏡の前に立った。
夜会に着ていくドレスを、確認するためだった。
ハンナが仕立てた、漆黒に近いダークグリーンのドレス。
最初に試着したとき、マリアが声を上げた。
今日も、マリアは声を上げた。
「……本当に、綺麗です、お嬢様」
「ありがとう」
「これを着て行かれるのですか、夜会に」
「ええ」
「公爵様は、また驚かれるでしょうね」
「そうかもしれない」
リーゼロッテは鏡の中の自分を見た。
ダークグリーンのドレス。
結い上げた黒髪。
侯爵家の紋章が入ったペンダント。
これが、宣言の夜に着る衣装だ。
(これでいい)
思った。
(アルテンベルク侯爵令嬢として、最後まで完璧に)
「マリア」
「はい」
「当日の段取りを確認しましょう」
「はい」
マリアは手帳を取り出した。
「まず、夜会の開始は夜の八時です」
「ええ」
「エドワード様との同行は、七時半に侯爵邸にお迎えが来る予定です」
「ええ」
「ヴェルナー様が前日に書類を提出されますので、当日の時点で書類はすでに国王陛下のもとに」
「ええ」
「あとは、お嬢様が宣言されるだけです」
リーゼロッテは鏡の中の自分を見た。
「あとは、私が宣言するだけ」
「はい」
「怖い?」
マリアは少し考えた。
「……正直に言いますか」
「ええ」
「怖いです。とても怖いです」
「そう」
「でも」
マリアははっきりと言った。
「やらなかったことの方が、もっと怖い、とお嬢様が言っていました」
リーゼロッテは少し笑った。
「覚えていてくれたのね」
「全部、覚えています」
「全部?」
「お嬢様がこの二年間でおっしゃった言葉を、全部」
リーゼロッテは鏡から視線を外し、マリアを見た。
「全部?」
「はい」
「それはまた、大変な記憶力ね」
「大切なことは忘れません」
マリアはまっすぐ言った。
「お嬢様の言葉は、全部大切なことだったので」
リーゼロッテは少し黙った。
それから、静かに言った。
「……ありがとう、マリア」
「いいえ」
「二年間、一緒にいてくれて」
「お礼を言うのは、こちらです」
マリアは深く頭を下げた。
「お嬢様のそばにいられて、よかった」
部屋に静寂が落ちた。
ダークグリーンのドレスが、ランプの明かりの中で静かに輝いていた。
夜会まで、三日になった。
リーゼロッテは父の書斎を訪ねた。
「お父様」
「ああ、入りなさい」
いつもの書斎。いつもの炎。亡き母の肖像画。
「一月の第二土曜日の夜会で、宣言します」
父は書類から顔を上げた。
「決めたか」
「はい」
「ヴェルナーには」
「前日に書類を提出していただけるよう、お願いしました」
「そうか」
父は少し黙った。
暖炉の炎を見た。
「一人で行くのか」
「エドワード様と同行する予定です。いつも通り」
「……その、いつも通りが、最後になるのだな」
「はい」
父はまた黙った。
リーゼロッテは肖像画の母を見た。
母は微笑んでいた。
「お父様」
「ああ」
「覚えていらっしゃいますか。以前、全部終わったら幸せかどうか答える、と言いました」
「覚えている」
「もうすぐ答えられます」
父は娘を見た。
深緑色の瞳で、じっと。
「……楽しみにしている」
リーゼロッテは微笑んだ。
「はい」
立ち上がった。
扉を開けようとしたとき、父が言った。
「リーゼロッテ」
「はい」
「お前は強い子だ」
リーゼロッテは少し間を置いた。
「お父様に、そう言っていただけるとは思っていませんでした」
「なぜだ」
「反対されると思っていたから」
「反対はしない、と言っただろう」
「はい」
「お前が決めたことだ」
父は書類に視線を戻した。
「ただ、一つだけ言っていいか」
「はい」
「その強さは、お前が一人で身につけたものじゃない」
リーゼロッテは振り返った。
「……どういう意味ですか」
「マリアがいた。ヴェルナーがいた。そして」
父は少し間を置いた。
「お前の母が、そういう娘に育てた」
リーゼロッテは何も言えなかった。
肖像画の母が、微笑んでいた。
「……はい」
静かに言った。
「そうですね」
扉を閉めた。
廊下に出た。
マリアが待っていた。
「お父様は、なんとおっしゃっていましたか」
「強い子だと」
「……そうですね」
「それから」
リーゼロッテは廊下を歩きながら言った。
「その強さは、一人で身につけたものじゃないと」
マリアは少し黙った。
「……お父様の言う通りです」
「ええ」
「お嬢様は一人じゃなかった」
「ええ」
リーゼロッテは前を向いたまま、静かに言った。
「だから、ここまで来られた」
夜会まで、あと一日になった。
ヴェルナーから使いが来た。
「書類、提出いたしました。国王陛下の側近が受理されました」
それだけだった。
リーゼロッテはその報告を聞いて、少し目を閉じた。
(もう、後戻りできない)
思った。
怖かった。
本当に、少し、怖かった。
でも。
(後戻りするつもりは、ない)
目を開けた。
マリアを見た。
「書類が提出されたわ」
「……はい」
「明日よ、マリア」
「はい、お嬢様」
「一緒に来てくれる?」
「もちろんでございます」
マリアははっきりと言った。
「どこまでも」
リーゼロッテは微笑んだ。
「ありがとう」
「いいえ」
「二年間、本当に」
「お嬢様」
マリアは少し声を詰まらせながら言った。
「全部終わってから、お礼は言ってください」
「なぜ?」
「今言われると、泣いてしまうので」
リーゼロッテは少し笑った。
「では、明日終わってから」
「はい」
「約束よ」
「はい、お嬢様」
その夜、リーゼロッテは机に向かった。
白い紙を一枚取り出した。
今日の日付を書いた。
それから、書いた。
明日、宣言する。
二年間の準備が、明日終わる。
怖い。でも、やる。
泣くのは、全部終わってから。
書き終えた。
折りたたんだ。
引き出しにしまった。
立ち上がり、窓の外を見た。
夜空に、星が出ていた。
二年前の誕生日の夜。
蝋燭が溶け切って、ペンを取ったあの夜から、ずっと見てきた星だ。
(明日で、終わる)
思った。
(いや)
訂正した。
(明日から、始まる)
蝋燭を吹き消した。
暗くなった部屋の中で、リーゼロッテは目を閉じた。
眠れないかもしれないと思っていた。
しかし。
(不思議と、眠れそうだわ)
思った。
(二年間、ずっと続けてきたから)
(明日のために、ずっと準備してきたから)
(怖いけれど、大丈夫)
(怖いけれど、やれる)
リーゼロッテは闇の中で、静かに微笑んだ。
本物の顔で。
(さあ)
(明日、宣言しましょう)
その夜、王都は静かだった。
雪が降り始めていた。
初雪だった。
マリアは自室の窓から、雪を見ながら日記に書いた。
明日、お嬢様が宣言される。
二年間の準備が、明日終わる。
怖い。
でも、お嬢様が怖くても動けると言っていた。
私も、怖くても一緒にいる。
それだけは、約束できる。
ペンを置いた。
窓の外の雪を見た。
初雪は、いつも静かだ。
音もなく、ただ白く、降り積もる。
(お嬢様みたいだ)
マリアは思った。
静かで、白くて、でも確かに積もる)
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