婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第28章|謹慎

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 王宮の“守り”は、いつだって冷たい。

 暖かな言葉では守れない。
 抱きしめても守れない。
 守るために必要なのは、距離と鍵と――孤独だ。

 セシリアはそれを、これ以上ない形で知った。



 王太子の執務室へ呼ばれたのは、夕刻だった。

 窓の外が茜色に沈み、回廊の灯りが一本ずつ点り始める時間。
 その灯りは温かいはずなのに、セシリアの足元だけは冷えたままだ。

 マルタに付き添われ、扉の前に立つ。

 ノックの音が、やけに大きく響いた。

「入れ」

 低い声。

 セシリアの胸が痛んだ。
 名前を口にしていないのに、痛む。
 思い出せないのに、痛む。

 扉が開く。

 室内は整いすぎていて、呼吸がしづらい。
 机。書類。壁時計の針の音。
 そこに座る男――王太子レイヴン。

 漆黒の髪。琥珀の瞳。
 その瞳の色は、今日、さらに暗い。

 近衛隊長ガイルもいた。
 壁際に立ち、視線を落としている。
 余計なものを見ないために。

 セシリアは膝を折った。

「王太子殿下」

 声が掠れないように腹で支える。
 泣かない。崩れない。
 でも胸の奥はすでに、ひび割れている。

 レイヴンは机の上の写真を指先で押さえた。

 あの紙。
 灯りの下の二人。
 自分とアデル。
 “嘘の真実”。

「……説明は聞いた」

 声が冷たい。

 セシリアは息を吸った。

「私は、密会では――」

「言い訳は不要だ」

 また同じ。
 言葉を奪われる。
 否定は燃料になる。

 セシリアは唇を噛んだ。
 血の味。痛みで耐える。

 レイヴンは続けた。

「王宮の規律に反した。噂は“写真”で確定する。――その事実は覆らない」

 覆らない。
 どれだけ正しくても、覆らない。

 セシリアの胸が冷えた。

(……私は、真実を持てない)

 舞踏会でもそうだった。
 泣いた方が正しくなる。

 レイヴンの琥珀の瞳が、セシリアを見た。
 冷たいのに、壊れそうな目。

 彼は低く言った。

「お前は、謹慎だ」

 その言葉で、世界が一段落ちた気がした。

 謹慎。
 隔離。
 閉じ込められる。

 セシリアは喉が詰まり、声が出ない。

 マルタがすぐに言う。

「期間は」

 レイヴンは迷いなく答えた。

「無期限」

 無期限。

 胸が、ぎゅっと潰れた。

 期限がないということは、戻れないということだ。
 戻れない、ということは――捨てられたということだ。

 セシリアの視界が揺れた。
 膝が震える。
 でも倒れない。倒れたら負ける。

「……承知、しました」

 絞り出した声は震えた。
 震えが、部屋の冷たさに吸い込まれる。

 レイヴンは眉ひとつ動かさずに言った。

「部屋は北棟の空き室。窓は小さい。外には出るな。面会は禁止」

 一つずつ、鍵をかけるような言葉。

 セシリアの胸の奥で、何かが静かに切れた。

(……檻だ)

 伯爵家の檻。
 王宮の檻。
 どこへ行っても檻。

 セシリアは視線を落とした。
 涙が溜まりそうで、目を上げられない。

 けれど、その時――

 レイヴンの声が一瞬だけ、揺れた気がした。

「……お前は、外に出れば死ぬ」

 死ぬ。
 その言葉が、胸に刺さる。

(……なぜ、死ぬ?)

 守るため?
 危険だから?
 それなら、そう言えばいいのに。

 でも彼は、説明しない。
 説明できない。
 説明したら、もっと危険になる。

 セシリアは、その“説明しない”を、拒絶として受け取るしかない。

「……私は、そこまで価値のある人間ではありません」

 思わず零れた言葉。
 自分でも止められなかった。

 レイヴンの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
 痛みの揺れ。

 でも彼は冷酷に切り返す。

「価値の話ではない。――命の話だ」

 命。
 言われても、届かない。

 セシリアの胸の中では、別の言葉が鳴っている。

(あなたは、私を嫌っている)

 だから隔離する。
 だから無期限。
 だから面会禁止。

 そう思い込まなければ、心が壊れる。

 レイヴンは机の端を指先で押さえた。
 押さえないと拳になるから。
 拳になったら、感情が溢れるから。

 ガイルが、耐えきれないように一歩だけ前に出た。

「殿下……」

「黙れ」

 レイヴンの声が鋭くなる。
 ガイルは口を閉じる。
 それでも、拳を握っている。

 セシリアは立ち上がった。
 膝がまだ震える。
 でも立つ。
 立って、礼をする。

「……失礼いたします」

 扉へ向かう。
 背中に視線が刺さる。
 冷たい視線。
 なのに、重い視線。

 扉の前で、マルタが言った。

「行くぞ」

 セシリアは小さく頷き、廊下へ出た。



 北棟の空き室は、確かに空気が薄かった。

 窓は小さく、外の景色は切り取られた空の一部だけ。
 ベッドは硬い。机は小さい。椅子は一脚。
 部屋の匂いは、誰も住んでいない匂い――乾いた布と石。

 鍵がかかる音がした。

 がちゃり。

 その音だけで、セシリアの心臓が縮む。

 マルタが扉の外から言った。

「食事は運ばせる。必要なものは紙に書け。……余計なことはするな」

 余計なこと。
 生きることすら余計だと言われている気がした。

 足音が遠ざかる。

 セシリアは、静かな部屋に一人残された。

 窓の外から風の音がする。
 遠くで鐘が鳴る。
 王宮は生きているのに、自分だけが切り離されている。

 セシリアはベッドの端に座り、胸元の名札に触れた。

 金属は冷たい。
 仕事の名。
 その名を持っていても、働けない。

(……私、ここで何をすればいいの)

 働けないなら、私は何者になる?
 存在する意味がない。

 胸が痛い。
 涙が喉まで上がってくる。

 でも――今度は、堪えられなかった。

 ぽた、と涙が落ちた。

 一滴。
 二滴。
止まらない。

 セシリアは口元を押さえ、声を殺した。
 泣き声が廊下に漏れたら、もっと惨めになる気がした。

(……見捨てられた)

 守るための隔離だと、誰も教えてくれない。
 教えてくれない以上、これは捨てられたのと同じだ。

 王太子は、私を嫌っている。
 そう思い込むしかない。

 涙は止まらない。

 ベッドのシーツが濡れる。
 頬が熱い。
 胸が痛い。

 セシリアは震える声で、誰にも届かない言葉を零した。

「……どうして……私は……」

 答えは返らない。

 部屋の静けさが、泣き声を飲み込む。

 そしてセシリアは知らない。

 この扉の外――
 レイヴンが自分の執務室で、机の下で拳を握り潰しながら、
 “無期限”という言葉を自分自身へ刺していることを。

 誰よりも彼女を自由にしたい男が、
 誰よりも彼女を閉じ込めているという矛盾を、
 血が出るほど噛みしめていることを。
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