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十日間の答え 20
研修二日目の朝、エルミラは研究所の鐘の音で目を覚ました。
レーヴェン家の屋敷では、朝になるとリナがそっと扉を叩き、温かい湯と身支度の準備を整えてくれていた。ここでは誰も部屋へ入ってこない。起きる時間も、支度を始める時間も、研究所の決まりに合わせて自分で管理する必要があった。
簡素な寝台から起き上がり、窓を開けると、温室棟のガラス屋根に朝日が反射していた。研究所の庭では、すでに何人もの研究員が記録板を持って歩いている。誰もエルミラを奥様とは呼ばない。ここでのエルミラは、外部協力員候補の一人だった。
その扱いは、少し緊張した。
けれど、嫌ではなかった。
朝食後、エルミラは北方薬草の低温区画へ案内された。担当研究員のグレンは、年配の穏やかな男性だったが、植物の話になると質問が細かかった。
「北方薬草は、日差しを強く当てれば育つわけではありません。光量よりも温度の安定が重要です。夫人の温室では、日中と夜間でどの程度差が出ますか」
「冬場は夜間にかなり下がりますが、昼間は日差しが入るため、南側の棚だけ温度が上がります。ですので、北方薬草を扱うなら奥側に区画を作る予定です」
「奥側に水場はありますか」
「今はありません。水路を引けるか、屋敷で確認しています」
「屋敷側の協力は得られそうですか」
エルミラは一瞬だけ考えた。
シオンが温室の図面を広げていた姿が浮かんだ。棚の高さを測り、管理人に水路のことを確認し、エルミラが使いやすい位置を何度も聞いていた。
「得られると思います」
「それなら、栽培環境としては十分整えられるかもしれません」
その言葉に、エルミラは胸の奥が温かくなるのを感じた。
レーヴェン家の温室が、研究所と繋がる場所になるかもしれない。
三年間、一人で記録を続けた場所が、これからはただの逃げ場所ではなく、研究を続けるための場所になるかもしれない。
そう思うと、屋敷に戻ることが少し現実味を帯びてくる。
研修は忙しかった。
午前は講義と温室実習、午後は記録の書き方や標本管理、夕方にはその日の観察内容をまとめて提出する。夕食後は自由時間とされていたが、翌日の準備をしているとすぐに夜になった。
それでも、エルミラは毎日、短い手紙を書いた。
カリナには、研究所で食べた薬草入りのスープのことや、標本棚の札が見やすかったことを書いた。シオンには、低温区画の作り方、水場の位置、棚の高さについて気づいたことを書いた。
返事は三日目の朝に届いた。
最初はカリナからだった。
『焼き菓子をおいしいと言ってくれてありがとう。次は果実を少し変えてみます。棚札は、エルミラが戻るまでに三種類作っておきます。お兄様は昨日、記録机の椅子の高さを測っていました。真面目な顔で椅子を測るお兄様は少し変でした。でも、エルミラのためだと思うと、私は少し嬉しかったです。早く帰ってきて、と書きそうになりました。でも、今日は我慢します。研修、頑張ってね』
エルミラはその手紙を読みながら、思わず口元を緩めた。
カリナらしい文だった。
寂しいと言いながら、ちゃんと送り出そうとしている。
以前のカリナなら、シオンを頼って気持ちを紛らわせていたかもしれない。けれど今のカリナは、自分の寂しさを自分で持とうとしている。
次に、シオンの手紙を開いた。
『無事に過ごしていると知り、安心しました。温室の低温区画について、管理人と庭師に確認しました。水路は奥側まで引けますが、床の一部を外す必要があるため、あなたが戻ってから最終確認をしたいと思います。記録机は動かしていません。カリナが、そこはエルミラさんの場所だから勝手に変えてはいけないと言いました。俺も同意しました。待つことは、想像していたより難しいです。ですが、あなたが帰ってきた時、この家が少しでも研究を続けやすい場所になっているようにします』
エルミラは何度か読み返した。
待つことは難しい。
その一文が、シオンらしくて、今のシオンらしくないようにも思えた。
以前の彼なら、こんな弱音を手紙に書かなかっただろう。書いたとしても、遠回しな言葉で隠したはずだ。
けれど今のシオンは、自分の気持ちを隠さず、エルミラを縛らない形で伝えてくる。
それが、胸に残った。
研修四日目、エルミラは所長のマルグリットに呼ばれた。
所長室には、北方薬草の試験栽培に関する資料が並んでいた。マルグリットはエルミラの提出した記録を読み終えると、満足そうに頷いた。
「記録の取り方が安定しています。個人の温室でこれだけ続けられるなら、外部協力員として十分やっていけるでしょう」
「ありがとうございます」
「ただし、正式に続けるなら覚悟が必要です。研究は、家の都合で簡単に中断できません。夫人という立場と両立するなら、周囲の理解が必要になります」
「はい」
「レーヴェン家に戻るつもりですか」
その問いはまっすぐだった。
エルミラはすぐには答えられなかった。
離婚するつもりだと告げた日から、ずっと自分は屋敷を出ることだけを考えていた。研究所の宿舎に残る道もある。所長が許可すれば、しばらくここで過ごすこともできる。
けれど今、屋敷には整えられつつある温室がある。
待つと言ったシオンがいる。
お菓子を用意すると言ったカリナがいる。
「研修が終わったら、一度戻ります」
エルミラはそう答えた。
「離婚のために?」
「それを決めるためにです」
所長は少しだけ表情をやわらげた。
「良い答えです。逃げるために研究所へ残るなら、私は勧めません。研究を続ける場所は、どこであっても自分で選ぶべきです」
「はい」
「研修が終わる日に、正式な外部協力員の契約書を用意します。それを持って戻りなさい。家に戻っても、宿舎に残っても、あなたが研究者として進める道は残しておきます」
エルミラは深く礼をした。
所長室を出ると、廊下の先にアレクシスがいた。
「所長と話されたのですね」
「はい」
「良い顔をしています」
「そうでしょうか」
「ええ。迷いながらも、逃げていない顔です」
アレクシスは穏やかに言った。
エルミラは少しだけ苦笑した。
「アレクシス様は、時々とても厳しいです」
「あなたには、それくらいが必要だと思っています」
「私の味方なのでは?」
「味方だからです」
アレクシスはそう答えた。
「レーヴェン家へ戻るのですね」
「一度は戻ります」
「シオン卿は喜ぶでしょう」
「まだ答えを出したわけではありません」
「わかっています。ですが、彼にとっては、一度戻るというだけでも大きいはずです」
エルミラは窓の外を見た。
研究所の庭では、若い研究員たちが薬草の苗を運んでいる。
この場所には、エルミラの未来がある。
けれど、レーヴェン家にも、いま新しい未来が生まれようとしている。
どちらが正しいかではない。
自分がどちらを選びたいか。
その答えを、そろそろ出さなければならなかった。
一方その頃、レーヴェン家では、シオンが温室の改修を進めていた。
外交省から戻ると、まっすぐ温室へ向かう。上着を脱ぎ、管理人と庭師の説明を聞き、図面に書き込みを入れる。以前の彼を知る使用人たちは、その変化に驚いていた。
カリナは棚札を作りながら、その様子を見ていた。
「お兄様、その棚は少し高いと思う」
「高いか?」
「エルミラは記録しながら標本を取るから、手を伸ばさないと届かない棚は使いにくいよ」
シオンは棚の高さを見直した。
「そうだな。下げよう」
「素直」
「今は素直に聞いた方がいい」
「前からそうしていればよかったのに」
カリナの言葉は軽く聞こえたが、シオンには重く届いた。
「本当にそうだな」
シオンが答えると、カリナは少し驚いた顔をした。
「怒らないの?」
「怒る資格がない」
「そういう言い方をされると、私も少し困る」
カリナは棚札を置いた。
「ねえ、お兄様」
「何だ」
「エルミラがいないと寂しい?」
シオンは図面を見たまま、すぐに答えた。
「ああ」
カリナは一瞬だけ目を伏せた。
「じゃあ、三年間エルミラはずっとそうだったんだよ」
シオンの手が止まった。
カリナは続けた。
「お兄様が私のところへ来てくれるたびに、エルミラは一人だった。食事の席でも、夜会でも、廊下でも、書斎の前でも。私がお兄様の袖を引いたら、お兄様は私を見た。エルミラはずっと、今のお兄様みたいに待っていたんだと思う」
シオンは何も言い返せなかった。
カリナの声は責めているだけではなかった。自分自身にも向けている声だった。
「私も悪かった。エルミラが寂しいって、少しは気づいていたのに、知らないふりをした。お兄様が私を選んでくれるのが嬉しかったから」
「カリナ」
「でも今、エルミラがいなくなってわかる。待つのって、すごく寂しいね」
シオンは長い時間、温室の図面を見つめていた。
カリナの言葉は、シオンの胸の奥を深く刺した。
エルミラがいない十日間。
それだけで、屋敷はこんなに広く感じる。
温室に入っても、記録机にエルミラはいない。朝食の席に、エルミラの姿はない。夜、廊下を歩いても、温室の灯りはついていない。
たった数日で、この空白がこれほど重い。
それなら三年間、エルミラはどれほどの空白を抱えていたのか。
シオンはようやく、その重さを自分の中で理解し始めていた。
「カリナ」
「何?」
「俺は、本当にひどい夫だった」
カリナは小さく頷いた。
「うん」
「否定しないのか」
「しないよ。私も、ひどい親友だったから」
二人は温室の中で向き合った。
以前なら、シオンはカリナを慰めていただろう。カリナも、慰められることで安心していたはずだ。
けれど今は違う。
二人とも、自分がしたことを見ようとしていた。
カリナは棚札を一枚、シオンに差し出した。
そこには、きれいな字で「エルミラ記録棚」と書かれていた。
「これ、戻ってきたら貼っていいか聞こうと思って」
「勝手に貼らないのか」
「勝手にしたら、また同じでしょ」
シオンはその札を見て、少しだけ笑った。
「そうだな。聞いてからにしよう」
「お兄様も、帰ってきたらちゃんと聞いてね」
「何を」
「離婚したくないって言うだけじゃなくて、エルミラがどうしたいか」
シオンは頷いた。
「わかっている」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、待とうね」
カリナはそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
研修七日目、エルミラは研究所の温室で、初めて北方薬草の根分けを任された。
グレンが横で手順を説明する。
「根を傷つけないように。力を入れすぎると次の芽が弱ります」
「はい」
エルミラは慎重に根を分けた。
緊張したが、手は思ったより落ち着いていた。温室で何度も球根を扱ってきた経験が役立ったのだろう。
グレンが頷いた。
「上手です。これなら試験栽培も任せられます」
「ありがとうございます」
その日の記録を提出すると、マルグリット所長から正式な契約書の下書きを渡された。
外部協力員として三ヶ月の試験協力。
研究所からの種苗提供。
記録提出。
必要に応じた宿舎利用。
すべてが具体的に書かれている。
「研修最終日に正式なものを渡します。あなたが署名するかどうかは、家に戻ってから決めても構いません」
「持ち帰ってよろしいのですか」
「もちろんです。これは誰かに急かされて決めることではありません」
所長はそう言って、エルミラを見た。
「ただ、あなたには続けてほしいと思っています」
「光栄です」
「能力がある人には、続けてほしい。それだけです」
エルミラは契約書の下書きを抱え、宿舎へ戻った。
部屋の机には、シオンとカリナからの手紙が届いていた。
カリナの手紙には、棚札の試作が三種類できたこと、焼き菓子に酸味のある果実を使ったら少し成功したこと、シオンが最近、温室でエルミラの記録を読む時間が長いことが書かれていた。
シオンの手紙には、低温区画の工事が半分終わったこと、水場の配管は研修後に最終確認したいこと、記録机の椅子を少し修理したことが書かれていた。
そして最後に、こうあった。
『カリナに言われました。エルミラさんは三年間、今の俺よりずっと長く待っていたのだと。返す言葉がありませんでした。あなたが帰ってきた時、俺は離婚しないでほしいと願うと思います。ですが、その前に、あなたが三年間どう感じていたのかを聞きたいです。俺は今度こそ、途中で目を逸らしません』
エルミラはその手紙を、長い間見つめていた。
胸が痛かった。
けれど、不思議と嫌な痛みだけではなかった。
シオンはようやく、自分が何をしたのかを見ている。
カリナも、自分が何をしてきたのかを見ている。
そしてエルミラ自身も、自分が何を望んでいるのかを見なければならない。
研修九日目の夜、エルミラは宿舎の机で最後の記録をまとめた。
十日間は長いと思っていた。
けれど過ぎてみると、あっという間だった。
研究所の生活は充実していた。朝から晩まで学ぶことがあり、誰もエルミラを夫人として特別扱いしない。記録を提出すれば内容で評価され、質問すれば研究員として答えが返ってくる。
ここに残る道はある。
それは確かに魅力的だった。
けれど夜になると、エルミラは何度もレーヴェン家の温室を思い出した。
シオンが描いた図面。
カリナが作った棚札。
自分の記録机。
研修前に三人で囲んだ長机。
そして玄関広間で、待っていますと言ったシオンの顔。
エルミラは研究ノートの最後に、一文を書いた。
『研究は続ける。けれど、帰って確かめたい場所がある』
書き終えた時、胸の中にあった迷いが、少しだけ形を変えた。
離婚するかどうかの答えは、まだ完全には出ていない。
でも、逃げるように離婚届を出すことはもうしない。
レーヴェン家へ戻り、シオンと話す。
カリナとも話す。
その上で、自分で選ぶ。
研修最終日の朝、マルグリット所長は正式な契約書を渡した。
「よく頑張りました。外部協力員として、あなたを歓迎します」
「ありがとうございます」
「署名は今ここでしなくても構いません。持ち帰って、落ち着いて決めなさい」
「はい」
「レーヴェン夫人」
「はい」
所長は少しだけ表情をやわらげた。
「研究者として立つことと、誰かの隣に立つことは、必ずしも反対ではありません。ただし、隣に立つ相手が、あなたの足を止めない人であることが条件です」
エルミラはその言葉を、胸に刻むように受け取った。
「よく考えます」
「それでいいのです」
研究所を出る時、アレクシスが見送ってくれた。
「戻られるのですね」
「はい。一度、レーヴェン家へ」
「答えを出すために?」
「はい」
アレクシスは満足そうに頷いた。
「良い顔です」
「またですか」
「ええ。前よりずっと、自分で選ぶ顔になりました」
エルミラは少しだけ笑った。
「アレクシス様には、本当にお世話になりました」
「私は、きっかけを作っただけです。ここからは、あなたが選ぶことです」
「はい」
「どの道を選んでも、研究所の扉は開いています」
その言葉は心強かった。
エルミラは深く礼をして、馬車に乗った。
帰り道、窓の外の景色がゆっくり流れていく。
王都の石畳。
花屋の軒先。
貴族街へ続く並木道。
そして、遠くに見えてくるレーヴェン家の屋敷。
胸が高鳴った。
怖さもある。
けれど、それだけではない。
玄関広間には、きっとシオンとカリナが待っている。
温室には、新しい棚と記録机がある。
そして机の引き出しには、まだ離婚届が入っている。
エルミラは膝の上の契約書に手を置いた。
研究所で得た未来。
屋敷で待つ人たち。
どちらも、エルミラの前にある。
十日間の研修は終わった。
離婚まで、残り四日。
エルミラは答えを持って帰るのではなく、答えを出すために帰っていくのだと思った。
レーヴェン家の屋敷では、朝になるとリナがそっと扉を叩き、温かい湯と身支度の準備を整えてくれていた。ここでは誰も部屋へ入ってこない。起きる時間も、支度を始める時間も、研究所の決まりに合わせて自分で管理する必要があった。
簡素な寝台から起き上がり、窓を開けると、温室棟のガラス屋根に朝日が反射していた。研究所の庭では、すでに何人もの研究員が記録板を持って歩いている。誰もエルミラを奥様とは呼ばない。ここでのエルミラは、外部協力員候補の一人だった。
その扱いは、少し緊張した。
けれど、嫌ではなかった。
朝食後、エルミラは北方薬草の低温区画へ案内された。担当研究員のグレンは、年配の穏やかな男性だったが、植物の話になると質問が細かかった。
「北方薬草は、日差しを強く当てれば育つわけではありません。光量よりも温度の安定が重要です。夫人の温室では、日中と夜間でどの程度差が出ますか」
「冬場は夜間にかなり下がりますが、昼間は日差しが入るため、南側の棚だけ温度が上がります。ですので、北方薬草を扱うなら奥側に区画を作る予定です」
「奥側に水場はありますか」
「今はありません。水路を引けるか、屋敷で確認しています」
「屋敷側の協力は得られそうですか」
エルミラは一瞬だけ考えた。
シオンが温室の図面を広げていた姿が浮かんだ。棚の高さを測り、管理人に水路のことを確認し、エルミラが使いやすい位置を何度も聞いていた。
「得られると思います」
「それなら、栽培環境としては十分整えられるかもしれません」
その言葉に、エルミラは胸の奥が温かくなるのを感じた。
レーヴェン家の温室が、研究所と繋がる場所になるかもしれない。
三年間、一人で記録を続けた場所が、これからはただの逃げ場所ではなく、研究を続けるための場所になるかもしれない。
そう思うと、屋敷に戻ることが少し現実味を帯びてくる。
研修は忙しかった。
午前は講義と温室実習、午後は記録の書き方や標本管理、夕方にはその日の観察内容をまとめて提出する。夕食後は自由時間とされていたが、翌日の準備をしているとすぐに夜になった。
それでも、エルミラは毎日、短い手紙を書いた。
カリナには、研究所で食べた薬草入りのスープのことや、標本棚の札が見やすかったことを書いた。シオンには、低温区画の作り方、水場の位置、棚の高さについて気づいたことを書いた。
返事は三日目の朝に届いた。
最初はカリナからだった。
『焼き菓子をおいしいと言ってくれてありがとう。次は果実を少し変えてみます。棚札は、エルミラが戻るまでに三種類作っておきます。お兄様は昨日、記録机の椅子の高さを測っていました。真面目な顔で椅子を測るお兄様は少し変でした。でも、エルミラのためだと思うと、私は少し嬉しかったです。早く帰ってきて、と書きそうになりました。でも、今日は我慢します。研修、頑張ってね』
エルミラはその手紙を読みながら、思わず口元を緩めた。
カリナらしい文だった。
寂しいと言いながら、ちゃんと送り出そうとしている。
以前のカリナなら、シオンを頼って気持ちを紛らわせていたかもしれない。けれど今のカリナは、自分の寂しさを自分で持とうとしている。
次に、シオンの手紙を開いた。
『無事に過ごしていると知り、安心しました。温室の低温区画について、管理人と庭師に確認しました。水路は奥側まで引けますが、床の一部を外す必要があるため、あなたが戻ってから最終確認をしたいと思います。記録机は動かしていません。カリナが、そこはエルミラさんの場所だから勝手に変えてはいけないと言いました。俺も同意しました。待つことは、想像していたより難しいです。ですが、あなたが帰ってきた時、この家が少しでも研究を続けやすい場所になっているようにします』
エルミラは何度か読み返した。
待つことは難しい。
その一文が、シオンらしくて、今のシオンらしくないようにも思えた。
以前の彼なら、こんな弱音を手紙に書かなかっただろう。書いたとしても、遠回しな言葉で隠したはずだ。
けれど今のシオンは、自分の気持ちを隠さず、エルミラを縛らない形で伝えてくる。
それが、胸に残った。
研修四日目、エルミラは所長のマルグリットに呼ばれた。
所長室には、北方薬草の試験栽培に関する資料が並んでいた。マルグリットはエルミラの提出した記録を読み終えると、満足そうに頷いた。
「記録の取り方が安定しています。個人の温室でこれだけ続けられるなら、外部協力員として十分やっていけるでしょう」
「ありがとうございます」
「ただし、正式に続けるなら覚悟が必要です。研究は、家の都合で簡単に中断できません。夫人という立場と両立するなら、周囲の理解が必要になります」
「はい」
「レーヴェン家に戻るつもりですか」
その問いはまっすぐだった。
エルミラはすぐには答えられなかった。
離婚するつもりだと告げた日から、ずっと自分は屋敷を出ることだけを考えていた。研究所の宿舎に残る道もある。所長が許可すれば、しばらくここで過ごすこともできる。
けれど今、屋敷には整えられつつある温室がある。
待つと言ったシオンがいる。
お菓子を用意すると言ったカリナがいる。
「研修が終わったら、一度戻ります」
エルミラはそう答えた。
「離婚のために?」
「それを決めるためにです」
所長は少しだけ表情をやわらげた。
「良い答えです。逃げるために研究所へ残るなら、私は勧めません。研究を続ける場所は、どこであっても自分で選ぶべきです」
「はい」
「研修が終わる日に、正式な外部協力員の契約書を用意します。それを持って戻りなさい。家に戻っても、宿舎に残っても、あなたが研究者として進める道は残しておきます」
エルミラは深く礼をした。
所長室を出ると、廊下の先にアレクシスがいた。
「所長と話されたのですね」
「はい」
「良い顔をしています」
「そうでしょうか」
「ええ。迷いながらも、逃げていない顔です」
アレクシスは穏やかに言った。
エルミラは少しだけ苦笑した。
「アレクシス様は、時々とても厳しいです」
「あなたには、それくらいが必要だと思っています」
「私の味方なのでは?」
「味方だからです」
アレクシスはそう答えた。
「レーヴェン家へ戻るのですね」
「一度は戻ります」
「シオン卿は喜ぶでしょう」
「まだ答えを出したわけではありません」
「わかっています。ですが、彼にとっては、一度戻るというだけでも大きいはずです」
エルミラは窓の外を見た。
研究所の庭では、若い研究員たちが薬草の苗を運んでいる。
この場所には、エルミラの未来がある。
けれど、レーヴェン家にも、いま新しい未来が生まれようとしている。
どちらが正しいかではない。
自分がどちらを選びたいか。
その答えを、そろそろ出さなければならなかった。
一方その頃、レーヴェン家では、シオンが温室の改修を進めていた。
外交省から戻ると、まっすぐ温室へ向かう。上着を脱ぎ、管理人と庭師の説明を聞き、図面に書き込みを入れる。以前の彼を知る使用人たちは、その変化に驚いていた。
カリナは棚札を作りながら、その様子を見ていた。
「お兄様、その棚は少し高いと思う」
「高いか?」
「エルミラは記録しながら標本を取るから、手を伸ばさないと届かない棚は使いにくいよ」
シオンは棚の高さを見直した。
「そうだな。下げよう」
「素直」
「今は素直に聞いた方がいい」
「前からそうしていればよかったのに」
カリナの言葉は軽く聞こえたが、シオンには重く届いた。
「本当にそうだな」
シオンが答えると、カリナは少し驚いた顔をした。
「怒らないの?」
「怒る資格がない」
「そういう言い方をされると、私も少し困る」
カリナは棚札を置いた。
「ねえ、お兄様」
「何だ」
「エルミラがいないと寂しい?」
シオンは図面を見たまま、すぐに答えた。
「ああ」
カリナは一瞬だけ目を伏せた。
「じゃあ、三年間エルミラはずっとそうだったんだよ」
シオンの手が止まった。
カリナは続けた。
「お兄様が私のところへ来てくれるたびに、エルミラは一人だった。食事の席でも、夜会でも、廊下でも、書斎の前でも。私がお兄様の袖を引いたら、お兄様は私を見た。エルミラはずっと、今のお兄様みたいに待っていたんだと思う」
シオンは何も言い返せなかった。
カリナの声は責めているだけではなかった。自分自身にも向けている声だった。
「私も悪かった。エルミラが寂しいって、少しは気づいていたのに、知らないふりをした。お兄様が私を選んでくれるのが嬉しかったから」
「カリナ」
「でも今、エルミラがいなくなってわかる。待つのって、すごく寂しいね」
シオンは長い時間、温室の図面を見つめていた。
カリナの言葉は、シオンの胸の奥を深く刺した。
エルミラがいない十日間。
それだけで、屋敷はこんなに広く感じる。
温室に入っても、記録机にエルミラはいない。朝食の席に、エルミラの姿はない。夜、廊下を歩いても、温室の灯りはついていない。
たった数日で、この空白がこれほど重い。
それなら三年間、エルミラはどれほどの空白を抱えていたのか。
シオンはようやく、その重さを自分の中で理解し始めていた。
「カリナ」
「何?」
「俺は、本当にひどい夫だった」
カリナは小さく頷いた。
「うん」
「否定しないのか」
「しないよ。私も、ひどい親友だったから」
二人は温室の中で向き合った。
以前なら、シオンはカリナを慰めていただろう。カリナも、慰められることで安心していたはずだ。
けれど今は違う。
二人とも、自分がしたことを見ようとしていた。
カリナは棚札を一枚、シオンに差し出した。
そこには、きれいな字で「エルミラ記録棚」と書かれていた。
「これ、戻ってきたら貼っていいか聞こうと思って」
「勝手に貼らないのか」
「勝手にしたら、また同じでしょ」
シオンはその札を見て、少しだけ笑った。
「そうだな。聞いてからにしよう」
「お兄様も、帰ってきたらちゃんと聞いてね」
「何を」
「離婚したくないって言うだけじゃなくて、エルミラがどうしたいか」
シオンは頷いた。
「わかっている」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、待とうね」
カリナはそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
研修七日目、エルミラは研究所の温室で、初めて北方薬草の根分けを任された。
グレンが横で手順を説明する。
「根を傷つけないように。力を入れすぎると次の芽が弱ります」
「はい」
エルミラは慎重に根を分けた。
緊張したが、手は思ったより落ち着いていた。温室で何度も球根を扱ってきた経験が役立ったのだろう。
グレンが頷いた。
「上手です。これなら試験栽培も任せられます」
「ありがとうございます」
その日の記録を提出すると、マルグリット所長から正式な契約書の下書きを渡された。
外部協力員として三ヶ月の試験協力。
研究所からの種苗提供。
記録提出。
必要に応じた宿舎利用。
すべてが具体的に書かれている。
「研修最終日に正式なものを渡します。あなたが署名するかどうかは、家に戻ってから決めても構いません」
「持ち帰ってよろしいのですか」
「もちろんです。これは誰かに急かされて決めることではありません」
所長はそう言って、エルミラを見た。
「ただ、あなたには続けてほしいと思っています」
「光栄です」
「能力がある人には、続けてほしい。それだけです」
エルミラは契約書の下書きを抱え、宿舎へ戻った。
部屋の机には、シオンとカリナからの手紙が届いていた。
カリナの手紙には、棚札の試作が三種類できたこと、焼き菓子に酸味のある果実を使ったら少し成功したこと、シオンが最近、温室でエルミラの記録を読む時間が長いことが書かれていた。
シオンの手紙には、低温区画の工事が半分終わったこと、水場の配管は研修後に最終確認したいこと、記録机の椅子を少し修理したことが書かれていた。
そして最後に、こうあった。
『カリナに言われました。エルミラさんは三年間、今の俺よりずっと長く待っていたのだと。返す言葉がありませんでした。あなたが帰ってきた時、俺は離婚しないでほしいと願うと思います。ですが、その前に、あなたが三年間どう感じていたのかを聞きたいです。俺は今度こそ、途中で目を逸らしません』
エルミラはその手紙を、長い間見つめていた。
胸が痛かった。
けれど、不思議と嫌な痛みだけではなかった。
シオンはようやく、自分が何をしたのかを見ている。
カリナも、自分が何をしてきたのかを見ている。
そしてエルミラ自身も、自分が何を望んでいるのかを見なければならない。
研修九日目の夜、エルミラは宿舎の机で最後の記録をまとめた。
十日間は長いと思っていた。
けれど過ぎてみると、あっという間だった。
研究所の生活は充実していた。朝から晩まで学ぶことがあり、誰もエルミラを夫人として特別扱いしない。記録を提出すれば内容で評価され、質問すれば研究員として答えが返ってくる。
ここに残る道はある。
それは確かに魅力的だった。
けれど夜になると、エルミラは何度もレーヴェン家の温室を思い出した。
シオンが描いた図面。
カリナが作った棚札。
自分の記録机。
研修前に三人で囲んだ長机。
そして玄関広間で、待っていますと言ったシオンの顔。
エルミラは研究ノートの最後に、一文を書いた。
『研究は続ける。けれど、帰って確かめたい場所がある』
書き終えた時、胸の中にあった迷いが、少しだけ形を変えた。
離婚するかどうかの答えは、まだ完全には出ていない。
でも、逃げるように離婚届を出すことはもうしない。
レーヴェン家へ戻り、シオンと話す。
カリナとも話す。
その上で、自分で選ぶ。
研修最終日の朝、マルグリット所長は正式な契約書を渡した。
「よく頑張りました。外部協力員として、あなたを歓迎します」
「ありがとうございます」
「署名は今ここでしなくても構いません。持ち帰って、落ち着いて決めなさい」
「はい」
「レーヴェン夫人」
「はい」
所長は少しだけ表情をやわらげた。
「研究者として立つことと、誰かの隣に立つことは、必ずしも反対ではありません。ただし、隣に立つ相手が、あなたの足を止めない人であることが条件です」
エルミラはその言葉を、胸に刻むように受け取った。
「よく考えます」
「それでいいのです」
研究所を出る時、アレクシスが見送ってくれた。
「戻られるのですね」
「はい。一度、レーヴェン家へ」
「答えを出すために?」
「はい」
アレクシスは満足そうに頷いた。
「良い顔です」
「またですか」
「ええ。前よりずっと、自分で選ぶ顔になりました」
エルミラは少しだけ笑った。
「アレクシス様には、本当にお世話になりました」
「私は、きっかけを作っただけです。ここからは、あなたが選ぶことです」
「はい」
「どの道を選んでも、研究所の扉は開いています」
その言葉は心強かった。
エルミラは深く礼をして、馬車に乗った。
帰り道、窓の外の景色がゆっくり流れていく。
王都の石畳。
花屋の軒先。
貴族街へ続く並木道。
そして、遠くに見えてくるレーヴェン家の屋敷。
胸が高鳴った。
怖さもある。
けれど、それだけではない。
玄関広間には、きっとシオンとカリナが待っている。
温室には、新しい棚と記録机がある。
そして机の引き出しには、まだ離婚届が入っている。
エルミラは膝の上の契約書に手を置いた。
研究所で得た未来。
屋敷で待つ人たち。
どちらも、エルミラの前にある。
十日間の研修は終わった。
離婚まで、残り四日。
エルミラは答えを持って帰るのではなく、答えを出すために帰っていくのだと思った。
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