つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第21章|視線が刺す

中庭の冬の光は、刃みたいに白かった。
噴水の水は細く落ち、霧を作り、石畳は冷え切っている。白薔薇は枝を硬くして、それでも花だけが、意地みたいに咲いていた。

リーシャは回廊の陰を歩いていた。
必要最低限――そう決めたはずなのに、今日は歩かなくてはいけない。王妃の公務は、自分の決意より先に予定で動く。

白い手袋の中で指先を揃え、微笑を固定する。
微笑は鎧。
鎧がなければ、この城では息ができない。

(国王と目を合わせない)

それも決めた。
目を合わせれば意味を探す。意味を探せば期待が生まれる。
期待は毒。毒は必ず、沈黙で殺される。

――そう思っていたのに。

視線を感じた。

刺すような視線。
けれど嫌悪ではない。値踏みでもない。
“確かめる”視線。
“無事かどうか”を測る視線。

リーシャは足を止めなかった。
止めたら負ける。止めたら、ここで自分が“求めた”ことになる。

それでも目は勝手に動いた。

中庭の向こう、石柱の影に――アドリアンがいた。

プラチナブロンドの髪が冬の光を拾い、濃紺の軍服の金の飾りが小さく瞬く。
王弟は一歩も近づかない。触れない。言葉もない。
それでも、そこにいるだけで空気の温度が変わる。

(殿下……)

胸がきゅっと縮んだ。
救いだと思ってはいけない。
救いだと思った瞬間、その救いが罪になる。

目が合った。ほんの一瞬。
“折れていないか”と問われた気がして、リーシャは微笑んだ。
助けを求めない微笑。
“ここでは”という合図の微笑。

アドリアンが、ほんの僅か首を振る。
以前と同じ仕草。

――あなたのせいではない。
――泣くな。
――折れるな。

その無言が、どんな言葉より温かいのに、どんな言葉より危険だった。

リーシャは視線を逸らした。
逸らさないと涙が来る。
涙は負ける。負ければ噂が勝つ。

その瞬間、背後の空気が変わった。

重い気配。
温度が奪われるような気配。

国王レオニス。

「……何をしている」

低い声。短い声。
短いほど、怒りが隠しきれない。

リーシャは振り向かずに礼をした。
深く、完璧に。視線は床へ落としたまま。

「陛下」

国王の視線が、リーシャではなく中庭の柱へ刺さる気配がした。
アドリアンを射抜いている。

アドリアンが一歩も動かないまま礼をする。

「兄上」

その呼び方の温かさが、この場では禁忌に見えた。
禁忌を許さないように、国王の声が落ちる。

「命令したはずだ。王妃に近づくなと」

近づいていない。
ただ見ていただけだ。
だが王宮では、視線だけで関係が成立する。

アドリアンが声を落とす。

「近づいておりません。……安全確認です」

「護衛? お前が?」

国王の眉間が僅かに寄る。
苛立ちの奥に別の色がある。

――焦り。奪われる恐怖。

リーシャは気づいてしまう。

(……嫉妬している)

気づくな。期待するな。
でも気づいてしまう。

嫉妬しているのに、昨夜は会わなかった。
嫉妬しているのに、隣に立たせなかった。
嫉妬しているのに、言葉は冷たい。

アドリアンは引かない。
引けないほど、リーシャの“冷えた目”を知っている。

「兄上が守れないなら、誰かが守らねば」

空気が凍った。

国王の目が鋭く細まる。
怒りが形になりかける。
それでも王は王だ。声を荒げない。荒げられない。

「……余計な口をきくな」

漏れた感情が、リーシャの胸をさらに痛くする。
罪悪感が胸の底で膨らみ、呼吸が浅くなる。

リーシャは微笑を作った。
息が苦しいほど微笑を作る。
微笑は呪文。微笑は盾。

「陛下。殿下はただ――王家として」

庇いたかった。
庇えば、この場が少しでも収まると思った。

でも庇いの言葉は、逆に国王の嫉妬を刺激した。

国王の視線がリーシャへ落ちる。
冷たい目。けれどその底で焼けた色が揺れている。

「……お前が言うな」

一言。
それだけで、リーシャの胸が沈む。
拒絶の音がした。

アドリアンが深く礼をする。

「失礼いたします、兄上。王妃陛下」

踵を返し、去る。
去り際、リーシャにだけ分かるほど小さく首を振る。

――あなたのせいではない。

その仕草が、胸をさらに痛くした。

アドリアンが去ったあとも、国王はすぐに背を向けなかった。
弟の背を追う視線が、燃えている。
燃えているのに、止めたくてたまらない顔をしている。

嫉妬。
でも口にできない。
口にした瞬間、王が人間になってしまうから。

リーシャは、そこで“決める”。
もう期待しない。
期待しないために、言葉で距離を確定させる。

リーシャはゆっくりと顔を上げた。
――初めて、国王の目を見る。

見るだけで胸が痛い。
痛いのに、目を逸らさない。
逸らしたら、また「言えなかった私」に戻る。

「陛下」

声は穏やかだった。
穏やかにするほど、残酷になると分かっていても。

「セレス様を……お守りになって差し上げてください」

その瞬間、国王の瞳がわずかに揺れた。
揺れは怒りではない。
痛みだ。
奪われる恐怖が、形を変えた痛み。

リーシャは微笑んだ。
綺麗で、冷たくて、壊れない微笑。

「わたしには、お気遣いなく」

言い切った瞬間、胸の奥で何かが落ちた。
期待が、最後の一片だけ剥がれて落ちる音。

国王の喉が動いた。
何か言いかけた。
でも言葉が出ない。出せない。
出したら、王が負けるから。

沈黙が落ちる。

沈黙は、いつも国王の勝ちだった。
でも今日の沈黙は、リーシャの勝ちでもあった。

――これ以上、心を渡さない。

リーシャは礼をし、踵を返した。

「失礼いたします、陛下」

歩き出す。
王妃の歩幅で。王妃の微笑で。
背中に刺さる視線の熱を感じながらも、振り向かない。

振り向けば、また期待してしまう。
期待した分だけ、沈黙で殺される。

中庭の白薔薇が風に揺れた。
その揺れが、まるでこの関係の行き先を告げているみたいだった。

――嫉妬は、救いにならない。
救いにならないまま、私を縛る。

だから私は、縛られない場所へ行く。
自分で自分を守るために。

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