わたくしを愛さなくて結構です、公爵様

柴田はつみ

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第13章 リリアナの涙

 翌朝、レイン侯爵邸の客室で目を覚ましたセシリアは、しばらく天井を見上げていた。

 いつもの自室ではない。アーヴェル伯爵家の冷たい空気も、お父様が朝食の席で新聞を畳む音も、クラリスが何かを面白がるように笑う声も聞こえない。窓の外からは、庭師が庭木を整える穏やかな音がかすかに届いている。

 昨夜は、思っていたより眠ることができた。

 公爵邸でリリアナがレオナードにすがっていた光景は、まだ胸の奥に残っている。思い出せば苦しくなる。けれど、レイン侯爵邸に来てから、オリヴィア叔母様はセシリアを責めなかった。エドガーも、怒りは見せたが、セシリアの判断を急かさなかった。

 それだけで、心が少し休まったのだと思う。

 テレサが控えめに扉を叩き、朝の支度のために入ってきた。

「お嬢様、お加減はいかがですか」

「大丈夫よ。昨日よりは落ち着いているわ」

「それならよかったです。オリヴィア様が、朝食はお部屋でも食堂でも、お嬢様のお好きな方でよいとおっしゃっていました」

「では、食堂へ伺うわ。叔母様にきちんとお礼を申し上げたいもの」

 セシリアは淡い藤色のドレスに着替えた。派手ではないが、レイン侯爵家の客人として失礼にならない装いだった。髪飾りは小さな銀のものだけにし、鏡の中の自分を確認する。

 顔色は、まだ少し青白い。

 それでも、昨日のように胸が締めつけられる感じは少し薄れていた。

 食堂へ向かうと、オリヴィア叔母様とエドガーがすでに席についていた。二人はセシリアを見ると、いつもと同じように迎えてくれた。昨夜の出来事に触れすぎず、かといって何もなかったように扱うわけでもない。その距離の取り方がありがたかった。

「よく眠れたかしら、セシリア」

「はい。おかげさまで。急に泊めていただいて、本当にありがとうございました」

「礼はいいのよ。あなたが休める場所としてこの家を思い出してくれたなら、それだけで十分です」

 エドガーが、焼きたてのパンをセシリアの皿へ置いた。

「食べられそう?」

「ええ。昨日よりは」

「それなら安心した。公爵からは、朝のうちに使いが来ると思う。昨日、母が会うのは事実を整理してから伝えるはずだから、すぐ押しかけてくることはないはずだ」

「公爵様は、そういうところは守ってくださると思います」

「そこを信じられるなら、まだ完全に見限ってはいないんだね」

 エドガーの言葉は穏やかだったが、核心を突いていた。

 セシリアは、すぐには答えず、紅茶のカップを手に取った。

「見限るかどうかを、今すぐ決められないだけです」

「それでいいと思うよ」

 エドガーは無理に続けなかった。

 オリヴィア叔母様は、セシリアの様子を見ながら静かに言った。

「今日は、あなたがどうするかを決める日ではありません。公爵閣下がどう言うお考えか見る日です。リリアナ嬢の罠だったとしても、公爵閣下が不用意だったことは変わりません。その両方を分けて考えなさい」

「はい、叔母様」

「そして、あなたが傷ついたことも、なかったことにしてはいけません」

 セシリアは、ゆっくり頷いた。

 傷ついたと認めるのは、まだ少し怖かった。けれど、認めなければ、また同じように平気な顔をして公爵家へ通うことになる。それはもうできない。

 完璧な妻にはならない。

 そう言った以上、自分の心を押し殺してまで都合よく笑う必要はなかった。

 その頃、グランフォード公爵邸では、レオナードがリリアナを正式に呼び出していた。

 応接室ではなく、来客用の小会議室だった。広い机を挟み、レオナードの隣にはクラウスが控えている。客人をもてなす場ではなく、事実を確認するための場だと、部屋に入った瞬間に分かるようにしていた。

 リリアナは薄い水色のドレスをまとい、顔色を悪く見せるよう化粧を控えめにしていた。昨日の件で傷ついた令嬢として振る舞うつもりなのだろう。

 だが、レオナードは彼女の涙を見なかった。

「リリアナ。昨日の件について確認する」

「レオナード様、私、本当に具合が悪かっただけですの。セシリア様に誤解されてしまって、私もとても苦しくて」

「まず質問に答えなさい。君は昨日、セシリア嬢の到着時刻を複数の使用人に確認したな」

 リリアナの指先が膝の上でわずかに動いた。

「ご挨拶をしたかっただけですわ。王女殿下の茶会で、少し気まずい思いをさせてしまいましたから」

「そのために、マリアにも、別の侍女にも、到着時刻を聞く必要があったのか」

「私は、ただ」

「次に、応接室の扉だ。クラウスが退出した時、扉は閉まっていた。ロゼッタは、君が一度扉を開けて廊下を確認し、その後、完全には閉めずに戻ったところを見ている」

 リリアナは、すぐに首を振った。

「違います。私、そんなつもりではありませんでした。少し息苦しくなって、廊下の空気を入れたかっただけです」

「昨日、医師は君に大きな異常はないと判断した」

「心の苦しさは、医師には分かりませんわ」

「そうだな。だが、心が苦しいことと、婚約者に誤解させる状況を作ることは別だ」

 リリアナの瞳に涙が浮かんだ。

 以前なら、その涙を見ただけでレオナードは言葉を和らげていたかもしれない。だが、今は違う。涙に流されれば、またセシリアを傷つけることになる。

 リリアナは、震える声で言った。

「レオナード様は、もう私のことを信じてくださらないのですね」

「信じるために、事実を確認している」

「事実、事実とおっしゃいますけれど、私の気持ちはどうなるのですか。私はずっと、レオナード様のおそばにいました。あなたがお疲れの時も、苦しい時も、誰よりも早く気づいてきました。それなのに、今はセシリア様のお言葉ばかり信じて」

「セシリア嬢の言葉ばかりを信じているのではない。君の行動を確認している」

「私が悪いとおっしゃるのですか」

「昨日の件については、君が意図的に状況を作ったと判断している」

 リリアナの顔から、血の気が引いた。

 彼女は震える唇で、必死に笑みを作ろうとした。

「ひどいですわ、レオナード様。私がそんな卑しいことをする女だとお思いなのですか」

「思いたくはなかった」

 レオナードの声は低かった。

「だが、私はこれまで、君に甘すぎた。君が私のそばにいることを当然のように許し、周囲がどう見るかを考えず、君にも誤解を与えた。その責任は私にある。だが、だからといって、君がセシリア嬢を傷つけていい理由にはならない」

「私は、セシリア様を傷つけるつもりなど」

「ならば、なぜ彼女の到着に合わせて私にすがった」

 リリアナは言葉を失った。

 クラウスが机の上に一枚の紙を置いた。

「こちらは、昨日の使用人たちの証言をまとめたものでございます。リリアナ様がセシリア様の到着時刻を確認されたこと、扉が開いたままになっていたこと、そして体調不良を訴えられた後、医師が大きな異常なしと判断したことを記しております」

 リリアナは、その紙を見ようとしなかった。

 レオナードは続けた。

「今後、君が公爵邸へ来る場合は、必ず事前の約束を必要とする。執務室、書類室、私的な区画への立ち入りは認めない。応接室で会う場合も、必ずクラウスかロゼッタを控えさせる」

「まるで、罪人のように扱うのですね」

「婚約者を傷つける罠を仕掛けた疑いがある以上、当然の対応だ」

「疑い、ですか。では、まだ決めつけてはいないのですね」

 リリアナはそこに逃げ道を見つけたように顔を上げた。

 だが、レオナードは静かに言った。

「君が認めなくても、私は同じ対応を取る」

 その言葉で、リリアナの表情が崩れた。

「どうして……どうしてそこまでセシリア様を大切になさるのですか。あの方は、あなたを愛しているとは言わないのでしょう? 完璧な妻にもならない、好きなように生きるとおっしゃるのでしょう? 私なら、あなたのおそばにいます。あなたが望むなら、いつだって」

「リリアナ」

 レオナードは、彼女の言葉を遮った。

「私は、私に合わせて自分を消す女性を望んでいるわけではない」

 リリアナの瞳が揺れた。

「君が私のそばにいた時間が長いことは事実だ。私がそれを曖昧に許してきたことも事実だ。だが、私は君を妻に選ばなかった。そして、これからも選ばない」

「そんな」

「君が私の優しさを、自分の立場を示すために使うなら、私はその優しさごと改める」

 リリアナは、ぽろぽろと涙をこぼした。

 けれど、レオナードは席を立って慰めには行かなかった。

 クラウスに視線を向ける。

「ベルク子爵家へ馬車の準備を。リリアナ嬢の体調が悪いようなら、医師を同行させる」

「承知いたしました」

「レオナード様」

 リリアナは、泣きながら立ち上がった。

「私は、ずっとあなたを大切に思っていました。あなたが孤独だった時も、私だけはそばにいたのに」

「そのことには感謝している」

「感謝では足りませんわ」

「感謝以上のものを、私は君に渡せない」

 リリアナは、その言葉を受けた瞬間、涙に濡れた顔の奥に強い悔しさを浮かべた。

 彼女は深く礼をした。

「分かりましたわ。今日は失礼いたします」

 声は震えていたが、完全には折れていない。

 リリアナが部屋を出ていくと、クラウスは静かに扉を閉めた。

 レオナードは椅子に座ったまま、しばらく机の上の証言書を見ていた。

「クラウス」

「はい」

「この内容を、セシリア嬢へ届ける。私の謝罪文も添える」

「承知いたしました」

「ただし、会いたいとは書かない。彼女が会えると思えるまで待つ」

 クラウスは、ほんの少しだけ表情を和らげた。

「その方がよろしいかと存じます」

 レオナードは深く息を吐いた。

「私は、また遅れたのだな」

「閣下」

「昨日、リリアナがセシリア嬢の到着時刻を気にしていると知った時点で、会うべきではなかった。会うとしても、クラウスを同席させるべきだった。私は分かっていたつもりで、まだ甘かった」

「お気づきになったのであれば、次に変えられます」

「次があれば、だ」

 その言葉には、レオナード自身の不安がにじんでいた。

 セシリアが次をくれる保証はない。

 だからこそ、言葉だけでは足りない。行動を重ねるしかなかった。

 一方、レイン侯爵邸では、セシリアがオリヴィアと共に、公爵家から届いた証言書を読んでいた。

 そこには、昨日の出来事が簡潔にまとめられていた。

 リリアナがセシリアの到着時刻を複数回確認していたこと。

 応接室の扉を一度開け、廊下を確認していたこと。

 扉が完全には閉められていなかったこと。

 体調不良について医師が大きな異常なしと判断したこと。

 今後、リリアナの公爵邸への出入りには制限を設けること。

 そして、最後にレオナードの手紙が添えられていた。

 君が見たものは、私が作ったものではない。だが、私が防げたはずのものだった。

 リリアナが君の到着時刻を気にしていると知りながら、私は十分な対策を取らなかった。

 君が信じるための材料を渡せなかったことを、言い訳するつもりはない。

 今後、同じことを起こさないために、リリアナとの距離を明確に改める。

 会いたいとは、今は言わない。君が会えると思えるまで、私は行動で示す。

 セシリアは、その手紙を読み終えた後、しばらく何も言わなかった。

 オリヴィアは、セシリアに考える時間を与えるように、隣で静かに茶を飲んでいた。

「叔母様」

「何かしら」

「公爵様は、今回はきちんと動いてくださったのですね」

「そうね。少なくとも、自分の言い訳より先に、事実と対策を示したのは悪くないわ」

「悪くない、ですか」

「ええ。けれど、それであなたがすぐ許す必要はありません」

 セシリアは頷いた。

「はい。まだ許せません。けれど、手紙を読んで、少しだけ呼吸が楽になりました」

「それは、信じるための材料が一つ届いたからでしょう」

 セシリアは、手紙をそっと畳んだ。

 レオナードは、言い訳をしなかった。

 自分は悪くないとも、リリアナだけが悪いとも書かなかった。防げたはずだったと認め、二度と起こさないための対応を示した。

 それは、セシリアが求めていたものに近かった。

 それでも、胸の痛みが消えたわけではない。

 昨日見た光景は、まだ残っている。

「叔母様。わたくし、公爵様に返事を書きます」

「会うの?」

「いいえ。まだ会いません」

「それでいいわ」

 セシリアは机に向かい、便箋を広げた。

 言葉を選びながら、丁寧に書いていく。

 証言書とご対応について、確かに拝見いたしました。

 公爵様が事実を整え、今後の対策を示してくださったことには感謝いたします。

 ですが、昨日わたくしが見た光景と、その時に受けた傷がすぐに消えるわけではございません。

 しばらくは、公爵邸への訪問を控えさせていただきます。

 支援に関する確認は、クラウスを通じて進めます。

 公爵様の今後のお考えと行動を、少し離れた場所から見せていただきます。

 書き終えると、セシリアは封をした。

 オリヴィアが頷いた。

「よく書けているわ。冷たすぎず、甘すぎず、あなたの傷もきちんと伝わる」

「伝わるでしょうか」

「伝えるのよ。相手が受け取るかどうかは、相手の責任です」

 セシリアは、その言葉に背中を押されるように、手紙を使いに託した。

 その頃、ベルク子爵家では、リリアナが自室で母ダリアに泣きついていた。

 ダリア・ベルク夫人は、娘の話を聞きながら、扇を強く握っていた。優雅な夫人として社交界では知られているが、今の顔には計算高さがはっきり出ていた。

「レオナード様が、私を遠ざけるとおっしゃったのです。公爵邸へ行くにも約束が必要だなんて。まるで私が悪者のように」

「あなた、やり方を急ぎすぎたわね」

「お母様まで、私を責めるのですか」

「責めているのではありません。相手を見誤ったと言っているのよ。セシリア様は、ただ泣いて身を引く令嬢ではなかった。そしてレオナード様も、思ったより早く態度を改め始めている」

 リリアナは涙を拭い、悔しそうに唇を噛んだ。

「では、どうすればよろしいのですか。このままでは、セシリア様が本当に公爵夫人になってしまいます」

「まだ婚約者でしょう」

「でも、レオナード様は私を選ばないとおっしゃいました」

 ダリアは、そこで冷たく笑った。

「男の言葉は、状況で変わるものです。それに、セシリア様本人を動かせないなら、別のところを動かせばいいのよ」

「別のところ?」

「アーヴェル伯爵です」

 リリアナは顔を上げた。

 ダリアは扇を開き、ゆっくりと言った。

「セシリア様のお父様は、公爵家との縁を何より大切にしているはず。娘が公爵様に強く出すぎている、このままでは婚約が壊れるかもしれない。そう伝えれば、必ず焦るでしょう」

「お父様を使って、セシリア様を抑えるのですね」

「使うなどと言ってはいけません。助言するのです。公爵家との縁を守るために、娘を少し大人しくさせた方がよい、と」

 リリアナの目に、再び光が戻った。

「セシリア様は、お父様には逆らいにくいのでしょうか」

「貴族の娘は、家に逆らいにくいものです。ましてや政略結婚ならなおさらよ」

 ダリアは、娘の頬にそっと触れた。

「泣くのは、人を選びなさい。レオナード様にはもう効きにくくなったのなら、次はアーヴェル伯爵に訴えるのです。可哀想なあなたを見せる相手を変えればいいだけよ」

 リリアナはゆっくり頷いた。

「分かりましたわ、お母様」

 その声には、まだ涙の名残があった。

 けれど、その奥には別の感情が混じっていた。

 セシリアを直接動かせないなら、セシリアを縛る家を使う。

 そう決めたリリアナは、再び可憐な笑みを取り戻していた。

 その夜、レイン侯爵邸でセシリアは、レオナードから届いた証言書をもう一度読み返していた。

 許せない気持ちは、まだある。

 けれど、公爵が逃げずに事実を整えたことも分かった。

 レオナードを完全に信じるには、まだ早い。

 しかし、彼がリリアナの涙を以前のようには受け入れなかったことは、確かな一歩だった。

 セシリアは、便箋を箱にしまった。

 自分は完璧な妻にはならない。

 傷ついても笑って戻る婚約者にもならない。

 けれど、相手が本当に行動で示すなら、その事実だけは見落とさずにいたい。

 そう思った時、廊下の向こうから、オリヴィアが使用人に何かを指示する声が聞こえた。

 お父様から、明日には帰るようにとの使いが来たらしい。

 セシリアは静かに心を落ち着かせた。

 公爵邸の問題だけでは終わらない。

 次に向き合うべき相手は、きっとお父様だ。

 自分を家の道具として扱う人に、今度こそ何を言うべきなのか。

 セシリアは、その答えを考えながら、膝の上で手を重ねた。

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