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第50章|エピローグ
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春の光は、王都より公爵領の方が柔らかい。
柔らかいのに眩しいのは、目が慣れていないからだ。
王宮の光は硬い。硬い光は、人の輪郭を削って“役目”だけにする。
リーシャは窓辺で、白い手袋を手に取った。
かつては燃料だった。
白い布ひとつで、噂が立ち、命令が増え、沈黙が深くなった。
いまは違う。
手袋はただの布。
冷えた指先を守るための布。
意味は、王宮が勝手につけたものだったのだと、ようやく心が理解する。
リーシャはゆっくりそれを嵌めて、そして外した。
試すように。
指先は震えない。
震えないことが、何よりの勝利だった。
「リーシャ」
背後から呼ばれる声。
名前を呼ぶ声。
王宮では届かなかった呼び方が、ここでは当たり前に届く。
振り返るとアドリアンが立っていた。
プラチナブロンドの髪が春の光を拾い、濃紺の礼装が整っている。
彼は相変わらず距離を急がない。
近づきすぎない。触れない。
けれど目だけは逃げない。
「出発の準備が整いました。……姫君」
姫君。
その呼び方が、少しだけくすぐったい。
王妃ではない。器ではない。
役目ではなく、名前を持つ人間。
リーシャは微笑んだ。
鎧ではない微笑。
「行きましょう」
今日は小さな式だった。
豪奢な儀礼ではない。
人々に見せつけるための“絵”ではない。
公爵領の礼拝堂。
木の香りがする。陽が差し込む。
司祭の声は穏やかで、祝詞は長くない。
長い言葉で縛らない。短い言葉で守る。
父アルノーは厳格な顔のまま、でも目の奥に安堵を持っている。
母ソフィアは涙を堪えず、でもその涙は負けではない。
アグネスは侍女長としてきちんと立ち、ロランは外で護衛の配置を確認している。
誰も、噂を気にしない。
ここには噂屋がいない。扇の陰がない。
だから呼吸ができる。
アドリアンが、リーシャの前に手を差し出す。
ゆっくり。
急がない。
奪う手ではなく、待つ手。
リーシャは、その手を取った。
王宮で一度も取らなかった手。
取れなかった手。
取らないと決めた手。
その代わりに、今は自分の意思で取る。
握った瞬間、温度が伝わる。
温度が怖くない。
「……隣にいて」
言えた言葉が、今日は呼吸のように自然に出た。
アドリアンは短く答えた。
「はい」
その一語が、どんな誓約より強かった。
言葉は刃にもなる。
でも今は、言葉が盾になっている。
式が終わり、庭へ出る。
花が揺れる。鳥が鳴く。
風が髪を撫で、リーシャのプラチナブロンドが光を拾う。
(私は生きている)
王宮でそれを思うことはできなかった。
生きているのに、役目の中で死んでいく気がしていたから。
アドリアンが隣に立つ。
“隣”が、ようやく落ち着く場所になった。
アグネスが静かに近づく。
「姫様。王都より報せが」
リーシャは一瞬だけ胸が痛んだ。
痛むのは未練ではない。癖だ。
王宮の報せ=刃、という癖。
アグネスは低い声で告げる。
「……セレス様は、本日、王都を発たれたそうです」
リーシャは瞬きを一度だけした。
それだけ。
アグネスが続ける。
「内廷役職は正式に解任。内廷立入は禁止。
名目は療養。……地方の親族邸へ」
誰も血を流さない。
けれど居場所を奪う。
王宮のざまぁはいつだってそうだ。
リーシャの胸の奥に、冷たいものが落ちた……のではなく、
長く刺さっていた棘が、やっと抜ける感覚がした。
(終わった)
終わったのは復讐ではない。
“見せつけ”が終わった。
隣を当然だと思っていた距離が、終わった。
そこへ、もうひとつ報せがあるように、アグネスが小さく紙を差し出した。
王都からの写し。
噂屋ヴィオラが最後に流したという一文が、端に記されている。
「“隣”は、望んだ者の席ではなく、選ばれた者の席ですもの」
リーシャはその言葉を読み、紙を閉じた。
噂屋の言葉は、いつだって甘い。
でも今日は甘さより先に、区切りとして機能した。
(望んだだけの席は、落ちる)
セレスは望んだ。
望んで、口を滑らせて、落ちた。
陰謀がなくても落ちる。
王宮は“距離の欲”を許さない。
リーシャは、アドリアンの手を握り直した。
握り直すのは、不安ではない。
確認だ。
私はここにいる。
戻らない。
私の隣は、私が選ぶ。
リーシャは、春の光の中で静かに言った。
「私は戻らない。――私の隣は、私が選ぶ」
アドリアンは目を逸らさず、短く返した。
「あなたの選んだ隣で、私は生きます」
その言葉が、最後の扉を閉めた。
王宮の扉ではない。
過去の扉だ。
風が花を揺らす。
白い手袋は、もう燃えない。
燃えるのは噂ではなく、これからの生活だ。
そして遠い王都では、
喝采を失ったセレスの馬車が、春の道を黙って走っていく。
完
柔らかいのに眩しいのは、目が慣れていないからだ。
王宮の光は硬い。硬い光は、人の輪郭を削って“役目”だけにする。
リーシャは窓辺で、白い手袋を手に取った。
かつては燃料だった。
白い布ひとつで、噂が立ち、命令が増え、沈黙が深くなった。
いまは違う。
手袋はただの布。
冷えた指先を守るための布。
意味は、王宮が勝手につけたものだったのだと、ようやく心が理解する。
リーシャはゆっくりそれを嵌めて、そして外した。
試すように。
指先は震えない。
震えないことが、何よりの勝利だった。
「リーシャ」
背後から呼ばれる声。
名前を呼ぶ声。
王宮では届かなかった呼び方が、ここでは当たり前に届く。
振り返るとアドリアンが立っていた。
プラチナブロンドの髪が春の光を拾い、濃紺の礼装が整っている。
彼は相変わらず距離を急がない。
近づきすぎない。触れない。
けれど目だけは逃げない。
「出発の準備が整いました。……姫君」
姫君。
その呼び方が、少しだけくすぐったい。
王妃ではない。器ではない。
役目ではなく、名前を持つ人間。
リーシャは微笑んだ。
鎧ではない微笑。
「行きましょう」
今日は小さな式だった。
豪奢な儀礼ではない。
人々に見せつけるための“絵”ではない。
公爵領の礼拝堂。
木の香りがする。陽が差し込む。
司祭の声は穏やかで、祝詞は長くない。
長い言葉で縛らない。短い言葉で守る。
父アルノーは厳格な顔のまま、でも目の奥に安堵を持っている。
母ソフィアは涙を堪えず、でもその涙は負けではない。
アグネスは侍女長としてきちんと立ち、ロランは外で護衛の配置を確認している。
誰も、噂を気にしない。
ここには噂屋がいない。扇の陰がない。
だから呼吸ができる。
アドリアンが、リーシャの前に手を差し出す。
ゆっくり。
急がない。
奪う手ではなく、待つ手。
リーシャは、その手を取った。
王宮で一度も取らなかった手。
取れなかった手。
取らないと決めた手。
その代わりに、今は自分の意思で取る。
握った瞬間、温度が伝わる。
温度が怖くない。
「……隣にいて」
言えた言葉が、今日は呼吸のように自然に出た。
アドリアンは短く答えた。
「はい」
その一語が、どんな誓約より強かった。
言葉は刃にもなる。
でも今は、言葉が盾になっている。
式が終わり、庭へ出る。
花が揺れる。鳥が鳴く。
風が髪を撫で、リーシャのプラチナブロンドが光を拾う。
(私は生きている)
王宮でそれを思うことはできなかった。
生きているのに、役目の中で死んでいく気がしていたから。
アドリアンが隣に立つ。
“隣”が、ようやく落ち着く場所になった。
アグネスが静かに近づく。
「姫様。王都より報せが」
リーシャは一瞬だけ胸が痛んだ。
痛むのは未練ではない。癖だ。
王宮の報せ=刃、という癖。
アグネスは低い声で告げる。
「……セレス様は、本日、王都を発たれたそうです」
リーシャは瞬きを一度だけした。
それだけ。
アグネスが続ける。
「内廷役職は正式に解任。内廷立入は禁止。
名目は療養。……地方の親族邸へ」
誰も血を流さない。
けれど居場所を奪う。
王宮のざまぁはいつだってそうだ。
リーシャの胸の奥に、冷たいものが落ちた……のではなく、
長く刺さっていた棘が、やっと抜ける感覚がした。
(終わった)
終わったのは復讐ではない。
“見せつけ”が終わった。
隣を当然だと思っていた距離が、終わった。
そこへ、もうひとつ報せがあるように、アグネスが小さく紙を差し出した。
王都からの写し。
噂屋ヴィオラが最後に流したという一文が、端に記されている。
「“隣”は、望んだ者の席ではなく、選ばれた者の席ですもの」
リーシャはその言葉を読み、紙を閉じた。
噂屋の言葉は、いつだって甘い。
でも今日は甘さより先に、区切りとして機能した。
(望んだだけの席は、落ちる)
セレスは望んだ。
望んで、口を滑らせて、落ちた。
陰謀がなくても落ちる。
王宮は“距離の欲”を許さない。
リーシャは、アドリアンの手を握り直した。
握り直すのは、不安ではない。
確認だ。
私はここにいる。
戻らない。
私の隣は、私が選ぶ。
リーシャは、春の光の中で静かに言った。
「私は戻らない。――私の隣は、私が選ぶ」
アドリアンは目を逸らさず、短く返した。
「あなたの選んだ隣で、私は生きます」
その言葉が、最後の扉を閉めた。
王宮の扉ではない。
過去の扉だ。
風が花を揺らす。
白い手袋は、もう燃えない。
燃えるのは噂ではなく、これからの生活だ。
そして遠い王都では、
喝采を失ったセレスの馬車が、春の道を黙って走っていく。
完
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