つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第16章|泣けば負ける夜

王宮の夜は、扉がよく閉まる。
閉まる扉の数だけ、秘密が増える。秘密が増えるほど、噂は甘くなる。

広場から戻ったリーシャは、私室の扉が閉まった瞬間、ようやく息を吐いた。
吐いた息は白くならないのに、胸の奥は凍っている。

暖炉の火が小さく鳴る。
赤い火は温かいはずなのに、部屋の広さが冷えを残す。豪奢な寝台も、重い天蓋も、柔らかな絨毯も――守ってくれる形をして、牢獄の形をしていた。

(……二度と、横に立たない)
(手も取らない)

今日の広場で落とした誓いが、胸の内側で硬くなる。
硬くなるほど痛みが鈍る。痛みが鈍るのが怖い。
痛みが鈍るのは、何かが死んだ証拠だからだ。

「王妃陛下」

侍女長アグネスの声は、いつもより低かった。
低い声は、忠告の前にだけ出る。

リーシャは鏡の前で髪飾りを外しながら、微笑を作る。

「何かしら」

アグネスは一礼し、言葉を削いだ。

「泣けば負けます」

短い。容赦がない。
けれどその容赦のなさは、この城で生きるための盾だった。

リーシャの指先が止まる。
泣いていない。泣いていないのに、なぜ分かるのか。

「私は泣いていないわ」

声が少し硬くなる。
硬くなるほど図星だと、王宮は嗅ぎ取る。リーシャ自身も気づいて、微笑を深くした。

アグネスは表情を変えない。

「泣いていないからこそ危ういのです」

リーシャは喉の奥で息を飲み込んだ。

「……どういう意味?」

アグネスは半歩近づく。
触れない距離で、言葉だけを刺す。

「泣けば“弱い妃”になります。弱い妃は、すぐに捨てられます。
泣かなければ“冷たい妃”になります。冷たい妃は――」

一拍。

「“つまらない妃”になります」

その言葉を聞いた瞬間、リーシャの胃が冷えた。
祝宴の夜に聞いてしまった、あの声。
胸に落ちた刃が、今も抜けないまま残っている。

リーシャは鏡の中の自分を見た。
プラチナブロンドの髪、白い肌、青い宝石。
完璧に整っている王妃が、完璧なほど孤独に見える。

(私は、どうすればいいの)

問いは言葉にした瞬間、負けになる。
でも心の中で止められない。

アグネスは淡々と続ける。

「今夜は特に、気をつけてください。
寝所の周辺に、不審影が出ています」

不審影。
その二文字だけで、背筋に冷気が走る。

「……誰かが?」

リーシャの声が微かに揺れて、自分で驚いた。
揺れを隠すために、手袋の縫い目を整えるふりをする。

アグネスは頷く。

「正体は掴めていません。ですが――護衛を増やします」

護衛。
増やす。
守る。

言葉の並びが、リーシャには「囲う」にしか聞こえなくなっていた。
守るなら話してほしい。
守るなら、なぜ私が狙われているのか教えてほしい。

「陛下の命令?」

リーシャの声は平坦だった。
平坦にしないと崩れる。

「はい。……陛下の御意志です」

御意志。
その上品さが、余計に胸を痛ませる。

(会えないのに、囲うのね)

国王は来ない。
夜も来ない。
言葉もくれない。

なのに護衛だけ増える。
監視だけ増える。
距離だけが増える。

リーシャは微笑みを崩さずに言った。

「ありがとう。守ってくれるのね」

自分の声が空虚なのが分かる。
空虚だと分かるほど苦しい。

アグネスは言葉を置き換えるように告げた。

「守りの形が、いま必要なのです。
そして王妃陛下――今夜は、扉を開けないでください」

「誰にも?」

「誰にも」

短い。
短いからこそ、命令に聞こえる。

リーシャは頷いた。
頷くしかない。王妃の寝所は、王妃のものではない。



夜半。
暖炉の火が弱まり、部屋の影が濃くなる頃。

リーシャは寝台の端に座っていた。
寝るには早すぎて、起きているには遅すぎる時間。
こういう時間が一番危険だ。心が勝手に考え始めてしまう。

(国王は、来ない)

分かっている。
分かっているのに、耳は勝手に回廊の音を拾ってしまう。

燭台の火が揺れる。
遠くの靴音がひとつ、ふたつ。
巡回の兵の足音。鎧の擦れる音。鍵束が小さく鳴る音。

そして――その中に混ざる、別の足音。

整っている。
余計な音がしない。
誰にも真似できない歩き方。

王の足音だと、分かってしまう。

リーシャの心臓が一度だけ跳ねた。
期待するな。
期待は毒。

それでも耳は扉の方へ向く。

……止まらない。

足音は、ここでは止まらずに通り過ぎる。
通り過ぎて、角を曲がる。
遠ざかる先の方向が、分かってしまう。

(……セレスの部屋?)

胸の奥に、冷たいものが落ちた。
落ちたものが広がり、息が浅くなる。

確かめる術はない。
確かめた瞬間、王妃は終わる。
でも確かめなくても、王宮は勝手に答えを作る。

――国王は夜、幼馴染の元へ通っている。
――王妃の寝所は空だ。

真実かどうかは関係ない。
リーシャの中で“真実になってしまう”ことが、いちばん残酷だった。

リーシャは喉の奥を押さえつけるように息を飲み込んだ。
泣かない。
泣けば負ける。

けれど泣かない代わりに、胸の奥が硬くなる。
硬くなった分だけ、国王への信頼が削れる。

(私は、もう……)

言いかけて止める。
言えば終わる。終わったら戻れない。

その時、窓の外で枝が揺れた。
風のせいにできない、近い揺れ。

リーシャは背筋を正した。
アグネスの言葉が蘇る――扉を開けないで。

また、靴音。
今度は廊下で止まる。
扉の前で、影が止まる気配。

一拍。二拍。

「王妃陛下」

低い声が、扉越しに落ちた。
声は丁寧だ。だが温度がない。

密偵サシャ。

リーシャの指先が寝台の布を掴む。
掴んだ布が、手の汗でわずかに湿る。

「……何かしら」

声を揺らさない。
揺らせば、恐怖が証拠になる。

「巡回の報告です。不審影が出ました。
王妃陛下の窓下に――」

窓下。
背中に冷気が走る。

リーシャは一瞬、窓へ視線をやりそうになって、止めた。
見たら、負ける。見たら、心が動く。

「捕えたの?」

「逃げました」

逃げた。
それはつまり、また来るということだ。

サシャは淡々と続ける。

「護衛を増やします。
王妃陛下は、扉を開けず、灯りを落とさず、お休みください」

命令の形をした“保護”。
保護の形をした“監禁”。

リーシャは唇の端だけを上げた。
微笑。王妃の微笑。

「……ご苦労さま」

サシャは一拍置いて、低く言った。

「陛下より――“勝手な行動をするな”とのこと」

勝手。
またその言葉。

守るなら、話してほしい。
味方なら、言葉をくれればいい。
でも届くのは命令だけ。禁止だけ。沈黙だけ。

「承知しました」

それだけ返した。
返してしまえば、終わる。

足音が遠ざかる。
扉の前から影が消える。

リーシャはようやく息を吐いた。
吐いた息が震えていて、腹が立つ。
震えるのは負けだ。負けを見せたくない。

(泣けば負ける)

なら、泣かない。
泣かない代わりに、信じるのをやめる。

リーシャは寝台の横に置いた白い手袋を見た。
温かいものが、罪になる城。
温かいものが、噂になる城。

国王の温度は、ここには来ない。
来るのは幼馴染の部屋の方へ流れていく気配だけ。

(……もう、期待しない)

その言葉を胸の中で繰り返すと、痛みが少しだけ楽になった。
楽になるのが怖い。
楽になるのは、何かが死んだ証拠だから。



翌朝。
王宮の朝は、何事もなかったように始まる。

リーシャが回廊へ出ると、侍女たちが一瞬だけ顔を伏せた。
礼儀ではない。
“見てはいけないもの”を見る目を隠す仕草だ。

(噂はもう動いている)

昨夜の不審影。
増えた護衛。
閉じた扉。
そして、王の足音。

全部が“物語の材料”になる。

回廊の先に国王がいた。
黒い礼装、冷たい目。

その隣に、セレスがいる。

昨日より自然に。
昨日より近く。

セレスが国王の外套を整え、国王がそれを拒まない。
その距離が“日常”になり始めている。

リーシャは礼をした。
深く、完璧に。

「陛下」

国王は短く頷くだけだった。
言葉はない。
視線も長く留まらない。

まるで、リーシャがそこにいないかのように。

(残酷になっている)

昨日までは、冷たいだけだった。
今日からは、無関心に見える。

無関心は、冷たさより深く人を殺す。

国王の口から増えるのは命令だけ。

「勝手に動くな」
「余計な噂を増やすな」
「慎め」

説明はひとつも増えない。
理由が分からない罰ほど残酷なものはない。

リーシャは微笑を作った。
王妃の微笑。

その微笑は、もう「期待を隠すため」ではなく、
「期待が死んだことを隠すため」のものになりつつあった。

(あなたの隣は、セレスで決まった)

そう思う方が楽だ。
楽だから、心がそちらへ逃げる。

そして、その逃げが――国王への信頼を音もなく削り落としていく。

リーシャは背筋を伸ばし、王妃の歩幅で歩き出した。
この城で生きるための唯一の技術を、今日も正しく使いながら。

(泣けば負ける)
(だから泣かない)
(泣かないなら、自分で守る)

その三つだけが、今夜を越えるための祈りになった。

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