つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第12章|王弟への叱責

昼下がりの中庭は、冬の光で白く眩しかった。
噴水の水は細く、音も小さい。植え込みの薔薇は枝を硬くし、白い花だけが季節に逆らうように咲いている。

リーシャは回廊の陰から、その中庭を見下ろしていた。
王妃の私室へ戻る途中、足が止まったのは――声が聞こえたからだ。

低く、鋭い声。
国王レオニス。

もう一つは、少し柔らかい声。
王弟アドリアン。

二人の声がぶつかる瞬間は、滅多にない。
王宮では衝突は表に出さず、礼儀の中に埋める。
それなのに、今は埋まっていない。

リーシャは息を殺した。
聞いてはいけない。盗み聞きは罪になる。
でも足が動かなかった。
動けば、逃げたことになる気がした。

中庭の石畳に、二人の影が落ちている。
国王の影は硬く、王弟の影は少し揺れている。

「……兄上」

アドリアンの声が低い。
低くすることで、感情を隠している。

「昨夜の件であれば、私はただ――王家として」

「黙れ」

国王の一言は、刃だった。
風の冷たさより先に、言葉が空気を凍らせる。

リーシャの指先が、手袋の中で冷える。
白い革が温かいはずなのに、胸の奥から冷える。

「お前は、分を弁えろ」

国王の声は抑えられている。
抑えられているからこそ、怒りが濃い。

「王妃は……俺の妃だ」

“俺の妃”

その言葉が、リーシャの胸を一瞬だけ熱くした。
熱くして――すぐに痛みに変わる。

俺の妃。
そう言いながら、手を取らなかったのは誰。
隣に立たせなかったのは誰。
“つまらない妃”と言ったのは誰。

(……遅い)

遅いのに、言葉だけは刺さる。
刺さるから、余計に苦しい。

アドリアンが一歩前に出た。
距離を詰めるのは無礼だ。
けれど彼は、無礼を承知で詰めた。

「兄上が“妃”だと言うなら、なぜ妃を孤立させるのです」

中庭の空気が一段冷える。
その問いは、剣より鋭い。

リーシャは咄嗟に目を伏せた。
聞いてはいけない。
でも耳は勝手に拾ってしまう。

国王の沈黙が落ちる。
その沈黙は答えだ。
答えがあるのに言えない沈黙。

やがて国王は、低く言った。

「……口を挟むな」

アドリアンは引かなかった。
引けないほど、昨夜のリーシャの顔が脳裏に焼き付いているのだろう。
踊りながら、笑っていた。笑っているのに、目が死んでいた。

「私は口を挟んでいるのではありません。
王家として――王妃を守るべきだと申し上げています」

守る。
その言葉に、リーシャは胸の奥がきゅっと縮む。

守られたいのではない。
でも、守られないまま崩れ落ちるのは怖い。

国王が短く笑った。
笑いは温度がない。

「守る? お前が?」

アドリアンの拳が一瞬、握られたのが見えた。
けれど彼は拳を開き、礼儀の形で抑えた。

「ええ。兄上が守れないのなら、私が――」

「言うな」

国王の声が跳ねた。
跳ねた瞬間、リーシャは理解した。

(……国王は、痛いのだ)

痛い。
痛いから怒る。
痛いから噛みつく。

でもその痛みは、リーシャに届かない。
届かないまま、彼は刃だけを投げてくる。

国王は一歩、アドリアンへ近づいた。
王の威圧が、空気を押し潰す。

「お前が妃を守るなどと口にすれば、噂になる。
噂になれば、妃が死ぬ。……分からないのか」

噂。
その単語が出た瞬間、リーシャの胸がざわついた。

(分かっているのね)

国王は噂を知っている。
噂が人を殺すことを知っている。
だからこそ、冷たくする。距離を取る。
それが“守り”だと思っている。

でもその守り方は、妃を凍らせる。

アドリアンが声を落とした。

「噂は、すでに兄上が作っています」

その言葉は、国王の胸を刺した。

国王の表情が僅かに歪む。
歪んで、すぐに硬くなる。
痛みを見せたくない顔。

「……黙れ」

国王の声が低くなる。
低くなるほど、危険だ。

「お前は、王妃に近づくな」

命令。

アドリアンが息を呑む。
その息は怒りではなく、絶望に近い。

「兄上……」

「これは命令だ。王弟として、従え」

国王の言葉が決まった瞬間、中庭の空気が“王の勝ち”に傾く。
王宮はいつもそうだ。
正しさより、力が勝つ。

リーシャの胸の奥が、ずしりと重くなった。
――自分のせいだ。

昨夜、アドリアンと踊った。
あれは救いだった。
救いだったのに、こうして彼を傷つける。

(私がいなければ)

その考えが頭をよぎり、リーシャはすぐに否定した。
自分を消す考えは危険だ。
王宮は、消えた人間を簡単に飲み込む。

けれど罪悪感は、否定しても消えない。

アドリアンがゆっくり頭を下げた。
深く、深く。
従うという形を取るしかない礼。

「……承知しました。兄上」

その言葉が、泣き声みたいに聞こえた。

国王は何も言わずに背を向けた。
背中が冷たい。背中が遠い。

アドリアンはその背中を見送ってから、拳を開き、息を吐いた。
そして――視線がふと、回廊の陰に向く。

リーシャのいる場所。

目が合った。

一瞬だけ。
アドリアンの目に、はっきりとした苦しさが浮かぶ。

(ごめんなさい)

リーシャは心の中でそう言った。
けれど口には出せない。口に出せば、それも噂になる。

アドリアンは何も言わず、ただ小さく首を振った。
“あなたのせいではない”と言うように。
その仕草が、リーシャの胸をさらに痛くした。

アドリアンが去ったあと、リーシャは回廊の陰で立ち尽くした。
足の感覚が薄い。
手袋の中の指先が温かいのに、胸の中は冷える。

(私は、誰も救えない)

救われたと思った瞬間、誰かが叱られ、誰かが遠ざけられる。

リーシャはゆっくり息を吸い、王妃の微笑を作った。
微笑は鎧。
微笑は盾。
微笑は、泣かないための呪文。

でも、その微笑の下で――心は小さく崩れていく。

(今日から、隣に立たない)

自分を守るために決めたはずの言葉が、今は別の意味に変わる。

――私が隣に立たないせいで、彼らが傷つく。
――私が存在するだけで、王家が割れる。

その思いが、リーシャをさらに静かに追い詰めた。

回廊の端で、サシャの影が動いた。
監視の影。報告の影。

リーシャは目を伏せた。

(これも、報告される)

“王妃は王弟と目を合わせた”
“王妃は王弟に同情した”
“王妃は――”

言葉は編集される。
悪意の文章になる。

リーシャは背筋を伸ばし、何もなかったように歩き出す。
王妃の歩幅で。王妃の微笑で。

その背中に、冬の光が淡く落ちていた。
美しい光。
けれどその光は、温めてはくれなかった。


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