「親友の兄と結婚したら、親友に夫を取られました。離婚します」

柴田はつみ

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「研究所の扉」 15

研究所見学の日の朝、エルミラはいつもより早く目を覚ました。

まだ屋敷の中は慌ただしくない時間だったが、窓の外は明るくなり始めていて、庭師が遠くの花壇で水を撒いている姿が見えた。エルミラは寝台から起き上がると、椅子に掛けておいた外出用のドレスを見た。

華やかすぎない、淡い青灰色のドレスだった。

研究所へ行くのに、夜会のような装いは必要ない。けれど、ただの見学ではない。自分の研究記録を見てもらう日であり、離婚後の道に繋がるかもしれない日でもある。

エルミラはしばらくドレスを見つめてから、リナを呼んだ。

「今日はこれでお願いします」

「はい、奥様。とてもよくお似合いになると思います」

リナはそう言って、手早く支度を始めた。

髪はきつく結い上げず、低い位置でまとめる。派手な髪飾りはつけず、小さな真珠のピンだけを挿した。鏡の中の自分は、以前より少しだけ落ち着いて見えた。

三年前、シオンの妻として初めて夜会に出た日の自分は、もっと不安そうな顔をしていた。

今は違う。

不安はある。

けれど、それだけではない。

自分の手で積み上げてきたものを持って、外へ出る日だった。

「奥様」

リナが後ろから声をかけた。

「旦那様が玄関広間でお待ちです」

「もう?」

「はい。昨夜から、馬車の確認を三度ほどなさっていました」

エルミラは思わずリナを見た。

リナは表情を整えていたが、少しだけ笑いを堪えているようだった。

「三度も?」

「はい。資料箱の位置、座席の揺れ、御者への経路確認まで」

「外交の出張より大げさですね」

「旦那様にとっては、それ以上に大切なのだと思います」

その言葉に、エルミラは返事ができなかった。

支度を終えて玄関広間へ向かうと、シオンが馬車のそばに立っていた。

濃紺の上着を着て、いつも通り隙のない身なりをしている。けれど表情は少し硬い。まるで重要な外交交渉に向かう前のようだった。

シオンはエルミラを見た瞬間、わずかに息を飲んだ。

「おはようございます、エルミラさん」

「おはようございます、シオン様」

「そのドレスは、とても似合っています」

エルミラは一瞬、返事に迷った。

今までなら、シオンはそういうことを言わなかった。言うとしても、儀礼的で、誰にでも向けられるような言葉だった。

けれど今朝の言葉は違った。

ちゃんとエルミラを見て、エルミラに向けて言っている。

「ありがとうございます」

「本当に、よく似合っています」

「一度で十分です」

「すみません。緊張していて」

「私より緊張しているのではありませんか」

シオンは少し困った顔をした。

「そうかもしれません」

そこへ、階段の方からカリナが降りてきた。

今日は外出着ではなく、屋敷で過ごすための柔らかな若草色のドレスを着ていた。髪には小さな白いリボンを結んでいる。

「お兄様、エルミラ、おはよう」

「おはようございます、カリナ」

「おはよう」

カリナは二人の前まで来ると、エルミラのドレスを見て明るく笑った。

「エルミラ、すごく素敵。研究所の人、きっと驚くよ」

「研究所は装いを見に行く場所ではありません」

「でも、綺麗なのはいいことだよ。堂々として見えるもの」

カリナはそう言ってから、シオンを見た。

「お兄様、怖い顔しないでね」

「していない」

「しているよ。今からアレクシスさんに勝とうとしている顔」

「勝とうとはしていない」

「本当?」

シオンは一度だけ言葉に詰まった。

カリナがすぐに指摘した。

「今、少し迷った」

「カリナ」

「今日はエルミラの研究を見てもらう日でしょう。お兄様が勝つ日じゃないよ」

シオンは少し姿勢を正した。

「わかっている」

「じゃあ、ちゃんと隣で支えてあげて。前に出すぎても駄目だし、後ろに下がりすぎても駄目。エルミラが困ったら助けて、エルミラが話しているときは聞いてあげて」

エルミラは驚いてカリナを見た。

カリナは少し照れたように笑った。

「何? 私だって、それくらいはわかるよ」

「ありがとうございます」

「私も行きたかったけど、今日は行かないって決めたから」

カリナはそう言って、小さな包みを差し出した。

「これ、持っていって」

「これは?」

「甘すぎない果実の焼き菓子。昨日、厨房に頼んだの。エルミラが好きだって聞いたから」

エルミラは包みを受け取った。

小さな布に、丁寧にリボンがかけられている。

「カリナが用意してくれたのですか」

「うん。お兄様だけが覚えるのは悔しいから、私も覚える」

その言い方がカリナらしくて、エルミラは少し笑った。

「ありがとうございます。大切にいただきます」

カリナは嬉しそうに頷いた。

それからシオンに向き直る。

「お兄様、エルミラを困らせたら許さないからね」

「肝に銘じる」

「本当に?」

「本当に」

カリナは少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐに笑った。

「行ってらっしゃい」

エルミラとシオンは馬車に乗った。

資料箱は向かいの座席にしっかり固定されている。シオンが何度も確認しただけあって、道が少し揺れても箱は動かなかった。

馬車が屋敷を出ると、シオンは窓の外を見た後、エルミラに視線を戻した。

「体調は大丈夫ですか」

「大丈夫です」

「資料の順番も、昨日の通りです」

「はい」

「研究所長には、まず発芽条件の記録を見せて、その後で温室の温度管理表を」

「シオン様」

「はい」

「私の発表です」

シオンははっとしたように口を閉じた。

それから、素直に頭を下げた。

「すみません。口を出しすぎました」

「緊張しているのはわかります」

「あなたより俺の方が落ち着かないのは、夫としてどうなのでしょう」

「今日のシオン様は、夫というより心配性の付き添い人です」

「それは良い意味ですか」

「悪い意味ではありません。ただ、少しだけ控えてください」

「はい」

シオンは膝の上で手を組んだ。

しばらくして、低い声で言った。

「俺は今日、あなたが俺の知らない場所へ進んでいくのを見るのが怖いのだと思います」

エルミラはシオンを見た。

「研究所が、私を遠ざける場所に見えますか」

「はい」

「正直ですね」

「隠すと、また間違える気がします」

シオンは窓の外に視線を向けた。

「ですが、怖いから邪魔をするのは違う。昨日、あなたに研究を誇れと言われました。だから今日は、それを守ります」

「お願いします」

「はい」

馬車は王都の中心を抜け、石造りの建物が並ぶ研究区へ入った。

王立植物研究所は、白い石壁と大きなガラス窓が特徴的な建物だった。庭には薬草が区画ごとに植えられており、研究員らしき人々が記録板を持って歩いている。

馬車が正門前に止まると、アレクシスが待っていた。

銀灰色の髪を整え、深緑の上着を着ている。今日も余裕のある笑みを浮かべていた。

「ようこそ、奥様。お待ちしておりました」

「お招きありがとうございます、アレクシス様」

アレクシスはエルミラに丁寧に礼をした後、シオンを見た。

「シオン卿も、ようこそ」

「本日は妻がお世話になります」

シオンの声は礼儀正しかった。

けれど、わずかに力が入っていた。

アレクシスはそれに気づいたようで、少しだけ笑った。

「今日は奥様の研究が主役です。どうぞ、気楽にご同行ください」

「承知しています」

「それなら安心です」

初めから少し刺さる会話だった。

エルミラは二人を見て、すぐに言った。

「資料箱を運んでもよろしいでしょうか」

「もちろんです。所長が中でお待ちです」

アレクシスが案内を始めた。

シオンは資料箱を自分で持とうとしたが、研究所の助手が手を出した。

「お運びします」

シオンは一瞬迷ったが、箱を渡した。

エルミラはそれを見て、小さく頷いた。

今日は何でもシオンが抱え込む日ではない。

シオンもそれを理解しているらしかった。

研究所の中は、薬草と紙とインクの匂いがした。

廊下の両側には標本棚が並び、ガラスケースの中には乾燥させた葉や根、球根が分類されている。エルミラは思わず足を緩めた。

「気になりますか」

アレクシスが尋ねる。

「はい。分類がとても細かいので」

「後で標本室も見学できますよ」

「本当ですか」

エルミラの声が少し明るくなった。

その横で、シオンがそっとエルミラを見た。

今度は不機嫌ではなく、少し驚いた顔だった。

エルミラが研究所で目を輝かせるところを、初めて見たのだろう。

所長室に入ると、白髪交じりの女性が立ち上がった。

「よくいらっしゃいました。エルミラ・レーヴェン夫人ですね。王立植物研究所所長のマルグリット・セインです」

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

エルミラは丁寧に礼をした。

マルグリット所長は、すぐに資料の方へ視線を向けた。

「アレクシス卿から記録の一部を見せていただきました。大変興味深い内容でした。温室で個人管理された記録としては、かなり精度が高い」

「ありがとうございます」

「まず、発芽条件の記録から拝見しても?」

「はい」

エルミラは資料を広げた。

最初は少し緊張していた。

けれど、所長が真剣に記録を読み、具体的な質問をしてくれるにつれて、少しずつ言葉が出てくるようになった。

「こちらは同じ球根を、土の配合だけ変えて育てた記録です。湿度はなるべく一定にしましたが、温室の南側と北側で温度差が出るため、鉢の位置も毎日記録しました」

「温度差まで記録しているのですね」

「はい。最初は芽の伸び方に差が出る理由がわからなかったので、途中から位置を変えずに観察しました」

「良い判断です。こちらの北方薬草は、湿度よりも温度の影響が大きいと考えたのですね」

「はい。ただ、完全に温度だけではなく、水やりの間隔も関係していると思います」

所長は何度も頷いた。

「実用的です。机上の知識だけではなく、実際に育てた人の記録ですね」

エルミラは胸の奥が熱くなるのを感じた。

三年間、誰にも見られずに積み上げてきた記録。

それが、今ここで研究として扱われている。

隣にいるシオンは、何も口を挟まなかった。

ただ、エルミラの説明を聞いていた。

途中で所長がシオンに視線を向けた。

「シオン卿は、奥様の研究を以前からご存じでしたか」

シオンは少しだけ間を置いた。

嘘をつくこともできたはずだった。

けれど彼は、静かに答えた。

「いいえ。私は長い間、妻がここまで積み上げていたことを知りませんでした」

エルミラは息を止めた。

シオンは続けた。

「最近になって、ようやく知りました。遅すぎたと思っています」

所長はシオンを見た後、エルミラへ視線を戻した。

「では、今日は良い機会ですね」

「はい」

シオンはまっすぐ言った。

「妻の研究を、私もきちんと知りたいと思っています」

その言葉は、飾りではなかった。

アレクシスも少しだけ表情を変えた。

いつもの余裕の笑みが消え、シオンを観察するような顔になった。

資料確認が終わると、一行は温室棟へ案内された。

研究所の温室は、レーヴェン家の温室よりずっと広かった。ガラス屋根は高く、区画ごとに温度と湿度が管理されている。北方薬草の区画では、ひんやりした空気が保たれていた。

エルミラは標本札を見ながら、一つずつ名前を確認した。

「この薬草、文献では見たことがあります」

「栽培は難しいですが、根の保存状態が良ければ発芽します」

所長が説明する。

エルミラは身を乗り出すように見た。

「根を分ける時期はいつですか」

「冬前です。夫人の記録を見る限り、あなたなら扱えるでしょう」

その言葉に、エルミラは思わず顔を上げた。

「私が、ですか」

「ええ。よろしければ、試験栽培を一部お任せしたい」

シオンの視線がエルミラに向いた。

アレクシスも口を開いた。

「所長、それは外部協力員の話と繋がりますか」

「そうです」

所長は頷いた。

「レーヴェン夫人には、当研究所の外部協力員として、北方薬草の温室栽培記録を提出していただきたいと考えています。正式な契約ではありませんが、研究費と必要な種苗はこちらで用意します」

エルミラは胸が高鳴るのを感じた。

「私に、そんなことができるのでしょうか」

「あなたの記録を見る限り、十分可能です」

所長ははっきり言った。

「ただし、継続的な管理が必要です。ご自宅の温室を使うなら、環境整備も必要になるでしょう。もし離婚後に住居が変わる予定があるなら、その点も相談が必要です」

離婚後、という言葉が出た瞬間、空気がわずかに変わった。

シオンは表情を乱さなかった。

けれど、手がわずかに動いたのをエルミラは見た。

アレクシスは何も言わず、エルミラの判断を待っている。

所長も同じだった。

ここで誰かに答えを任せることはできない。

エルミラはゆっくり息を吸った。

「まだ、離婚後の住居は決まっていません」

シオンの顔が少しだけ強張った。

エルミラは続けた。

「ですが、研究は続けたいです。どこで暮らすことになっても、温室での記録を続ける道を探したいと思っています」

所長は満足そうに頷いた。

「よろしい。では、正式な条件を書面にして後日お送りします」

「ありがとうございます」

エルミラが礼をすると、シオンも静かに頭を下げた。

「妻に、このような機会をいただき感謝します」

所長はシオンを見た。

「夫として反対はありませんか」

エルミラはシオンを見た。

シオンは、少しも逃げなかった。

「ありません」

「研究には時間がかかります。家庭の都合で中断されると、こちらも困ります」

「中断させません」

「夫人が研究のために外出することも増えるでしょう」

「必要なら、私が調整します」

「夫人自身の判断が必要になります」

「はい。妻の判断を尊重します」

所長はしばらくシオンを見ていた。

それから、少しだけ笑った。

「それなら結構です」

エルミラは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

シオンは今日、本当に邪魔をしなかった。

それどころか、エルミラの前に立つのではなく、隣で支えた。

遅すぎる。

何度でもそう思う。

でも、今日のシオンは確かに夫として隣に立っていた。

見学後の昼食は、研究所内の小さな食堂で用意された。

料理は簡素だったが、薬草を使ったスープや焼き魚が出され、エルミラにとっては興味深いものばかりだった。

アレクシスは向かいの席で、穏やかに話を進めた。

「奥様、所長の評価はかなり高かったですね」

「まだ実感がありません」

「当然の評価です」

「ありがとうございます」

シオンが横から言った。

「私も、当然の評価だと思います」

エルミラはシオンを見た。

「そう言えるほど、私の研究を知っていますか」

シオンは一瞬困った顔をしたが、すぐに答えた。

「まだ知り始めたばかりです。ですが、今日あなたの説明を聞いて、そう思いました」

アレクシスが少し笑った。

「シオン卿、今日はずいぶん抑えておられますね」

「妻の邪魔をしないと約束しましたので」

「それは何よりです」

「ただし」

シオンはアレクシスを見た。

「妻の研究を軽く扱う者がいれば、その時は黙っていません」

アレクシスの笑みが深くなった。

「私がそのように見えますか」

「見えません。ですが、念のためです」

「なるほど。夫として?」

「はい」

エルミラは二人を見て、少しだけ頭が痛くなった。

「シオン様、アレクシス様、食事中です」

「失礼しました」

二人が同時に答えた。

その様子が少しおかしくて、エルミラは思わず小さく笑った。

シオンがそれに気づいた。

「今、笑いましたね」

「少し」

「よかったです」

「何がですか」

「今日、あなたが楽しそうで」

シオンはそう言ってから、少し照れたように視線を落とした。

アレクシスはその様子を見て、意外そうに眉を上げた。

「シオン卿は本当に変わりましたね」

「私もそう思います」

エルミラが言うと、シオンは返事に困った顔をした。

昼食後、研究所を出る前に、所長から一枚の仮契約書を渡された。

正式なものではないが、外部協力員としての条件案が書かれている。

研究費。

種苗の提供。

記録提出の頻度。

そして、必要であれば研究所に近い宿舎を一時的に利用できるという一文。

エルミラはその箇所を読んで、手を止めた。

宿舎。

つまり、離婚後に住む場所としても使える可能性がある。

シオンも同じ箇所を見た。

けれど、何も言わなかった。

帰りの馬車の中で、二人はしばらく研究所の話をした。

所長の質問。

北方薬草の管理。

外部協力員の条件。

シオンはきちんと聞いていた。

途中で自分の考えを押しつけることもなかった。

屋敷が近づいた頃、エルミラは仮契約書を膝の上に置いた。

「シオン様」

「はい」

「今日、研究所の宿舎について書かれていました」

「読みました」

「何も言わないのですか」

シオンは少し考えてから答えた。

「言いたいことはあります」

「何ですか」

「行かないでほしい、と言いたいです」

エルミラの胸が小さく動いた。

シオンは続けた。

「ですが、それを今言うのは、あなたの道を狭めることになる気がします」

「では、何と言うのですか」

「あなたがどこにいても研究を続けられるようにしたいです。その上で、できるなら、この家をあなたが選べる場所にしたい」

エルミラは窓の外を見た。

レーヴェン家の屋敷が見えてくる。

三年間、妻でありながら自分の居場所ではなかった屋敷。

今、シオンはそこを選べる場所にしたいと言っている。

「簡単ではありません」

「わかっています」

「今日一日で変わるものではありません」

「はい」

「でも、今日のシオン様は、私の邪魔をしませんでした」

シオンは静かにエルミラを見た。

「それは、少し安心しました」

「少しでも、よかったです」

馬車が屋敷に着いた。

玄関広間では、カリナが待っていた。

「おかえりなさい!」

カリナは駆け寄りかけて、途中で足を止めた。

そして、シオンではなく、まずエルミラの方へ来た。

「どうだった?」

「外部協力員として、研究を続けられるかもしれません」

カリナの顔がぱっと明るくなった。

「すごい! エルミラ、本当にすごいよ!」

その喜び方は、本物だった。

けれどすぐに、仮契約書の中身を聞いたカリナの表情が変わった。

「宿舎?」

「まだ可能性の話です」

「そっか」

カリナは少しだけ下を向いた。

けれどすぐに顔を上げた。

「でも、エルミラが選ぶことだよね」

「はい」

「私、本当は行かないでって言いたい」

エルミラはカリナを見た。

カリナは正直に続けた。

「でも、それを言ったらまたエルミラを困らせるから、今日は言わないことにする」

「今、言っています」

「うん。言わないことにするって言いながら、少し言った」

カリナは困ったように笑った。

「でも、昨日よりは我慢したよ」

「そうですね」

エルミラが答えると、カリナは少し嬉しそうにした。

シオンはそのやり取りを見て、穏やかな顔をしていた。

夕食後、エルミラは自室で仮契約書を机に広げた。

研究所の宿舎。

レーヴェン家の温室。

離婚後の暮らし。

シオンが変わろうとしている今。

カリナが少しずつ自分の足で立とうとしている今。

どの道を選べばいいのか、すぐには決められなかった。

その時、扉が叩かれた。

リナが入ってきて、一通の手紙を差し出した。

「奥様、アレクシス様からです。研究所を出る際に、使いの方へ預けられたそうです」

エルミラは封を開けた。

中には短い文章があった。

『本日、奥様は十分にご自身の力で立っておられました。研究所の宿舎は、必要であれば私からも推薦できます。誰かの妻である前に、奥様は一人の研究者です。そのことを、どうか忘れないでください。アレクシス・ヴァール』

エルミラは手紙を何度も読んだ。

一人の研究者。

その言葉は嬉しかった。

でも、同時に胸を揺らした。

シオンは今日、夫として隣に立とうとした。

アレクシスは、エルミラを一人の研究者として前へ押し出した。

どちらも、今のエルミラには必要な言葉だった。

だからこそ、迷う。

離婚まで、残り二十日。

エルミラはまだ答えを出せなかった。

けれど今日、研究所の扉は開いた。

そして同時に、シオンとの未来を完全に閉じることも、少しだけ難しくなった。

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