つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第7章|王太后の試験

舞踏会の翌朝、王宮の廊下は冷えきっていた。
夜の熱と香が嘘みたいに消え、石壁は無機質な静けさを返す。窓の外には薄い霧が降り、庭園の薔薇は露をまとって白く光っていた。

――昨夜のことが、夢だったならいいのに。

けれど夢ではない。
王宮は、夢を許さない。
現実だけを噂にして、噂だけを真実にする。

リーシャは鏡の前で髪を整えながら、胸の奥に残るざらつきを押し込めた。
銀糸のような髪を編み込み、耳元の飾りを留める。肌に触れる宝石は冷たい。王妃という冠も、同じくらい冷たい。

「王妃陛下」

侍女長アグネスが控えめに声を落とした。
いつもよりさらに硬い声だ。王宮が“何か”を用意している時の声。

「王太后陛下より、お呼びでございます。……すぐに」

リーシャは頷いた。
その頷きの中には、恐れも疑問も混ぜない。混ぜた瞬間、それが“弱さ”として扱われるからだ。

(試される)

王太后は、妃を歓迎しない。
歓迎しないのは当たり前だ。王太后にとって王妃は「息子の隣を奪う存在」。息子を産み、守り、支配してきた者にとって、妃は“外から来た侵入者”でしかない。

そして今のリーシャは、最悪の材料を抱えている。

――国王の手を取らなかった。
――王弟と踊った。
――国王は幼馴染のセレスと踊った。

王太后が笑わないはずがない。

リーシャは背筋を伸ばし、廊下へ出た。
足音は小さく、しかし確かに響く。
“王妃として歩く音”を、彼女は幼い頃から練習してきた。

奥宮へ続く回廊は、光が少ない。
壁の装飾は豪奢なのに、空気は冷え、重い。香の匂いが常に薄く漂い、ここが“王宮の心臓”なのだと教える。

扉の前に侍女たちが並んでいた。
目を伏せ、動かない。
その無音が、これから始まる時間の残酷さを告げている。

「王妃陛下、御入室を」

扉が開いた。

部屋は広かった。
高い天井、深い赤の絨毯、重いカーテン。窓から差す光は細く、室内の金箔を鈍く照らしている。
王太后はその中心、椅子ではなく――まるで玉座のような椅子に座っていた。

白髪は結い上げられ、指には宝石が光る。
美しいというより、強い。
この人は、王宮を「体面」で支配している。

そして――王太后の傍らに、セレスが立っていた。

(……やっぱり)

セレスの存在は、いつも“正当”な顔をしている。
幼馴染。妹分。王家の内側。
王太后にとっては、妃よりはるかに“扱いやすい味方”。

セレスは柔らかく微笑み、軽く礼をした。

「王妃陛下。おはようございます」

その声は丁寧で、優しい。
でもリーシャの背中に冷気が走った。

優しさは、刃になる。
この王宮では特に。

リーシャは王太后の前で深く礼をする。
頭を下げ、姿勢を保ち、息を乱さない。

「王太后陛下、お呼びにより参りました」

「顔を上げなさい」

王太后の声は低く、よく通った。
優しさはない。けれど怒鳴りもしない。
怒鳴らない方が怖い。怒鳴らない者ほど、相手を壊すのが上手い。

リーシャはゆっくり顔を上げた。

王太后の視線が、宝石みたいに冷たくリーシャをなぞる。
髪。瞳。首筋。肩。ドレス。手袋。
まるで“品定め”ではなく、“欠点探し”。

「……噂は、本当に早いのね」

王太后は扇を開き、ふっと息を吐いた。

「昨夜、あなたは陛下の手を取らなかったそうね」

いきなり核心。
逃げ道を与えない。

リーシャの胸が僅かに痛んだ。
けれど顔には出さない。微笑もしない。淡々と、王妃として答える。

「恐れながら。陛下のお立場に余計な波紋を立てたくありませんでした」

王太后は薄く笑う。
笑いは優雅だ。だからこそ残酷。

「波紋? 陛下が妃と踊るのが波紋だと、あなたは言うの?」

言葉を切り取る。
ほんの少し角度を変えるだけで、罪になる。

リーシャは息を吸い、慎重に言葉を選ぶ。

「王宮は一つの噂が、国の信用へ繋がります。……私は未熟です。慎みたく存じました」

「未熟」

王太后はその単語を舌の上で転がすように繰り返した。

「未熟なら、学びなさい。あなたは妃なのよ」

そして、扇の先がふいにセレスへ向く。

「ねえ、セレス」

セレスは一歩前へ出て、恭しく頭を下げる。

「はい、王太后陛下」

王太后は楽しげに言った。

「昨夜、陛下はあなたと踊った。――皆がそれを見た。
あなたはどう思ったの? 妃としての席が、空いたままだったことを」

セレスの瞳が一瞬だけ揺れた。
揺れは“困惑”に見せられる程度。
そしてすぐに、慈悲の微笑が戻る。

「……私はただ、陛下のお役目をお支えしただけです」

完璧な答え。
誰も責められない答え。
だからこそ、リーシャだけが責められる。

王太后は満足そうに頷き、リーシャへ視線を戻した。

「聞いた? あの子は“王家のため”に動ける。
あなたは?」

あなたは。
その言い方が、リーシャを“外側”に追いやる。

リーシャは微笑みそうになるのを堪えた。
微笑みは“余裕”に見える。今は危険だ。

「私は王妃として、王宮の秩序を守ります」

王太后は扇を閉じ、机を軽く叩いた。

「秩序?」

その瞬間、空気がさらに冷える。

「秩序とは、妃が陛下の隣に立つことよ」

真っ直ぐな言葉。
しかしそれは同時に、罠だ。

――隣に立て、と命じる。
――でも隣にはセレスがいる。
――だからリーシャが動けば、“嫉妬の妃”になる。

王太后は続ける。

「あなたは昨夜、王弟と踊ったそうね」

その言葉が落ちた瞬間、部屋の温度がもう一段下がった。

リーシャの胸が痛んだ。
アドリアンの手は“救い”だった。
でもその救いは、王宮では罪に変わる。

「王弟殿下は、王家として王妃をお立てくださいました」

リーシャは淡々と答える。
淡々と答えるしかない。

王太后は、ゆっくりと身を乗り出した。

「あなたは、“誰の手”を取るべきか分かっていないのね」

その言葉は、教育ではなく裁きだった。

リーシャは心の中で、昨夜の国王の手を思い出す。
差し出された手。宙で固まった手。
そして、セレスの手を取った手。

(私は、誰の手を取るべきだった?)

答えは一つのはずなのに、王宮では一つにならない。

王太后は、最後の一撃を落とす。

「あなたは美しい。けれど美しさは、妃の価値ではない。
陛下が必要とするのは――理解よ。
そして理解者は、昔から陛下の傍にいる」

“昔から”
その言葉が、リーシャの喉を締めた。

昔から。
私は今。
外から来た。
遅かった。

リーシャは呼吸を乱さないように、指先を揃えた。
手袋の内側で爪が皮膚に食い込み、痛みが現実に引き戻す。

(泣かない)

泣いたら、王太后は勝つ。
泣いたら、セレスは“気遣い”の顔をする。
泣いたら、私は“弱い妃”として固定される。

リーシャは、静かに頭を下げる。

「ご教示、痛み入ります。今後、王妃として不足なきよう努めます」

王太后は満足げに頷いた。
その頷きは、許しではない。
“従わせた”という確認。

「よろしい」

そして、優雅に言葉を続ける。

「今夜、公開の場であなたを試します。
王妃が“王の隣にふさわしい”と示しなさい。
――できなければ、あなたはただの飾りよ」

飾り。
その単語が胸に刺さる。

リーシャは礼をし、退室の許可を待った。
王太后は扇を振り、追い払うように言う。

「下がりなさい」

リーシャは背筋を伸ばし、部屋を出た。
廊下へ出た瞬間、冷気が肺に刺さる。

扉が閉まる直前、セレスの声が背後から聞こえた。

「王妃陛下……お辛いでしょう。でも、陛下は――」

続きは、聞かなくていい。
聞けば、期待が生まれる。
期待が生まれたら、また傷つく。

リーシャは歩きながら、心の中で小さく宣言する。

(私は、王の隣に立たない)

王太后が命じた“隣”ではなく。
噂が決めた“隣”でもなく。
――私が自分で選べる形でしか、立たない。

その誓いは、昨日よりさらに硬い。
硬い誓いほど、悲しい。

回廊の窓の外で、薔薇が風に揺れた。
白い花弁が一枚、落ちる。

その落ち方が、まるで――
王妃の席から静かに剥がされていく自分の居場所みたいに見えた。

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