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第5章 冷めた令嬢の評判
慈善音楽会の翌日から、セシリア・アーヴェルの名は王都の社交界で以前よりも多く囁かれるようになった。
グランフォード公爵の婚約者は、幼馴染のリリアナ・ベルク子爵令嬢を前にしても取り乱さない。公爵に愛する方がいると分かっていながら、嫉妬もせず、涙も見せず、むしろ自分も好きなように過ごすと言い切ったらしい。
その噂は、聞く者によってまったく違う意味に変えられた。
ある夫人は、セシリアを賢い令嬢だと言った。公爵家に嫁ぐなら、感情だけで騒ぐ娘より、場の立場を理解して言うべきことを言える女性の方がふさわしいと。
別の令嬢は、セシリアを可愛げがないと言った。婚約者に別の女性が寄り添っているのに平気な顔をしているなんて、よほど公爵に興味がないのだろうと。
そして、リリアナに近い者たちは、セシリアを冷めた令嬢だと言った。
「きっと、公爵様をお慕いしていないのですわ。だからあんなに落ち着いていられるのよ」
「レオナード様もお気の毒ですわね。婚約者から、完璧な妻にはなりませんなんて言われるなんて」
「リリアナ様の方が、ずっと公爵様を大切になさっているのに」
そうした声がセシリアの耳に入ったのは、グランフォード公爵邸で開かれた寄付品の確認会の時だった。
慈善音楽会で集まった寄付金と贈答品の一部を、公爵家が支援する孤児院や施療院へ振り分ける。そのため、関係する貴婦人や令嬢たちが公爵邸へ招かれていた。
セシリアも、婚約者として参加することになっていた。
会場となった公爵邸の広間には、菓子、布地、書物、子ども用の衣服、薬草、学用品などが丁寧に並べられていた。品物の質や量を確認し、どの施設へ送るか決める作業は、見た目よりも細かい配慮が必要になる。布地ひとつでも、孤児院の子ども用に使えるものと、施療院の寝具に回すべきものでは扱いが違う。
セシリアは、一覧表を手にしながら、執事クラウスと確認を進めていた。
「この厚手の布は、孤児院の衣服より施療院の寝具に回した方がよいかもしれません。孤児院には、洗いやすく乾きやすい布の方が扱いやすいでしょう」
「おっしゃる通りでございます。では、こちらは施療院へ回す品に分類いたします」
「子ども用の本は、年齢別に分けてください。文字を覚え始めた子ども向けのものと、ある程度読める子ども向けのものが混ざっております。まとめて送るより、先生役の方が管理しやすい形にした方がよいと思います」
「承知いたしました」
クラウスは、セシリアの指示を丁寧に書き留めた。
その様子を、少し離れた場所から何人もの令嬢が見ていた。中でもリリアナの取り巻きであるカミラ・ロッシュ男爵令嬢と、ジュリア・モント子爵令嬢は、扇を手に寄り添いながら、聞こえるか聞こえないかの声で話している。
「セシリア様は、本当に何でも事務仕事のようになさるのね」
「可哀想な子どもたちのための寄付なのに、情がないように見えてしまいますわ」
「リリアナ様なら、もっと優しく子どもたちの顔を思い浮かべて選ばれるでしょうに」
セシリアは、その声を聞いても顔を上げなかった。
感情を込めて選ぶことと、相手が使いやすいように分けることは別だ。どれほど涙ぐみながら選んでも、届いた先で扱いに困る品を送れば、現場の負担になる。
けれど、そう説明しても、彼女たちは理解したいわけではないのだろう。
セシリアが布地の一覧を確認していると、広間の入口がにわかに華やいだ。
リリアナ・ベルクが来たのだ。
淡い薄桃色のドレスに、小粒の真珠を散らした髪飾り。彼女は今日も可憐で、周囲の令嬢たちが自然と道を空けるほど、場の視線を集めることに慣れていた。
そして、その隣にはレオナードがいた。
正確には、リリアナがレオナードの隣へ寄っているのだろう。彼は客人を出迎えるために広間の入口に立っていたが、リリアナはそこへ近づくと、当たり前のように彼の腕へ手を添えた。
「レオナード様、今日はお招きありがとうございます。私も少しでもお役に立ちたくて参りましたの」
「来てくれたことには礼を言う。だが、品物の確認はセシリア嬢とクラウスが進めている」
「もちろんですわ。セシリア様はとてもお出来になる方ですもの。私は、皆様の気持ちが明るくなるようなお手伝いをいたしますわね」
リリアナはそう言って、レオナードの袖を軽く引いた。
その仕草は親しげで、以前より少し控えめに見える。だが、人前で婚約者以外の女性が公爵の衣服に触れるには、やはり近すぎた。
広間にいた令嬢たちが、またセシリアを見る。
セシリアは、一覧表をクラウスへ渡してから、レオナードたちの方へ歩いた。
「ごきげんよう、リリアナ様。本日もお越しくださりありがとうございます」
「ごきげんよう、セシリア様。私、お邪魔ではありませんか? セシリア様はお仕事がお得意でいらっしゃるから、私のような者がいるとかえってご迷惑かしら」
「いいえ。人手があるのは助かります。ただ、寄付品の分類は送り先に関わる大事な作業ですので、担当を決めて進めた方がよろしいかと思います」
「まあ、担当ですか。セシリア様は本当にきちんとしていらっしゃるのね」
リリアナはにこやかに言ったが、その声にはわずかな棘があった。
「私は、こういう場では気持ちが大切だと思っておりますの。あまり決まりごとばかりでは、温かさがなくなってしまいますでしょう?」
「気持ちは大切ですわ。けれど、送られた先で使えないものを受け取った方は、温かさだけでは困ってしまいます」
リリアナの笑顔が、少しだけ固まった。
カミラがすかさず口を挟んだ。
「でも、セシリア様は少し冷たく聞こえますわ。せっかくの慈善なのですから、もっと優しいお心で選ばれてもよろしいのではありませんか」
「優しい心で選ぶなら、なおさら相手が困らないようにするべきではありませんか」
セシリアは、カミラへ穏やかに答えた。
「孤児院には、管理する方が限られております。施療院にも、手の空いている方ばかりではありません。送る側が満足するためではなく、受け取る側が使いやすいように整えることが、わたくしには必要だと思えます」
カミラは言い返せなかった。
レオナードは、そのやり取りを見ていた。
以前の彼なら、セシリアが淡々と正論を述べる様子を、ただ冷静な令嬢だと思ったかもしれない。だが今は違った。彼女は感情がないのではない。感情を表に飾らないだけで、誰よりも現実に困る人のことを見ている。
リリアナは、少し困ったようにレオナードを見上げた。
「レオナード様、私、何か間違ったことを言ってしまったかしら。皆様に喜んでいただきたいと思っただけなのに」
そう言いながら、リリアナはまたレオナードの腕に指を添えた。
今回は、周囲の目がはっきりとそこへ集まった。
セシリアは、その手元を見てからレオナードへ視線を移した。
レオナードは気づいていた。気づいていて、一瞬迷ったように見えた。
その迷いを見た時、セシリアの胸の奥に小さな諦めが落ちた。
彼は変わろうとしているのかもしれない。けれど、長年許してきた距離を完全に改めるには、まだ覚悟が足りないのだろう。
セシリアは、静かに言った。
「公爵様」
「何だ」
「わたくしは、以前申し上げました。完璧な妻にはなりません、と」
レオナードの顔が引き締まった。
リリアナの指先も止まった。
「公爵様がお好きな方と親しくなさることを、わたくしは感情で責めるつもりはございません。ですが、人前で婚約者ではない令嬢に腕を預け、その方が困った顔をなされば周囲がわたくしを責める。そのような場を作られるのでしたら、わたくしも都合よく黙って見守る役はいたしません」
広間の空気が変わった。
セシリアは声を荒げていない。だが、言葉はまっすぐだった。
「好きなようにさせていただく、とも申し上げました。公爵様がリリアナ様のお気持ちをお守りになるなら、わたくしはわたくしの立場と時間を守ります。今日の分類作業も、婚約者として公爵家の体面を整えるためではなく、寄付先の方々にきちんと届くように進めております。そこを冷たいとおっしゃる方々にまで、完璧な笑顔で応じるつもりはございません」
リリアナの頬が赤くなった。
「セシリア様、私はそのような意味で申し上げたのでは」
「リリアナ様のお気持ちは存じません。ですが、あなたが公爵様の腕に触れながら困った顔をなされば、周囲はわたくしがあなたを責めているように見るでしょう。それを何度も繰り返されるなら、偶然ではなく、意図があると思われても仕方がございません」
カミラとジュリアが、気まずそうに視線を逸らした。
リリアナは、助けを求めるようにレオナードを見た。
だが、今度のレオナードは迷わなかった。
彼はリリアナの手を自分の腕から外した。
「リリアナ、セシリア嬢の言う通りだ。今後、人前で私に触れるのは控えてくれ」
リリアナは、信じられないという顔をした。
「レオナード様まで、そのようなことをおっしゃるのですか」
「私が最初からそう言うべきだった。君に悪気があるかどうかではなく、婚約者がいる男の振る舞いとして正しくなかった」
「私は、ただ昔からの癖で」
「ならば、今日から改めればいい」
レオナードの声には、逃げ道を作らない硬さがあった。
リリアナは何か言いたそうに唇を震わせたが、周囲の視線に気づいて言葉を飲み込んだ。
セシリアは勝ち誇らなかった。
ここでリリアナを追い詰めれば、また「冷たい令嬢」と言われるだけだ。自分がすべきことは、相手に勝つことではなく、線を引いたまま作業を終えることだった。
「リリアナ様。もしお手伝いくださるのでしたら、子ども用の本の分類をお願いできますか。年齢別に分ける必要がありますので、文字の大きさと内容をご確認ください」
リリアナは、屈辱を飲み込むような顔をした。
「私に、分類を?」
「はい。温かい気持ちも、実際に使いやすい形に整えてこそ届くと思いますので」
リリアナは断ることができなかった。
彼女は可憐で優しい令嬢として振る舞っている。ここで寄付品の分類などできないと言えば、周囲の評価が下がるのは自分の方だった。
「分かりましたわ。喜んでお手伝いいたします」
「ありがとうございます」
セシリアは礼をし、クラウスの元へ戻った。
広間の作業は再び動き出した。
マリアは布地の分類を進めていたが、途中で箱の一つを抱え上げた拍子に、中に入っていた子ども用の靴を床へ落としてしまった。乾いた音が広間に響き、周囲の視線が彼女に集まる。
マリアは真っ青になった。
「申し訳ございません、すぐに拾います」
近くにいたカミラが、これ幸いとばかりに眉を上げた。
「まあ、公爵家の侍女ともあろう方が、寄付品を落とすなんて。セシリア様が厳しく分類ばかりなさるから、皆様緊張してしまったのではありませんか」
マリアの顔がさらに青ざめた。
セシリアはすぐに歩み寄り、床に落ちた靴を拾った。小さな革靴だった。傷はない。
「問題ありません。箱の底が少し緩んでいたようです。マリア、あなたが悪いのではありません」
「ですが、私がきちんと持てていれば」
「箱の状態を確認せずに重いものを入れたこちらの手順にも問題がありました。次からは底を補強してから運びましょう」
セシリアはそう言い、クラウスへ視線を向けた。
「クラウス、紐と厚紙を用意していただけますか。重い品を入れる箱は底を二重にした方がよいと思います」
「すぐに手配いたします」
カミラは不満そうに言った。
「セシリア様は、使用人にお優しいのですね」
「失敗の理由を見ずに叱ることは、優しさではなく怠慢だと思います」
セシリアは、落とした靴を丁寧に布で拭いた。
「それに、この靴は子どもに届くものです。誰かを責めるために時間を使うより、きちんと届けるために手を動かした方がよろしいのではありませんか」
その言葉に、広間にいた数人の夫人が頷いた。
ロゼッタがマリアのそばへ行き、箱を一緒に支えた。
「マリア、次からは私も確認します。焦らなくてよろしい」
「はい、ありがとうございます」
マリアは涙をこらえるように頭を下げた。
レオナードは、その光景を見ていた。
セシリアは、冷めた令嬢などではなかった。
彼女は人前で感情を飾らない。甘えるような言葉も使わない。だが、誰かが理不尽に責められそうになれば、すぐに理由を見て庇う。寄付品をただ美しく並べるのではなく、受け取る側の使いやすさを考える。
それを冷たいと言うなら、温かさとは何なのだろう。
レオナードは、自分がこれまでリリアナの分かりやすい優しさに慣れすぎていたことに気づいた。
リリアナは、目の前の相手に可憐な言葉をかけるのがうまい。困った顔をして、助けを求め、相手に自分を守らせるのがうまい。
セシリアは違う。
自分を守らせるのではなく、誰かが傷つかないように自分で動く。
その違いを、レオナードはようやく見始めていた。
作業が終わる頃には、広間の空気は明らかに変わっていた。
最初はリリアナの味方をしていた令嬢たちも、セシリアの段取りのよさと公平さを見て、軽々しく冷たいとは言えなくなっていた。ロゼッタやマリアをはじめとする公爵家の使用人たちは、セシリアへ向ける視線を改めていた。
リリアナは、子ども用の本を分類しながら、何度もレオナードの方を見た。
しかし、レオナードは一度も彼女のそばへ行かなかった。
代わりに、作業後、セシリアの元へ来た。
「今日は助かった」
「必要なことをしただけでございます」
「君は、いつもそう言うな」
「事実ですから」
レオナードは、少しだけ苦笑した。
「マリアを庇ったことも、必要なことか」
「はい。失敗の原因を見ずに責めれば、次も同じことが起こります。箱の底が弱いなら、補強すれば済む話です」
「君は、人を見る時もそうなのか」
「どういう意味でしょう」
「表に出た出来事だけではなく、理由を見ようとする」
セシリアは少し考えた。
「できるだけ、そうありたいとは思っています。もっとも、自分のことになると難しいですが」
「君自身のこと?」
「わたくしが冷めた令嬢と言われる理由も、きっと周囲には表面しか見えていないのでしょう。ですが、それを一人ずつ説明して歩くほど、わたくしは親切ではありません」
レオナードは返事をしなかった。
彼自身もまた、セシリアの表面だけを見ていた一人だったからだ。
その時、リリアナが近づいてきた。
彼女はまだ笑顔を保っていたが、先ほどまでの余裕は薄れている。
「セシリア様、本日は大変勉強になりましたわ。私、慈善とはもっと気持ちを届けるものだと思っておりましたけれど、セシリア様のように事務的に整えることも大切なのですね」
事務的、という言葉をわざと選んだのだろう。
セシリアは穏やかに返した。
「気持ちだけでも、事務だけでも足りませんわ。どちらか一方で済むなら、わたくしたちが集まる必要はございませんもの」
リリアナはまた言葉に詰まった。
レオナードが、そこで口を開いた。
「リリアナ、今日は本の分類を助けてくれて礼を言う。ただ、今後はセシリア嬢の進め方を冷たいと評するのは控えてくれ。結果として、彼女の判断が最も寄付先のためになっていた」
リリアナの顔から、わずかに血の気が引いた。
「私、そのようなつもりでは」
「つもりの問題ではない。聞いている者がいる場では、言葉は意図よりも結果で受け取られる」
レオナードの言葉に、周囲が静かに反応した。
リリアナは、これ以上何も言えなかった。
「承知いたしました。以後、気をつけますわ」
彼女は礼をすると、取り巻きたちの方へ戻っていった。
セシリアは、レオナードを見た。
「公爵様、よろしかったのですか」
「君はすぐにそれを聞く」
「リリアナ様は、公爵様の大切な方なのでしょう」
「大切な幼馴染ではある。だが、君を下げてまで守る相手ではない」
セシリアは、その言葉をすぐには受け取れなかった。
心の奥が少しだけ揺れた。けれど、そこで期待してはいけないと、自分に言い聞かせた。リリアナを注意したからといって、それが愛情に変わるわけではない。
「そうですか」
「それだけか」
「ほかに何と申し上げればよいのでしょう」
「少しは安心したと言ってもいい」
「安心するには、まだ早いと思っております」
レオナードは苦い顔をした。
「君は本当に手厳しい」
「公爵様がこれまで、リリアナ様にお優しすぎたのではありませんか」
「そうかもしれない」
レオナードは否定しなかった。
セシリアは、その返答に少しだけ意外そうに彼を見た。
するとレオナードは、わずかに声を落とした。
「私は、君が好きなようにすると言うたびに落ち着かなくなる」
「公爵様がわたくしを縛る理由はございません」
「そうだな。だが、君が私を選ばない可能性があるのだと、ようやく分かってきた」
セシリアは、何も言わなかった。
レオナードは続けた。
「私は、この婚約が決まれば、君は私の婚約者として隣に立つものだと思っていた。君が私に愛情を求めないなら、離れることもないだろうと、どこかで勝手に考えていた」
「随分と都合のよいお考えですわね」
「返す言葉もない」
レオナードが素直に認めたため、セシリアは少し困った。
彼が言い訳をするなら、いくらでも線を引ける。けれど、こうして認められると、こちらも必要以上に突き放すことが難しくなる。
それでも、簡単には許さない。
まだ始まったばかりなのだ。
「公爵様。わたくしは、この婚約を軽く考えているわけではありません。婚約者として必要な務めは果たします。ですが、完璧な妻にはなりません。都合のよい妻にもなりません。公爵様がわたくしを尊重してくださるなら、わたくしも公爵様を尊重いたします。それだけです」
「それだけ、か」
「はい。それだけのことを、最初からしていただきたかったのです」
レオナードは、その言葉を重く受け止めたようだった。
作業の後、セシリアはマリアから小さな礼を受けた。
「セシリア様、先ほどはありがとうございました。私、あのまま叱られていたら、きっと足がすくんでしまって」
「あなたが悪かったわけではないもの。次から箱の底を確認すればいいだけよ」
「はい。次は必ず確認いたします」
「それで十分よ」
マリアは深く頭を下げた。
少し離れた場所で、ロゼッタもその様子を見ていた。厳格な古参侍女である彼女は、これまでセシリアを慎重に見極めていたが、今日の件で明らかに態度を変えた。
「セシリア様」
「何でしょう、ロゼッタ」
「本日の分類表は、こちらで清書しておきます。次回からは、寄付品の到着時に箱の状態も確認項目に入れます」
「助かります。わたくしも、次回までに孤児院と施療院ごとの必要品をもう少し調べておきます」
「セシリア様がそこまでなさる必要は」
「必要かどうかは、わたくしが決めます」
ロゼッタは少し驚いた後、微笑みに近い表情を浮かべた。
「承知いたしました」
その日の夕方、セシリアが馬車へ向かうと、レオナードが玄関まで見送りに来た。
以前なら、クラウスが行っていたことだった。だが最近のレオナードは、セシリアが帰る時に必ず玄関まで来るようになっている。
「次に公爵家へ来る日は、予定通りでよいか」
「はい。変更があれば、クラウスへお伝えいたします」
「私にも伝えてほしい」
「公爵様にですか」
「君の予定を、クラウスから聞くばかりではなく、君から聞きたい」
セシリアは、少しだけ彼を見上げた。
「では、予定が変わる時はお伝えいたします」
「それから、次の休みに孤児院へ行くのなら、私も同行する」
「公爵様がお越しになる必要はございません。公務もおありでしょうし」
「必要があるかどうかではなく、私が行きたい」
セシリアは、すぐには答えなかった。
レオナードは、少し言葉を探すように続けた。
「君が何を見て、何を考えているのか知りたい。今日、寄付品を分ける君を見て、そう思った」
「公爵様が慈善事業に関心をお持ちなら、歓迎されると思います。ただし、見せるための訪問にはしたくありません」
「分かっている」
「でしたら、孤児院の方々の負担にならないよう、事前に人数と滞在時間を決めます。贈り物も、見栄えではなく必要な品を選んでください」
「君に任せる」
「任せきりにはなさらないでください。公爵様も同行なさるなら、ご自身で考えていただきます」
レオナードは、少しだけ笑った。
「君は、私を甘やかしてくれないな」
「公爵様を甘やかす役は、リリアナ様が十分なさっていたのではありませんか」
言ってから、セシリアは少しだけ言い過ぎたかもしれないと思った。
だが、レオナードは怒らなかった。
「そうだな。だから、私はずいぶん鈍くなっていたのだろう」
セシリアは返事に迷い、結局、丁寧に礼をした。
「本日は失礼いたします」
「ああ。また連絡する」
馬車が動き出すと、セシリアは窓の外を見た。
レオナードは、今日も玄関前で見送っていた。
少しずつ、彼は変わり始めている。
リリアナの手を外し、セシリアの言葉を受け止め、使用人たちの前で彼女の判断を認めた。それは以前のレオナードにはなかった変化だった。
けれど、セシリアはまだ安心しなかった。
大切なのは、一度の言葉ではなく、これから続く行動だ。
自分は完璧な妻にはならない。
好きなように生きると決めた。
その決意を、公爵の少しの変化だけで手放すつもりはなかった。
それでも、帰りの馬車の中で、セシリアはふと思ってしまった。
もし彼が本当に変わるのなら。
もし、自分を婚約者としてだけでなく、一人の人間として見ようとしているのなら。
その時、自分はどうするのだろう。
答えはまだ出なかった。
ただ、レオナードの「君が何を見て、何を考えているのか知りたい」という言葉だけが、いつもより少し長く胸の中に残っていた
グランフォード公爵の婚約者は、幼馴染のリリアナ・ベルク子爵令嬢を前にしても取り乱さない。公爵に愛する方がいると分かっていながら、嫉妬もせず、涙も見せず、むしろ自分も好きなように過ごすと言い切ったらしい。
その噂は、聞く者によってまったく違う意味に変えられた。
ある夫人は、セシリアを賢い令嬢だと言った。公爵家に嫁ぐなら、感情だけで騒ぐ娘より、場の立場を理解して言うべきことを言える女性の方がふさわしいと。
別の令嬢は、セシリアを可愛げがないと言った。婚約者に別の女性が寄り添っているのに平気な顔をしているなんて、よほど公爵に興味がないのだろうと。
そして、リリアナに近い者たちは、セシリアを冷めた令嬢だと言った。
「きっと、公爵様をお慕いしていないのですわ。だからあんなに落ち着いていられるのよ」
「レオナード様もお気の毒ですわね。婚約者から、完璧な妻にはなりませんなんて言われるなんて」
「リリアナ様の方が、ずっと公爵様を大切になさっているのに」
そうした声がセシリアの耳に入ったのは、グランフォード公爵邸で開かれた寄付品の確認会の時だった。
慈善音楽会で集まった寄付金と贈答品の一部を、公爵家が支援する孤児院や施療院へ振り分ける。そのため、関係する貴婦人や令嬢たちが公爵邸へ招かれていた。
セシリアも、婚約者として参加することになっていた。
会場となった公爵邸の広間には、菓子、布地、書物、子ども用の衣服、薬草、学用品などが丁寧に並べられていた。品物の質や量を確認し、どの施設へ送るか決める作業は、見た目よりも細かい配慮が必要になる。布地ひとつでも、孤児院の子ども用に使えるものと、施療院の寝具に回すべきものでは扱いが違う。
セシリアは、一覧表を手にしながら、執事クラウスと確認を進めていた。
「この厚手の布は、孤児院の衣服より施療院の寝具に回した方がよいかもしれません。孤児院には、洗いやすく乾きやすい布の方が扱いやすいでしょう」
「おっしゃる通りでございます。では、こちらは施療院へ回す品に分類いたします」
「子ども用の本は、年齢別に分けてください。文字を覚え始めた子ども向けのものと、ある程度読める子ども向けのものが混ざっております。まとめて送るより、先生役の方が管理しやすい形にした方がよいと思います」
「承知いたしました」
クラウスは、セシリアの指示を丁寧に書き留めた。
その様子を、少し離れた場所から何人もの令嬢が見ていた。中でもリリアナの取り巻きであるカミラ・ロッシュ男爵令嬢と、ジュリア・モント子爵令嬢は、扇を手に寄り添いながら、聞こえるか聞こえないかの声で話している。
「セシリア様は、本当に何でも事務仕事のようになさるのね」
「可哀想な子どもたちのための寄付なのに、情がないように見えてしまいますわ」
「リリアナ様なら、もっと優しく子どもたちの顔を思い浮かべて選ばれるでしょうに」
セシリアは、その声を聞いても顔を上げなかった。
感情を込めて選ぶことと、相手が使いやすいように分けることは別だ。どれほど涙ぐみながら選んでも、届いた先で扱いに困る品を送れば、現場の負担になる。
けれど、そう説明しても、彼女たちは理解したいわけではないのだろう。
セシリアが布地の一覧を確認していると、広間の入口がにわかに華やいだ。
リリアナ・ベルクが来たのだ。
淡い薄桃色のドレスに、小粒の真珠を散らした髪飾り。彼女は今日も可憐で、周囲の令嬢たちが自然と道を空けるほど、場の視線を集めることに慣れていた。
そして、その隣にはレオナードがいた。
正確には、リリアナがレオナードの隣へ寄っているのだろう。彼は客人を出迎えるために広間の入口に立っていたが、リリアナはそこへ近づくと、当たり前のように彼の腕へ手を添えた。
「レオナード様、今日はお招きありがとうございます。私も少しでもお役に立ちたくて参りましたの」
「来てくれたことには礼を言う。だが、品物の確認はセシリア嬢とクラウスが進めている」
「もちろんですわ。セシリア様はとてもお出来になる方ですもの。私は、皆様の気持ちが明るくなるようなお手伝いをいたしますわね」
リリアナはそう言って、レオナードの袖を軽く引いた。
その仕草は親しげで、以前より少し控えめに見える。だが、人前で婚約者以外の女性が公爵の衣服に触れるには、やはり近すぎた。
広間にいた令嬢たちが、またセシリアを見る。
セシリアは、一覧表をクラウスへ渡してから、レオナードたちの方へ歩いた。
「ごきげんよう、リリアナ様。本日もお越しくださりありがとうございます」
「ごきげんよう、セシリア様。私、お邪魔ではありませんか? セシリア様はお仕事がお得意でいらっしゃるから、私のような者がいるとかえってご迷惑かしら」
「いいえ。人手があるのは助かります。ただ、寄付品の分類は送り先に関わる大事な作業ですので、担当を決めて進めた方がよろしいかと思います」
「まあ、担当ですか。セシリア様は本当にきちんとしていらっしゃるのね」
リリアナはにこやかに言ったが、その声にはわずかな棘があった。
「私は、こういう場では気持ちが大切だと思っておりますの。あまり決まりごとばかりでは、温かさがなくなってしまいますでしょう?」
「気持ちは大切ですわ。けれど、送られた先で使えないものを受け取った方は、温かさだけでは困ってしまいます」
リリアナの笑顔が、少しだけ固まった。
カミラがすかさず口を挟んだ。
「でも、セシリア様は少し冷たく聞こえますわ。せっかくの慈善なのですから、もっと優しいお心で選ばれてもよろしいのではありませんか」
「優しい心で選ぶなら、なおさら相手が困らないようにするべきではありませんか」
セシリアは、カミラへ穏やかに答えた。
「孤児院には、管理する方が限られております。施療院にも、手の空いている方ばかりではありません。送る側が満足するためではなく、受け取る側が使いやすいように整えることが、わたくしには必要だと思えます」
カミラは言い返せなかった。
レオナードは、そのやり取りを見ていた。
以前の彼なら、セシリアが淡々と正論を述べる様子を、ただ冷静な令嬢だと思ったかもしれない。だが今は違った。彼女は感情がないのではない。感情を表に飾らないだけで、誰よりも現実に困る人のことを見ている。
リリアナは、少し困ったようにレオナードを見上げた。
「レオナード様、私、何か間違ったことを言ってしまったかしら。皆様に喜んでいただきたいと思っただけなのに」
そう言いながら、リリアナはまたレオナードの腕に指を添えた。
今回は、周囲の目がはっきりとそこへ集まった。
セシリアは、その手元を見てからレオナードへ視線を移した。
レオナードは気づいていた。気づいていて、一瞬迷ったように見えた。
その迷いを見た時、セシリアの胸の奥に小さな諦めが落ちた。
彼は変わろうとしているのかもしれない。けれど、長年許してきた距離を完全に改めるには、まだ覚悟が足りないのだろう。
セシリアは、静かに言った。
「公爵様」
「何だ」
「わたくしは、以前申し上げました。完璧な妻にはなりません、と」
レオナードの顔が引き締まった。
リリアナの指先も止まった。
「公爵様がお好きな方と親しくなさることを、わたくしは感情で責めるつもりはございません。ですが、人前で婚約者ではない令嬢に腕を預け、その方が困った顔をなされば周囲がわたくしを責める。そのような場を作られるのでしたら、わたくしも都合よく黙って見守る役はいたしません」
広間の空気が変わった。
セシリアは声を荒げていない。だが、言葉はまっすぐだった。
「好きなようにさせていただく、とも申し上げました。公爵様がリリアナ様のお気持ちをお守りになるなら、わたくしはわたくしの立場と時間を守ります。今日の分類作業も、婚約者として公爵家の体面を整えるためではなく、寄付先の方々にきちんと届くように進めております。そこを冷たいとおっしゃる方々にまで、完璧な笑顔で応じるつもりはございません」
リリアナの頬が赤くなった。
「セシリア様、私はそのような意味で申し上げたのでは」
「リリアナ様のお気持ちは存じません。ですが、あなたが公爵様の腕に触れながら困った顔をなされば、周囲はわたくしがあなたを責めているように見るでしょう。それを何度も繰り返されるなら、偶然ではなく、意図があると思われても仕方がございません」
カミラとジュリアが、気まずそうに視線を逸らした。
リリアナは、助けを求めるようにレオナードを見た。
だが、今度のレオナードは迷わなかった。
彼はリリアナの手を自分の腕から外した。
「リリアナ、セシリア嬢の言う通りだ。今後、人前で私に触れるのは控えてくれ」
リリアナは、信じられないという顔をした。
「レオナード様まで、そのようなことをおっしゃるのですか」
「私が最初からそう言うべきだった。君に悪気があるかどうかではなく、婚約者がいる男の振る舞いとして正しくなかった」
「私は、ただ昔からの癖で」
「ならば、今日から改めればいい」
レオナードの声には、逃げ道を作らない硬さがあった。
リリアナは何か言いたそうに唇を震わせたが、周囲の視線に気づいて言葉を飲み込んだ。
セシリアは勝ち誇らなかった。
ここでリリアナを追い詰めれば、また「冷たい令嬢」と言われるだけだ。自分がすべきことは、相手に勝つことではなく、線を引いたまま作業を終えることだった。
「リリアナ様。もしお手伝いくださるのでしたら、子ども用の本の分類をお願いできますか。年齢別に分ける必要がありますので、文字の大きさと内容をご確認ください」
リリアナは、屈辱を飲み込むような顔をした。
「私に、分類を?」
「はい。温かい気持ちも、実際に使いやすい形に整えてこそ届くと思いますので」
リリアナは断ることができなかった。
彼女は可憐で優しい令嬢として振る舞っている。ここで寄付品の分類などできないと言えば、周囲の評価が下がるのは自分の方だった。
「分かりましたわ。喜んでお手伝いいたします」
「ありがとうございます」
セシリアは礼をし、クラウスの元へ戻った。
広間の作業は再び動き出した。
マリアは布地の分類を進めていたが、途中で箱の一つを抱え上げた拍子に、中に入っていた子ども用の靴を床へ落としてしまった。乾いた音が広間に響き、周囲の視線が彼女に集まる。
マリアは真っ青になった。
「申し訳ございません、すぐに拾います」
近くにいたカミラが、これ幸いとばかりに眉を上げた。
「まあ、公爵家の侍女ともあろう方が、寄付品を落とすなんて。セシリア様が厳しく分類ばかりなさるから、皆様緊張してしまったのではありませんか」
マリアの顔がさらに青ざめた。
セシリアはすぐに歩み寄り、床に落ちた靴を拾った。小さな革靴だった。傷はない。
「問題ありません。箱の底が少し緩んでいたようです。マリア、あなたが悪いのではありません」
「ですが、私がきちんと持てていれば」
「箱の状態を確認せずに重いものを入れたこちらの手順にも問題がありました。次からは底を補強してから運びましょう」
セシリアはそう言い、クラウスへ視線を向けた。
「クラウス、紐と厚紙を用意していただけますか。重い品を入れる箱は底を二重にした方がよいと思います」
「すぐに手配いたします」
カミラは不満そうに言った。
「セシリア様は、使用人にお優しいのですね」
「失敗の理由を見ずに叱ることは、優しさではなく怠慢だと思います」
セシリアは、落とした靴を丁寧に布で拭いた。
「それに、この靴は子どもに届くものです。誰かを責めるために時間を使うより、きちんと届けるために手を動かした方がよろしいのではありませんか」
その言葉に、広間にいた数人の夫人が頷いた。
ロゼッタがマリアのそばへ行き、箱を一緒に支えた。
「マリア、次からは私も確認します。焦らなくてよろしい」
「はい、ありがとうございます」
マリアは涙をこらえるように頭を下げた。
レオナードは、その光景を見ていた。
セシリアは、冷めた令嬢などではなかった。
彼女は人前で感情を飾らない。甘えるような言葉も使わない。だが、誰かが理不尽に責められそうになれば、すぐに理由を見て庇う。寄付品をただ美しく並べるのではなく、受け取る側の使いやすさを考える。
それを冷たいと言うなら、温かさとは何なのだろう。
レオナードは、自分がこれまでリリアナの分かりやすい優しさに慣れすぎていたことに気づいた。
リリアナは、目の前の相手に可憐な言葉をかけるのがうまい。困った顔をして、助けを求め、相手に自分を守らせるのがうまい。
セシリアは違う。
自分を守らせるのではなく、誰かが傷つかないように自分で動く。
その違いを、レオナードはようやく見始めていた。
作業が終わる頃には、広間の空気は明らかに変わっていた。
最初はリリアナの味方をしていた令嬢たちも、セシリアの段取りのよさと公平さを見て、軽々しく冷たいとは言えなくなっていた。ロゼッタやマリアをはじめとする公爵家の使用人たちは、セシリアへ向ける視線を改めていた。
リリアナは、子ども用の本を分類しながら、何度もレオナードの方を見た。
しかし、レオナードは一度も彼女のそばへ行かなかった。
代わりに、作業後、セシリアの元へ来た。
「今日は助かった」
「必要なことをしただけでございます」
「君は、いつもそう言うな」
「事実ですから」
レオナードは、少しだけ苦笑した。
「マリアを庇ったことも、必要なことか」
「はい。失敗の原因を見ずに責めれば、次も同じことが起こります。箱の底が弱いなら、補強すれば済む話です」
「君は、人を見る時もそうなのか」
「どういう意味でしょう」
「表に出た出来事だけではなく、理由を見ようとする」
セシリアは少し考えた。
「できるだけ、そうありたいとは思っています。もっとも、自分のことになると難しいですが」
「君自身のこと?」
「わたくしが冷めた令嬢と言われる理由も、きっと周囲には表面しか見えていないのでしょう。ですが、それを一人ずつ説明して歩くほど、わたくしは親切ではありません」
レオナードは返事をしなかった。
彼自身もまた、セシリアの表面だけを見ていた一人だったからだ。
その時、リリアナが近づいてきた。
彼女はまだ笑顔を保っていたが、先ほどまでの余裕は薄れている。
「セシリア様、本日は大変勉強になりましたわ。私、慈善とはもっと気持ちを届けるものだと思っておりましたけれど、セシリア様のように事務的に整えることも大切なのですね」
事務的、という言葉をわざと選んだのだろう。
セシリアは穏やかに返した。
「気持ちだけでも、事務だけでも足りませんわ。どちらか一方で済むなら、わたくしたちが集まる必要はございませんもの」
リリアナはまた言葉に詰まった。
レオナードが、そこで口を開いた。
「リリアナ、今日は本の分類を助けてくれて礼を言う。ただ、今後はセシリア嬢の進め方を冷たいと評するのは控えてくれ。結果として、彼女の判断が最も寄付先のためになっていた」
リリアナの顔から、わずかに血の気が引いた。
「私、そのようなつもりでは」
「つもりの問題ではない。聞いている者がいる場では、言葉は意図よりも結果で受け取られる」
レオナードの言葉に、周囲が静かに反応した。
リリアナは、これ以上何も言えなかった。
「承知いたしました。以後、気をつけますわ」
彼女は礼をすると、取り巻きたちの方へ戻っていった。
セシリアは、レオナードを見た。
「公爵様、よろしかったのですか」
「君はすぐにそれを聞く」
「リリアナ様は、公爵様の大切な方なのでしょう」
「大切な幼馴染ではある。だが、君を下げてまで守る相手ではない」
セシリアは、その言葉をすぐには受け取れなかった。
心の奥が少しだけ揺れた。けれど、そこで期待してはいけないと、自分に言い聞かせた。リリアナを注意したからといって、それが愛情に変わるわけではない。
「そうですか」
「それだけか」
「ほかに何と申し上げればよいのでしょう」
「少しは安心したと言ってもいい」
「安心するには、まだ早いと思っております」
レオナードは苦い顔をした。
「君は本当に手厳しい」
「公爵様がこれまで、リリアナ様にお優しすぎたのではありませんか」
「そうかもしれない」
レオナードは否定しなかった。
セシリアは、その返答に少しだけ意外そうに彼を見た。
するとレオナードは、わずかに声を落とした。
「私は、君が好きなようにすると言うたびに落ち着かなくなる」
「公爵様がわたくしを縛る理由はございません」
「そうだな。だが、君が私を選ばない可能性があるのだと、ようやく分かってきた」
セシリアは、何も言わなかった。
レオナードは続けた。
「私は、この婚約が決まれば、君は私の婚約者として隣に立つものだと思っていた。君が私に愛情を求めないなら、離れることもないだろうと、どこかで勝手に考えていた」
「随分と都合のよいお考えですわね」
「返す言葉もない」
レオナードが素直に認めたため、セシリアは少し困った。
彼が言い訳をするなら、いくらでも線を引ける。けれど、こうして認められると、こちらも必要以上に突き放すことが難しくなる。
それでも、簡単には許さない。
まだ始まったばかりなのだ。
「公爵様。わたくしは、この婚約を軽く考えているわけではありません。婚約者として必要な務めは果たします。ですが、完璧な妻にはなりません。都合のよい妻にもなりません。公爵様がわたくしを尊重してくださるなら、わたくしも公爵様を尊重いたします。それだけです」
「それだけ、か」
「はい。それだけのことを、最初からしていただきたかったのです」
レオナードは、その言葉を重く受け止めたようだった。
作業の後、セシリアはマリアから小さな礼を受けた。
「セシリア様、先ほどはありがとうございました。私、あのまま叱られていたら、きっと足がすくんでしまって」
「あなたが悪かったわけではないもの。次から箱の底を確認すればいいだけよ」
「はい。次は必ず確認いたします」
「それで十分よ」
マリアは深く頭を下げた。
少し離れた場所で、ロゼッタもその様子を見ていた。厳格な古参侍女である彼女は、これまでセシリアを慎重に見極めていたが、今日の件で明らかに態度を変えた。
「セシリア様」
「何でしょう、ロゼッタ」
「本日の分類表は、こちらで清書しておきます。次回からは、寄付品の到着時に箱の状態も確認項目に入れます」
「助かります。わたくしも、次回までに孤児院と施療院ごとの必要品をもう少し調べておきます」
「セシリア様がそこまでなさる必要は」
「必要かどうかは、わたくしが決めます」
ロゼッタは少し驚いた後、微笑みに近い表情を浮かべた。
「承知いたしました」
その日の夕方、セシリアが馬車へ向かうと、レオナードが玄関まで見送りに来た。
以前なら、クラウスが行っていたことだった。だが最近のレオナードは、セシリアが帰る時に必ず玄関まで来るようになっている。
「次に公爵家へ来る日は、予定通りでよいか」
「はい。変更があれば、クラウスへお伝えいたします」
「私にも伝えてほしい」
「公爵様にですか」
「君の予定を、クラウスから聞くばかりではなく、君から聞きたい」
セシリアは、少しだけ彼を見上げた。
「では、予定が変わる時はお伝えいたします」
「それから、次の休みに孤児院へ行くのなら、私も同行する」
「公爵様がお越しになる必要はございません。公務もおありでしょうし」
「必要があるかどうかではなく、私が行きたい」
セシリアは、すぐには答えなかった。
レオナードは、少し言葉を探すように続けた。
「君が何を見て、何を考えているのか知りたい。今日、寄付品を分ける君を見て、そう思った」
「公爵様が慈善事業に関心をお持ちなら、歓迎されると思います。ただし、見せるための訪問にはしたくありません」
「分かっている」
「でしたら、孤児院の方々の負担にならないよう、事前に人数と滞在時間を決めます。贈り物も、見栄えではなく必要な品を選んでください」
「君に任せる」
「任せきりにはなさらないでください。公爵様も同行なさるなら、ご自身で考えていただきます」
レオナードは、少しだけ笑った。
「君は、私を甘やかしてくれないな」
「公爵様を甘やかす役は、リリアナ様が十分なさっていたのではありませんか」
言ってから、セシリアは少しだけ言い過ぎたかもしれないと思った。
だが、レオナードは怒らなかった。
「そうだな。だから、私はずいぶん鈍くなっていたのだろう」
セシリアは返事に迷い、結局、丁寧に礼をした。
「本日は失礼いたします」
「ああ。また連絡する」
馬車が動き出すと、セシリアは窓の外を見た。
レオナードは、今日も玄関前で見送っていた。
少しずつ、彼は変わり始めている。
リリアナの手を外し、セシリアの言葉を受け止め、使用人たちの前で彼女の判断を認めた。それは以前のレオナードにはなかった変化だった。
けれど、セシリアはまだ安心しなかった。
大切なのは、一度の言葉ではなく、これから続く行動だ。
自分は完璧な妻にはならない。
好きなように生きると決めた。
その決意を、公爵の少しの変化だけで手放すつもりはなかった。
それでも、帰りの馬車の中で、セシリアはふと思ってしまった。
もし彼が本当に変わるのなら。
もし、自分を婚約者としてだけでなく、一人の人間として見ようとしているのなら。
その時、自分はどうするのだろう。
答えはまだ出なかった。
ただ、レオナードの「君が何を見て、何を考えているのか知りたい」という言葉だけが、いつもより少し長く胸の中に残っていた
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