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第十九章「エドワードの朝
エドワード・ヴァルト公爵が目を覚ましたのは、夜明け前だった。
眠れなかった。
正確には、眠ろうとしたが、眠れなかった。
天井を見ていた。
暗い天井を、ずっと見ていた。
(八十七項)
その数字が、頭から離れなかった。
夜会が終わってから、ずっと。
馬車に乗っている間も。
帰宅してからも。
書斎に座っていても。
八十七。
八十七項。
二年間で、八十七項。
起き上がった。
窓を開けた。
冷たい空気が流れ込んできた。
雪が降っていた。
白い雪が、王都を静かに覆っていた。
エドワードはその雪を見ながら、思った。
(第一項は、誕生日のディナーだと言っていた)
思い返した。
あの夜のことを。
クロエから使いが来た。
すぐ戻ると言った。
三時間、戻らなかった。
(三時間)
リーゼロッテは三時間、一人で待っていた。
蝋燭が溶け切るまで。
そのとき自分は何を思っていたか。
(君は大丈夫だろう、と言った)
エドワードは窓枠を、静かに握りしめた。
(大丈夫だろう、か)
大丈夫かどうか、聞いたことがなかった。
いつも、大丈夫だと決めつけていた。
なぜか。
(怒らなかったから)
(泣かなかったから)
(責めなかったから)
だから、大丈夫だと思っていた。
大丈夫じゃないとは、思いもしなかった。
書斎に行った。
侍従がすぐに灯りをつけに来た。
「公爵様、こんな時間に」
「下がっていい」
「しかし」
「下がれ」
侍従は引き下がった。
エドワードは一人で、書斎に座った。
机の上に、何もなかった。
引き出しを開けた。
何かを探した。
何を探しているのか、自分でも分からなかった。
(八十七項の記録が、見たい)
思った。
しかし、記録帳はヴェルナー老人の金庫の中だと、国王陛下が言っていた。
つまり、自分には見ることができない。
(見る権利が、もうない)
当然だ、と思った。
夜明けになった。
侍従が朝食を持ってきた。
「公爵様、お召し上がりになりますか」
「後でいい」
「昨夜から何も召し上がっていませんが」
「後でいいと言った」
侍従は黙って下がった。
エドワードは窓の外を見た。
雪が、まだ降っていた。
(リーゼロッテは今、何をしているだろう)
思った。
思ってから、気づいた。
(こんなことを考えるのは、初めてだ)
二年間、リーゼロッテが今何をしているか、考えたことがなかった。
面会の日以外、リーゼロッテのことを考えたことが、ほとんどなかった。
(なぜだろう)
答えは分かっていた。
考える必要がなかったから。
リーゼロッテはいつもそこにいた。
完璧な婚約者として。
完璧な笑顔で。
怒らず、泣かず、責めず。
だから安心しきっていた。
(安心しきっていた、か)
窓の外の雪を見た。
(それが、どれほど傲慢なことだったか)
昼前になって、クロエから使いが来た。
「クロエ様が、お会いしたいとのことでございます」
エドワードは少し間を置いた。
今まで、クロエからの使いには必ず応じていた。
どんな時間でも。
どんな状況でも。
しかし今日は。
「……後日にしてくれ」
侍従は目を丸くした。
「よろしいのですか」
「ああ」
「クロエ様が、急ぎとのことで」
「後日だ」
侍従は引き下がった。
エドワードは書斎の椅子に座ったまま、動かなかった。
クロエからの使いを断ったのは、二年間で初めてだった。
(初めて、か)
また、その言葉が返ってきた。
初めてだらけだった。
リーゼロッテを正面から見たのも、初めて。
名前をフルネームで呼んだのも、初めて。
そして昨夜、扉が閉まるのを見送ったのも。
(初めて、リーゼロッテの背中を見た)
今まで、リーゼロッテが去っていく背中を、見たことがなかった。
いつも自分が先に行っていたから。
クロエのところへ。
会議へ。
別の場所へ。
(リーゼロッテは、いつも待っていたのだ)
(私が去っていく背中を、ずっと見送っていたのだ)
午後になった。
エドワードは馬車を呼んだ。
「アルテンベルク侯爵邸へ」
侍従が驚いた顔をした。
「今からでございますか」
「ああ」
「しかし、昨夜のことがございましたので、今日は」
「行く」
馬車が用意された。
エドワードは乗り込んだ。
馬車が動き始めた。
窓の外に、雪の王都が広がっていた。
(何を言うつもりだ)
自分に問いかけた。
謝りに行くのか。
取り戻しに行くのか。
(……分からない)
ただ、動かずにはいられなかった。
書斎に座って天井を見ているより、動いていた方が、まだ良かった。
アルテンベルク侯爵邸の門前に、馬車が止まった。
エドワードが降りようとした、その瞬間。
門番が出てきた。
「公爵様、本日はお嬢様はお会いになれないとのことで」
エドワードは立ち止まった。
「侯爵様は」
「侯爵様も、本日はご不在でございます」
エドワードは門を見た。
閉まっていた。
白い雪が、門の前に積もっていた。
「……そうか」
「申し訳ございません」
「いや、こちらこそ突然来て」
エドワードは馬車に戻った。
扉を閉めた。
「お戻りになりますか」
御者が聞いた。
「……ああ」
馬車が動き始めた。
エドワードは窓の外を見た。
遠ざかる侯爵邸の門が、雪の中に消えていった。
(当然だ)
思った。
(会ってもらえる理由が、もうない)
帰宅して、書斎に戻った。
机に向かった。
紙を取り出した。
ペンを取った。
何かを書こうとした。
手が、止まった。
(何を書く)
謝罪の手紙か。
しかし謝って、どうなる。
記録帳の八十七項が、消えるわけではない。
二年間が、なかったことになるわけではない。
エドワードはペンを持ったまま、昨夜の宣言の言葉を思い返した。
リーゼロッテは、クロエの名前を出した。
しかし責めなかった。
「クロエ様のために席を外した」という事実を述べただけだった。
「あなたが悪い」とは、一言も言わなかった。
全ての矛先を、エドワードだけに向けた。
(そうだ)
エドワードは思った。
(リーゼロッテが責めたのは、私だけだ)
クロエではない。
選び続けた自分だけを、責めた。
それが、正しかった。
クロエは何も強制していない。
エドワードが、自分で選んでいたのだから。
(全部、私が選んだのだ)
ペンを置いた。
紙を、引き出しにしまった。
何も書かなかった。
書けなかった。
書く言葉が、自分にはなかった。
夜になった。
クロエから、また使いが来た。
今度は手紙だった。
封を開けた。
読んだ。
エドワード様、昨夜のことで、お話ししたいことがあります。リーゼロッテ様が、あんなことをするなんて。私のせいだと言われているようで、辛くて。会っていただけませんか。クロエ
エドワードは手紙を読み終えた。
しばらく、その文字を見ていた。
今まで、クロエからの手紙は必ず読み返していた。
何度も、読み返していた。
今夜は、一度読んで、机に置いた。
(私のせいだと言われているようで、辛い)
その一文が、引っかかった。
リーゼロッテは昨夜、クロエを直接責めなかった。
名前を出したのは、事実の説明のためだけだった。
「あなたが悪い」とは、一言も言わなかった。
全ての矛先を、エドワードだけに向けた。
それなのに。
(クロエは、自分が責められていると感じている)
なぜか。
(……心当たりがあるから、ではないか)
エドワードはその考えを、すぐに打ち消した。
しかし。
打ち消した後も、また戻ってきた。
(二年間、私はクロエとリーゼロッテを、正しく見ていたのだろうか)
深夜になった。
エドワードは書斎で、一人でいた。
机の上に、何も置いていなかった。
ただ、ぼんやりと、ランプの炎を見ていた。
炎が揺れた。
(蝋燭が、溶け切った)
リーゼロッテの言葉ではない。
自分が思い出した言葉だ。
誕生日の夜。
個室に一人残して、三時間戻らなかった夜。
あのとき、蝋燭は溶け切っていた。
戻ったとき、暗くなっていた部屋に、リーゼロッテがいた。
笑顔で、座っていた。
「大丈夫でございます」
そう言っていた。
(大丈夫ではなかったのだ)
ずっと、大丈夫ではなかったのだ。
ただ、言わなかっただけで。
言えない状況を、自分が作っていただけで。
エドワードはランプの炎を見たまま、静かに思った。
(私は二年間、何をしていたのだろう)
答えは分かっていた。
見ていなかったのだ。
ずっと、見ていなかったのだ。
隣にいたのに。
婚約者だったのに。
名前すら、ちゃんと呼んでいなかった。
(リーゼ、と呼んでいた)
勝手に短くして、それで満足していた。
(リーゼロッテ、と呼んだのは)
昨夜が、初めてだった。
全部終わってから、初めて呼んだ。
遅すぎた。
明け方近くになって、エドワードはペンを取った。
紙を出した。
手紙を書こうとした。
謝罪でもない。
懇願でもない。
ただ、書きたかった。
しかし。
書き始めて、止まった。
(何を書いても)
思った。
(言い訳になる)
どんな言葉も、今となっては言い訳だった。
知らなかった、は言い訳だ。
気づかなかった、は言い訳だ。
クロエがいたから、は最大の言い訳だ。
全部、自分が選んでいたことだから。
クロエを優先することを、自分が選んでいた。
リーゼロッテを後回しにすることを、自分が選んでいた。
誰かに強制されたわけではない。
(全部、私が選んだのだ)
ペンを置いた。
紙を、そのままにした。
何も書かなかった。
書けなかった。
書く言葉が、自分にはなかった。
夜明けが来た。
二日目の朝が来た。
エドワードは書斎で、夜を明かしていた。
窓の外が、白んでいた。
雪は、もう止んでいた。
昨日降り積もった雪が、朝の光に照らされて、静かに輝いていた。
(綺麗だ)
思った。
思ってから、また思った。
(リーゼロッテは、この雪を見ているだろうか)
見ているだろう、と思った。
朝が来るたびに、窓を開けて外を見る人だった気がした。
気がした、というのは、確かめたことがないからだ。
そんな些細なことすら、知らなかった。
(知ろうとしなかった)
エドワードは立ち上がった。
窓を開けた。
冷たい空気が、流れ込んできた。
雪の匂いがした。
「公爵様」
侍従が慌てて近づいてきた。
「お体に障ります、窓を」
「少しだけ、いい」
侍従は黙った。
エドワードは冷たい空気を吸いながら、雪の王都を見た。
白く、静かな朝だった。
(何かを、変えなければいけない)
思った。
リーゼロッテを取り戻す、という意味ではない。
それはもう、できないことだと分かっていた。
ただ。
(このままではいけない)
昨日と同じ自分のままでは、いけない。
クロエを優先し続け、リーゼロッテを見なかった自分のままでは。
何かを、変えなければいけない。
何を、どう変えるのかは、まだ分からなかった。
ただ、そう思った。
その朝、エドワードは初めてクロエへの返事を書かなかった。
そして初めて、自分の行動を振り返る時間を、作った。
侍従に言った。
「今日の予定を、全て空けてくれ」
「全てですか? しかし大臣との会合が」
「延期してくれ」
「……かしこまりました」
エドワードは書斎の椅子に座った。
机の上に、白い紙を置いた。
ペンを取った。
手紙ではない。
誰かに見せるためでもない。
ただ、書いた。
私は二年間、何をしていたのか。
リーゼロッテに、何をしていたのか。
書き始めたら、止まらなかった。
その日の夕方、アルテンベルク侯爵邸では。
リーゼロッテがアレクシスへの返事を書き終えていた。
封をして、フォルスタット行きの使いに渡した。
マリアが言った。
「お嬢様、公爵様が昨日、門前まで来られたそうです」
「知っているわ」
「……会いませんでしたね」
「ええ」
「よかったのですか」
リーゼロッテは窓の外を見た。
雪の庭園が、夕暮れに照らされていた。
「謝罪は」
静かに言った。
「傷ついていた、その時に意味があるものよ」
マリアは黙った。
「今の私には、もう必要ないわ」
「……はい」
「それより」
リーゼロッテは微笑んだ。
本物の顔で。
「明日、孤児院に行きましょう。子どもたちに会いたいわ」
マリアは深く頷いた。
「かしこまりました、お嬢様」
――令嬢の朝は、もう新しかった。
眠れなかった。
正確には、眠ろうとしたが、眠れなかった。
天井を見ていた。
暗い天井を、ずっと見ていた。
(八十七項)
その数字が、頭から離れなかった。
夜会が終わってから、ずっと。
馬車に乗っている間も。
帰宅してからも。
書斎に座っていても。
八十七。
八十七項。
二年間で、八十七項。
起き上がった。
窓を開けた。
冷たい空気が流れ込んできた。
雪が降っていた。
白い雪が、王都を静かに覆っていた。
エドワードはその雪を見ながら、思った。
(第一項は、誕生日のディナーだと言っていた)
思い返した。
あの夜のことを。
クロエから使いが来た。
すぐ戻ると言った。
三時間、戻らなかった。
(三時間)
リーゼロッテは三時間、一人で待っていた。
蝋燭が溶け切るまで。
そのとき自分は何を思っていたか。
(君は大丈夫だろう、と言った)
エドワードは窓枠を、静かに握りしめた。
(大丈夫だろう、か)
大丈夫かどうか、聞いたことがなかった。
いつも、大丈夫だと決めつけていた。
なぜか。
(怒らなかったから)
(泣かなかったから)
(責めなかったから)
だから、大丈夫だと思っていた。
大丈夫じゃないとは、思いもしなかった。
書斎に行った。
侍従がすぐに灯りをつけに来た。
「公爵様、こんな時間に」
「下がっていい」
「しかし」
「下がれ」
侍従は引き下がった。
エドワードは一人で、書斎に座った。
机の上に、何もなかった。
引き出しを開けた。
何かを探した。
何を探しているのか、自分でも分からなかった。
(八十七項の記録が、見たい)
思った。
しかし、記録帳はヴェルナー老人の金庫の中だと、国王陛下が言っていた。
つまり、自分には見ることができない。
(見る権利が、もうない)
当然だ、と思った。
夜明けになった。
侍従が朝食を持ってきた。
「公爵様、お召し上がりになりますか」
「後でいい」
「昨夜から何も召し上がっていませんが」
「後でいいと言った」
侍従は黙って下がった。
エドワードは窓の外を見た。
雪が、まだ降っていた。
(リーゼロッテは今、何をしているだろう)
思った。
思ってから、気づいた。
(こんなことを考えるのは、初めてだ)
二年間、リーゼロッテが今何をしているか、考えたことがなかった。
面会の日以外、リーゼロッテのことを考えたことが、ほとんどなかった。
(なぜだろう)
答えは分かっていた。
考える必要がなかったから。
リーゼロッテはいつもそこにいた。
完璧な婚約者として。
完璧な笑顔で。
怒らず、泣かず、責めず。
だから安心しきっていた。
(安心しきっていた、か)
窓の外の雪を見た。
(それが、どれほど傲慢なことだったか)
昼前になって、クロエから使いが来た。
「クロエ様が、お会いしたいとのことでございます」
エドワードは少し間を置いた。
今まで、クロエからの使いには必ず応じていた。
どんな時間でも。
どんな状況でも。
しかし今日は。
「……後日にしてくれ」
侍従は目を丸くした。
「よろしいのですか」
「ああ」
「クロエ様が、急ぎとのことで」
「後日だ」
侍従は引き下がった。
エドワードは書斎の椅子に座ったまま、動かなかった。
クロエからの使いを断ったのは、二年間で初めてだった。
(初めて、か)
また、その言葉が返ってきた。
初めてだらけだった。
リーゼロッテを正面から見たのも、初めて。
名前をフルネームで呼んだのも、初めて。
そして昨夜、扉が閉まるのを見送ったのも。
(初めて、リーゼロッテの背中を見た)
今まで、リーゼロッテが去っていく背中を、見たことがなかった。
いつも自分が先に行っていたから。
クロエのところへ。
会議へ。
別の場所へ。
(リーゼロッテは、いつも待っていたのだ)
(私が去っていく背中を、ずっと見送っていたのだ)
午後になった。
エドワードは馬車を呼んだ。
「アルテンベルク侯爵邸へ」
侍従が驚いた顔をした。
「今からでございますか」
「ああ」
「しかし、昨夜のことがございましたので、今日は」
「行く」
馬車が用意された。
エドワードは乗り込んだ。
馬車が動き始めた。
窓の外に、雪の王都が広がっていた。
(何を言うつもりだ)
自分に問いかけた。
謝りに行くのか。
取り戻しに行くのか。
(……分からない)
ただ、動かずにはいられなかった。
書斎に座って天井を見ているより、動いていた方が、まだ良かった。
アルテンベルク侯爵邸の門前に、馬車が止まった。
エドワードが降りようとした、その瞬間。
門番が出てきた。
「公爵様、本日はお嬢様はお会いになれないとのことで」
エドワードは立ち止まった。
「侯爵様は」
「侯爵様も、本日はご不在でございます」
エドワードは門を見た。
閉まっていた。
白い雪が、門の前に積もっていた。
「……そうか」
「申し訳ございません」
「いや、こちらこそ突然来て」
エドワードは馬車に戻った。
扉を閉めた。
「お戻りになりますか」
御者が聞いた。
「……ああ」
馬車が動き始めた。
エドワードは窓の外を見た。
遠ざかる侯爵邸の門が、雪の中に消えていった。
(当然だ)
思った。
(会ってもらえる理由が、もうない)
帰宅して、書斎に戻った。
机に向かった。
紙を取り出した。
ペンを取った。
何かを書こうとした。
手が、止まった。
(何を書く)
謝罪の手紙か。
しかし謝って、どうなる。
記録帳の八十七項が、消えるわけではない。
二年間が、なかったことになるわけではない。
エドワードはペンを持ったまま、昨夜の宣言の言葉を思い返した。
リーゼロッテは、クロエの名前を出した。
しかし責めなかった。
「クロエ様のために席を外した」という事実を述べただけだった。
「あなたが悪い」とは、一言も言わなかった。
全ての矛先を、エドワードだけに向けた。
(そうだ)
エドワードは思った。
(リーゼロッテが責めたのは、私だけだ)
クロエではない。
選び続けた自分だけを、責めた。
それが、正しかった。
クロエは何も強制していない。
エドワードが、自分で選んでいたのだから。
(全部、私が選んだのだ)
ペンを置いた。
紙を、引き出しにしまった。
何も書かなかった。
書けなかった。
書く言葉が、自分にはなかった。
夜になった。
クロエから、また使いが来た。
今度は手紙だった。
封を開けた。
読んだ。
エドワード様、昨夜のことで、お話ししたいことがあります。リーゼロッテ様が、あんなことをするなんて。私のせいだと言われているようで、辛くて。会っていただけませんか。クロエ
エドワードは手紙を読み終えた。
しばらく、その文字を見ていた。
今まで、クロエからの手紙は必ず読み返していた。
何度も、読み返していた。
今夜は、一度読んで、机に置いた。
(私のせいだと言われているようで、辛い)
その一文が、引っかかった。
リーゼロッテは昨夜、クロエを直接責めなかった。
名前を出したのは、事実の説明のためだけだった。
「あなたが悪い」とは、一言も言わなかった。
全ての矛先を、エドワードだけに向けた。
それなのに。
(クロエは、自分が責められていると感じている)
なぜか。
(……心当たりがあるから、ではないか)
エドワードはその考えを、すぐに打ち消した。
しかし。
打ち消した後も、また戻ってきた。
(二年間、私はクロエとリーゼロッテを、正しく見ていたのだろうか)
深夜になった。
エドワードは書斎で、一人でいた。
机の上に、何も置いていなかった。
ただ、ぼんやりと、ランプの炎を見ていた。
炎が揺れた。
(蝋燭が、溶け切った)
リーゼロッテの言葉ではない。
自分が思い出した言葉だ。
誕生日の夜。
個室に一人残して、三時間戻らなかった夜。
あのとき、蝋燭は溶け切っていた。
戻ったとき、暗くなっていた部屋に、リーゼロッテがいた。
笑顔で、座っていた。
「大丈夫でございます」
そう言っていた。
(大丈夫ではなかったのだ)
ずっと、大丈夫ではなかったのだ。
ただ、言わなかっただけで。
言えない状況を、自分が作っていただけで。
エドワードはランプの炎を見たまま、静かに思った。
(私は二年間、何をしていたのだろう)
答えは分かっていた。
見ていなかったのだ。
ずっと、見ていなかったのだ。
隣にいたのに。
婚約者だったのに。
名前すら、ちゃんと呼んでいなかった。
(リーゼ、と呼んでいた)
勝手に短くして、それで満足していた。
(リーゼロッテ、と呼んだのは)
昨夜が、初めてだった。
全部終わってから、初めて呼んだ。
遅すぎた。
明け方近くになって、エドワードはペンを取った。
紙を出した。
手紙を書こうとした。
謝罪でもない。
懇願でもない。
ただ、書きたかった。
しかし。
書き始めて、止まった。
(何を書いても)
思った。
(言い訳になる)
どんな言葉も、今となっては言い訳だった。
知らなかった、は言い訳だ。
気づかなかった、は言い訳だ。
クロエがいたから、は最大の言い訳だ。
全部、自分が選んでいたことだから。
クロエを優先することを、自分が選んでいた。
リーゼロッテを後回しにすることを、自分が選んでいた。
誰かに強制されたわけではない。
(全部、私が選んだのだ)
ペンを置いた。
紙を、そのままにした。
何も書かなかった。
書けなかった。
書く言葉が、自分にはなかった。
夜明けが来た。
二日目の朝が来た。
エドワードは書斎で、夜を明かしていた。
窓の外が、白んでいた。
雪は、もう止んでいた。
昨日降り積もった雪が、朝の光に照らされて、静かに輝いていた。
(綺麗だ)
思った。
思ってから、また思った。
(リーゼロッテは、この雪を見ているだろうか)
見ているだろう、と思った。
朝が来るたびに、窓を開けて外を見る人だった気がした。
気がした、というのは、確かめたことがないからだ。
そんな些細なことすら、知らなかった。
(知ろうとしなかった)
エドワードは立ち上がった。
窓を開けた。
冷たい空気が、流れ込んできた。
雪の匂いがした。
「公爵様」
侍従が慌てて近づいてきた。
「お体に障ります、窓を」
「少しだけ、いい」
侍従は黙った。
エドワードは冷たい空気を吸いながら、雪の王都を見た。
白く、静かな朝だった。
(何かを、変えなければいけない)
思った。
リーゼロッテを取り戻す、という意味ではない。
それはもう、できないことだと分かっていた。
ただ。
(このままではいけない)
昨日と同じ自分のままでは、いけない。
クロエを優先し続け、リーゼロッテを見なかった自分のままでは。
何かを、変えなければいけない。
何を、どう変えるのかは、まだ分からなかった。
ただ、そう思った。
その朝、エドワードは初めてクロエへの返事を書かなかった。
そして初めて、自分の行動を振り返る時間を、作った。
侍従に言った。
「今日の予定を、全て空けてくれ」
「全てですか? しかし大臣との会合が」
「延期してくれ」
「……かしこまりました」
エドワードは書斎の椅子に座った。
机の上に、白い紙を置いた。
ペンを取った。
手紙ではない。
誰かに見せるためでもない。
ただ、書いた。
私は二年間、何をしていたのか。
リーゼロッテに、何をしていたのか。
書き始めたら、止まらなかった。
その日の夕方、アルテンベルク侯爵邸では。
リーゼロッテがアレクシスへの返事を書き終えていた。
封をして、フォルスタット行きの使いに渡した。
マリアが言った。
「お嬢様、公爵様が昨日、門前まで来られたそうです」
「知っているわ」
「……会いませんでしたね」
「ええ」
「よかったのですか」
リーゼロッテは窓の外を見た。
雪の庭園が、夕暮れに照らされていた。
「謝罪は」
静かに言った。
「傷ついていた、その時に意味があるものよ」
マリアは黙った。
「今の私には、もう必要ないわ」
「……はい」
「それより」
リーゼロッテは微笑んだ。
本物の顔で。
「明日、孤児院に行きましょう。子どもたちに会いたいわ」
マリアは深く頷いた。
「かしこまりました、お嬢様」
――令嬢の朝は、もう新しかった。
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