「親友の兄と結婚したら、親友に夫を取られました。離婚します」

柴田はつみ

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第一章「笑顔の妻」 2

王国婚姻法、第三章、離婚条項、第十二項。
離婚は両者の合意を原則とし、合意なき場合は王室裁判所への申請により審議される。申請には正当な事由の証明を要し、証明が認められた場合においても六ヶ月の調停期間が設けられる。

エルミラはページを繰る手を止めた。
六ヶ月。それだけの時間がかかる。しかも正当な事由の証明が必要だ。夫が冷たい、家族の話題が親友ばかり、自分の献立が誰のものかも知られていないそのどれが、王室裁判所の審議を通る事由になるのか。

法律書を閉じて、エルミラは窓の外を見た。昨日気づいた白い花が朝の光の中にある。風が吹くたびに細い茎がしなって、それでも根元は動かない。

植物の名前を調べるのが好きになったのは、公爵家に来てからだった。庭に出る時間だけは、誰もエルミラに話しかけてこなかった。カリナの話題が届かない場所が、庭だけだったとも言える。

書斎を出ると、廊下ではすでに使用人たちが動いていた。エルミラに気づいた者から順に会釈をする。三年でようやく覚えた顔と名前が、廊下の両側に並んでいる。
「奥様、おはようございます。旦那様はすでにお出かけになりました」

ハンスがエルミラの前で足を止めた。五十がらみの執事は、いつも情報を過不足なく届けてくれる。どこかに行くのかと聞かれる前に、夫の不在を伝える。長年の経験から来るものか、それともエルミラへの気遣いなのか、判断がつかないまま三年が経った。

「今日も外交省ですか」
「左様でございます。夜は遅くなると申しておりました」
エルミラはうなずいた。遅くなるという言葉が夫から直接来たことは、三年間で数えるほどしかない。大抵はハンスを通じて伝わる。夫婦の会話を、執事が仲介している。それをおかしいと思わなくなったのが、いつだったか。

食堂に向かうと、カリナがすでにテーブルについていた。実家はすぐ近くだが、カリナはほぼ毎朝ここで朝食をとる。公爵夫人がそれを望んでいるからで、シオンがそれを許可しているからで、誰もエルミラに確認しなかった。

「エルミラ、おはよう! 今日一緒に街に出ない? 新しい帽子屋ができたんだって」
カリナがパンにジャムを塗りながら言った。笑顔が眩しい。昨夜シオンと何を話したのか、カリナの表情には何も残っていない。楽しかった話なのか、深刻な相談だったのか、エルミラには窺い知れない。

「午後から手が空きそうなら」
「やった! お兄様には言ってあるから大丈夫よ」
エルミラはコーヒーカップを口に運んだ。
夫に言ってある。妻の外出予定を、妹が夫に報告している。エルミラ自身がシオンに告げた外出は、先月の慈善夜会の一件だけだった。あのときシオンは書類から目を上げずに「わかりました」と言った。それが夫婦の会話だった。

「エルミラ、聞いてる?」
「聞いてるわ。帽子屋でしょう」
「顔が遠くにいってたから」
カリナが少し心配そうな顔をした。この子は本当にエルミラのことを気にかけている。それは三年間ずっと変わらない事実で、だからこそエルミラは何も言えない。

「少し眠れなかっただけ。大丈夫」
カリナは「無理しないでね」と言って、またパンにジャムを塗り始めた。
午後、カリナと二人で馬車に乗った。街道に出ると空が広くなって、エルミラは少しだけ息がしやすくなった。

「ねえエルミラ、最近お兄様と話してる?」
突然の問いだった。カリナは窓の外を見ながら言ったから、表情が読めない。

「必要なことは」
「それって、あんまり話してないってことよね」
エルミラは答えなかった。カリナが窓から視線を戻す。
「お兄様って、口下手だから。昔からそうなの。好きな人ほど何も言えなくなるって、変な人でしょ」

エルミラは窓の外に目をやった。街路樹が等間隔で流れていく。
好きな人ほど何も言えなくなる。その言葉を、エルミラの胸のどこに置けばいいのかわからなかった。三年間、夫が無口だったことへの説明として受け取るべきなのか、それとも妹の思い込みとして聞き流すべきなのか。

「カリナ、昨夜はどんな相談をしていたの」
聞いてはいけないと思いながら、口が動いた。
カリナが少し間を置いた。その一瞬が、何かを物語っていた。

「大したことじゃないわ。ちょっと友人関係のことで」
「そう」
「エルミラに相談すればよかったかな」
「いつでも聞くわよ」
カリナが笑った。「ありがとう」と言った。その笑顔は本物で、エルミラへの信頼が滲んでいた。

だから余計に、何も言えない。
帽子屋では二人で散々迷って、結局カリナはリボンのついた淡い青のものを選んだ。エルミラは何も買わなかった。気に入ったものがなかったわけではなく、誰かに見せたい相手が思い浮かばなかった。

帰りの馬車の中で、カリナが新しい帽子を箱から出して頭に乗せた。
「似合う?」
「とても」
「本当に? お兄様にも見せなきゃ」
エルミラは微笑んだ。頬の筋肉が、また同じ動き方をした。

公爵家の門をくぐったとき、玄関先に見慣れない馬車が停まっていた。紋章を見てエルミラは足を止めた。ヴァール侯爵家の紋章だ。

「あら、イザベル様かしら」
カリナが首を傾けた。その名前が、エルミラの記憶の引き出しを開ける。イザベル・フォン・ヴァール。シオンの幼馴染。かつて婚約者候補として名前が挙がっていたと、結婚前にカリナから聞いた。

玄関ホールに入ると、応接間の扉が開いていた。中からシオンの声が聞こえた。珍しく、よく通る声で話している。
「久しぶりね、カリナ」
廊下の奥から女性が歩いてきた。二十五歳前後、濃い栗色の髪を丁寧に結い上げた、整った顔立ちの女性だった。カリナに微笑みかけて、それからエルミラに視線を移した。

「こちらが奥様ね」
値踏みする目ではなかった。それよりもっと複雑な何かを含んだ目で、イザベルはエルミラを見た。

「はじめまして、エルミラ・アンドルです」
「イザベル・フォン・ヴァールよ。シオンとは子供の頃からの知り合い」
「存じております」
二人の間に、カリナが割り込むように立った。空気を読んでいるのか読んでいないのか、判断しかねる立ち位置だった。

「イザベル、今日はどんな用事で?」
「シオンに頼まれた書類があって。ついでに奥様にご挨拶を、と思って」
イザベルがエルミラを見た。その目の奥に、何かが揺れている。憐れみでも敵意でもない、もっと据わった感情だった。

「近いうちにまたお邪魔するわ。奥様と、ゆっくりお話したいから」
それだけ言って、イザベルは馬車に戻った。

エルミラは玄関先でその背中を見送った。夫が頼んだ書類を届けに来た女性。夫から直接依頼を受けられる関係。エルミラが知らない夫の顔が、また一つ増えた気がした。

その夜、エルミラは再び法律書を開いた。
正当な事由。その文言をもう一度読んで、ページを閉じた。裁判所に訴えるより先に、シオンを直接説得する方が早い。ただしそのためには、シオンと話さなければならない。

三年間でまともに交わした会話の数を、エルミラは指で数えようとして、やめた。
翌朝、シオンが珍しく朝食の時間に間に合った。エルミラが食堂に入ると、夫はすでに席についていた。向かいにカリナはいない。二人きりの朝食は、エルミラの記憶では初めてだった。

シオンがエルミラに気づいて、立ち上がりかけた。エルミラは手で制して席についた。
給仕が朝食を運んでくる間、二人は何も言わなかった。コーヒーの香りが食堂に広がった。

「シオン様」
エルミラは顔を上げた。夫が視線を上げる。
「少し、お時間をいただけますか。折り入って、お話ししたいことがあります」
シオンの目が、かすかに動いた。何かを察したのか、それとも単なる反射なのか、エルミラには読めなかった。

「今夜、書斎で」
短く答えて、シオンはコーヒーカップを手に取った。
エルミラは自分の皿に目を落とした。今夜、話す。三年分を、言葉にする。胃のあたりが重かったが、それは緊張ではなかった。もっと静かな、決意に似た感覚だった。
窓の外で、白い花が揺れていた。

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