つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第37章|王妃の沈黙宣言

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晩餐会の翌朝、王宮は何事もなかったように呼吸をしていた。
昨夜、広間の中心で落ちた言葉――

「陛下とセレス様が並ぶのは別に良いのですか?」
「どうぞお二人末長くお幸せに」

その二つは確かに空気を切り裂いたのに、床は磨かれ、花は替えられ、鐘はいつも通りの時刻に鳴る。
整いは残酷だ。整えば整うほど、心の傷が“なかったこと”にされる。

リーシャは自室の鏡台の前で、白い手袋の指先を揃えていた。
揃えるほど、崩れない。
崩れないほど「強い妃」と呼ばれ、強いから誰も守らない。

(役目は果たす)
(心は差し出さない)

それが、今日からの誓いになる。

「王妃陛下」

侍女長アグネスの声は低い。
低い声は“現実”を運んでくる。

「本日より、晩餐会の準備は通常通りです。
……昨夜の件は、誰も口にしません」

誰も口にしない。
それは鎮静ではない。封印だ。
封印されたものは、噂の形で生き続ける。

リーシャは微笑を作った。

「ええ。口にしない方がよろしいのでしょう」

その微笑が薄いほど、痛みが濃い。
でも痛みを見せた瞬間、王宮はそれを“勝ち”にする。

扉が叩かれた。
侍医エレナが入ってくる。白衣の端に冷たい空気が絡む。

「王妃陛下、手の具合を見せてください」

リーシャは静かに手袋を外した。
指先は少し赤い。荒れは小さい。
小さいのに、この城では命取りになる。

エレナは頷く。

「冷えです。休めば戻ります。……でも休めないのですよね」

休めば「逃げた妃」。
休まなければ「強い妃」。
どちらでも削られる。

リーシャは微笑を崩さず答えた。

「休みません。王妃の役目ですもの」

その言葉が冷たいと分かる。
冷たいほど涙が出ない。
涙が出ないほど、心が遠ざかる。



午前の回廊。
リーシャは必要最低限の動線で歩いた。
護衛ロランが半歩前。近すぎず遠すぎず、噂にならない距離。

角を曲がった先に、国王レオニスがいた。
黒い礼装。氷の瞳。
隣にセレス。金髪、黄金のドレス。
今日も自然に国王の袖が整えられる。

リーシャは礼をした。深く、完璧に。
視線は上げない。
上げれば意味を探してしまう。意味は毒だ。

「陛下」

国王の返事は頷きだけ。
沈黙が落ちる。

沈黙はいつも国王の勝ちだった。
けれど昨夜から、沈黙はリーシャの盾でもある。
沈黙は“もう話さない”の宣言になる。

国王が短く命じる。

「……余計な噂を増やすな」

昨日も聞いた。今日も聞く。
説明はない。命令だけが増える。

リーシャは微笑のまま答えた。

「承知しました」

それだけ。
余計な言葉は出さない。
言葉は炎になる。炎は誰かを燃やす。

セレスが柔らかく言う。

「王妃様、お疲れでしょう。どうか無理を――」

優しい声。
優しい声ほど冷たい刃になる。

リーシャは答えない。
答えれば会話になる。会話は関係になる。
関係を作る気は、もうない。

ロランが半歩前に動き、静かに道を作る。
護衛は言葉の代わりに壁になる。
壁になるほど、ロランは噂で刺される。
それでも壁になる。誠実だからだ。



昼、王妃の執務室。

帳簿の確認。返礼の手紙。慈善の計画。
王妃の仕事は消えない。消えないからこそ、心が折れたまま立たなければならない。

扉が開く。
老女官マルタが入ってきた。王太后付き。慣例の人。
彼女の言葉はいつも“正論”の形をしている。正論ほど人を追い詰める。

「王妃陛下。昨夜のご発言は、波紋を呼んでおります」

波紋。
波紋は噂の上品な言い換えだ。

リーシャは微笑を崩さず答える。

「私は王妃として礼儀を尽くしました」

マルタが薄く笑う。

「礼儀、ですか。
世間は礼儀を“拒絶”と読みます。王妃陛下」

世間。
またその刃。

「品位を損ねてはなりません。
嫉妬は王妃の器を疑わせます」

嫉妬。
都合のいい罪。
王宮が女を黙らせる最も簡単な札。

リーシャの胸の奥で、冷たい火が鳴った。
でも怒鳴らない。怒鳴れば負ける。
泣かない。泣けば負ける。

リーシャは、扇を閉じる音だけを立てた。
その音が、部屋の空気を切る。

そして――微笑のまま言った。

「マルタ様。……あなたは私に礼儀を求めますのに、私へは礼儀をくださいませんのね」

空気が止まった。

マルタの口が閉じる。
閉じるのは怒りではない。反論できないからだ。
王妃が声を荒げず、微笑のまま“礼儀”を問うと、慣例の人ほど逃げ道がない。

リーシャは続けない。続ければ刺しすぎる。
刺しすぎれば、王太后の怒りが来る。
だから一歩で止める。王妃の刃は短くていい。

マルタは硬い声で言い直す。

「……王妃陛下。ご自身の立場をお忘れなく」

リーシャは微笑で返す。

「忘れておりません。だから、沈黙いたします」

沈黙。
それは降伏ではない。
自分を守るための境界線だ。

マルタが去る。
去り際、微かな苛立ちが背中に残る。
その苛立ちが、今日の勝利だった。

アグネスが小さく息を吐いた。

「王妃陛下……」

リーシャは微笑を崩さない。

「大丈夫よ」

強い妃。
守られない妃。
でも――自分で守る妃。



夕刻。
王弟アドリアンが“偶然”の形で現れた。
回廊の角、護衛の目が届く距離で、礼儀の範囲で。

「王妃陛下」

彼の声は低い。低いほど余計な温度がない。
けれど国王と違って、言葉の中に逃げない温度がある。

リーシャは微笑のまま言う。

「殿下」

アドリアンが一拍置いて告げる。

「……兄上は、昨夜のことを“反抗”と受け取っています」

反抗。
リーシャは胸の奥で小さく笑いそうになって、やめた。
反抗ではない。線引きだ。生存だ。

リーシャは穏やかに答えた。

「反抗ではありません。私は王妃として役目を果たす。
ただ――心は差し出さないだけです」

アドリアンの目がわずかに揺れる。
そして、低く提案した。

「公務の同行を増やしましょう。
あなたが一人で立つほど、世間が勝手に物語を作る。
同行なら……絵をこちらで選べます」

絵。
王宮は絵で回る。
なら、絵を選ぶしかない。

リーシャは息を吸い、答えた。

「ええ。増やしましょう」

冷たい声。
冷たいほど、戻らない決意が固い。

アドリアンが深く礼をする。

「承知しました」

彼は近づかない。
触れない。
それでも支えるために言葉を残す。

「泣けないなら――せめて、息をしてください」

息。
息をすることが、どれほど難しいか。
国王の沈黙の中では。

リーシャは微笑を崩さず言った。

「私は泣かないわ。泣けば負けるもの」

言い切った瞬間、自分がもう泣けないことに気づいて胸が痛む。
泣けないのは強さではない。泣く場所を奪われただけだ。



夜。
リーシャは窓辺に立ち、白薔薇を見た。
美しい花。美しいから罪になる花。

回廊の遠い足音は今日も通り過ぎる。
国王の足音が止まらないことに、もう驚かない。
驚かないことが怖い。慣れは心を殺すから。

リーシャは手袋を外し、指先を見つめた。
冷えた指先。
それでも震えない自分に気づく。

(もう、期待しない)
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