つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第6章|冷たい敬語

舞踏会の熱が、肌にまとわりついて離れない。
音楽が終わっても、拍手が止んでも、空気の中にはまだ“今夜の判決”が漂っていた。

――王妃は国王の手を取らなかった。
――王弟と踊った。
――国王は、セレスと踊った。

三つの事実が、たった一夜で“真実”に加工されていく。
噂は速い。正義より速く、弁明よりも速く、人の心を奪う。

リーシャは大広間の端へ退き、扇を閉じた。
指先がまだ微かに震えている。けれど、震えを隠す術はもう身についていた。手袋の内側で指を揃え、手首の角度を整えるだけで、震えは“優雅”に見える。

(……今夜だけは、息をしたい)

そう思った瞬間、背後から刺すような気配が近づいた。

「王妃陛下」

低い声。
感情を殺した声。
王の声。

リーシャは振り向かなかった。
振り向けば、目が合ってしまう。目が合えば、何かを期待してしまう。
だから、呼ばれたまま一拍置いてから、ゆっくりと振り返る。

国王レオニスが立っていた。
近い。思ったより近い。
さっきまで“来ない”と思っていた距離に、王は立っている。

黒い礼装の刺繍が灯りを受けて鋭く光り、彼の影が床に落ちる。
その影が、リーシャの足元へ伸びてきて――触れそうで触れない。

国王の目は冷たいままだ。
けれど、その冷たさの下に、今夜だけ別の色が混じっている。

焦り。
苛立ち。
そして――言葉にならない何か。

リーシャは微笑んだ。
王妃の微笑。
誰も責めず、誰にも期待しない微笑。

「陛下。お呼びでしょうか」

敬語は、最も美しい距離だ。
刺さる刃にもなる。

国王の眉が僅かに動いた。

「……なぜ、拒んだ」

その問いは短い。
短いほど、答えに逃げ道がない。

リーシャは息を吸った。
胸の奥に残る痛みが、言葉を押し上げる。
“つまらない妃”と言われたこと。
“隣”に立てないこと。
“手を取られなかった”こと。

全部を言えばいい。
言えば、理解されるかもしれない。

――でも、理解される“かもしれない”は、期待だ。
期待は、今のリーシャには毒だった。

リーシャは微笑みの角度を崩さず、丁寧に答える。

「恐れながら、舞踏会では皆さまの視線が集まります。陛下のお立場に、余計な波紋を立てたくありませんでした」

嘘ではない。
真実の一部だけを、綺麗に磨いた答え。

国王の視線が鋭くなる。

「波紋? ……俺が、お前と踊ることが?」

その言葉の端に、苛立ちが滲む。
苛立ちは、痛みの裏返しにも見える。
見えるからこそ、危険だ。

リーシャはさらに一歩、下がった。
ほんの少し。
だがその少しが、国王にとっては“拒絶”として十分だった。

「陛下は国の中心です。今夜は……すでに皆さまが、陛下の隣を“見つけて”しまいました」

“隣”という言葉が口から出た瞬間、リーシャの胸が小さく痛んだ。
見つけてしまった。そう言った。
まるで、自分が最初からその席を望んでいなかったように。

国王の口元が硬くなる。

「……セレスのことか」

名を口にした瞬間、彼の声が少し低くなる。
それが何を意味するか、リーシャは考えない。考えてはいけない。

「はい。……皆さまはそう理解なさっています」

理解。
王宮で最も残酷な言葉。
事実ではなく、“理解”が真実になる。

国王の指が、わずかに動いた。
リーシャの手を掴みたいのか。
それとも、抑え込みたいのか。

一瞬だけ、彼の手が伸びかける。

リーシャは、反射的に身体を引いた。

引いた瞬間――自分の中で何かが確定する。
“触れられる”ことに、怯えているのではない。
“触れられたら、戻ってしまう”ことに怯えている。

戻ってしまったら、また傷つく。
また期待して、また砕ける。

だから、戻らない。

「……お前は」

国王の声が、かすかに揺れた。

「王弟と踊った」

その一言は、問いではなく、刃だった。

リーシャは微笑のまま、目を伏せる。
目を伏せる動作は礼儀になる。
礼儀は盾になる。

「王妃が一曲も踊らないのは、王家の恥になります。殿下が――救ってくださいました」

救う。
その言い方が、国王の胸に何かを落としたように見えた。
彼の瞳が僅かに揺れる。

けれど次の瞬間、冷たさが戻る。
冷たさは、王の鎧だ。

「……俺の恥を、弟に拾わせたのか」

リーシャの胸がひやりとする。
そう来るのだ。
彼はいつも、“国の体面”を盾にして、個人の感情を殺す。

リーシャは、唇の端をほんの少しだけ上げた。

「陛下。恥ではありません。殿下は王家の一員です。王家が王妃を立てることは、秩序です」

秩序。
あなたが好きな言葉。
あなたを縛る言葉。
そして私を殺す言葉。

国王の眉間に、深い影が落ちた。

「……秩序、か」

声が低い。
低いほど、怒りが近い。

リーシャはさらに丁寧に、さらに遠くなるように言葉を重ねる。

「陛下のお心を乱すつもりはございません。今夜は、どうか――お役目を」

その瞬間、国王の肩が僅かに跳ねた。
“お役目を”と言われたのが、刺さったのだ。

――あなたは王。私は王妃。
――そこに、心は要らない。

リーシャは自分で刃を振るいながら、胸の奥が痛むのを感じた。
本当は言いたい。
あなたの隣に立ちたかった、と。
あなたの手を取りたかった、と。

でもその言葉は、今言ってはいけない。
言ったら、取り返しがつかない。

国王が一歩、詰める。
距離が近づく。
香が届く。熱が届く。

リーシャは下がらない。
下がれば負ける。
だから、その場に立ったまま――言葉だけで距離を作る。

「陛下。お呼びがかかったのなら、すぐに参ります。宰相閣下も、使節方もお待ちでしょう」

宰相。
その名を出した瞬間、国王の視線が一瞬だけ横へ動いた。
まるで、鎖の位置を確認するように。

そして――国王の背後に、影が差した。

グレゴール宰相が、完璧な礼で近づいてくる。
笑みは穏やか。声も穏やか。
穏やかすぎて、逆に恐ろしい。

「陛下。各国使節へのご挨拶のお時間でございます」

国王は、わずかに歯を食いしばった。
リーシャはその横顔を見て、確信する。

(……あなたは、動けない)

動けない王。
近づけない夫。
言えない男。

リーシャは、微笑のまま一歩下がり、深く礼をした。

「陛下。失礼いたします」

それは逃げではない。
王妃としての正しい退き方。
正しいほど、冷たい。

国王が何か言いかけた。
だが宰相が、半歩だけ前へ出る。
国王の言葉を遮るのではなく、消してしまう距離。

リーシャは背を向けた。

背中に、国王の視線が刺さる。
熱を持って刺さる。
けれどリーシャは、振り返らない。

振り返れば、きっと泣いてしまう。
泣けば、負ける。
負けた瞬間、王宮は“可哀想な妃”を作り、明日には飽きる。

回廊へ出ると、冷気が頬を撫でた。
広間の熱と香が遠のき、蝋燭の匂いだけが残る。

リーシャは壁際で立ち止まり、胸に手を当てる。
鼓動は速い。
痛い。
でも、崩れない。

(今日から、隣に立たない)

その決意は、今夜二度目の刃になった。
一度目は、自分を守るため。
二度目は――彼を遠ざけるため。

そのとき、背後から小さな足音。

「王妃陛下」

侍女長アグネスだった。
彼女はリーシャの顔色を一瞬で見抜き、声を落とす。

「……よく、耐えられました」

その言葉は褒め言葉に聞こえた。
けれどリーシャには、葬送の言葉に聞こえた。

耐える。
王妃の生き方。
そして、心が死ぬ道。

リーシャは微笑み、囁くように言った。

「耐えるのが、私の務めだもの」

微笑のまま、目が少しだけ熱くなる。
その熱を、リーシャは飲み込む。

泣かない。
泣かない。
泣かない。

王宮は、涙を許さない。

そしてリーシャは、自分の中で静かに知る。

今夜、国王に向けた“冷たい敬語”は――
一度口にした以上、もう戻れない距離を作ったのだと。

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