婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第29章|合図の旋律

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 北棟の空き室は、夜になるとさらに狭くなる。

 窓が小さいせいではない。
 灯りが少ないせいでもない。
 静けさが、壁を内側へ押し縮めるからだ。

 セシリアはベッドの端に座ったまま、膝を抱えていた。

 泣くつもりはなかった。
 泣けば負ける。泣けばまた“弱い令嬢”に戻る。
 そう思っていたのに、涙は勝手に落ちた。

 頬を伝う温度が、冷たい部屋の空気に奪われていく。
 涙はすぐ冷える。
 冷えるほど、胸の奥の痛みがくっきりする。

(……見捨てられた)

 守るための隔離だと、誰も言わない。
 言わないなら、これは捨てたのと同じだ。

 王太子は、私を嫌っている。
 だから「無期限」。
 だから「面会禁止」。
 だから、ここ。

 そう思い込むことでしか、耐えられない。

 セシリアは袖で涙を拭いた。
 拭っても拭っても、目の奥が熱い。

 ふと、外から微かな音がした。

 廊下の足音。
 遠ざかる音。
 近衛の靴音とは違う。もっと静かで、重い。

(……誰かいる?)

 セシリアは息を止めた。
 謹慎中だ。面会禁止だ。
 誰かが来るはずがない。

 でも、足音は確かに止まった。

 ――扉の前で。

 扉の向こうの空気が、ほんのわずかに揺れた気がする。
 それは音ではなく、気配だった。

 セシリアの心臓が、早くなる。

(……やだ、期待しないで)

 期待した瞬間、痛みが倍になる。
 期待した瞬間、裏切りが刺さる。

 セシリアは膝を抱えたまま、目を閉じた。

 閉じた瞼の裏に、琥珀の瞳が浮かぶ。
 冷たかった。
 でも、冷たさの奥に痛みがあった。

(……どうして、あなたは)

 問いが喉元で崩れ、言葉にならない。

 涙がまた落ちる。

 その涙の中で、セシリアの口からふいに音が漏れた。

 ――旋律。

 短い。
 言葉のない、三つ四つの音だけ。

 自分でも驚くほど自然に、口がそれをなぞった。

「……」

 声は小さい。
 歌というより、息に混じる音。

 なのに、その音を出した瞬間、胸の痛みが少しだけ変わった。

 刺す痛みではない。
 押し返される痛み。

(……これ、何)

 セシリアは唇を震わせながら、もう一度、その旋律を口ずさんだ。

 不思議と、涙が止まる。
 呼吸が少し整う。

 まるでこの音が、誰かの手の代わりに胸を押さえてくれるみたいだった。

 旋律の先に、微かな記憶の影が見える。

 白い花。
 幼い手。
 夜の温室のような光。
 そして――誰かが指で机を「トン、トン」と叩く音。

 合図。

(……合図?)

 セシリアのこめかみが疼いた。
 思い出しそうで、怖い。
 でも、思い出したい。

 セシリアは震える声で、旋律をもう一度なぞった。

 その瞬間。

 扉の向こうで、息を呑む音がした。

 はっきりと。
 人が、息を呑んだ。

 セシリアの背筋が凍る。

(……誰かいる)

 扉の外に、誰かがいる。
 そして、その誰かが――今の旋律に反応した。

 セシリアは喉が詰まり、声が出ない。

 しん、と静かになる。

 次に聞こえたのは、布が擦れる音だった。
 外套の裾か。
 誰かが、壁に手をついたような音。

 そして、低い、掠れた息。

 ――泣きそうな呼吸。

 セシリアの胸が、ぎゅっと縮む。

(……まさか)

 考える前に、身体が答えを出してしまう。

 この旋律を知っている人。
 この旋律で崩れる人。

 ――王太子レイヴン。

 セシリアは口元を押さえた。
 鼓動が耳の奥で鳴る。
 怖い。
 でも、どうしてか嬉しい。

 その嬉しさが、すぐに痛みに変わる。

(来ないで。来ないでほしい。来てほしい)

 矛盾が胸を裂く。

 扉の向こうで、レイヴンは動かなかった。
 鍵を開けない。
 ノックもしない。
 声もかけない。

 ただ、そこにいる。

 その沈黙が、彼の“苦しさ”だとセシリアは感じた。

 セシリアは小さく呟いた。

「……殿下?」

 声は震えていた。
 呼んだ瞬間、胸が痛む。
 思い出せないのに、痛む。

 扉の外で、息が止まる。

 次の瞬間、掠れた声が返った。

「……呼ぶな」

 命令の形。
 でも、その声は壊れていた。

 セシリアの胸が、どくんと跳ねた。

「……どうして、ここに」

 言いかけて、涙がまた溜まる。
 怒りたいのに、怒れない。
 問い詰めたいのに、怖い。

 扉の向こうで、レイヴンの呼吸が乱れた。

「……その旋律を、やめろ」

 セシリアは息を呑んだ。

「……知っているんですか」

 質問は、刃だ。
 答えれば、何かが壊れる。
 でも、知りたい。

 沈黙。
 長い沈黙。

 そして、扉の向こうから、かすかな音がした。

 ――拳を握る音。
 関節が鳴るほどの音。

 レイヴンの声が、ひどく低く落ちた。

「……忘れたままでいろ」

 その言葉に、セシリアの胸が痛む。
 痛くて、息ができない。

「……どうして。私は……私は、空白が苦しいのに」

 声が震える。
 涙が落ちる。

 扉の外で、何かが崩れる音がした。

 壁に額をつけたのか。
 手をついたのか。
 レイヴンが、耐えきれずに身体を折った気配。

 そして、絞り出すような声。

「……思い出したら、お前は……死ぬ」

 セシリアの身体が凍った。

 死ぬ。
 またその言葉。

「……なぜ」

 問いかけた瞬間、レイヴンの声が怒りに変わる。

「だから、忘れろと言っている!」

 怒鳴ったわけではない。
 でも声が割れ、感情が漏れた。

 その漏れた感情が、セシリアの胸を刺す。

(……私のために怒ってる?)

 そう思った瞬間、自分が惨めになる。
 期待するな。
 でも、期待してしまう。

 扉の向こうで、レイヴンの呼吸が乱れた。
 次に聞こえたのは、ひどく小さな声だった。

「……俺は、あの音に耐えられない」

 あの音。
 旋律。

 セシリアの喉が詰まった。

 自分が口ずさんだだけで、彼が崩れた。
 それはつまり――

(……私たちは、何かを共有していた)

 思い出せない何か。
 失った何か。

 セシリアは震える唇で、もう一度だけ旋律を小さくなぞった。
 確かめたかった。
 自分の空白が、幻ではないと。

 扉の向こうで、レイヴンが息を詰めた。
 そして、堪えきれないように呟く。

「……やめろ。……俺が壊れる」

 その言葉で、セシリアの胸が締めつけられた。

 壊れる。
 彼が壊れるほど、あの旋律は重い。

 セシリアは唇を噛み、涙を拭った。

「……ごめんなさい」

 謝る言葉しか出ない。
 でも、謝りたいわけじゃない。
 知りたい。取り戻したい。

 扉の向こうで、レイヴンが震える息を吐いた。

「……謝るな」

 そして、ひどく小さく続けた。

「……生きろ」

 それだけ言って、足音が遠ざかる。

 セシリアは扉へ近づくこともできず、ただベッドの端で固まった。

 今のは夢ではない。
 幻でもない。

 王太子が、ここに来た。
 そして、旋律で崩れた。

 セシリアは胸元の名札を握りしめた。
 冷たい金属が掌に食い込む。

 でも、心臓の奥だけが熱い。

(……私は、思い出したい)

 空白は、確かに存在する。
 そしてその空白は――誰かの命と繋がっている。

 セシリアの涙は止まった。
 代わりに、決意が静かに芽を出していた。

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