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第13章|白薔薇の香
その香りを、リーシャは嫌というほど知っている。
白薔薇――清く、冷たく、甘さの少ない香。
王妃になってから、それはいつの間にか“彼女の印”になった。
誰が決めたのかも分からない。けれど王宮は一度決めたものを、二度と解かない。
王妃の髪、王妃の瞳、王妃の微笑――そして、白薔薇の香。
だからこそ。
その香りが、あり得ない場所で濃く漂った瞬間、リーシャの背筋は凍った。
午後の回廊。
窓から差す冬の光は白く、床の石を冷たく磨いている。リーシャは侍女長アグネスと共に、離宮へ続く通路を歩いていた。
離宮では小さな施しの準備が進んでいる。
孤児院へ回す布や薬、冬用の毛布――王妃の名で運ぶ品々の確認だ。
“名で運ぶ”だけで、リーシャの胸は少しだけ痛む。善意が善意のまま通らない場所で、善意の作法だけを演じることになるから。
(でも、今は……やらないと)
やることでしか、立っていられない。
王の隣には立てなくても、王妃としての役目なら果たせる。
そう思った時だった。
回廊の先が騒がしい。
侍女が小走りに駆け、兵が角を曲がる。
そして――空気が変わる。
白薔薇の香が、そこにあった。
甘さのない冷たい香りが、まるで霧のように通路へ流れ出してくる。
リーシャは足を止めた。
手袋の中の指先が、温かいのに冷えていく。
(……どうして?)
白薔薇の香は、リーシャの私室でしか濃くならない。
彼女自身が、香油を使うのは夜だけだ。
それを、この離宮の回廊で――しかも“事件”の匂いとして嗅ぐことになるなんて。
「王妃陛下、こちらは……」
アグネスが半歩前へ出て制するが、リーシャは首を振った。
「行くわ」
声は震えていない。
震えていたら、ここでは負ける。
角を曲がると、小さな控室の前に人だかりができていた。
顔を青くした侍女、囁き合う貴婦人、口元を扇で隠す女たち。
視線が、リーシャへ一斉に刺さる。
“来たわ”
“王妃が”
“ほら、香りが――”
囁きが花粉みたいに舞う。
リーシャが扉に近づくと、中から侍医エレナが出てきた。
白い衣が少し乱れている。額には薄い汗。彼女はリーシャを見るなり、すぐに膝を折って礼をした。
「王妃陛下」
「何があったの」
エレナは一瞬迷い、声を低くした。
「離宮の準備室で、下働きの娘が倒れました。意識が戻りません」
倒れた。
意識が戻らない。
リーシャは胸の奥がずしりと重くなるのを感じた。
しかしそれ以上に――鼻腔に残る白薔薇の香が、彼女を刺した。
「……香りがする」
言ってしまった。
言ってしまったから、周囲の目がさらに動く。
エレナは小さく頷いた。
「ええ。……白薔薇の香が、衣服と髪に残っていました」
衣服と髪。
つまり、ただ香が漂っているのではなく、倒れた娘そのものに付着している。
(……私が触れたみたいに?)
リーシャは唇の裏を噛みそうになり、すぐに止めた。
痛みを作れば涙が近くなる。
扉の隙間から、控室の中が見える。
簡素な寝台。
倒れた娘は白い布を掛けられ、顔だけが少し見えた。
その頬は青白い。
(私のせいじゃない)
心が先に叫ぶ。
けれど王宮では、心の叫びは証拠にならない。
証拠になるのは“香り”だ。
「王妃陛下」
背後から、柔らかな声がした。
振り向かなくても分かる。
セレスだ。
彼女は人だかりを割るように近づき、悲しげに眉を下げた。
その表情は“心配”の形をしている。だからこそ恐ろしい。
「なんてこと……。お可哀想に」
セレスの視線が、倒れた娘の方へ滑る。
そして一瞬だけ、リーシャの手袋に落ちた。
「王妃様……ここには、白薔薇の香が」
その言い方が、まるで偶然の発見みたいで。
まるで、真実を見つけてしまったみたいで。
リーシャの胸の奥で、冷たい火が点いた。
(言葉の使い方が上手い)
セレスは断定しない。
断定しないことで、周囲が勝手に断定する。
「王妃様のお香りは、宮廷では有名ですものね」
有名。
その言葉が、首に鎖をかける。
リーシャは微笑を作った。
王妃の微笑。
怒りも動揺も見せないための微笑。
「……私の香りではないわ。白薔薇は王宮中にある」
嘘ではない。
装飾用の薔薇、香袋、蝋燭。
けれど“香油”の白薔薇は別物だ。濃度が違う。残り方が違う。
エレナが小さく口を開いた。
「香りは……香油に近いです。長く残る種類の」
その瞬間、周囲の空気が確かに変わった。
扇が揃って上がる。
視線が“疑い”に染まる。
リーシャの背中に冷たい汗が浮かぶ。
(香油……?)
香油を知っているのは限られた者だけ。
リーシャ本人、侍女長アグネス、香の管理係。
そして――盗める者。
「王妃陛下」
アグネスが低く言った。
その声には焦りが混じっている。
「香油の瓶を、今朝……確認したでしょうか」
リーシャの胸が小さく沈む。
確認していない。
昨日から監視と噂と挨拶で、香油どころではなかった。
香油はいつも、鏡台の引き出しにある。そこにあるはずのものだと思っていた。
(……盗まれた?)
言葉にする前に、また別の声が割り込んだ。
「陛下にお知らせしなければ」
宰相府の男――文官の一人が、さも正しいことを言う顔で呟いた。
その“正しさ”が、リーシャの胃を冷やす。
知らせる。
報告する。
編集される。
“王妃の香油が事件現場にあった”
“王妃の香りが倒れた娘からした”
“王妃は最近、情緒不安定で――”
物語は簡単に作れる。
リーシャは目を伏せた。
白薔薇の香が濃い。
濃すぎる。
(……これは、仕掛けだ)
仕掛けられている。
でも、誰が。
宰相?
セレス?
それとも、噂屋のための燃料?
リーシャの胸に、国王の顔が浮かんだ。
冷たい瞳。短い声。
“勝手なことはするな”と言った口。
もしこの香りが国王の耳に入ったら。
国王は――私を疑うのだろうか。
それとも、守るためにさらに遠ざけるのだろうか。
どちらでも同じだ。
届かない。
私の言葉は届かない。
リーシャは、倒れた娘の寝台へ視線を向けた。
白い布の端から見える指先が小さく震えている気がした。
生きている。まだ生きている。
(助けなきゃ)
それだけは、噂でも体面でもない。
人が倒れているなら、助ける。
リーシャは一歩踏み出した。
人だかりがざわつく。
「王妃様、触れては――」
誰かが止める。
“証拠が付く”と言いたいのだろう。
王宮では、命より証拠が大切だ。
リーシャは止まらなかった。
寝台の脇に立ち、布越しに娘の額に手を当てる。
熱はない。冷たい。
そして確かに、白薔薇の香油の匂いがする。
(……やっぱり)
胸の奥が重くなる。
これは偶然ではない。
わざと付けられている。
リーシャは振り返り、エレナを見る。
「助かるの」
エレナは迷いなく頷いた。
「助けます。……けれど、原因を突き止めねば同じことが起こります」
リーシャは小さく息を吐いた。
「原因を突き止めて」
言い切った瞬間、背後の視線がさらに鋭くなる。
“王妃が指示した”
“王妃が仕切った”
“王妃は動揺していない”
動揺していないのは、強いからではない。
動揺しても、許されないからだ。
セレスがまた、柔らかい声で言う。
「王妃様……お一人で背負わないでください。陛下に――」
陛下に。
その言葉が、リーシャの胸を刺す。
陛下に言えば、守ってくれる?
いいえ。
陛下は“秩序”で私を守る。
つまり、私から距離を取る。
リーシャは微笑のまま言った。
「陛下はお忙しい方です。私のことで煩わせたくありません」
その瞬間、セレスの目がほんの僅かに光った。
喜びでも勝利でもない。
“予定通り”の光。
リーシャは、その光を見ないふりをした。
見たら、怒りが生まれる。怒りは負けだ。
回廊の奥で、足音が止まった。
サシャの気配。
監視の影。報告の影。
(これも報告される)
“王妃は事件現場にいた”
“王妃の香りがあった”
“王妃は娘に触れた”
“王妃は陛下に知らせるのを拒んだ”
悪意の文章は、いくらでも作れる。
リーシャは手袋の中で指を揃え、背筋を伸ばした。
そして、誰にも聞こえない声で自分に言い聞かせる。
(今日から、隣に立たない)
隣に立てば、疑いが深まる。
近づけば、傷つく。
遠ざかれば、疑われる。
――詰んでいるのは分かっている。
でも、詰んでいるなら、せめて。
人が倒れている時だけは、王妃として正しいことをしたい。
リーシャは寝台の娘をもう一度見た。
白薔薇の香りが、薄い布に染みている。
その香りが、今や“罪の印”になるのだと――
王宮は平然と教えてくる。
そしてリーシャは知る。
これは始まりだ。
白薔薇の香は、これから何度でも現れる。
どこにでも、いつでも。
“王妃の罪”を作るために。
白薔薇――清く、冷たく、甘さの少ない香。
王妃になってから、それはいつの間にか“彼女の印”になった。
誰が決めたのかも分からない。けれど王宮は一度決めたものを、二度と解かない。
王妃の髪、王妃の瞳、王妃の微笑――そして、白薔薇の香。
だからこそ。
その香りが、あり得ない場所で濃く漂った瞬間、リーシャの背筋は凍った。
午後の回廊。
窓から差す冬の光は白く、床の石を冷たく磨いている。リーシャは侍女長アグネスと共に、離宮へ続く通路を歩いていた。
離宮では小さな施しの準備が進んでいる。
孤児院へ回す布や薬、冬用の毛布――王妃の名で運ぶ品々の確認だ。
“名で運ぶ”だけで、リーシャの胸は少しだけ痛む。善意が善意のまま通らない場所で、善意の作法だけを演じることになるから。
(でも、今は……やらないと)
やることでしか、立っていられない。
王の隣には立てなくても、王妃としての役目なら果たせる。
そう思った時だった。
回廊の先が騒がしい。
侍女が小走りに駆け、兵が角を曲がる。
そして――空気が変わる。
白薔薇の香が、そこにあった。
甘さのない冷たい香りが、まるで霧のように通路へ流れ出してくる。
リーシャは足を止めた。
手袋の中の指先が、温かいのに冷えていく。
(……どうして?)
白薔薇の香は、リーシャの私室でしか濃くならない。
彼女自身が、香油を使うのは夜だけだ。
それを、この離宮の回廊で――しかも“事件”の匂いとして嗅ぐことになるなんて。
「王妃陛下、こちらは……」
アグネスが半歩前へ出て制するが、リーシャは首を振った。
「行くわ」
声は震えていない。
震えていたら、ここでは負ける。
角を曲がると、小さな控室の前に人だかりができていた。
顔を青くした侍女、囁き合う貴婦人、口元を扇で隠す女たち。
視線が、リーシャへ一斉に刺さる。
“来たわ”
“王妃が”
“ほら、香りが――”
囁きが花粉みたいに舞う。
リーシャが扉に近づくと、中から侍医エレナが出てきた。
白い衣が少し乱れている。額には薄い汗。彼女はリーシャを見るなり、すぐに膝を折って礼をした。
「王妃陛下」
「何があったの」
エレナは一瞬迷い、声を低くした。
「離宮の準備室で、下働きの娘が倒れました。意識が戻りません」
倒れた。
意識が戻らない。
リーシャは胸の奥がずしりと重くなるのを感じた。
しかしそれ以上に――鼻腔に残る白薔薇の香が、彼女を刺した。
「……香りがする」
言ってしまった。
言ってしまったから、周囲の目がさらに動く。
エレナは小さく頷いた。
「ええ。……白薔薇の香が、衣服と髪に残っていました」
衣服と髪。
つまり、ただ香が漂っているのではなく、倒れた娘そのものに付着している。
(……私が触れたみたいに?)
リーシャは唇の裏を噛みそうになり、すぐに止めた。
痛みを作れば涙が近くなる。
扉の隙間から、控室の中が見える。
簡素な寝台。
倒れた娘は白い布を掛けられ、顔だけが少し見えた。
その頬は青白い。
(私のせいじゃない)
心が先に叫ぶ。
けれど王宮では、心の叫びは証拠にならない。
証拠になるのは“香り”だ。
「王妃陛下」
背後から、柔らかな声がした。
振り向かなくても分かる。
セレスだ。
彼女は人だかりを割るように近づき、悲しげに眉を下げた。
その表情は“心配”の形をしている。だからこそ恐ろしい。
「なんてこと……。お可哀想に」
セレスの視線が、倒れた娘の方へ滑る。
そして一瞬だけ、リーシャの手袋に落ちた。
「王妃様……ここには、白薔薇の香が」
その言い方が、まるで偶然の発見みたいで。
まるで、真実を見つけてしまったみたいで。
リーシャの胸の奥で、冷たい火が点いた。
(言葉の使い方が上手い)
セレスは断定しない。
断定しないことで、周囲が勝手に断定する。
「王妃様のお香りは、宮廷では有名ですものね」
有名。
その言葉が、首に鎖をかける。
リーシャは微笑を作った。
王妃の微笑。
怒りも動揺も見せないための微笑。
「……私の香りではないわ。白薔薇は王宮中にある」
嘘ではない。
装飾用の薔薇、香袋、蝋燭。
けれど“香油”の白薔薇は別物だ。濃度が違う。残り方が違う。
エレナが小さく口を開いた。
「香りは……香油に近いです。長く残る種類の」
その瞬間、周囲の空気が確かに変わった。
扇が揃って上がる。
視線が“疑い”に染まる。
リーシャの背中に冷たい汗が浮かぶ。
(香油……?)
香油を知っているのは限られた者だけ。
リーシャ本人、侍女長アグネス、香の管理係。
そして――盗める者。
「王妃陛下」
アグネスが低く言った。
その声には焦りが混じっている。
「香油の瓶を、今朝……確認したでしょうか」
リーシャの胸が小さく沈む。
確認していない。
昨日から監視と噂と挨拶で、香油どころではなかった。
香油はいつも、鏡台の引き出しにある。そこにあるはずのものだと思っていた。
(……盗まれた?)
言葉にする前に、また別の声が割り込んだ。
「陛下にお知らせしなければ」
宰相府の男――文官の一人が、さも正しいことを言う顔で呟いた。
その“正しさ”が、リーシャの胃を冷やす。
知らせる。
報告する。
編集される。
“王妃の香油が事件現場にあった”
“王妃の香りが倒れた娘からした”
“王妃は最近、情緒不安定で――”
物語は簡単に作れる。
リーシャは目を伏せた。
白薔薇の香が濃い。
濃すぎる。
(……これは、仕掛けだ)
仕掛けられている。
でも、誰が。
宰相?
セレス?
それとも、噂屋のための燃料?
リーシャの胸に、国王の顔が浮かんだ。
冷たい瞳。短い声。
“勝手なことはするな”と言った口。
もしこの香りが国王の耳に入ったら。
国王は――私を疑うのだろうか。
それとも、守るためにさらに遠ざけるのだろうか。
どちらでも同じだ。
届かない。
私の言葉は届かない。
リーシャは、倒れた娘の寝台へ視線を向けた。
白い布の端から見える指先が小さく震えている気がした。
生きている。まだ生きている。
(助けなきゃ)
それだけは、噂でも体面でもない。
人が倒れているなら、助ける。
リーシャは一歩踏み出した。
人だかりがざわつく。
「王妃様、触れては――」
誰かが止める。
“証拠が付く”と言いたいのだろう。
王宮では、命より証拠が大切だ。
リーシャは止まらなかった。
寝台の脇に立ち、布越しに娘の額に手を当てる。
熱はない。冷たい。
そして確かに、白薔薇の香油の匂いがする。
(……やっぱり)
胸の奥が重くなる。
これは偶然ではない。
わざと付けられている。
リーシャは振り返り、エレナを見る。
「助かるの」
エレナは迷いなく頷いた。
「助けます。……けれど、原因を突き止めねば同じことが起こります」
リーシャは小さく息を吐いた。
「原因を突き止めて」
言い切った瞬間、背後の視線がさらに鋭くなる。
“王妃が指示した”
“王妃が仕切った”
“王妃は動揺していない”
動揺していないのは、強いからではない。
動揺しても、許されないからだ。
セレスがまた、柔らかい声で言う。
「王妃様……お一人で背負わないでください。陛下に――」
陛下に。
その言葉が、リーシャの胸を刺す。
陛下に言えば、守ってくれる?
いいえ。
陛下は“秩序”で私を守る。
つまり、私から距離を取る。
リーシャは微笑のまま言った。
「陛下はお忙しい方です。私のことで煩わせたくありません」
その瞬間、セレスの目がほんの僅かに光った。
喜びでも勝利でもない。
“予定通り”の光。
リーシャは、その光を見ないふりをした。
見たら、怒りが生まれる。怒りは負けだ。
回廊の奥で、足音が止まった。
サシャの気配。
監視の影。報告の影。
(これも報告される)
“王妃は事件現場にいた”
“王妃の香りがあった”
“王妃は娘に触れた”
“王妃は陛下に知らせるのを拒んだ”
悪意の文章は、いくらでも作れる。
リーシャは手袋の中で指を揃え、背筋を伸ばした。
そして、誰にも聞こえない声で自分に言い聞かせる。
(今日から、隣に立たない)
隣に立てば、疑いが深まる。
近づけば、傷つく。
遠ざかれば、疑われる。
――詰んでいるのは分かっている。
でも、詰んでいるなら、せめて。
人が倒れている時だけは、王妃として正しいことをしたい。
リーシャは寝台の娘をもう一度見た。
白薔薇の香りが、薄い布に染みている。
その香りが、今や“罪の印”になるのだと――
王宮は平然と教えてくる。
そしてリーシャは知る。
これは始まりだ。
白薔薇の香は、これから何度でも現れる。
どこにでも、いつでも。
“王妃の罪”を作るために。
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