大人しい令嬢は怒りません。ただ二年間、準備していただけです。――婚約解消の申請が受理されましたので、失礼いたします

柴田はつみ

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第十六章 宣言の朝

目が覚めたのは、夜明け前だった。

眠れないかもしれない、と思っていた。

しかし実際には、深く眠った。

夢も見なかった。

ただ、暗い中に沈んで、朝になったら目が覚めた。

リーゼロッテはしばらく、天井を見ていた。

部屋は静かだった。

窓の外が、少しずつ白んでいた。

(今日だ)

思った。

怖かった。

昨夜と同じように、少し、怖かった。

でも。

(今日が来た)

それだけだった。

二年間、準備してきた今日が、来た。

起き上がり、窓を開けた。

冷たい空気が流れ込んできた。

外は雪だった。

昨夜から降り続けていた雪が、王都を白く覆っていた。

屋根も、石畳も、庭園の木々も、全部、静かに白かった。

(初雪が、まだ残っているのね)

リーゼロッテは冷たい空気を吸い込んだ。

胸の中が、少し澄んだ気がした。

マリアが来たのは、それから間もなくだった。

扉をノックする音がした。

「お嬢様、起きていらっしゃいますか」

「ええ、入って」

扉が開いた。

マリアは盆に朝食を乗せて入ってきた。

リーゼロッテの顔を見た瞬間、少し安堵した顔になった。

「眠れましたか?」

「よく眠れたわ」

「本当に?」

「本当に」

「……よかった」

マリアは盆をテーブルに置いた。

「私は眠れませんでした」

「そう」

「夜中に三回、目が覚めました」

「それは大変ね」

「お嬢様が平然としていらっしゃるのに、侍女が眠れないというのも」

「いいえ」

リーゼロッテは椅子に座りながら言った。

「あなたが眠れなかった分、私がよく眠れたのかもしれない」

マリアは少し笑った。

「……そういうものでしょうか」

「そういうものよ」

リーゼロッテはパンを手に取った。

「朝食を食べましょう。今日は長い一日になるから」

朝食を終えた後、リーゼロッテは机に向かった。

引き出しを開けた。

昨夜書いた白い紙を取り出した。

開いた。

明日、宣言する。
二年間の準備が、明日終わる。
怖い。でも、やる。
泣くのは、全部終わってから。

読み終えた。

折りたたんで、また引き出しにしまった。

それから、もう一枚、白い紙を取り出した。

ペンを取った。

今日の日付を書いた。

一行だけ書いた。

今日、宣言する。

それだけ書いた。

昨夜の紙と同じ引き出しにしまった。

鍵をかけた。

(帰ってきたら、読み返しましょう)

全部終わってから。

午前中は、普段通りに過ごした。

刺繍をした。

本を読んだ。

孤児院から届いた手紙に返事を書いた。

マリアは傍で控えながら、時々リーゼロッテを見た。

「お嬢様、緊張していらっしゃいますか」

「少し」

「顔に出ていませんね」

「出したら負けよ」

「誰に?」

リーゼロッテは少し考えた。

「……自分に、かしら」

マリアは黙った。

「緊張しているのを自分で認めたら、もっと緊張するから」

「なるほど」

「だから、普段通りにしているの」

「刺繍の針が、少し震えていましたが」

「……見ていたの」

「はい」

リーゼロッテは刺繍の枠を置いた。

「難儀な侍女ね」

「はい、存じております」

「でも」

「はい?」

「気づいてくれる人がいると、楽になるわ」

マリアは少し黙った。

「……はい」

「震えていると気づいてくれると、少し楽になる」

「それは、よかったです」

「ありがとう、マリア」

「全部終わってから、お礼は」

「昨夜も同じことを言われたわ」

「はい」

「じゃあ、全部終わってから改めて言うわ」

「はい、お待ちしております」

午後になった。

ヴェルナーから使いが来た。

「本日、改めてご確認の連絡でございます。書類は昨日、確かに国王陛下の側近に受理されました。全て、予定通りでございます」

リーゼロッテは使いに答えた。

「ヴェルナー様にお伝えください。ありがとうございます、と」

使いが去った。

マリアが言った。

「これで、本当に」

「ええ」

「後戻りは」

「できない」

リーゼロッテはそれを聞いて、不思議と穏やかだった。

後戻りできない、という事実が。

怖さを増やさなかった。

むしろ、少し楽になった。

(もう、迷う必要がない)

そういうことだから。

夕方になった。

支度を始める時間だった。

マリアが衣装箱を開けた。

ダークグリーンのドレスが、静かにそこにあった。

「お召しになりますか」

「ええ」

リーゼロッテは立ち上がった。

鏡の前に立った。

マリアがドレスを手伝ってくれた。

深い緑色の布が、体を包んだ。

侯爵家の紋章が入ったペンダントをつけた。

髪を結い上げた。

仕上げに、細いリボンを留めた。

マリアが後ろで、しばらく黙っていた。

「……お嬢様」

「なに?」

「今日は、また違いますね」

「どう違う?」

「ガーネットレッドを初めて着た日も綺麗でした。でも今日は」

マリアは言葉を探した。

「覚悟が、見えます」

リーゼロッテは鏡の中の自分を見た。

ダークグリーンのドレス。

結い上げた黒髪。

侯爵家のペンダント。

そして、自分の顔。

怖いか、と問われれば、怖い。

震えているか、と問われれば、少し震えている。

それでも。

(これが、私の顔だ)

思った。

仮面ではない。

二年間で身につけた、本物の自分の顔だ。

「いいわ」

「はい」

「参りましょう、マリア」

「はい、お嬢様」

玄関を出ると、エドワードの馬車が来ていた。

七時半、予定通りだった。

エドワードが馬車から降りてきた。

リーゼロッテを見た。

「……そのドレスは」

「新しく仕立てたものです」

「また随分と」

「夜会ですから」

エドワードは少し黙った。

何か言おうとした。

リーゼロッテは先に言った。

「馬車が冷えますよ、公爵様。参りましょう」

「ああ、そうだな」

二人で馬車に乗り込んだ。

マリアは別の馬車で後に続いた。

馬車が動き始めた。

エドワードは窓の外を見ながら言った。

「今日は大きな夜会だ。国王陛下もいらっしゃる」

「存じております」

「緊張しているか」

「少し」

「君が緊張するのは珍しいな」

「そうでしょうか」

「いつも完璧だから」

リーゼロッテは窓の外を見た。

雪に覆われた王都が、夜の灯りに照らされていた。

「今日は、少し違う夜になるかもしれませんね」

「違う夜?」

「ええ」

「どういう意味だ」

リーゼロッテは微笑んだ。

完璧に。一点の曇りもなく。

「さあ、どうかしら」

エドワードは少し首を傾けたが、それ以上聞かなかった。

馬車が、王宮へ向かって進んでいく。

石畳の音が響いた。

リーゼロッテは窓の外の雪を見ながら、心の中で静かに数えた。

(あと、少し)

(もう少しで、全部終わる)

(いや)

また、訂正した。

(もう少しで、全部始まる)

王宮の灯りが、近づいてきた。

大夜会の光が、夜の雪に反射して、遠くからでも輝いて見えた。

リーゼロッテは馬車の窓から、その光を見た。

二年間、婚約者として来続けた場所だった。

今夜が、最後になる。

いや。

(今夜が、最初になる)

アルテンベルク侯爵令嬢リーゼロッテとして、自分の足で立つ、最初の夜に。

「着いたな」

エドワードが言った。

「ええ」

馬車が止まった。

扉が開いた。

リーゼロッテは手を取られながら、馬車を降りた。

冷たい夜の空気が、頬に触れた。

雪の白さが、足元に広がっていた。

王宮の大扉が、目の前にあった。

(行きましょう)

リーゼロッテは前を向いた。

エドワードの隣に並んだ。

完璧な婚約者の顔で、最後の夜会へ向かった。

大扉をくぐった瞬間、マリアがそっと後ろについた。

誰にも聞こえない声で、小さく言った。

「お嬢様、ご武運を」

リーゼロッテは前を向いたまま、ほんの少しだけ頷いた。

それだけで、十分だった。

王宮の大広間は、光に満ちていた。
無数の蝋燭。正装した貴族たち。
華やかな音楽。笑い声。

いつもと変わらない夜会の風景だった。
しかしリーゼロッテには、今夜は全てが
少し違って見えた。

遠くから見ているような、透明な感覚。
(これが)
思った。

(二年間、準備してきた夜だ)
蝋燭の炎が、揺れていた。

あの夜の、溶け切った蝋燭を思い出した。
暗くなった個室で、ペンを取ったあの夜を。
(あの夜から、今夜まで)

リーゼロッテは大広間を見渡した。
微笑んでいた。
完璧に。

一点の曇りもなく。
――ただし今夜の完璧さは、仮面ではなかった。

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