わたくしを愛さなくて結構です、公爵様

柴田はつみ

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第14章 お父様への告げ口

 リリアナ・ベルクが次に選んだのは、レオナードに泣きつくことではなかった。

 それはもう効かない。

 公爵邸で涙を見せても、レオナードは以前のように慰めてくれなかった。体調が悪いと訴えても、彼は自分で駆けつけず、医師と侍女を呼んだ。セシリアに見せつけるために作った場面も、すぐに使用人たちの証言で形を崩された。

 ならば、今度は別の場所から崩せばいい。

 セシリア本人を動かせないなら、セシリアを縛っている家を動かす。

 そのために、リリアナは母ダリアと共に、アーヴェル伯爵家を訪れた。

 応接室へ通されたダリアは、品のよい微笑みを浮かべていた。リリアナはその隣で、少し顔色を悪く見せるように座っている。目元は赤く、声は弱々しく、けれど身なりは乱れていない。哀れに見えるぎりぎりの美しさを保つことを、彼女はよく知っていた。

 アーヴェル伯爵セシリアのお父様は、突然の訪問に最初こそ怪訝な顔をしたが、グランフォード公爵家と長く親しいベルク家の夫人だと聞くと、すぐに態度を改めた。

「ベルク子爵夫人。本日はどのようなご用件でしょうか」

 ダリアは、申し訳なさそうに視線を伏せた。

「突然の訪問をお許しくださいませ、アーヴェル伯爵様。実は、セシリア様のことで、少し気がかりなことがございまして」

「セシリアのことですか」

 お父様の声がわずかに硬くなった。

 ダリアはその変化を見逃さなかった。

「ええ。もちろん、差し出がましいことは承知しております。ですが、グランフォード公爵家とは長く親しくさせていただいておりますし、レオナード様のことも幼い頃から存じ上げております。だからこそ、今の状況が少し心配なのです」

「娘が、公爵家に何か失礼をいたしましたか」

「失礼とまでは申しませんわ。ただ、セシリア様は大変ご聡明で、物事をはっきりおっしゃる方でいらっしゃいますでしょう。最近では、レオナード様にも『完璧な妻にはならない』とお伝えになったとか」

 お父様の眉が動いた。

「その話は聞いております」

「そうでしたか。私どもは、セシリア様のご立派さを疑っているわけではございません。ただ、レオナード様は責任感の強い方です。婚約者に強く出られれば、ご自分が悪いのだと抱え込んでしまうところがおありですの」

 ダリアの声は、あくまで心配そうだった。

「リリアナも、昔からレオナード様を気にかけておりました。あの方がお仕事で無理をなさる時も、体調を崩しそうな時も、誰より早く気づいておりましたの。ですが最近は、リリアナが公爵様に近づくことを、セシリア様が快く思っていらっしゃらないようで」

「近づく、とは」

「幼馴染として、心配していただけですわ。けれど、セシリア様にはそれが不快に映ってしまったようなのです」

 リリアナは、そこで小さく息を震わせた。

「私が悪いのです、アーヴェル伯爵様。私が昔からレオナード様と親しかったせいで、セシリア様を不安にさせてしまったのだと思います」

 お父様は、初めてリリアナをはっきり見た。

 リリアナはすぐに顔を伏せた。泣く直前のように見せながら、涙はまだ落とさない。相手に「泣かせてしまった」と思わせるには、それが一番効くと分かっていた。

「あなたが、リリアナ嬢ですか」

「はい。レオナード様とは幼い頃から親しくさせていただいております。ですが、私はセシリア様から何かを奪いたいわけではございません。ただ、レオナード様に幸せでいてほしいだけなのです」

 言葉だけ聞けば、健気な幼馴染だった。

 けれどその言葉は、お父様の中にひとつの形を作った。

 セシリアが、公爵の昔からの親しい令嬢を追い出そうとしている。

 セシリアが、公爵を縛ろうとしている。

 セシリアが、公爵家との縁を危うくしている。

 ダリアは、それを確かめるように続けた。

「もちろん、セシリア様が婚約者でいらっしゃることは承知しております。けれど、あまりに公爵様へ強く出られると、レオナード様のお心も疲れてしまうのではないかと心配で」

「それは困りますな」

 お父様の声には、はっきりとした不快感がにじんだ。

 娘が傷ついているかどうかではない。

 公爵家との縁が揺らぐかどうか。

 お父様にとって重要なのは、そこだった。

 リリアナは弱々しく微笑んだ。

「私、セシリア様を責めたいのではありません。あの方は正しくて、立派で、私のように感情で動く女ではありませんもの。ただ、レオナード様が苦しんでいるように見えるのがつらくて」

「公爵が苦しんでいる?」

「はい。セシリア様に信じていただけないのではないかと、とてもお悩みのようでした」

 実際には、レオナードはセシリアに信じてもらうために行動を整えている最中だった。

 だが、リリアナは事実の一部だけを切り取り、都合よく並べた。嘘ばかりではない。だからこそ、聞く側は信じやすい。

 お父様は低く言った。

「娘には、私から話しておきましょう」

 ダリアは安堵したように微笑んだ。

「ありがとうございます。セシリア様も、お父様のお言葉ならお聞きになるでしょうから」

「当然です。セシリアはアーヴェル伯爵家の娘です。家のためにどう振る舞うべきか、よく分からせます」

 リリアナは、うつむいたまま、誰にも見えない角度で唇を緩めた。

 その日の夕方、レイン侯爵邸で休んでいたセシリアのもとへ、アーヴェル伯爵家から使いが来た。

 お父様からの手紙には、今日中に戻るようにとだけ書かれていた。短い文面だったが、そこに怒りが含まれていることはすぐに分かった。

 セシリアが手紙を読み終えると、オリヴィア叔母様が静かに尋ねた。

「戻るの?」

「はい。いつまでも避けるわけにはいきません」

「一人で行く必要はありません。私も行きます」

 横にいたエドガーもすぐに立ち上がった。

「私も同行する」

「エドガー様まで」

「セシリアが一人で戻れば、伯爵は強く出るでしょう。私たちがいれば、少なくとも一方的に責められる場にはならない」

 セシリアは、少し前の自分なら断っていたと思った。

 迷惑をかけたくない。家のことに巻き込みたくない。自分一人で何とかしなければならない。

 そう考えて、結局いつも一人で耐えてきた。

 けれど今は、そうしなくてもいいのだと少しずつ学んでいる。

「ありがとうございます。では、ご一緒していただけますか」

「もちろんよ」

 オリヴィア叔母様は穏やかに頷いた。

 アーヴェル伯爵家へ戻ると、応接室にはお父様が待っていた。

 継母のミレーヌと異母妹のクラリスも同席している。クラリスは不安と好奇心が混じった顔でこちらを見ていた。ミレーヌは、何か大事になる前に収まってほしいという表情をしている。

 お父様は、オリヴィア叔母様とエドガーが一緒に入ってきたことに、あからさまに眉を寄せた。

「セシリア。なぜレイン侯爵夫人とエドガー殿まで一緒なのだ」

 セシリアは丁寧に礼をした。

「昨夜、体調を崩したわたくしを叔母様が預かってくださいました。そのお礼も兼ねて、ご一緒いただきました」

「家の話に外の者を入れる必要はない」

 オリヴィア叔母様は、穏やかな微笑みを浮かべた。

「伯爵様。私はセシリアの叔母です。外の者と言い切られるのは、少し寂しいですわね」

 お父様は返答に詰まった。

 レイン侯爵家はアーヴェル伯爵家より格が上だ。お父様も、オリヴィア叔母様を無下にはできない。

「まあよい。セシリア、お前に聞きたいことがある」

「はい」

「グランフォード公爵に対して、ずいぶん強く出ているそうだな。リリアナ嬢を遠ざけ、公爵を縛ろうとしているとも聞いた」

 セシリアは、その時点で理解した。

 リリアナが動いたのだ。

 しかも、自分ではなく、お父様を使って。

「それは、どなたからお聞きになったのですか」

「誰からでもよい。問題は、お前の振る舞いだ」

「いいえ、重要です。噂をもとにわたくしを責めるのであれば、その噂を誰が、どのようにお父様へ伝えたのか確認する必要がございます」

 お父様の顔が険しくなった。

「口答えをするな」

「口答えではありません。事実確認です」

 クラリスが小さく息をのんだ。

 セシリアがお父様にここまではっきり言い返すことは、これまでほとんどなかった。

 お父様は声を強めた。

「お前は公爵家との縁を何だと思っている。公爵の幼馴染だという令嬢を少し大目に見ることもできないのか。お前が意地を張れば、婚約が壊れるかもしれないのだぞ」

 セシリアは、胸の中で静かに息を整えた。

 以前なら、この声だけで言葉を飲み込んでいた。お父様を怒らせないように頷き、自分が我慢すれば済むのだと考えていた。

 けれど、もう同じではいられない。

「お父様。わたくしは、公爵様の婚約者です」

「だからこそ、大人しく」

「誰かに席を譲るために婚約したわけではございません」

 応接室の空気が張りつめた。

 お父様は、信じられないものを見るようにセシリアを見た。

「セシリア」

「リリアナ様は、長く公爵様のおそばにいらした方です。それは事実でしょう。ですが、公爵様には今、婚約者がいます。人前で距離を間違え、わたくしに誤解を与える状況を作り、それでも幼馴染だから大目に見ろと言われるなら、わたくしの立場は何なのでしょうか」

「女同士のくだらぬ嫉妬で、家の縁を壊すなと言っている」

「嫉妬ではありません。婚約者としての敬意の問題です」

 セシリアの声は震えなかった。

「わたくしは、公爵様に愛情を求めないと申し上げました。けれど、婚約者として軽んじられることまで受け入れるとは言っておりません」

「お前が受け入れるかどうかなど関係ない。これは家の婚約だ」

 その言葉に、セシリアの胸の奥で何かが冷たく固まった。

 やはり、お父様にとって自分は道具なのだ。

 家と家を結ぶために差し出すもの。公爵家との縁を保つために、いくらでも我慢させてよいもの。

 オリヴィア叔母様が口を開きかけたが、セシリアは自分で答えた。

「お父様にとって、わたくしは家のための道具かもしれません」

「何を」

「ですが、わたくしは人です。痛みもあれば、考えもあります。公爵家との縁を守るために、わたくしだけが何度も傷つけられることを当然だとは思えません」

 お父様は立ち上がった。

「セシリア、お前は自分が何を言っているのか分かっているのか」

「はい。初めて、分かった上で申し上げております」

 その時、応接室の扉が開いた。

 入ってきたのはノアだった。

「お父様、姉様を責めないでください」

 セシリアは驚いて振り向いた。

「ノア」

 ノアは少し青ざめていたが、それでもまっすぐお父様を見ていた。

「姉様は、ずっと我慢してきました。お父様の言う通りにして、公爵様との婚約も受けました。でも、婚約者なのに別の女性に席を譲れなんて、おかしいです」

「ノア、お前は黙っていなさい」

「黙りません。姉様ばかりが我慢する家なら、僕はこの家を継ぎたくありません」

 お父様の顔色が変わった。

 跡取りであるノアが、家を継ぎたくないと言った。その意味は、セシリアの反抗よりも大きかった。

 ミレーヌが慌てて口を挟んだ。

「ノア、何を言うの。お父様にそのような」

「お母様も、姉様がいつも我慢していることを知っているはずです」

 ミレーヌは言葉に詰まった。

 クラリスは不安そうに視線を泳がせている。

 オリヴィア叔母様は、静かにセシリアとノアを見守っていた。エドガーは何も言わない。けれど、その存在がセシリアの背を支えてくれていた。

 お父様は、怒りを押し殺すように言った。

「今日のところは、これ以上話しても無駄だ。セシリア、お前は自室で頭を冷やせ。公爵家への返事は私が考える」

「公爵様への返事は、わたくしがいたします」

「まだ逆らうか」

「婚約者はわたくしです。お父様ではありません」

 お父様は怒りで顔を赤くした。

 そこで、オリヴィア叔母様が穏やかに口を開いた。

「伯爵様。今日のセシリアは疲れています。これ以上は、どちらにとってもよい話にはなりませんわ。ですが、ひとつだけ。セシリアを無理に公爵家へ戻そうとすれば、かえって婚約は危うくなるでしょう」

「脅すおつもりか」

「助言です。ベルク子爵家から何を聞かれたのかは存じません。ですが、セシリアが公爵家で何を見せられ、どのような対応をされたのか、公爵家側はすでに証言を整えています。事実を確認せずに娘だけを叱れば、伯爵様の判断の方が疑われます」

 お父様は言葉を失った。

「公爵家側が、証言を?」

 セシリアは静かに答えた。

「はい。リリアナ様がわたくしの到着時刻を何度も確認していたこと。応接室の扉を開けていたこと。医師が大きな異常なしと判断したこと。すべて書面で届いております」

 お父様の表情が揺れた。

 自分が聞かされた話と、まったく違う形がそこにあったからだ。

「なぜ、それを先に言わない」

「お父様が、誰から聞いた話なのかも明かさず、わたくしを責めることから始められたからです」

 その返しに、お父様はまた黙った。

 ノアが小さくセシリアのそばへ寄った。

「姉様、大丈夫ですか」

「ええ。ありがとう、ノア」

 セシリアは弟にそう言ってから、お父様へ向き直った。

「お父様。わたくしは、婚約を壊したいわけではありません。ですが、わたくしだけが我慢することで形を保つ婚約なら、続ける意味を考えます」

「セシリア」

「公爵様は今、事実を整え、行動を示そうとしてくださっています。ならばわたくしも、感情だけで決めるつもりはありません。ですが、お父様がリリアナ様側の言葉だけを信じて、わたくしを押し戻そうとされるなら、わたくしは従えません」

 応接室にいる誰も、すぐには言葉を発しなかった。

 お父様は、初めて見る娘の姿に戸惑っているようだった。

 従順で、感情を出さず、家のために動く娘。

 それが、お父様の知っているセシリアだった。

 けれど今、セシリアは自分の言葉で立っている。

 完璧な娘でも、完璧な婚約者でもなく、一人の人間として。

 やがて、お父様は低く言った。

「……下がれ。今日はもうよい」

「失礼いたします」

 セシリアは深く礼をした。

 ノアも一緒に部屋を出ようとしたが、お父様に呼び止められた。

「ノア、お前は残りなさい」

 ノアは一瞬だけ迷ったが、セシリアが小さく頷くと、その場に残った。

 セシリアが廊下に出ると、エドガーがすぐに隣へ来た。

「よく言った」

「手が震えていないでしょうか」

「震えていないよ」

 オリヴィア叔母様も、優しく微笑んだ。

「立派だったわ。けれど、立派でいようとしすぎなくていいのよ。部屋へ戻ったら、少し休みなさい」

「はい、叔母様」

 セシリアは、自室へ向かいながら、胸の奥に残る熱を感じていた。

 怖くなかったわけではない。

 お父様に逆らうことは、今でも怖い。

 けれど、言えた。

 自分は道具ではない。誰かに席を譲るために婚約したわけではない。公爵の婚約者は自分であり、返事をするのも自分だと。

 その言葉を口にできたことが、セシリアの中で小さな支えになっていた。

 その夜、ベルク子爵家では、リリアナが母ダリアから報告を聞いていた。

 ダリアは少し不機嫌そうだった。

「アーヴェル伯爵は動いたけれど、思ったほど簡単ではなかったようね」

「セシリア様が逆らったのですか」

「ええ。しかも、レイン侯爵夫人とエドガー様がそばにいたそうよ。さらに、弟のノアまでセシリア様をかばったとか」

 リリアナの顔が歪んだ。

「どうして皆、セシリア様の味方をするのですか」

「セシリア様が、味方を作り始めているからでしょう」

 ダリアの声は冷静だった。

「公爵家の使用人、王女殿下、レイン侯爵家、弟君。少しずつ、あの方の周りが固まり始めているわ」

「そんなの、許せません」

「ならば、次はもっと大きなものを動かすしかないわね」

「大きなもの?」

 ダリアは扇を開いた。

「公爵家の名よ」

 リリアナは息を止めた。

 ダリアはゆっくりと言った。

「私たちがグランフォード家と長く親しいことは、社交界の誰もが知っています。その名を上手く使えば、まだ打てる手はあるわ」

 リリアナの瞳に、暗い光が戻った。

 レオナードに拒まれた。

 セシリアのお父様を動かしても、思ったほど崩れなかった。

 ならば、次はもっと強い手を使う。

 公爵家の名を利用することが、どれほど危険か。

 その時のリリアナは、まだ分かっていなかった。

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