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第17章|すり替え書状
王宮の朝は、いつも正しく始まる。
鐘が鳴り、扉が開き、湯気の立つ盆が運ばれ、髪が結われ、宝石が留められる。
――昨夜、扉の前を通り過ぎた足音も。窓下で揺れた影も。すべて“なかったこと”にされる。
リーシャは鏡台の前でプラチナブロンドの髪を編み込みながら、胸の奥の冷えを押し込めていた。
泣けば負ける。
泣かなければ、“つまらない妃”。
どちらに転んでも、王宮は妃を削る。
白い手袋を嵌める指先が、わずかに震えた。
震えを隠すために、指を揃える。
王妃の癖。生き残るための癖。
扉が控えめに叩かれた。
「王妃陛下。書状が届いております」
侍女の声が慎重だった。
慎重な声は、この城で“刃の箱”を運ぶ時の声だ。
リーシャは微笑を作ってから、ゆっくり言った。
「……どなたから」
「陛下より」
胸の奥が一度だけ跳ねた。
期待するな。期待は毒。
毒だと分かっているのに、身体は勝手に“希望”の形を取る。
封筒を受け取る。
赤い封蝋に王家の印。光を受けて艶がある――はずなのに、指先が嫌なものを拾った。
(欠けている)
ほんの僅か。言い逃れできるほど小さな欠け。
けれど、リーシャの目はそこを見逃さない。
封を切る手が遅れた。
遅れは期待の形だ。
期待を捨てると決めたばかりなのに、心はまだ引き返そうとする。
紙を引き抜いた。
筆跡は美しかった。
整っていて、硬くて、感情のない均整。
国王レオニスの字だと、誰が見ても分かる。
リーシャは一度だけ息を吸った。
“書いてくれた”――その事実だけが、胸の奥に小さな熱を落とす。
けれど、次の瞬間、その熱は凍った。
王妃としての務めを、これ以上私に求めるな。
今後、必要以上にそなたに関わらない。
誤解を招く行動を慎め。
王宮の秩序を乱すことは許さない。
言葉が、紙から浮き上がって見えた。
“求めるな”“関わらない”“慎め”“許さない”。
これは会話ではない。追放の宣告だ。
リーシャの視界が一瞬だけ白くなる。
心臓が遅れて痛みを運んでくる。
(私が、何を求めた?)
何も求めていない。
手を取らなかった。隣に立たないと決めた。
期待しないと誓った。
なのにこの文面は、まるで自分がしがみついたみたいに書かれている。
(違う)
胸の奥で何かが叫ぶ。
違う、これは違う。
けれど王宮では、紙の上の言葉が“真実”になる。
アグネスが静かに近づき、紙面を覗いた。
彼女の眉が、ほんの僅か寄った。
「……王妃陛下」
声が落ちる。
その声には、怒りではなく“違和感”が混じっている。
「筆跡は陛下のものです。ですが……不自然です」
リーシャは微笑の形だけを作った。
崩したら終わる。崩したら、噂が喜ぶ。
「どこが」
アグネスは紙の一行を指でなぞり、低く言う。
「この言い回しは、宰相府の文官が好む形です。
陛下のお言葉は、もっと短く――もっと刃のように……」
刃。
国王の声が脳裏に蘇る。短い命令。冷たい断言。
なのに、この書状は“正しさ”の衣を着ている。正しすぎる。
リーシャは封筒を見た。
封蝋の欠け。
誰かが開け、誰かが触れた痕。
(すり替えられたのは……内容)
筆跡は本物。
だからこそ厄介だ。
本物の筆跡で、偽物の心を語らせることができる。
窓の外の柱陰で、影が動く。
サシャの影。
監視の影。報告の影。
(これも報告される)
“王妃は陛下の書状で動揺した”
“王妃は不満を抱いた”
“王妃は――”
言葉は編集される。
悪意の文章になる。
リーシャは紙を机に置いた。
置く動作がやけに丁寧になる。
丁寧になるのは、心が壊れそうな時の癖だ。
「……分かったわ」
声が冷たい。
冷たい声が、自分を守る。
アグネスが小さく首を振る。
「王妃陛下、これは――」
「分かってる。変だって。
でも、変だと言ったところで誰が信じる?」
リーシャは立ち上がり、ドレスの裾を整えた。
王妃の所作。王妃の鎧。
「陛下に会う」
それは希望ではない。
ただ、最後の確認だ。
扉が閉じているのか、それとも――閉じさせられているのか。
執務棟へ向かう回廊は、昨日より長く感じた。
石床が冷たく、足音が空虚に響く。
途中で何人もの侍女が顔を伏せる。礼儀ではない。噂の匂いがする仕草だ。
執務室の扉の前。
侍従長ルーファスが完璧な礼で立っていた。完璧すぎて壁みたいだ。
「王妃陛下」
リーシャは微笑を作った。
「陛下に、お目通りを。……書状の件で」
ルーファスの目がほんの僅か揺れた。
揺れの奥に「今はだめだ」という答えが見える。
「恐れながら……陛下はご政務中でございます」
政務中。
この城で一番便利な拒絶。
「少しでいいの」
言った瞬間、喉が渇いた。
“少しでいい”ほど惨めな言葉はないのに、口が勝手に言う。
ルーファスは目を伏せた。
「……本日は難しく」
扉の向こうは静かだった。
国王の声も、椅子の軋みも聞こえない。
ただ、閉じた扉だけがある。
(会う気がない)
理由があるのかもしれない。宰相が止めているのかもしれない。
でも結局は同じだ。
扉は閉じている。
私のために開かれることはない。
リーシャはゆっくり礼をした。
「承知しました。お邪魔いたしました」
背を向けた瞬間、扉の冷たさが背中に張り付いた。
歩き出すと、胸の底から言葉が浮かぶ。
(どうせ、私のせいになる)
帳簿の穴も。香油も。噂も。
誰かが作ったとしても、証明できないなら結論はひとつ。
――王妃が悪い。
そして国王は、その結論を否定してくれない。
否定するために扉を開けない。
回廊を曲がった先で、リーシャは国王を見かけた。
黒い礼装の影。隣に淡い金の髪――セレス。
リーシャは礼をする。
深く、完璧に。
「陛下」
国王が短く頷く気配がした。
けれどリーシャは、目を上げなかった。
目を合わせれば、また意味を探してしまう。
意味がまた、心を殺す。
(必要以上に話さない)
(目も合わせない)
決めた。
決めれば、生き延びられる。
それでも、胸の奥の空白だけは埋まらない。
(……私は、何のためにここへ来たのだろう)
王妃になるために育てられた。
王の隣に立つために学ばされた。
国を支えるために微笑むよう教えられた。
なのに王の隣は、最初から空いていなかった。
リーシャは微笑の仮面を貼りつけたまま歩き続けた。
背筋を伸ばし、王妃の歩幅で。
そして心の奥で、最後の釘を打つ。
(もう、期待しない)
(もう、信用しない)
書状の冷たさは、王の名で届いた刃だ。
その刃は、リーシャの心に深く刺さったまま抜けない。
――沈黙の王の名で。
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