つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第14章|施しの帳簿に“穴”

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離宮の控えの間には、冬の匂いで溢れていた。
毛布の羊毛、乾いた薬草、麻袋の穀物、そして蝋燭の甘い煙。命を温めるものが並んでいるのに、空気は冷たい。王宮の冷たさは、物の温度では埋まらない。

長机の上に積まれた帳簿は、紙の山というより、罪の山に見えた。
“王妃の名で動くもの”は、“王妃の名で裁かれるもの”でもあるからだ。

「王妃陛下、こちらが本日の出庫帳でございます」

会計係の文官が、恭しく紙束を差し出した。
紙は上質で、墨は濃く、文字は整っている。整いすぎているものは、時に嘘を隠す。

リーシャは微笑を作った。
王妃の微笑。
心が疲れているほど、口元だけは美しく整える。

「ありがとう。確認するわ」

白い手袋の指先で紙を受け取る。
紙が冷たい。冷たいのに、指先は熱い。熱いのは、焦りだ。

施しの品――毛布、薬、靴、外套。
冬の施しは、数字が命になる。
数字がずれれば、誰かが凍える。誰かが凍えれば、王妃の名が責められる。

リーシャは目を走らせた。

毛布:二百。
薬草:八十。
靴:百二十。
子ども用外套:六十。

(……違う)

多いのではない。
“昨日決めた数”と違う。

リーシャは瞬きをひとつ。
瞬きで動揺を飲み込む癖がついてしまった。

「昨日の打ち合わせでは、毛布は百六十のはずだったわ」

声は平坦に出た。
平坦にしないと、疑っている顔になる。疑っている顔になれば、王宮は「疑われる妃」を作る。

文官が柔らかく微笑む。

「はい。今朝、追加の要請が入りまして。民の状況が想定以上で――」

「追加の要請は、どこから?」

リーシャは遮らず、ただ問いを重ねた。
問いは刃にもなるが、刃を持たなければ守れない。

文官は一瞬だけ視線を泳がせた。
その一瞬で、リーシャは確信した。

(用意した答えじゃない)

「……宰相府より、調整が」

宰相府。
その名が落ちた瞬間、部屋の温度がさらに下がった気がした。

宰相府の調整は、正しさの顔をしている。
正しさの顔をしたまま、誰かを踏み潰せる。

リーシャは紙束を閉じ、別の帳簿を求めた。

「納入帳も見せて」

侍女長アグネスがすぐに動き、別の紙束を置いた。
アグネスの動きは速い。速いほど、彼女も危険を感じている。

リーシャは二冊を並べ、指先で数字を辿った。
出庫量。納入量。現地受領の署名。

(……一致しない)

毛布は二百出ている。
なのに納入は百六十のまま。
不足の四十は、どこへ消えたのか。

消えた、という言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、胸の奥がひやりとした。

(横領の形)

形だけでいい。
王宮は、形さえあれば罪を作れる。

リーシャは息を吸い、吐いた。
呼吸の音を殺す。音を殺せば、心も殺せる気がした。

「この受領の署名は……誰?」

アグネスが紙を覗き、眉を寄せる。

「……昨日までと違う名です。宰相府から派遣された監査官の名が入っています」

監査官。
監査官が受領を握る。受領を握る者は、数字を握る。数字を握る者は、罪を握る。

扉の外がざわついた。
足音が近づき、止まり、扉が開いた。

「失礼いたします」

入ってきたのは、宰相府の監査官だった。
黒い外套、金の飾り、穏やかな目。穏やかな目ほど、人を切るのが上手い。

「王妃陛下。施しの件で、確認がございます」

確認。
その一言が、裁きの前奏だ。

リーシャは立ち上がり、礼儀の角度で頷いた。

「どうぞ」

監査官は紙を広げ、淡々と言った。

「現地から報告が入りました。配布された毛布の数が、帳簿より少ないと」

少ない。
言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。

“誰かが抜いた”
“誰かが盗んだ”
“誰かが――”

誰か、という曖昧な言葉が、最後は必ず王妃に辿り着く。

監査官はさらに穏やかに続ける。

「王妃陛下のお名で動いた施しです。
混乱が続けば、民心に影響いたします」

民心。
王妃を殺すには十分な刃。

リーシャは胸の奥で静かに理解した。

(これは“穴”じゃない。罠だ)

穴があるのではない。
穴を“作っている”。

リーシャは声を落とした。

「不足分の内訳を出して」

監査官は紙を差し出す。
数は具体的で、覚えやすく、燃えやすい。

四十枚。

たった四十。
されど冬の四十は、命の四十だ。

リーシャはその数字を見つめ、言った。

「補填するわ」

監査官の目が、ほんの僅か光った。
“予定通り”の光。

アグネスが息を呑む。
止めたいのが伝わる。けれど止めれば、王妃が“見捨てた”ことになる。

リーシャは言葉を続けた。

「私の私財で。今日中に現地へ送って」

私財。
この王宮では、善意が罪にもなる。

監査官は深く礼をした。

「賢明でございます、王妃陛下」

賢明。
その言葉が一番冷たい。

賢明と言われた瞬間、リーシャは悟った。
補填することすら、罠の一部になる。
“穴を埋めた妃”は、“穴を作った妃”にもできる。

監査官が去ったあと、部屋は静かになった。
静かになったはずなのに、視線だけが残る。
文官たちの視線。侍女たちの視線。
そしてどこかで噂屋が笑う気配。

リーシャは帳簿を胸に抱えた。
これを国王に見せればいい。
国王が動けば、宰相府の手は止まる。
国王が「違う」と言えば、少なくとも“形”は壊せる。

(会えば、言える)

そう思ってしまう自分が、情けない。
期待は毒だと分かっているのに、まだ期待が息をしている。

リーシャは執務棟へ向かった。
回廊の石は冷え、蝋燭の煙が薄く漂い、足音だけがやけに大きく響く。

執務室の扉の前で、侍従長ルーファスが礼をした。
完璧な礼。完璧すぎて、壁みたいだった。

「王妃陛下」

リーシャは微笑を作った。
崩れたら終わる微笑。

「陛下に、お目通りを。……施しの帳簿の件で」

ルーファスの目が、ほんの僅か揺れた。
揺れたのは驚きではない。
“またか”という疲れにも似ていた。

「恐れながら……陛下はご政務中でございます」

政務中。
この城で一番便利な拒絶。

リーシャは紙の端を指先で押さえた。
手袋の下で爪が皮膚に食い込む。痛みで涙を止める。

「少しでいいの。数字が合わない。監査官が受領を握っている」

言葉を重ねるほど喉が渇く。
焦っていると思われたくないのに、心が焦っている。

ルーファスは目を伏せた。
伏せた目の奥に、言えないものがある。
言えないものがあるのに、扉は開かない。

「……本日は難しく」

難しい。

リーシャの胸の奥が、きゅっと縮む。
泣きそうになる。
泣けば負ける。
アグネスの声が骨の内側で鳴る。

リーシャは帳簿を抱え直し、ゆっくり礼をした。

「承知しました。……お邪魔いたしました」

背を向けると、扉の冷たさが背中に張り付く気がした。
一歩、二歩。
歩くたび、胸の奥が重くなる。

(会う気がないんだ)

理由があるのかもしれない。
宰相が止めているのかもしれない。
刺客を警戒しているのかもしれない。

――でも結局は同じだ。

扉は閉じている。
私に会うために開かれることはない。

リーシャは回廊の窓の外を見た。
白い空。白い薔薇。
白さが、ひどく眩しい。

(どうせ)

言葉にしたくない言葉が、心の底から浮かぶ。

どうせ私のせいになる。

帳簿の穴は誰かが作った。
それでも証明できない。
証明できないなら、王宮は一番簡単な結論を選ぶ。

――王妃が悪い。

責任者だから。
名で動いたから。
外から来たから。

そして国王は、その結論を否定してくれない。
否定するために扉を開けない。

リーシャは微笑を貼りつけたまま歩き続けた。
帳簿の重さを胸に抱え、扉の冷たさを背中に残しながら。

守るなら、話してほしい。
味方なら、扉を開けてほしい。
――でも、国王は言葉をくれない。

だからきっと、帳簿の件も。
どうせ、私のせいになるのだろう。

その確信が胸の奥で形になった時、
リーシャははっきりと聞いた。

信頼が欠ける、乾いた音を。
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