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「行かないでと言えない夫」18
滞在研修の案内状を受け取った翌朝、エルミラはいつもより少し遅れて温室へ向かった。
昨夜はなかなか寝つけなかった。研究所から届いた正式な案内状を何度も読み返し、机の上に置いてはまた手に取った。十日間の滞在研修。半月後から始まるその日程は、離婚までの残り一ヶ月と大きく重なっていた。
一ヶ月後に離婚する。
そう決めて、シオンに告げた。
その期限があったからこそ、エルミラはこの屋敷の中で自分を保てていた。終わりが決まっているから、冷静でいられた。けれど研究所の案内状は、その終わりをまた別の形に変えようとしている。
研修に参加すれば、離婚予定日の直前から十日間、エルミラはこの屋敷を離れることになる。
そのまま研究所の宿舎に残ることもできるかもしれない。
反対に、研修を終えてこの屋敷へ戻ることもできる。
どちらにしても、もう何も決めないまま時間だけを過ごすことはできなかった。
温室の扉を開けると、シオンがいた。
長机の上には昨日の図面と、研究所から届いた案内状の写しが置かれている。シオンはそれを読んでいたらしく、エルミラが入ってきた音で顔を上げた。
「おはようございます、エルミラさん」
「おはようございます」
「リナから、研究所の書状が届いたと聞きました」
「ええ。こちらです」
エルミラは持ってきた案内状を差し出した。
シオンはすでに内容を知っているはずだったが、もう一度丁寧に読んだ。日付を確認する指先が、ほんの少し止まる。
「半月後から十日間」
「はい」
「離婚予定日の直前からですね」
「そうなります」
シオンは案内状を机に置いた。
表情は整っている。けれど、目元の疲れは隠しきれていなかった。おそらくシオンも、昨夜ほとんど眠れていない。
「参加したいですか」
シオンが尋ねた。
止めたい気持ちを押し込めた声だった。
エルミラはすぐには答えなかった。けれど、答えは昨夜から少しずつ形になっていた。
「行きたいです」
シオンの手がわずかに動いた。
「そうですか」
「まだ決めたわけではありません。ですが、研究所が正式に機会をくださった以上、参加したい気持ちはあります」
「当然だと思います」
「当然、と言えるのですか」
「言いたくはありません」
シオンは正直に言った。
「ですが、あなたが研究を続けたいなら、必要な研修なのでしょう。俺の不安だけで止めることではありません」
エルミラはシオンを見た。
「不安なのですか」
「不安です」
「何が?」
シオンは少し迷ってから、まっすぐ答えた。
「あなたがこの家を離れることです。十日間という長さも、研究所の宿舎という場所も、アレクシス・ヴァールが近くにいることも、不安です」
「正直ですね」
「隠すと、また間違えます」
シオンは案内状に視線を落とした。
「ですが、一番怖いのは、あなたが屋敷を離れてみて、この家に戻らない方が楽だと思うことです」
その言葉は、エルミラの胸にまっすぐ届いた。
シオンは自分の弱さを隠さなくなった。
以前なら、仕事や家の都合という理由で包んだだろう。けれど今は違う。怖いから止めたい。そう思っていることを認めた上で、止めない選択をしようとしている。
それが、エルミラには少し苦しかった。
「シオン様」
「はい」
「私は研修へ行ったからといって、そのまま消えるつもりはありません」
シオンの顔が少しだけ変わった。
「帰ってくると、言ってくださるのですか」
「研修が終われば、一度は戻ります。ここに荷物もありますし、話すべきことも残っています」
「一度は、ですか」
「はい」
エルミラはあえて言い直さなかった。
シオンも、それ以上を無理に求めなかった。
その代わり、静かに頷いた。
「わかりました。では、研修に行く前までに、温室の最低限の整備を終えます」
「急ぎすぎないでください」
「無理な工事はしません。ですが、あなたが研修から戻った時に、この家で研究を続ける道があると見せたい」
「私を引き止めるためですか」
「はい」
シオンは迷わず答えた。
「同時に、あなたの研究を支えるためです」
「両方を同じ場所に置くのですね」
「どちらも本当なので」
エルミラは案内状に目を落とした。
半月後。
十日間。
その数字は、昨夜よりも重く見えた。
「シオン様」
「はい」
「私はまだ離婚するつもりです」
「はい」
「それでも、研修へ行くまでの間、あなたがこの家をどう変えようとしているのかは見ます」
シオンはしばらくエルミラを見ていた。
それから、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お礼を言うところではありません」
「それでも、言わせてください」
シオンは顔を上げた。
「あなたが見てくれるなら、俺は行動できます」
エルミラは返事に困り、図面へ視線を向けた。
「では、今日中に必要な整備と、急がなくていい整備を分けましょう」
「はい」
「研修前に無理に全部を終わらせる必要はありません。北方薬草の種苗が届くのは、研修後になるはずです」
「では、低温区画の設計と水場の確認を優先します」
「記録机は動かさないでください」
「カリナも同じことを言っていました」
「カリナが?」
「はい。あなたがいつもそこで記録しているから、動かさない方がいいと」
エルミラは少し驚いた。
カリナは本当に、見ていたのだ。
今まで何も見ていないと思っていたわけではない。けれど、カリナがエルミラの居場所まで気にしていたことは、少し意外だった。
その時、温室の扉が開いた。
カリナが入ってきた。
「おはよう、エルミラ。お兄様」
「おはようございます」
「おはよう」
カリナは二人の顔を見て、すぐに案内状に気づいた。
「研修の話?」
「ええ」
カリナは長机の前まで来た。昨日より落ち着いているが、目の奥には不安が見える。
「エルミラ、行くの?」
エルミラは正直に答えた。
「行きたいと思っています」
カリナの唇が少し動いた。
たぶん、行かないでと言いかけたのだ。
けれど、カリナは言わなかった。
代わりに、深く息を吸ってから頷いた。
「そっか。行きたいなら、行った方がいいと思う」
その言葉を言うのに、かなり力が必要だったのだろう。
カリナの指先がドレスの布を握っている。
シオンがそれに気づいたが、すぐには声をかけなかった。
カリナが自分で言葉を続けようとしているからだ。
「本当はね、嫌だよ。エルミラが十日も屋敷にいないなんて、嫌。研究所の宿舎に泊まるのも嫌。もしかしたらそのまま戻ってこないかもしれないって考えるのも嫌」
カリナは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「でも、それを言ってエルミラを止めたら、私はまた同じことをする気がする。お兄様の袖を引いていた時と同じ。自分が寂しいから、誰かを止めようとする」
「カリナ」
「だから、言わない。少し言ったけど、止めるためには言わない」
エルミラはカリナを見つめた。
カリナはまだ幼いところがある。
けれど、変わろうとしている。
自分の寂しさを理由に、誰かの道を塞がないようにしようとしている。
「ありがとうございます」
エルミラが言うと、カリナは少しだけ眉を寄せた。
「お礼を言われると、泣きそうになるからやめて」
「では、言いません」
「もう言った」
カリナは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、温室の空気が少しやわらいだ。
シオンはカリナを見て、静かに言った。
「カリナ、よく言った」
カリナは目を丸くした。
「お兄様に褒められると、まだちょっと変な気分」
「そうか」
「でも、嬉しい」
カリナはそう言って、長机の図面を見た。
「じゃあ、研修までにできることをしよう。エルミラが戻ってきた時、この家でも研究できるってわかるようにするんでしょう?」
「ええ」
「私、布の用意と棚札を作る。研究所っぽく、ちゃんと見やすい札にするね」
「助かります」
「あと、エルミラが好きな甘すぎないお菓子も練習する。研修から帰ってきた時に用意する」
エルミラは少しだけ笑った。
「研究所から帰る楽しみが増えますね」
カリナはその言葉に、ぱっと顔を上げた。
「帰る楽しみ?」
「ええ」
「じゃあ、ちゃんと用意する。絶対に」
カリナは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、エルミラは自分が何気なく言った言葉の重さに気づいた。
帰る楽しみ。
自分は今、この家に帰ることを少しだけ前提にした。
離婚するつもりはまだ変わっていない。
けれど、研修後に戻る場所として、この屋敷を思い浮かべた。
その事実に、エルミラ自身が一番驚いていた。
午前中は、三人で温室の整備計画を立てた。
シオンは管理人と庭師を呼び、低温区画に必要な場所を確認した。カリナはリナと一緒に、資料を保護する布や棚札の色を相談している。エルミラは研究所で求められる記録形式に合わせて、今までのノートを整理した。
不思議な光景だった。
三年間、エルミラはこの温室でほとんど一人だった。
シオンは来なかった。
カリナも、たまに顔を出して花を眺めるくらいだった。
それが今、エルミラのために人が動いている。
この家が、初めてエルミラの研究を中心に回っている。
嬉しい。
けれど、その嬉しさをそのまま受け入れるには、過去の寂しさがまだ残っていた。
昼過ぎ、エルミラが図書室で研修参加の返事を書いていると、アレクシスが訪ねてきた。
応接室に通された彼は、いつものように落ち着いていたが、今日は少しだけ真面目な顔をしていた。
「突然の訪問で失礼いたします、エルミラ様」
「いえ。研修の件ですね」
「はい。所長から正式な案内が届いたかと思いまして」
「届きました。参加する方向で返事を書くつもりです」
アレクシスは満足そうに頷いた。
「良い判断だと思います」
「まだ少し迷いはあります」
「迷いがあるのは当然です。ですが、研修はあなたにとって大きな機会になります」
「はい」
アレクシスはそこで少し声を落とした。
「ただ、研修中は研究所の規定に従うことになります。宿舎に滞在する間、外部からの訪問は原則制限されます」
エルミラは顔を上げた。
「外部からの訪問?」
「ご家族であっても、自由に出入りはできません。研究員候補として扱われるためです」
「シオン様も、カリナも?」
「はい。面会が必要な場合は、所長の許可が必要です」
それは当然の規定なのだろう。
けれど、エルミラは一瞬だけ胸が詰まった。
十日間、完全にこの家から離れる。
手紙は出せるだろう。けれど、気軽に会うことはできない。
その現実が、急に近くなった。
「シオン様には伝えます」
「その方がいいでしょう」
アレクシスは少しだけ困ったように笑った。
「正直に言えば、シオン卿が一番動揺する点だと思います」
「そうですね」
「ですが、それも含めて、あなたが一人で立つための研修です」
「わかっています」
エルミラが頷くと、アレクシスは少しだけ表情をやわらげた。
「エルミラ様」
「はい」
「あなたは今、あの屋敷を選ぶか、研究所を選ぶかで迷っているように見えます」
「そうかもしれません」
「ですが、本当は少し違います」
「違う?」
アレクシスは静かに言った。
「あなたが選ぶべきなのは、場所ではありません。どこにいても、自分を失わずにいられる生き方です」
エルミラは息を止めた。
アレクシスの言葉は優しい。
けれど、ただ甘いだけではない。
エルミラが逃げ場として研究所を選ぼうとしているなら、それでは本当の選択にはならないと言っているのだ。
「私は、逃げようとしているように見えますか」
「以前は、少し」
アレクシスは正直に答えた。
「ですが今は、逃げるだけではなく、進もうとしているように見えます」
「進む」
「はい。だからこそ、研修へ行くべきです。シオン卿のためでも、離婚のためでもなく、あなた自身のために」
エルミラは手元の返事を見た。
まだ署名していない。
けれど、もう答えは決まっている。
「参加します」
エルミラが言うと、アレクシスは深く頷いた。
「では、研究所へ伝えておきます」
「私からも正式な返書を出します」
「承知しました」
アレクシスが帰った後、エルミラは返書に署名した。
研修に参加します。
その一文を書いた瞬間、胸の中で何かが決まった気がした。
離婚するかどうかではない。
自分の人生を、自分で決めるということが。
夕方、シオンが外交省から戻ると、エルミラは温室で待っていた。
カリナも一緒だった。
長机の上には、研修参加の返書の控えと、アレクシスから聞いた宿舎規定のメモが置かれている。
シオンはエルミラの顔を見て、すぐに何かを察したらしい。
「参加を決めたのですね」
「はい」
シオンはゆっくり頷いた。
「わかりました」
カリナが少しだけ手を握った。
エルミラは続けた。
「それから、研修中は研究所の規定で、外部からの訪問が制限されます」
シオンの表情が変わった。
「訪問が制限される」
「はい。家族であっても、自由に会うことはできません」
「十日間、ですか」
「十日間です」
シオンは何も言わなかった。
けれど、その顔にははっきりと動揺が出ていた。
カリナも目を伏せた。
「手紙は出せると思います」
エルミラが言うと、カリナが顔を上げた。
「手紙、書いてもいい?」
「ええ」
「毎日書いたら迷惑?」
「毎日返事はできないかもしれません」
「返事はいらない。書きたいだけ」
エルミラは少し笑った。
「では、受け取ります」
カリナはそれだけで少し安心したようだった。
シオンはまだ黙っていた。
エルミラはシオンを見た。
「シオン様」
「はい」
「何か言いたいことがあるなら、言ってください」
シオンはゆっくり息を吐いた。
「行かないでほしいです」
カリナがシオンを見た。
エルミラも視線を逸らさなかった。
シオンは続けた。
「それが最初に出てくる本音です。十日間会えないのも、あなたが研究所で一人の研究者として進んでいくのも、怖いです。俺の知らない場所で、あなたの世界が広がることが怖い」
「はい」
「ですが」
シオンは、机の上の返書を見た。
「行ってきてください」
その言葉を言うまでに、かなり苦しかったのだと思う。
けれど、言った。
「俺はここで待ちます。温室を整えて、あなたが帰ってきた時に、研究所で得たものをこの家でも続けられるようにします」
エルミラの胸が強く動いた。
止めるのではなく、待つ。
今のシオンは、それを選ぼうとしている。
「ありがとうございます」
「感謝されるほど綺麗な気持ちではありません」
「それでも、嬉しいです」
シオンはその言葉に少しだけ驚いた顔をした。
エルミラも、自分で言ってから胸が熱くなった。
嬉しい。
そう思った。
シオンが止めなかったことが。
待つと言ってくれたことが。
カリナが横で鼻をすすった。
「ごめん。私、今ちょっと泣きそう」
「カリナ」
「だって、二人ともちゃんと話してるから」
カリナは涙をこぼさないように上を向いた。
「私、前ならここで『エルミラを行かせないで』ってお兄様に言ってたと思う。でも、今日は言わない。言ったら、またエルミラの道を邪魔するから」
「ありがとう、カリナ」
エルミラが言うと、カリナは今度こそ少し泣いた。
「だから、お菓子を練習する。エルミラが帰ってきた時、ちゃんとおかえりって言うために」
「楽しみにしています」
その夜、エルミラは自室で研修参加の返書を封筒に入れた。
机の上には、離婚後の住まいを書いた古いメモと、研究所の宿舎規定、そしてシオンが描いた温室の図面が並んでいる。
以前なら、離婚後のメモだけを見ていた。
今は違う。
選ぶものが増えてしまった。
研究所へ行く道。
この家に戻る道。
シオンと向き合う道。
カリナともう一度親友になるかもしれない道。
どれも簡単ではない。
けれど、どれもエルミラが自分で選ばなければならない。
扉が軽く叩かれた。
入ってきたリナが、小さな封筒を差し出した。
「奥様、旦那様からです」
エルミラは封を開けた。
中には、短い手紙が入っていた。
『研修までの残りの日々、あなたを引き止めるためではなく、あなたが帰ってきてもいいと思える家にするために使います。シオン』
エルミラはその一文を何度も読んだ。
帰ってきてもいいと思える家。
三年間、この屋敷はそうではなかった。
でも今、シオンはそれを変えようとしている。
エルミラは返事を書かなかった。
けれど手紙を、離婚後の住まいのメモの上ではなく、温室の図面の横に置いた。
離婚まで、残り十五日。
研修開始まで、残り十四日。
エルミラは研究所へ行くことを決めた。
そしてこの家で、自分を待つ人たちがいることも、もう知らないふりはできなかった。
昨夜はなかなか寝つけなかった。研究所から届いた正式な案内状を何度も読み返し、机の上に置いてはまた手に取った。十日間の滞在研修。半月後から始まるその日程は、離婚までの残り一ヶ月と大きく重なっていた。
一ヶ月後に離婚する。
そう決めて、シオンに告げた。
その期限があったからこそ、エルミラはこの屋敷の中で自分を保てていた。終わりが決まっているから、冷静でいられた。けれど研究所の案内状は、その終わりをまた別の形に変えようとしている。
研修に参加すれば、離婚予定日の直前から十日間、エルミラはこの屋敷を離れることになる。
そのまま研究所の宿舎に残ることもできるかもしれない。
反対に、研修を終えてこの屋敷へ戻ることもできる。
どちらにしても、もう何も決めないまま時間だけを過ごすことはできなかった。
温室の扉を開けると、シオンがいた。
長机の上には昨日の図面と、研究所から届いた案内状の写しが置かれている。シオンはそれを読んでいたらしく、エルミラが入ってきた音で顔を上げた。
「おはようございます、エルミラさん」
「おはようございます」
「リナから、研究所の書状が届いたと聞きました」
「ええ。こちらです」
エルミラは持ってきた案内状を差し出した。
シオンはすでに内容を知っているはずだったが、もう一度丁寧に読んだ。日付を確認する指先が、ほんの少し止まる。
「半月後から十日間」
「はい」
「離婚予定日の直前からですね」
「そうなります」
シオンは案内状を机に置いた。
表情は整っている。けれど、目元の疲れは隠しきれていなかった。おそらくシオンも、昨夜ほとんど眠れていない。
「参加したいですか」
シオンが尋ねた。
止めたい気持ちを押し込めた声だった。
エルミラはすぐには答えなかった。けれど、答えは昨夜から少しずつ形になっていた。
「行きたいです」
シオンの手がわずかに動いた。
「そうですか」
「まだ決めたわけではありません。ですが、研究所が正式に機会をくださった以上、参加したい気持ちはあります」
「当然だと思います」
「当然、と言えるのですか」
「言いたくはありません」
シオンは正直に言った。
「ですが、あなたが研究を続けたいなら、必要な研修なのでしょう。俺の不安だけで止めることではありません」
エルミラはシオンを見た。
「不安なのですか」
「不安です」
「何が?」
シオンは少し迷ってから、まっすぐ答えた。
「あなたがこの家を離れることです。十日間という長さも、研究所の宿舎という場所も、アレクシス・ヴァールが近くにいることも、不安です」
「正直ですね」
「隠すと、また間違えます」
シオンは案内状に視線を落とした。
「ですが、一番怖いのは、あなたが屋敷を離れてみて、この家に戻らない方が楽だと思うことです」
その言葉は、エルミラの胸にまっすぐ届いた。
シオンは自分の弱さを隠さなくなった。
以前なら、仕事や家の都合という理由で包んだだろう。けれど今は違う。怖いから止めたい。そう思っていることを認めた上で、止めない選択をしようとしている。
それが、エルミラには少し苦しかった。
「シオン様」
「はい」
「私は研修へ行ったからといって、そのまま消えるつもりはありません」
シオンの顔が少しだけ変わった。
「帰ってくると、言ってくださるのですか」
「研修が終われば、一度は戻ります。ここに荷物もありますし、話すべきことも残っています」
「一度は、ですか」
「はい」
エルミラはあえて言い直さなかった。
シオンも、それ以上を無理に求めなかった。
その代わり、静かに頷いた。
「わかりました。では、研修に行く前までに、温室の最低限の整備を終えます」
「急ぎすぎないでください」
「無理な工事はしません。ですが、あなたが研修から戻った時に、この家で研究を続ける道があると見せたい」
「私を引き止めるためですか」
「はい」
シオンは迷わず答えた。
「同時に、あなたの研究を支えるためです」
「両方を同じ場所に置くのですね」
「どちらも本当なので」
エルミラは案内状に目を落とした。
半月後。
十日間。
その数字は、昨夜よりも重く見えた。
「シオン様」
「はい」
「私はまだ離婚するつもりです」
「はい」
「それでも、研修へ行くまでの間、あなたがこの家をどう変えようとしているのかは見ます」
シオンはしばらくエルミラを見ていた。
それから、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お礼を言うところではありません」
「それでも、言わせてください」
シオンは顔を上げた。
「あなたが見てくれるなら、俺は行動できます」
エルミラは返事に困り、図面へ視線を向けた。
「では、今日中に必要な整備と、急がなくていい整備を分けましょう」
「はい」
「研修前に無理に全部を終わらせる必要はありません。北方薬草の種苗が届くのは、研修後になるはずです」
「では、低温区画の設計と水場の確認を優先します」
「記録机は動かさないでください」
「カリナも同じことを言っていました」
「カリナが?」
「はい。あなたがいつもそこで記録しているから、動かさない方がいいと」
エルミラは少し驚いた。
カリナは本当に、見ていたのだ。
今まで何も見ていないと思っていたわけではない。けれど、カリナがエルミラの居場所まで気にしていたことは、少し意外だった。
その時、温室の扉が開いた。
カリナが入ってきた。
「おはよう、エルミラ。お兄様」
「おはようございます」
「おはよう」
カリナは二人の顔を見て、すぐに案内状に気づいた。
「研修の話?」
「ええ」
カリナは長机の前まで来た。昨日より落ち着いているが、目の奥には不安が見える。
「エルミラ、行くの?」
エルミラは正直に答えた。
「行きたいと思っています」
カリナの唇が少し動いた。
たぶん、行かないでと言いかけたのだ。
けれど、カリナは言わなかった。
代わりに、深く息を吸ってから頷いた。
「そっか。行きたいなら、行った方がいいと思う」
その言葉を言うのに、かなり力が必要だったのだろう。
カリナの指先がドレスの布を握っている。
シオンがそれに気づいたが、すぐには声をかけなかった。
カリナが自分で言葉を続けようとしているからだ。
「本当はね、嫌だよ。エルミラが十日も屋敷にいないなんて、嫌。研究所の宿舎に泊まるのも嫌。もしかしたらそのまま戻ってこないかもしれないって考えるのも嫌」
カリナは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「でも、それを言ってエルミラを止めたら、私はまた同じことをする気がする。お兄様の袖を引いていた時と同じ。自分が寂しいから、誰かを止めようとする」
「カリナ」
「だから、言わない。少し言ったけど、止めるためには言わない」
エルミラはカリナを見つめた。
カリナはまだ幼いところがある。
けれど、変わろうとしている。
自分の寂しさを理由に、誰かの道を塞がないようにしようとしている。
「ありがとうございます」
エルミラが言うと、カリナは少しだけ眉を寄せた。
「お礼を言われると、泣きそうになるからやめて」
「では、言いません」
「もう言った」
カリナは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、温室の空気が少しやわらいだ。
シオンはカリナを見て、静かに言った。
「カリナ、よく言った」
カリナは目を丸くした。
「お兄様に褒められると、まだちょっと変な気分」
「そうか」
「でも、嬉しい」
カリナはそう言って、長机の図面を見た。
「じゃあ、研修までにできることをしよう。エルミラが戻ってきた時、この家でも研究できるってわかるようにするんでしょう?」
「ええ」
「私、布の用意と棚札を作る。研究所っぽく、ちゃんと見やすい札にするね」
「助かります」
「あと、エルミラが好きな甘すぎないお菓子も練習する。研修から帰ってきた時に用意する」
エルミラは少しだけ笑った。
「研究所から帰る楽しみが増えますね」
カリナはその言葉に、ぱっと顔を上げた。
「帰る楽しみ?」
「ええ」
「じゃあ、ちゃんと用意する。絶対に」
カリナは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、エルミラは自分が何気なく言った言葉の重さに気づいた。
帰る楽しみ。
自分は今、この家に帰ることを少しだけ前提にした。
離婚するつもりはまだ変わっていない。
けれど、研修後に戻る場所として、この屋敷を思い浮かべた。
その事実に、エルミラ自身が一番驚いていた。
午前中は、三人で温室の整備計画を立てた。
シオンは管理人と庭師を呼び、低温区画に必要な場所を確認した。カリナはリナと一緒に、資料を保護する布や棚札の色を相談している。エルミラは研究所で求められる記録形式に合わせて、今までのノートを整理した。
不思議な光景だった。
三年間、エルミラはこの温室でほとんど一人だった。
シオンは来なかった。
カリナも、たまに顔を出して花を眺めるくらいだった。
それが今、エルミラのために人が動いている。
この家が、初めてエルミラの研究を中心に回っている。
嬉しい。
けれど、その嬉しさをそのまま受け入れるには、過去の寂しさがまだ残っていた。
昼過ぎ、エルミラが図書室で研修参加の返事を書いていると、アレクシスが訪ねてきた。
応接室に通された彼は、いつものように落ち着いていたが、今日は少しだけ真面目な顔をしていた。
「突然の訪問で失礼いたします、エルミラ様」
「いえ。研修の件ですね」
「はい。所長から正式な案内が届いたかと思いまして」
「届きました。参加する方向で返事を書くつもりです」
アレクシスは満足そうに頷いた。
「良い判断だと思います」
「まだ少し迷いはあります」
「迷いがあるのは当然です。ですが、研修はあなたにとって大きな機会になります」
「はい」
アレクシスはそこで少し声を落とした。
「ただ、研修中は研究所の規定に従うことになります。宿舎に滞在する間、外部からの訪問は原則制限されます」
エルミラは顔を上げた。
「外部からの訪問?」
「ご家族であっても、自由に出入りはできません。研究員候補として扱われるためです」
「シオン様も、カリナも?」
「はい。面会が必要な場合は、所長の許可が必要です」
それは当然の規定なのだろう。
けれど、エルミラは一瞬だけ胸が詰まった。
十日間、完全にこの家から離れる。
手紙は出せるだろう。けれど、気軽に会うことはできない。
その現実が、急に近くなった。
「シオン様には伝えます」
「その方がいいでしょう」
アレクシスは少しだけ困ったように笑った。
「正直に言えば、シオン卿が一番動揺する点だと思います」
「そうですね」
「ですが、それも含めて、あなたが一人で立つための研修です」
「わかっています」
エルミラが頷くと、アレクシスは少しだけ表情をやわらげた。
「エルミラ様」
「はい」
「あなたは今、あの屋敷を選ぶか、研究所を選ぶかで迷っているように見えます」
「そうかもしれません」
「ですが、本当は少し違います」
「違う?」
アレクシスは静かに言った。
「あなたが選ぶべきなのは、場所ではありません。どこにいても、自分を失わずにいられる生き方です」
エルミラは息を止めた。
アレクシスの言葉は優しい。
けれど、ただ甘いだけではない。
エルミラが逃げ場として研究所を選ぼうとしているなら、それでは本当の選択にはならないと言っているのだ。
「私は、逃げようとしているように見えますか」
「以前は、少し」
アレクシスは正直に答えた。
「ですが今は、逃げるだけではなく、進もうとしているように見えます」
「進む」
「はい。だからこそ、研修へ行くべきです。シオン卿のためでも、離婚のためでもなく、あなた自身のために」
エルミラは手元の返事を見た。
まだ署名していない。
けれど、もう答えは決まっている。
「参加します」
エルミラが言うと、アレクシスは深く頷いた。
「では、研究所へ伝えておきます」
「私からも正式な返書を出します」
「承知しました」
アレクシスが帰った後、エルミラは返書に署名した。
研修に参加します。
その一文を書いた瞬間、胸の中で何かが決まった気がした。
離婚するかどうかではない。
自分の人生を、自分で決めるということが。
夕方、シオンが外交省から戻ると、エルミラは温室で待っていた。
カリナも一緒だった。
長机の上には、研修参加の返書の控えと、アレクシスから聞いた宿舎規定のメモが置かれている。
シオンはエルミラの顔を見て、すぐに何かを察したらしい。
「参加を決めたのですね」
「はい」
シオンはゆっくり頷いた。
「わかりました」
カリナが少しだけ手を握った。
エルミラは続けた。
「それから、研修中は研究所の規定で、外部からの訪問が制限されます」
シオンの表情が変わった。
「訪問が制限される」
「はい。家族であっても、自由に会うことはできません」
「十日間、ですか」
「十日間です」
シオンは何も言わなかった。
けれど、その顔にははっきりと動揺が出ていた。
カリナも目を伏せた。
「手紙は出せると思います」
エルミラが言うと、カリナが顔を上げた。
「手紙、書いてもいい?」
「ええ」
「毎日書いたら迷惑?」
「毎日返事はできないかもしれません」
「返事はいらない。書きたいだけ」
エルミラは少し笑った。
「では、受け取ります」
カリナはそれだけで少し安心したようだった。
シオンはまだ黙っていた。
エルミラはシオンを見た。
「シオン様」
「はい」
「何か言いたいことがあるなら、言ってください」
シオンはゆっくり息を吐いた。
「行かないでほしいです」
カリナがシオンを見た。
エルミラも視線を逸らさなかった。
シオンは続けた。
「それが最初に出てくる本音です。十日間会えないのも、あなたが研究所で一人の研究者として進んでいくのも、怖いです。俺の知らない場所で、あなたの世界が広がることが怖い」
「はい」
「ですが」
シオンは、机の上の返書を見た。
「行ってきてください」
その言葉を言うまでに、かなり苦しかったのだと思う。
けれど、言った。
「俺はここで待ちます。温室を整えて、あなたが帰ってきた時に、研究所で得たものをこの家でも続けられるようにします」
エルミラの胸が強く動いた。
止めるのではなく、待つ。
今のシオンは、それを選ぼうとしている。
「ありがとうございます」
「感謝されるほど綺麗な気持ちではありません」
「それでも、嬉しいです」
シオンはその言葉に少しだけ驚いた顔をした。
エルミラも、自分で言ってから胸が熱くなった。
嬉しい。
そう思った。
シオンが止めなかったことが。
待つと言ってくれたことが。
カリナが横で鼻をすすった。
「ごめん。私、今ちょっと泣きそう」
「カリナ」
「だって、二人ともちゃんと話してるから」
カリナは涙をこぼさないように上を向いた。
「私、前ならここで『エルミラを行かせないで』ってお兄様に言ってたと思う。でも、今日は言わない。言ったら、またエルミラの道を邪魔するから」
「ありがとう、カリナ」
エルミラが言うと、カリナは今度こそ少し泣いた。
「だから、お菓子を練習する。エルミラが帰ってきた時、ちゃんとおかえりって言うために」
「楽しみにしています」
その夜、エルミラは自室で研修参加の返書を封筒に入れた。
机の上には、離婚後の住まいを書いた古いメモと、研究所の宿舎規定、そしてシオンが描いた温室の図面が並んでいる。
以前なら、離婚後のメモだけを見ていた。
今は違う。
選ぶものが増えてしまった。
研究所へ行く道。
この家に戻る道。
シオンと向き合う道。
カリナともう一度親友になるかもしれない道。
どれも簡単ではない。
けれど、どれもエルミラが自分で選ばなければならない。
扉が軽く叩かれた。
入ってきたリナが、小さな封筒を差し出した。
「奥様、旦那様からです」
エルミラは封を開けた。
中には、短い手紙が入っていた。
『研修までの残りの日々、あなたを引き止めるためではなく、あなたが帰ってきてもいいと思える家にするために使います。シオン』
エルミラはその一文を何度も読んだ。
帰ってきてもいいと思える家。
三年間、この屋敷はそうではなかった。
でも今、シオンはそれを変えようとしている。
エルミラは返事を書かなかった。
けれど手紙を、離婚後の住まいのメモの上ではなく、温室の図面の横に置いた。
離婚まで、残り十五日。
研修開始まで、残り十四日。
エルミラは研究所へ行くことを決めた。
そしてこの家で、自分を待つ人たちがいることも、もう知らないふりはできなかった。
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