つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第39章|王太后の最後通告

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王宮の空気が“完成”した日ほど、王太后の声はよく通る。
噂が整い、世論が固まり、皆が同じ絵を見たことにする――そういう日、王太后は迷わない。迷わない者ほど残酷だ。

リーシャは奥宮へ向かう回廊を歩いていた。
必要最低限の動線。必要最低限の言葉。
白い手袋の指先を揃え、微笑を固定する。

(役目は果たす)
(心は差し出さない)

刻んだ誓いを、歩くたび胸の中で撫で直す。
撫で直すほど、痛みが薄くなる。
薄くなるのが怖い。薄くなるのは、期待が死んだ証拠だからだ。

扉の前に老女官マルタがいた。
王太后付き。慣例の人。
彼女の目はいつも、礼儀という名の縄を手にしている。

「王妃陛下。王太后陛下がお待ちです」

声は丁寧。丁寧ほど拒否を許さない。

リーシャは微笑で頷いた。

「承知しました」

扉が開く。
香が濃い。白檀と蜜と薔薇。
薔薇はこの城で愛ではなく“体面”の匂いだった。

王太后が玉座に近い椅子に座っている。
背筋は微動だにしない。宝石は冷たく光り、瞳は人を測る。
その傍に宰相グレゴール。穏やかな顔、正しさの顔。

そして――王太后の右後ろに、セレスが立っていた。

黄金の髪、黄金のドレス。
祈るように手を組み、柔らかな微笑。
この部屋にいることが“当然”のような自然さ。

(また、隣)

リーシャは礼をする。深く、完璧に。
視線は上げない。
上げれば“嫉妬の妃”にされる。嫉妬は王宮で一番便利な罪だ。

「顔を上げなさい」

王太后の声は低く、よく通った。
怒鳴らない。怒鳴らない方が怖い。怒鳴らない者ほど壊すのが上手い。

リーシャはゆっくり顔を上げた。
王太后の視線が髪から手袋の先までなぞる。
白い手袋に、ほんの一瞬だけ目が留まった。

「……噂は、完成したわね」

完成。
その言葉が、王太后にとっては“裁定”の響きを持っている。

「王の隣はセレス」
「王妃の隣は王弟」
「王妃は戻らない」

誰も断定していないのに、皆が断定している。
陰謀はいらない。王宮は勝手に結論を作る。

王太后は扇を開き、淡々と告げた。

「王妃。あなたに最後通告をします」

最後通告。
その四文字だけで、リーシャの胸の奥が冷えた。
冷えたのは恐怖ではない。理解だ。
王太后は“体面の整理”を始める。

「世継ぎを」

短い。短いほど逃げ道がない。

「国母の器を示しなさい」

器。
器という言葉は、人を物にする。
王妃は器。産む器。耐える器。飾る器。

リーシャは微笑を崩さなかった。
崩せば、ここで壊れる。壊れた瞬間、王太后の勝ちになる。

「承知しております。王妃として務めます」

正しい返事。
正しいほど、心が遠い。

王太后は目を細める。

「務める? では問う。国王の隣に立てますか」

隣はもう恋でも夫婦でもなく、政治の椅子になっている。

リーシャは息を吸う。
言葉を選ぶ。選ばないと、嫉妬で潰される。

「役目として立てと言われれば、立ちます」

言い切った瞬間、胸が痛む。
“立てと言われれば”という距離が、自分を守る唯一の鎧だから。

王太后は扇を閉じた。

「では、心は」

心。
そこを問う。そこを抉る。
王太后は、王妃が“心”を持っていることが不都合なのだ。

リーシャは微笑のまま答えた。

「心は……王妃の私事です」

その返しが、室内の空気を一段冷やした。

マルタが一歩前に出て、慣例で縛る。

「王妃陛下。私事などございません。王妃は公のものです」

公のもの。
王妃の心を奪う免罪符。

リーシャは視線をマルタへ向けず、王太后へ向けたまま、穏やかに言った。

「公のものなら、なおさらです。
公に晒される心は、刃になります」

宰相が咳払いひとつ。
空気を整える音。整えられた空気ほど、逃げ道がなくなる。

そこでセレスが、柔らかい声で割り込んだ。

「王太后陛下。王妃様はお強い方です。
きっとお役目を――」

強い。
またその言葉。
強い妃は守られない。強い妃は泣けない。
そして強い妃は“どうでもいい”と扱われる。

リーシャは、微笑のままゆっくりセレスへ視線を向けた。
声の温度だけを消す。

「セレス様」

空気が張り詰める。
王太后の扇が止まり、マルタの呼吸が止まる。

「それは――私のどこをご覧になって、“強い”と毎回おっしゃっているのですか?」

沈黙が落ちた。

セレスの微笑が、ほんの一瞬だけ止まる。
止まってすぐ戻す。戻すけれど、戻った微笑は硬い。

リーシャは続けない。
続ければ感情になる。感情になれば“嫉妬”にされる。
だから、刃だけ置く。

「泣かない顔ですか。
笑って立っている姿ですか。
……それとも、助けを求める言葉を奪われた沈黙ですか」

言い切らず、飲み込む。
飲み込んだ分だけ、言葉は深く刺さる。

王太后が低く言った。

「十分だ」

扇が閉じられる音が、裁定の音だった。

「国母の器を示せと言った。世継ぎを産めと言った。
できぬのなら――整理を考える」

整理。
情ではない。政治だ。

リーシャの胸が一瞬だけ痛み、すぐに静まった。
静まるのが怖い。
でも静まらなければ、ここで倒れる。

リーシャは深く礼をした。

「承知いたしました」

その返事が完璧であるほど、悲しい。

王太后は最後に言う。

「次の儀礼で、あなたは国王の隣に立ちなさい。
――国の前で、王妃の席を示しなさい」

公開裁判が続く。
席次は今日も人を殺す。

ここでリーシャは、もう一つだけ“制度の確認”を置く。
嫉妬ではなく、整合性の問いとして。

リーシャは微笑を崩さず、王太后へ静かに言った。

「王太后陛下。お伺いしてもよろしいでしょうか」

王太后の瞳が細くなる。
許可ではなく、試す視線。

リーシャは続ける。

「セレス様が“内側の者”で、陛下の隣に立つことが当然なら――
なぜ、最初からセレス様を妃にお選びにならなかったのですか」

空気が、もう一度凍った。
この問いは嫉妬ではない。制度への問いだ。
だからこそ、王太后は“王家の理屈”で切り返せる。

王太后は扇を軽く叩き、淡々と答えた。

「妃は“好き”で選ぶものではない。国の均衡で選ぶのよ」

短い。冷たい。正しい。
正しいから、残酷だ。

「セレスは内側すぎる。妃にすれば王宮は偏る。
妃は外から来て、血と縁を混ぜ、国を結ぶ役目。
――だから、あなたが必要だった」

必要だった。
その言葉が、リーシャの胸を静かに刺した。

必要だった。
愛された、ではない。
選ばれた、でもない。
必要だった――器として。

リーシャは微笑を崩さず、深く礼をした。

「承知いたしました」

そして、礼儀のまま最後に落とす。

「つまり私は、最初から“家族”ではなく――“役目”だったのですね」

王太后の目が僅かに光る。
マルタが息を呑む。
宰相が視線を伏せる。
セレスの微笑が揺れる。

リーシャはそれ以上言わない。
言わないことが、今日の勝ちだ。

セレスが、戻そうとする声で言った。

「王妃様、お一人で背負わないでくださいね」

慈悲の形をした声。
だからこそ刺さる。

リーシャは微笑のまま返した。

「優しいのですね、セレス様。
けれど――優しいお声ほど、冷たい刃になりますのよ」

空気が凍る。
セレスの微笑が硬くなる。
マルタが口を噤む。
宰相が視線を伏せる。

リーシャは深く礼をし、退出した。

「失礼いたします」

扉を出ると、回廊の空気が少しだけ楽になる。
けれどその楽さが、リーシャの中で“決断”に変わっていく。

(ここでは、私は飾り)
(役目のための器)

器として世継ぎを迫られ、器として隣を迫られ、器として沈黙に殺される。
それなら、私は――ここにいない方がいい。

リーシャは白い手袋の指先を揃えた。
揃えるほど、心が固まる。

(出奔する)

声にしない。
声にした瞬間、止められる。
止められたら、また沈黙で殺される。

だから決めるのは静かに。
王妃として微笑を保ったまま。

その日、リーシャは丁寧に礼をして、心の中で“出る”ことを決めた。
王太后の最後通告は、王妃を縛るためのものだった。
けれど結果として――リーシャを王宮から解放する合図になってしまった。
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