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第15章|慈悲の聖女、民の中心
王都の広場は、冬の光に白く洗われていた。
石畳には霜が薄く残り、吐く息はすぐ白くほどける。人々は肩をすぼめながらも、目だけは熱を持っていた。施しの日は、希望が目に見える日だ。
――本来、その中心に立つのは王妃であるはずだった。
王妃の名で、王宮が民を守ると示す日。
けれど、広場の中心に立っていたのはリーシャではない。
セレスだった。
金髪が冬の風を受けて柔らかく揺れ、淡い黄金のドレスが光を拾う。白い花飾りを髪に添え、祈るように指を組む姿は、まるで絵画の中の“救い”そのものだった。
「皆さま。どうか恐れないでください」
セレスの声は、叫ばないのに届く。
泣かないのに胸を濡らす。
人は、そういう声に弱い。
「王宮は、皆さまを見捨てません。
今日の毛布も薬も、皆さまのために用意しました」
拍手が起きた。
最初は控えめな拍手が、次第に波のように広がり、広場の冷気を押し返していく。拍手は感謝の形をしている。感謝は、帰る場所を作る。
リーシャは馬車の窓からその光景を見ていた。
薄いカーテン越しの広場は遠いのに、胸の奥には痛いほど近い。
白い手袋の中で指先が冷えていく。
冷えているのは寒さのせいではない。
自分の“席”が、目の前で別の人のものになっていくからだ。
アグネスが隣で声を落とした。
「王妃陛下……」
止めたいのだろう。
見続ければ心が折れると知っている。
けれどリーシャは微笑んだ。
王妃の微笑。崩れたら終わる微笑。
「行きましょう」
馬車が止まり、扉が開く。
冷気が頬を刺し、広場のざわめきが耳へ流れ込む。
視線が集まる。
けれどそれは敬意の視線ではない。
――帳簿の穴。
――横領の噂。
――王弟と踊った妃。
――白薔薇の香。
視線は“王妃を見る目”ではなく、“物語を見る目”になっている。
リーシャはその目を受け止めながら歩いた。背筋を伸ばし、顎を上げ、微笑を固定する。自分が“人”に戻る隙を与えないために。
セレスがこちらに気づき、微笑みを深めた。
歓迎にも、確認にも見える微笑。
「王妃様。お越しくださったのですね」
その言い方は、遅れて来た人へのものだった。
本当なら王妃が先に立っているべき場所で、リーシャはもう脇役にされている。
リーシャは礼儀として頷く。
「施しの確認に参りました」
セレスは柔らかく頷き、すぐ群衆へ向き直った。
「皆さま。王妃様も、皆さまのために祈っておられます」
祈り。
その単語に変えられた瞬間、リーシャの“行動”は消える。
行動すれば帳簿が絡む。
帳簿が絡めば横領疑惑が燃える。
だからセレスは、リーシャを“祈るだけの妃”に包み直す。
守っているように見えて、奪っていく。
善意の顔で、静かに。
セレスは子どもの前に膝をつき、毛布を手渡した。
子どもが泣きそうな顔で受け取り、セレスの手をぎゅっと握る。
「寒かったでしょう。ほら、手が冷たい」
その一言が、広場の心を動かした。
誰もが“見たかった優しさ”をそこに見つけてしまう。
「セレス様……」
「ありがたい……」
「まるで、国母のようだ」
国母。
その言葉がリーシャの胸を強く刺した。
国母は役職ではない。
世論が与える称号だ。
そして世論は今、セレスへ傾いている。
リーシャは一歩前へ出ようとした。
王妃として何かを渡し、声をかけ、子どもに触れる。
たったそれだけで、今日という日の意味を取り戻せる気がした。
――けれど。
アグネスがほんの僅か首を振った。
今出れば燃える。
“横領の噂の妃が人気取り”
宰相派はそれを待っている。
リーシャは足を止めた。
止めた瞬間、群衆の目が少し冷えた。
“動かない妃”
“冷たい妃”
ラベルが静かに貼られていく音がした。
セレスは悲しげに眉を下げた。
心配する顔。
その顔が、リーシャにとって一番残酷だった。
――私は善意でやっているのに。
――王妃様のためなのに。
善意の刃は血を出さない。
血が出ないから、誰も罪を感じない。
その時、蹄の音が広場の端から響いた。
護衛が動き、群衆がざわめく。
国王の一行が来た――そのざわめきは、安堵の色を含んでいた。
王が来たのではない。
“この慈悲の舞台が完成する”という安堵だ。
国王レオニスが現れた。
黒の礼装。冷たい目。
その目が、まずセレスに落ちる。
セレスは自然に国王の隣へ寄った。
躊躇いなく距離を詰める。幼馴染の特権。
国王も拒まない。拒まないことが、決定打になる。
セレスが低い声で言う。
「陛下。皆さまが安心なさっています」
国王の喉が一度だけ動いた。
その間に、リーシャには見えない葛藤があったことを、読者だけが知る。
――本当は、この言葉をリーシャに言うべきだ。
帳簿の罠に気づきながら、泣かずに立っている王妃に。
なのに言えば、宰相が嗅ぎ取る。
“王の弱点”として。
だから国王は鎧を選ぶ。
短い言葉で、正しい絵を作る。
「……よくやった」
よくやった。
その一言が広場を揺らした。
拍手が再び起こり、涙が増え、感謝がうねる。
セレスは微笑み、国王の隣で頷く。
まるで最初から、その席が彼女のものだったように。
リーシャは礼をした。
深く、完璧に。
「陛下」
国王の視線がようやくリーシャへ移る。
冷たい目。
冷たいまま、すぐ逸れる。
逸れる先はセレス。
その動きだけで、広場は結論を出す。
――王の隣は幼馴染。
――王妃は飾り。
リーシャの胸の奥で、何かが静かに折れた。
折れたのは怒りではない。
信じたい気持ちだ。
セレスがふと振り向いた。
「王妃様。どうか、お一言」
救いに見える提案。
でも実際は檻だ。
言えば“人気取り”。
言わなければ“冷たい妃”。
リーシャはゆっくり前へ出た。
一歩だけ。王妃の歩幅で。
群衆の目が集まる。
期待と疑いが混じった目。
リーシャは微笑み、静かに言った。
「皆さまが寒さを越えられるよう、王宮は手を尽くします」
正しい言葉。
正しいほど温度がない。
セレスの言葉に涙した人々は、リーシャの言葉では泣かない。
その差が残酷なほどはっきりしてしまう。
リーシャは理解した。
(私は“正しい妃”でしかない)
正しさは、隣を作らない。
正しさは、抱きしめない。
正しさは、手を取らない。
リーシャは一歩下がり、また少し後ろへ戻った。
いつも通り、“一歩後ろ”。
白い手袋の中で、指先が冷たくなる。
冷たくなるのは寒さではない。信頼が削れていく音だ。
馬車へ戻る道すがら、石畳の霜が光っていた。
冷たい光は祝福にも見える。
けれどリーシャの胸の奥では、刃のように感じられた。
(……もう、期待しない)
口に出さずに呟くと、胸がきしんだ。
期待を捨てる音は案外大きい。
それなのに、この王宮では誰にも聞こえない。聞こえてはいけない。
そして、その次の言葉が胸の中で完成する。
(私は、国王を信用しない)
痛みが少しだけ楽になる。
楽になるのが怖い。
楽になるのは、何かが死んだ証拠だから。
――あなたの隣は、セレスで決まった。
決めたのは国王かもしれない。
宰相かもしれない。王太后かもしれない。世論かもしれない。
どれでも同じだ。
“私”はそこにいない。私の言葉は届かない。
リーシャは窓の外の白い庭を見た。
白薔薇が揺れている。
(私は、自分で守る)
守るのは名誉だけではない。
この心。呼吸。身体。
誰かが守ると言って言葉をくれないなら、私はもう渡さない。
そして、最後に。
自分の中で、決定的な誓いが落ちた。
――二度と、国王の横に立つことは無い。
――二度と、国王の手を取ることはない。
それは罰ではなく、生存だった。
横に立てば見せつけられる。
手を取ればまた期待してしまう。
期待した分だけ、次の沈黙で殺される。
馬車が王宮の門をくぐり、重い扉が背後で閉じる。
その音が、戻れないことを告げた。
リーシャは微笑を深くした。
微笑は鎧。
鎧は、決意を隠すための布だ。
(私は、自分で守る)
その言葉だけが、今夜のリーシャを温めた。
石畳には霜が薄く残り、吐く息はすぐ白くほどける。人々は肩をすぼめながらも、目だけは熱を持っていた。施しの日は、希望が目に見える日だ。
――本来、その中心に立つのは王妃であるはずだった。
王妃の名で、王宮が民を守ると示す日。
けれど、広場の中心に立っていたのはリーシャではない。
セレスだった。
金髪が冬の風を受けて柔らかく揺れ、淡い黄金のドレスが光を拾う。白い花飾りを髪に添え、祈るように指を組む姿は、まるで絵画の中の“救い”そのものだった。
「皆さま。どうか恐れないでください」
セレスの声は、叫ばないのに届く。
泣かないのに胸を濡らす。
人は、そういう声に弱い。
「王宮は、皆さまを見捨てません。
今日の毛布も薬も、皆さまのために用意しました」
拍手が起きた。
最初は控えめな拍手が、次第に波のように広がり、広場の冷気を押し返していく。拍手は感謝の形をしている。感謝は、帰る場所を作る。
リーシャは馬車の窓からその光景を見ていた。
薄いカーテン越しの広場は遠いのに、胸の奥には痛いほど近い。
白い手袋の中で指先が冷えていく。
冷えているのは寒さのせいではない。
自分の“席”が、目の前で別の人のものになっていくからだ。
アグネスが隣で声を落とした。
「王妃陛下……」
止めたいのだろう。
見続ければ心が折れると知っている。
けれどリーシャは微笑んだ。
王妃の微笑。崩れたら終わる微笑。
「行きましょう」
馬車が止まり、扉が開く。
冷気が頬を刺し、広場のざわめきが耳へ流れ込む。
視線が集まる。
けれどそれは敬意の視線ではない。
――帳簿の穴。
――横領の噂。
――王弟と踊った妃。
――白薔薇の香。
視線は“王妃を見る目”ではなく、“物語を見る目”になっている。
リーシャはその目を受け止めながら歩いた。背筋を伸ばし、顎を上げ、微笑を固定する。自分が“人”に戻る隙を与えないために。
セレスがこちらに気づき、微笑みを深めた。
歓迎にも、確認にも見える微笑。
「王妃様。お越しくださったのですね」
その言い方は、遅れて来た人へのものだった。
本当なら王妃が先に立っているべき場所で、リーシャはもう脇役にされている。
リーシャは礼儀として頷く。
「施しの確認に参りました」
セレスは柔らかく頷き、すぐ群衆へ向き直った。
「皆さま。王妃様も、皆さまのために祈っておられます」
祈り。
その単語に変えられた瞬間、リーシャの“行動”は消える。
行動すれば帳簿が絡む。
帳簿が絡めば横領疑惑が燃える。
だからセレスは、リーシャを“祈るだけの妃”に包み直す。
守っているように見えて、奪っていく。
善意の顔で、静かに。
セレスは子どもの前に膝をつき、毛布を手渡した。
子どもが泣きそうな顔で受け取り、セレスの手をぎゅっと握る。
「寒かったでしょう。ほら、手が冷たい」
その一言が、広場の心を動かした。
誰もが“見たかった優しさ”をそこに見つけてしまう。
「セレス様……」
「ありがたい……」
「まるで、国母のようだ」
国母。
その言葉がリーシャの胸を強く刺した。
国母は役職ではない。
世論が与える称号だ。
そして世論は今、セレスへ傾いている。
リーシャは一歩前へ出ようとした。
王妃として何かを渡し、声をかけ、子どもに触れる。
たったそれだけで、今日という日の意味を取り戻せる気がした。
――けれど。
アグネスがほんの僅か首を振った。
今出れば燃える。
“横領の噂の妃が人気取り”
宰相派はそれを待っている。
リーシャは足を止めた。
止めた瞬間、群衆の目が少し冷えた。
“動かない妃”
“冷たい妃”
ラベルが静かに貼られていく音がした。
セレスは悲しげに眉を下げた。
心配する顔。
その顔が、リーシャにとって一番残酷だった。
――私は善意でやっているのに。
――王妃様のためなのに。
善意の刃は血を出さない。
血が出ないから、誰も罪を感じない。
その時、蹄の音が広場の端から響いた。
護衛が動き、群衆がざわめく。
国王の一行が来た――そのざわめきは、安堵の色を含んでいた。
王が来たのではない。
“この慈悲の舞台が完成する”という安堵だ。
国王レオニスが現れた。
黒の礼装。冷たい目。
その目が、まずセレスに落ちる。
セレスは自然に国王の隣へ寄った。
躊躇いなく距離を詰める。幼馴染の特権。
国王も拒まない。拒まないことが、決定打になる。
セレスが低い声で言う。
「陛下。皆さまが安心なさっています」
国王の喉が一度だけ動いた。
その間に、リーシャには見えない葛藤があったことを、読者だけが知る。
――本当は、この言葉をリーシャに言うべきだ。
帳簿の罠に気づきながら、泣かずに立っている王妃に。
なのに言えば、宰相が嗅ぎ取る。
“王の弱点”として。
だから国王は鎧を選ぶ。
短い言葉で、正しい絵を作る。
「……よくやった」
よくやった。
その一言が広場を揺らした。
拍手が再び起こり、涙が増え、感謝がうねる。
セレスは微笑み、国王の隣で頷く。
まるで最初から、その席が彼女のものだったように。
リーシャは礼をした。
深く、完璧に。
「陛下」
国王の視線がようやくリーシャへ移る。
冷たい目。
冷たいまま、すぐ逸れる。
逸れる先はセレス。
その動きだけで、広場は結論を出す。
――王の隣は幼馴染。
――王妃は飾り。
リーシャの胸の奥で、何かが静かに折れた。
折れたのは怒りではない。
信じたい気持ちだ。
セレスがふと振り向いた。
「王妃様。どうか、お一言」
救いに見える提案。
でも実際は檻だ。
言えば“人気取り”。
言わなければ“冷たい妃”。
リーシャはゆっくり前へ出た。
一歩だけ。王妃の歩幅で。
群衆の目が集まる。
期待と疑いが混じった目。
リーシャは微笑み、静かに言った。
「皆さまが寒さを越えられるよう、王宮は手を尽くします」
正しい言葉。
正しいほど温度がない。
セレスの言葉に涙した人々は、リーシャの言葉では泣かない。
その差が残酷なほどはっきりしてしまう。
リーシャは理解した。
(私は“正しい妃”でしかない)
正しさは、隣を作らない。
正しさは、抱きしめない。
正しさは、手を取らない。
リーシャは一歩下がり、また少し後ろへ戻った。
いつも通り、“一歩後ろ”。
白い手袋の中で、指先が冷たくなる。
冷たくなるのは寒さではない。信頼が削れていく音だ。
馬車へ戻る道すがら、石畳の霜が光っていた。
冷たい光は祝福にも見える。
けれどリーシャの胸の奥では、刃のように感じられた。
(……もう、期待しない)
口に出さずに呟くと、胸がきしんだ。
期待を捨てる音は案外大きい。
それなのに、この王宮では誰にも聞こえない。聞こえてはいけない。
そして、その次の言葉が胸の中で完成する。
(私は、国王を信用しない)
痛みが少しだけ楽になる。
楽になるのが怖い。
楽になるのは、何かが死んだ証拠だから。
――あなたの隣は、セレスで決まった。
決めたのは国王かもしれない。
宰相かもしれない。王太后かもしれない。世論かもしれない。
どれでも同じだ。
“私”はそこにいない。私の言葉は届かない。
リーシャは窓の外の白い庭を見た。
白薔薇が揺れている。
(私は、自分で守る)
守るのは名誉だけではない。
この心。呼吸。身体。
誰かが守ると言って言葉をくれないなら、私はもう渡さない。
そして、最後に。
自分の中で、決定的な誓いが落ちた。
――二度と、国王の横に立つことは無い。
――二度と、国王の手を取ることはない。
それは罰ではなく、生存だった。
横に立てば見せつけられる。
手を取ればまた期待してしまう。
期待した分だけ、次の沈黙で殺される。
馬車が王宮の門をくぐり、重い扉が背後で閉じる。
その音が、戻れないことを告げた。
リーシャは微笑を深くした。
微笑は鎧。
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(私は、自分で守る)
その言葉だけが、今夜のリーシャを温めた。
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