つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第26章|王妃を抱いたのは誰

舞踏会の熱は、音楽より早く“噂”に変わる。
笑い声の隙間、扇の影、香の濃い空気の中で――言葉は羽みたいに軽く、刃みたいに鋭い。

リーシャが転びかけ、ロランが支えた。
それだけの出来事が、広間の隅ではもう別の形になっていた。

「見ました?」
侯爵夫人ベアトリスが、扇で口元を隠したまま囁く。
声は甘いのに、目は笑っていない。

「ええ。王妃様……あれは“抱き留めた”に見えましたわ」
伯爵夫人ミレーユが、わざとらしく肩をすくめる。

「抱き留めた、ですって。護衛が?」
子爵夫人カトリーヌが目を丸くし、すぐに嬉しそうに細める。
驚きは、噂の燃料だ。

「だって……あんなに近く」
「王妃様、白い手袋が彼の腕に……」
「噂は本当だったのね。王弟殿下だけじゃなくて、護衛まで」

言葉は増えていく。
増えるほど、真実から離れていく。
“支えた”は“抱いた”になり、
“護衛”は“男”になり、
“偶然”は“関係”になり、
最後には“王妃が選んだ相手”になる。

扇の陰で、噂屋ヴィオラが小さく笑った。
彼女は声を上げない。上げなくても、隣の口が勝手に言うように仕向ける。

「――王妃様は、陛下を拒んだのでしょう?」
ヴィオラの囁きは、砂糖みたいに甘い。
「拒んだのに、王弟殿下とは踊った。護衛にも支えられた。
つまり……王妃様は、陛下の“隣”をいらないのよ」

誰かが息を呑む。
息を呑む音が、噂の合図になる。

「まあ……国王陛下がお気の毒」
「でも陛下の隣はセレス様ですもの。……王妃様も、仕方ないのでは?」
「セレス様は“妹分”だと言うけれど、距離が違いますわよね」

“距離が違う”。
その言葉が広間を歩き始めた瞬間、噂は完成した。



リーシャは、広間の端で微笑を固定していた。
ドレスの裾を整え、白い手袋の指先を揃える。
崩れない。崩れない。崩れない。

(泣けば負ける)

アグネスの忠告が骨の内側で鳴る。
泣けば“弱い妃”。
泣かなければ“冷たい妃”。
どちらでも、王宮は妃を面白がる。

ロランが半歩前に立つ。
護衛の距離。噂にならない距離。
それでも噂はもう、距離を超えて飛ぶ。

そのとき、空気が割れた。

「ロラン」

国王レオニスの声。

低い。短い。
短いほど、怒りが隠しきれない。

ロランが即座に跪き、深く礼をする。

「陛下」

国王の視線はまずロランへ刺さり、次にリーシャへ刺さる。
刺さるのに、近づかない。

リーシャは礼をした。
完璧な角度で。
視線は上げない。上げたら、目が合ってしまう。

国王の声が落ちる。

「……お前は何をした」

ロランは低く答える。

「王妃陛下が転倒しかけました。
護衛として、転倒を防ぎました」

正しい。
正しいのに、王宮では正しさが罪になる。

国王は吐き捨てるように言った。

「抱き留めたのか」

その単語が、貴婦人たちの扇の影で輝く。
“抱き留めた”。
噂に最適な言葉。

ロランは顔色を変えずに答える。

「触れない距離で止めました。
王妃陛下の名誉を汚さぬよう、最小限で」

国王の眉間が僅かに寄る。
苛立ちの奥に、別の色。

――焦り。奪われる恐怖。
そして、嫉妬。

「今後、王妃に必要以上に近づくな」

命令。
命令は守りの形をして、実は嫉妬の鎧。

ロランが深く礼をする。

「承知しました」

リーシャの胸の奥が、ずしりと沈む。

(私のせいで)

転ばなければ。
支えられなければ。
噂にならなければ。

でも裾には細工があった。
誰かが罠を作った。
それでも叱られるのは守った人。

リーシャは喉が熱くなるのを感じ、すぐに飲み込んだ。
泣けば負ける。

「陛下、ロランは――」

言いかけた瞬間、国王の視線がリーシャへ飛ぶ。
冷たい目。
けれど底が焼けている目。

「黙れ」

短い。
短いほど、拒絶が鋭い。

扇の影で、貴婦人たちが息を呑む。
“国王が王妃を叱った”
その事実は、明日の噂になる。

リーシャは口を閉じた。
閉じるしかない。
ここで言葉を重ねれば、さらに誰かが傷つく。

ロランが深く礼をし、無言で下がる。
下がる背中が、ひどく遠い。



そこへ、淡い金が滑り込む。

セレスだった。

金髪、黄金のドレス。
彼女は国王の腕にそっと触れた。
触れることが許される距離。幼馴染の特権。

「陛下……ここは」

囁き声は柔らかい。
柔らかいから、誰も咎めない。
柔らかいから、リーシャだけが傷つく。

国王の肩が僅かに硬くなる。
止められているのに、拒めない硬さ。

宰相が半歩前に出る。

「陛下、次のご挨拶を」

礼儀の皮を被った鎖。
国王の足が止まる。

セレスは外向きの微笑を作り、貴婦人たちへ向けて柔らかく言う。

「王妃様はお強い方です。ご心配なく」

強い。
またその言葉。

“強い妃”は泣けない。
“強い妃”は守られない。
だから、セレスの優しさは見せつけになる。

貴婦人たちの扇が、また動く。

「ほら……セレス様は立派」
「陛下の隣に相応しいのは……」
「王妃様は、ね……」

噂はもう止まらない。



その夜更け、広間の端でアドリアンが静かに立っていた。
プラチナブロンドの髪が灯りを拾う。
濃紺の軍服の金糸が光る。

彼は、動けない。
動けば噂になる。動けば兄の嫉妬が燃える。
それでも妃が晒されるのを見ていられない。

背後に、冷たい影が落ちた。

「アドリアン」

国王の声。

アドリアンは即座に礼をする。

「兄上」

国王は近い。
近いのに、家族の温度がない。
国の温度だけがある。

「……お前は、何をした」

短い。
短いほど怒りが濃い。

アドリアンは言葉を選ぶ。

「王妃が一曲も踊らないのは国辱になります。
王家の体面として――」

国王の目が細まる。

「体面、だと?」

アドリアンは息を吸う。
ここで黙れば、妃が死ぬ。
言えば、宰相が燃料にする。

それでも言う。

「兄上が手を取らないなら、誰かが取らねば」

国王の喉が動く。
痛みを飲み込む喉の動き。

国王の声が低くなる。

「……俺の前で守るな」

命令の形をした嫉妬。
嫉妬の形をした本音漏れ。

アドリアンは一歩も近づかないまま、静かに言い返す。

「国王にはすでにセレス様がいます。
国王がセレス様を守っているのなら――
わたしは、王妃を守ります」

その瞬間、遠くの扇の影で、噂屋ヴィオラが微笑んだ。

――これで“王弟は王妃に執着”が完成する。

宰相が喜ぶ。
国王が燃える。
そして妃は、さらに孤立する。

この城は、守るほど燃え、燃えるほど離れていく。

リーシャは広間の端で、白い手袋の指先を揃えたまま微笑んだ。
泣けば負ける。
だから微笑む。

でも微笑の下で、ひとつだけ確信する。

(私はもう、戻らない)

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