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最終章 選び直す婚約
レオナードと少し距離を置くと決めた翌朝、セシリアはいつもより早く目を覚ました。
レイン侯爵邸の客室には、薄い朝の光が差し込んでいた。夜の間に雨が降ったらしく、窓硝子には細かな水滴が残り、庭の小道はしっとりと色を深めている。温室の硝子屋根から落ちる雫が、時折、石畳の上で小さな音を立てていた。
静かな朝だった。
けれど、セシリアの胸の内は穏やかとは言い切れなかった。
昨日、レオナードに言った。
少しだけ、時間をください。
公爵様を選ばないための時間ではありません。わたくしが、わたくしの意思で公爵様の隣に立てるかを、確かめるための時間です。
そう言った時、レオナードは引き留めなかった。本当は引き留めたいと正直に言いながら、それでもセシリアの選択を奪いたくないと受け入れてくれた。
その誠実さに、胸は温かくなった。
だからこそ、今朝の部屋が少し広く感じられた。
レオナードは来ない。
そう決めたのは自分だ。私的な訪問は控えると二人で確認した。次に会いたいと思った時は、セシリアから手紙を出すことになっている。
だから今日は、レオナードは来ない。
そのはずなのに、廊下で足音がするたび、ほんのわずかに耳がそちらへ向いてしまう。従僕が来客を告げる声が聞こえないかと、気づかないふりをしながら待ってしまう。
自分で距離を求めたのに、来ないことを寂しいと思っている。
その矛盾が、セシリアを困らせた。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
テレサが控えめに声をかけ、朝の支度のために部屋へ入ってきた。腕の包帯はもう外れているが、セシリアはまだその腕を見るたびに事故の瞬間を思い出す。テレサは何も言わず、いつものようにカーテンを開け、湯を用意し、肩に負担がかからないように上着を選んでくれた。
「今日は、少し早く目が覚めてしまったの」
「お痛みはございますか」
「肩は少し重いくらい。手首も昨日より楽よ」
「では、朝食のあとに医師の診察を受けていただきますね。楽になった時ほど、無理をなさいますから」
「最近のあなたは、本当に遠慮がなくなったわ」
「お嬢様が、私に遠慮を許してくださらなくなったからです」
そう返され、セシリアは小さく笑った。
以前なら、テレサはここまで踏み込まなかった。主人が大丈夫と言えば、それ以上は尋ねなかった。けれど今は違う。大丈夫という言葉の裏に痛みや不安が隠れていないか、きちんと見ようとしてくれる。
セシリア自身も、前のようには隠さなくなった。
完全に大丈夫ではない時は、今は平気と答える。怖くないとは言えない時は、少し怖いと言う。その小さな言い換えが、自分を守る方法になるのだと、最近ようやく分かってきた。
朝食を終える頃、玄関の方で馬車の音がした。
車輪が石畳を渡る音。馬が鼻を鳴らす音。御者の低い声。
セシリアの手が、膝の上でわずかに止まった。
すぐにテレサが気づく。
「お嬢様」
「大丈夫……ではなくて、今は平気よ」
そう言い直してから、セシリアは自分の胸の動きを確かめた。
怖い。
けれど、昨日ほどではない。
音が近づいてきた時は体が反応したが、扉の向こうで従僕たちが動き、来客の名前を告げる声が聞こえると、それがレイン侯爵家の取引先の馬車だと分かった。
レオナードではない。
その瞬間、胸の奥に、安堵とは違う感情が落ちた。
少しだけ、残念だった。
セシリアは、そのことに気づいて視線を落とした。
来てほしいと望んだわけではない。昨日、自分から距離を求めた。だから、彼が来ないのは当然だ。それなのに、違う馬車だと分かった途端、胸の奥が軽く沈む。
こんなにも自分の心は、思い通りにならない。
「お嬢様、温かいお茶を淹れ直しましょうか」
テレサは、余計なことを言わなかった。
「お願い」
セシリアは素直に答えた。
午前中は、オリヴィア叔母様とともに礼状の確認をした。
リリアナの処遇について、王宮と各家から控えめな見舞いや確認の文が届いていた。表向きは、セシリアの体調を案じる言葉が並んでいる。けれど、その行間には、ベルク家との今後の距離を探る貴族たちの気配があった。
社交界は、やはり静かにはしてくれない。
リリアナは療養に入る。カミラも社交を控える。ロッシュ男爵家もベルク子爵家も、以前のようには振る舞えないだろう。セシリアは被害者として同情され、同時に、グランフォード公爵家に正式に選ばれつつある令嬢として注目される。
その視線を想像すると、少し胸が詰まる。
けれど、以前のようにすべてを完璧に受け止めなければならないとは思わなかった。
「疲れた?」
オリヴィア叔母様が尋ねた。
「少しだけ」
「では、ここまでにしましょう」
「まだ半分ほど残っています」
「残りは午後でも明日でも構わないわ。あなたが倒れてまで返す礼状など、何の意味もありません」
その言い方が少しおかしくて、セシリアは微笑んだ。
「叔母様は、はっきりおっしゃいますね」
「遠回しに言っても、あなたは無理をするでしょう」
「最近は、そうでもありません」
「なら、なおさら休めるわね」
オリヴィア叔母様は、茶器を手に取り、当然のように話を終わらせた。
セシリアは逆らわなかった。
午後になっても、レオナードは来なかった。
もちろん、来るはずがない。
それでも、従僕が扉を叩くたび、胸のどこかが反応する。手紙だろうか。公爵家からの伝言だろうか。そう思ってしまう。
けれど届いたのは、レイン侯爵家の仕立て屋からの伝票や、アーヴェル家からの果物、ノアからの短い見舞いの文だった。
レオナードからは、何もない。
その何もないことが、約束の形なのだとセシリアは分かっていた。
分かっているのに、寂しい。
夕方近く、雨が上がった庭に薄い光が差した。
セシリアは、小応接室の窓辺に座っていた。肩掛けを羽織り、膝の上には読みかけの本を置いている。文字を追おうとしても、内容はなかなか頭に入らなかった。
庭の向こう、馬車寄せの方で車輪の音がした。
セシリアの体が、反射的にこわばる。
今度の音は、少し近かった。濡れた石畳の上を車輪がゆっくり進む音が、いつもより重く響く。馬の足音。御者の掛け声。屋敷の者が扉を開ける気配。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
テレサはすぐにそばへ来た。
「お嬢様、こちらへ」
「いいえ」
セシリアは、少しだけ首を振った。
「このまま聞いてみるわ」
「ご無理はなさらないでください」
「無理ではないの。ただ、少しだけ……最後まで聞いてみたいの」
テレサは、それ以上止めなかった。
セシリアは窓の外を見ずに、音だけを聞いた。馬車が止まる。誰かが降りる。従僕が声をかける。やがて、車輪の音が遠ざかっていく。
怖かった。
けれど、逃げずに聞けた。
セシリアは、膝の上で左手を重ねたまま、ゆっくり息を吐いた。
その時、思い出したのはレオナードの声だった。
怖い時は、怖いと言っていい。
今の音が怖かったか、と尋ねた時の、彼の抑えた声。勝手に手を伸ばさず、答えを待ってくれた眼差し。ここにいよう、何も決めなくていいと言ってくれたこと。
その記憶が、胸の奥を静かに満たした。
そばにいてほしい。
ふいに、そう思ってしまった。
レオナードに会いたい。
そうはっきり思った瞬間、セシリアは自分でも驚いた。
昨日は距離が必要だと思った。
それは今も変わらない。急いで隣に戻ることはできない。すべてを許したわけではない。信じたい気持ちと、まだ信じきれない痛みは、同じ胸の中にある。
けれど、今この瞬間、馬車の音を聞き終えた自分は、レオナードに伝えたいと思っている。
怖かったこと。
けれど、最後まで聞けたこと。
そして、会いに来ない優しさが、少し寂しかったこと。
「テレサ」
「はい」
「便箋を用意してくれる?」
テレサの表情が、わずかに明るくなった。
「グランフォード公爵閣下へ、でございますか」
「ええ」
答えた途端、胸が少し熱くなった。
手紙を書く。
それは、レオナードを呼ぶということだ。
セシリアが自分から会いたいと伝えるということだ。
以前なら、そんなことはできなかった。婚約者だから会う。父が決めたから会う。公爵家から呼ばれたから行く。そういう形ばかりだった。
けれど今は違う。
自分が会いたいから、手紙を書く。
そのことが、少し怖く、同じくらい大切に思えた。
テレサが便箋とインクを整える。まだ右手首に負担をかけられないため、代筆はテレサがすることになった。
「何とお書きいたしましょう」
セシリアは、すぐには答えなかった。
窓の外では、雨上がりの庭が夕方の光を受けている。濡れた葉がきらめき、遠くの空には雲の切れ間が見えた。美しい景色だったが、セシリアの胸には、まだ車輪の音の余韻が残っている。
その余韻ごと、言葉にしたかった。
「まずは……昨日はお時間をいただき、ありがとうございました、と」
テレサが筆を進める。
「はい」
「今日、公爵様はお越しになりませんでした。約束を守ってくださったのだと分かっています」
そこで、セシリアは少し迷った。
けれど、続けた。
「けれど、来ないことを少し寂しく思った自分もいました」
テレサの筆が、一瞬だけ止まりそうになった。
「お嬢様、本当にそのままお書きしてよろしいですか」
「ええ。隠す必要はないわ」
むしろ、ここを隠してしまえば、また以前と同じになる。
言いたいことを飲み込み、相手が望む形だけを差し出す自分に戻ってしまう。
「続けて」
「はい」
「夕方、馬車の音を最後まで聞くことができました。怖くなかったわけではありません。けれど、逃げずに聞くことができました」
セシリアは、胸の奥で言葉を選んだ。
「その時、公爵様のお言葉を思い出しました。怖い時は、怖いと言っていいと」
テレサは黙って筆を進めている。
セシリアは、少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、最後の文を告げた。
「少しだけ、お会いしたいです」
その一文を口にした瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
テレサは丁寧に書き終え、そっと顔を上げた。
「お嬢様」
「何かしら」
「とても、よいお手紙だと思います」
その言い方に、セシリアは少し困ったように笑った。
「恥ずかしいわ」
「恥ずかしくても、お嬢様のお気持ちです」
「そうね」
セシリアは、便箋に視線を落とした。
少しだけ、お会いしたいです。
たったそれだけの言葉なのに、胸が大きく揺れる。
返事が来るだろうか。
レオナードは、どんな顔をするだろうか。
すぐに来ようとするだろうか。それとも、こちらの体調を案じて、また丁寧に返事をくれるだろうか。
考えるだけで落ち着かない。
けれど、その落ち着かなさは、昨日までの不安とは違っていた。
怖いだけではない。
期待が混じっている。
セシリアは、その期待を否定しなかった。
「このまま出してちょうだい」
「かしこまりました」
テレサが封を整え、従僕へ託すために部屋を出ていく。
扉が閉まると、小応接室にはセシリア一人が残った。
外は、少しずつ夕暮れへ向かっている。庭の影が長くなり、雨上がりの空気が窓の向こうで澄んでいた。
しばらくして、レイン侯爵邸の従僕が戻ってきた。
「お嬢様。グランフォード公爵閣下より、ただいまお返事が届きました」
セシリアは驚いて顔を上げた。
「もう?」
「はい。公爵閣下は、先ほどまでレイン侯爵様と公務の件でお話しされており、まだお屋敷にいらっしゃいました。お嬢様のお手紙を受け取り、すぐに返事をお預かりいたしました」
胸が大きく鳴った。
レオナードは、来なかったのではない。
レイン侯爵邸にはいたのだ。
けれど、セシリアが望むまで、会いに来なかった。
その事実を知った瞬間、胸の奥が温かくなり、少しだけ痛んだ。
テレサが戻り、手紙を開く。
そこには、余計な言葉はほとんどなかった。
手紙をありがとう。
君が怖い音を最後まで聞けたことを、心から尊く思う。
会いたいと言ってくれたことが、私には何より嬉しい。
君の体調が許すなら、庭で少しだけ話したい。もちろん、今日でなくてもいい。君が選んでほしい。
セシリアは、その文面を見つめた。
今日でなくてもいい。
君が選んでほしい。
最後まで、彼は待とうとしてくれている。
セシリアは、便箋を胸元に寄せそうになり、少し恥ずかしくなって手を止めた。
そして一週間後に会う事にした。
‥‥一週間後
夕方の庭は、雨上がりの匂いがしていた。空は淡い紫を帯び、花壇の濡れた葉が傾いた光を受けている。馬車寄せとは反対側の庭へ続く扉から出たため、車輪は見えない。遠くの音だけが、庭木の向こうでやわらかく響いていた。
東屋のそばに、レオナードがいた。
彼はセシリアを見ると、すぐに近づこうとはせず、その場で深く礼をした。
「会いたいと言ってくれて、ありがとう」
その一言だけで、セシリアの胸はまた揺れた。
「こちらこそ、すぐにお返事をくださり、ありがとうございます」
「嬉しかった直ぐに会いたかったから」
レオナードは静かに言った。
「今日は、レイン侯爵様とお話しされていたと」
「はい」
暫くして
「公爵様は、本当に待ってくださっていたのですね」
「君が待ってほしいと言った」
「本当は正直、少し寂しかったです」
レオナードの表情がわずかに揺れる。
「……それを聞けて、嬉しいと思ってしまう自分がいる」
「ずるいです」
「すまない。けれど、君が寂しいと感じてくれたことを、嬉しいと思わずにはいられなかった」
その率直さに、セシリアは少しだけ困った。
けれど、嫌ではなかった。
「わたくしは、今日、馬車の音を最後まで聞けました」
「手紙に書いてくれていた」
「怖くなかったわけではありません。けれど、逃げずに聞けました。その時、公爵様の言葉を思い出しました」
「私の?」
「怖い時は、怖いと言っていい、と」
レオナードは、少しだけ視線を落とした。
「君がそう思い出してくれたなら、あの時の言葉にも意味があったのだと思える」
「だから……ひとつ、お願いがあります」
「何だろう」
セシリアは庭の向こうを見た。
馬車寄せは、木々の向こうにある。直接は見えない。けれど、そこに馬車があることは分かっている。
胸はまだ反応する。
それでも、今なら進めるかもしれないと思った。
「馬車のそばまで、行ってみたいのです」
レオナードの顔に心配が浮かんだ。
「無理をする必要はない」
「無理をしたいのではありません。今日、音を最後まで聞けました。次は、近くまで行けるか確かめたいのです」
「乗る必要はない」
「はい。今日は、そばまで行くだけでいいと思っています」
レオナードは、すぐに頷かなかった。
セシリアを案じているのだと分かった。けれど、止められるのとは違う。彼は、セシリアの選択を奪わないよう、言葉を選んでいる。
「私が隣にいてもいいか」
「はい」
「手を貸すのは、君が望んだ時だけにする」
「分かりました」
セシリアは、テレサとオリヴィア叔母様へ視線を向けた。二人とも心配そうではあったが、止めなかった。
それだけで、背中を支えられた気がした。
庭の小道を進み、木々の間を抜けると、馬車寄せが見えてきた。
レイン侯爵家の馬車が一台、離れた場所に止められている。黒い車体、磨かれた金具、石畳の上に落ちる車輪の影。何も危険はない。馬も落ち着いている。御者も、セシリアの様子を見て深く頭を下げたまま動かない。
それでも、足が少し止まった。
肩の奥が痛みを思い出す。
手首の包帯が重く感じられる。
車輪の丸い形を見るだけで、あの日の揺れが体の奥によみがえりそうになる。
「怖いです」
セシリアは、はっきり言った。
レオナードは、すぐそばで答えた。
「わかってる」
「でも、逃げたくはありません」
「分かった」
それ以上、彼は言わなかった。
がんばれとも、大丈夫とも言わない。その代わり、そばにいてくれる。
セシリアは、一歩進んだ。
また一歩。
馬車の扉まで、あと少し。
けれど、指先が冷えて、足が止まった。
セシリアは、少し迷ったあと、レオナードへ左手を差し出した。
「手を貸してください」
レオナードの表情が、深く揺れた。
慎重に、セシリアの手を受け取る。強く握りすぎず、離れすぎもしない。必要な分だけ支える手だった。
「怖ければ、ここでやめよう」
「いいえ。もう少しだけ、このままで」
「分かった」
セシリアは、レオナードの手に支えられながら、馬車の扉に触れた。
木の感触が、手袋越しに伝わる。
冷たい。
けれど、怖さに飲み込まれるほどではない。
あの日の馬車とは違う。
ここには、荷馬車は迫ってこない。
テレサも無事にそばにいる。
御者も、こちらを案じて待ってくれている。
そして、レオナードが手を握っている。
「触れられました」
セシリアが小さく言うと、レオナードは静かに頷いた。
「ああ。君が自分で決めて、ここまで来た」
「たった、扉に触れただけです」
「たった、ではない。君にとっては大きな一歩だ」
その言葉に、胸が温かくなった。
セシリアはしばらく扉に触れたまま、ゆっくり息を整えた。怖さはある。けれど、立っていられる。手を離しても、倒れないと思えた。
やがて、セシリアは自分から馬車の扉から手を離した。
「今日は、ここまでにします」
「それで十分だ」
レオナードは、そう言ってくれた。
帰り道、セシリアはまだ彼の手を借りていた。庭の小道へ戻る頃には、胸の動きも少し落ち着いていた。
東屋の近くまで戻ると、セシリアは足を止めた。
「公爵様」
「何だ」
「もう一つ、お話ししたいことがあります」
レオナードは、真剣な顔で頷いた。
「聞かせてほしい」
セシリアは、自分の左手をそっと引いた。レオナードはすぐに離した。
その距離が、今は心地よかった。
「この婚約についてです」
レオナードの表情が変わる。
だが、彼は黙って待った。
「最初、わたくしはお父様の言葉で公爵様と婚約しました。愛されなくてもかまわないと思っていました。公爵様には他に大切な方がいらっしゃるのだと知っていたから、期待しないようにしていました」
言葉にすると、胸が痛んだ。
けれど、もうその痛みから逃げたくはなかった。
「わたくしに優しくしてくださらなくてもかまいません。どうぞお好きな方と仲睦まじくなさってください。そう言った時、わたくしは自分を守ろうとしていたのだと思います」
レオナードの顔に、深い悔いが浮かぶ。
「君に、そんな言葉を言わせたのは私だ」
「公爵様だけではありません。お父様の言いなりだったわたくしにも、自分の気持ちを見ないようにしていたわたくしにも、理由はありました」
「だが、傷つけたことは変わらない」
「だから、全部をなかったことにはできません」
セシリアは、静かに続けた。
「でもこの一週間、公爵様が来ないことを寂しいと思いました。馬車の音を聞いた時、公爵様の言葉を思い出しました。馬車の扉に触れる時、公爵様に手を貸してほしいと思いました」
「‥‥」
「わたくしは、もう父に命じられたからここにいるのではありません」
胸の奥に、確かな答えがあった。
「わたくしは、この婚約を続けます。ただし、お父様の命令ではなく、わたくし自身の選択として」
レオナードは、すぐには答えなかった。
その顔に浮かんだ感情は、言葉にできないほど深かった。喜びだけではない。安堵も、痛みも、これまでの後悔も、すべてを抱えた表情だった。
やがて彼は、ゆっくりと頭を下げた。
「選んでくれて、ありがとう」
「まだ、全部を許せたわけではありません」
「分かっている」
「まだ、馬車も怖いです」
「わかってる」
「それでも、少し期待しています」
レオナードは顔を上げた。
「その期待を、裏切らないように生きる」
まっすぐな言葉だった。
セシリアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「それから、ひとつだけ言っておきたいことがあります」
「はい」
「わたくしは、完璧な妻にはなりません」
レオナードの表情が、少しだけやわらいだ。
「完璧な妻が欲しかったわけではない」
彼は、セシリアをまっすぐ見て言った。
「私が向き合いたいのは、君自身だ。怖い時に怖いと言い、傷ついた時に傷ついたと言い、好きなものを選び、自分の足で立とうとする君と、これから一緒に共に歩んでいきたい」
セシリアの胸に、言葉にならない温かさが広がった。
「では、わたくしはこれからも好きなように生きます」
「わかった」
「公爵様のためだけに笑う妻にも、家のためだけに我慢する妻にもなりません」
「それでいい」
「怖い時は怖いと言います。嫌な時は嫌だと言います。会いたい時は、今日のように手紙を書きます」
「待っている。何度でも」
その返事に、セシリアは少しだけ笑った。
「公爵様も、無理をなさらないでください。わたくしに許されるためだけに、ご自分を責め続ける必要はありません」
レオナードは、驚いたようにセシリアを見た。
「君は、私の心配までしてくれるのか」
「婚約者ですから」
その言葉を口にした瞬間、セシリア自身が一番驚いた。
婚約者‥
自分で選んだ言葉だった。
レオナードも、それを分かったようだった。
「セシリア」
優しい声‥
「君の隣に立てる男であり続ける。何度間違えそうになっても、君の言葉を聞く。君を決めつけず、君の選択を奪わない。その約束を、これからも続ける」
「はい」
セシリアは頷いた。
「わたくしも、公爵様を信じたいと思った今日の気持ちを、大切にします」
夕暮れの光が、庭の木々の間から差し込んでいた。濡れた葉が静かに光り、雨上がりの空気が冷たく澄んでいる。遠くで馬車の音が聞こえた。
胸は、少しだけ反応した。
けれど、もう逃げたいとは思わなかった。
セシリアは、その音を聞きながら、レオナードの隣に立っていた。
愛されなくてもいいと思って始まった婚約だった。
優しくされなくてもかまわないと、自分に言い聞かせた日もあった。
けれど今は違う。
愛されたいと思うことも、期待することも、怖いまま手を伸ばすことも、恥ずかしいことではないのだと知った。
セシリアは、レオナードを見上げた。
「公爵様」
「はい」
「いつまでもそばにいてください」
レオナードの表情が、やわらいだ。
「‥‥君が望むなら、いつまでも」
セシリアは夕暮れの庭で、静かに笑った。
愛されないことを受け入れるために始まった婚約は、いつの間にか、自分の意思で隣に立ちたいと思える人の場所へ変わっていた。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
傷つきながらも自分の意思で幸せを選んだセシリアを、ここまで見守っていただけたことに心より感謝いたします。
またいつか、新たな令嬢の恋 、切なさすれ違いの物語でお会いできましたら嬉しいです。
レイン侯爵邸の客室には、薄い朝の光が差し込んでいた。夜の間に雨が降ったらしく、窓硝子には細かな水滴が残り、庭の小道はしっとりと色を深めている。温室の硝子屋根から落ちる雫が、時折、石畳の上で小さな音を立てていた。
静かな朝だった。
けれど、セシリアの胸の内は穏やかとは言い切れなかった。
昨日、レオナードに言った。
少しだけ、時間をください。
公爵様を選ばないための時間ではありません。わたくしが、わたくしの意思で公爵様の隣に立てるかを、確かめるための時間です。
そう言った時、レオナードは引き留めなかった。本当は引き留めたいと正直に言いながら、それでもセシリアの選択を奪いたくないと受け入れてくれた。
その誠実さに、胸は温かくなった。
だからこそ、今朝の部屋が少し広く感じられた。
レオナードは来ない。
そう決めたのは自分だ。私的な訪問は控えると二人で確認した。次に会いたいと思った時は、セシリアから手紙を出すことになっている。
だから今日は、レオナードは来ない。
そのはずなのに、廊下で足音がするたび、ほんのわずかに耳がそちらへ向いてしまう。従僕が来客を告げる声が聞こえないかと、気づかないふりをしながら待ってしまう。
自分で距離を求めたのに、来ないことを寂しいと思っている。
その矛盾が、セシリアを困らせた。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
テレサが控えめに声をかけ、朝の支度のために部屋へ入ってきた。腕の包帯はもう外れているが、セシリアはまだその腕を見るたびに事故の瞬間を思い出す。テレサは何も言わず、いつものようにカーテンを開け、湯を用意し、肩に負担がかからないように上着を選んでくれた。
「今日は、少し早く目が覚めてしまったの」
「お痛みはございますか」
「肩は少し重いくらい。手首も昨日より楽よ」
「では、朝食のあとに医師の診察を受けていただきますね。楽になった時ほど、無理をなさいますから」
「最近のあなたは、本当に遠慮がなくなったわ」
「お嬢様が、私に遠慮を許してくださらなくなったからです」
そう返され、セシリアは小さく笑った。
以前なら、テレサはここまで踏み込まなかった。主人が大丈夫と言えば、それ以上は尋ねなかった。けれど今は違う。大丈夫という言葉の裏に痛みや不安が隠れていないか、きちんと見ようとしてくれる。
セシリア自身も、前のようには隠さなくなった。
完全に大丈夫ではない時は、今は平気と答える。怖くないとは言えない時は、少し怖いと言う。その小さな言い換えが、自分を守る方法になるのだと、最近ようやく分かってきた。
朝食を終える頃、玄関の方で馬車の音がした。
車輪が石畳を渡る音。馬が鼻を鳴らす音。御者の低い声。
セシリアの手が、膝の上でわずかに止まった。
すぐにテレサが気づく。
「お嬢様」
「大丈夫……ではなくて、今は平気よ」
そう言い直してから、セシリアは自分の胸の動きを確かめた。
怖い。
けれど、昨日ほどではない。
音が近づいてきた時は体が反応したが、扉の向こうで従僕たちが動き、来客の名前を告げる声が聞こえると、それがレイン侯爵家の取引先の馬車だと分かった。
レオナードではない。
その瞬間、胸の奥に、安堵とは違う感情が落ちた。
少しだけ、残念だった。
セシリアは、そのことに気づいて視線を落とした。
来てほしいと望んだわけではない。昨日、自分から距離を求めた。だから、彼が来ないのは当然だ。それなのに、違う馬車だと分かった途端、胸の奥が軽く沈む。
こんなにも自分の心は、思い通りにならない。
「お嬢様、温かいお茶を淹れ直しましょうか」
テレサは、余計なことを言わなかった。
「お願い」
セシリアは素直に答えた。
午前中は、オリヴィア叔母様とともに礼状の確認をした。
リリアナの処遇について、王宮と各家から控えめな見舞いや確認の文が届いていた。表向きは、セシリアの体調を案じる言葉が並んでいる。けれど、その行間には、ベルク家との今後の距離を探る貴族たちの気配があった。
社交界は、やはり静かにはしてくれない。
リリアナは療養に入る。カミラも社交を控える。ロッシュ男爵家もベルク子爵家も、以前のようには振る舞えないだろう。セシリアは被害者として同情され、同時に、グランフォード公爵家に正式に選ばれつつある令嬢として注目される。
その視線を想像すると、少し胸が詰まる。
けれど、以前のようにすべてを完璧に受け止めなければならないとは思わなかった。
「疲れた?」
オリヴィア叔母様が尋ねた。
「少しだけ」
「では、ここまでにしましょう」
「まだ半分ほど残っています」
「残りは午後でも明日でも構わないわ。あなたが倒れてまで返す礼状など、何の意味もありません」
その言い方が少しおかしくて、セシリアは微笑んだ。
「叔母様は、はっきりおっしゃいますね」
「遠回しに言っても、あなたは無理をするでしょう」
「最近は、そうでもありません」
「なら、なおさら休めるわね」
オリヴィア叔母様は、茶器を手に取り、当然のように話を終わらせた。
セシリアは逆らわなかった。
午後になっても、レオナードは来なかった。
もちろん、来るはずがない。
それでも、従僕が扉を叩くたび、胸のどこかが反応する。手紙だろうか。公爵家からの伝言だろうか。そう思ってしまう。
けれど届いたのは、レイン侯爵家の仕立て屋からの伝票や、アーヴェル家からの果物、ノアからの短い見舞いの文だった。
レオナードからは、何もない。
その何もないことが、約束の形なのだとセシリアは分かっていた。
分かっているのに、寂しい。
夕方近く、雨が上がった庭に薄い光が差した。
セシリアは、小応接室の窓辺に座っていた。肩掛けを羽織り、膝の上には読みかけの本を置いている。文字を追おうとしても、内容はなかなか頭に入らなかった。
庭の向こう、馬車寄せの方で車輪の音がした。
セシリアの体が、反射的にこわばる。
今度の音は、少し近かった。濡れた石畳の上を車輪がゆっくり進む音が、いつもより重く響く。馬の足音。御者の掛け声。屋敷の者が扉を開ける気配。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
テレサはすぐにそばへ来た。
「お嬢様、こちらへ」
「いいえ」
セシリアは、少しだけ首を振った。
「このまま聞いてみるわ」
「ご無理はなさらないでください」
「無理ではないの。ただ、少しだけ……最後まで聞いてみたいの」
テレサは、それ以上止めなかった。
セシリアは窓の外を見ずに、音だけを聞いた。馬車が止まる。誰かが降りる。従僕が声をかける。やがて、車輪の音が遠ざかっていく。
怖かった。
けれど、逃げずに聞けた。
セシリアは、膝の上で左手を重ねたまま、ゆっくり息を吐いた。
その時、思い出したのはレオナードの声だった。
怖い時は、怖いと言っていい。
今の音が怖かったか、と尋ねた時の、彼の抑えた声。勝手に手を伸ばさず、答えを待ってくれた眼差し。ここにいよう、何も決めなくていいと言ってくれたこと。
その記憶が、胸の奥を静かに満たした。
そばにいてほしい。
ふいに、そう思ってしまった。
レオナードに会いたい。
そうはっきり思った瞬間、セシリアは自分でも驚いた。
昨日は距離が必要だと思った。
それは今も変わらない。急いで隣に戻ることはできない。すべてを許したわけではない。信じたい気持ちと、まだ信じきれない痛みは、同じ胸の中にある。
けれど、今この瞬間、馬車の音を聞き終えた自分は、レオナードに伝えたいと思っている。
怖かったこと。
けれど、最後まで聞けたこと。
そして、会いに来ない優しさが、少し寂しかったこと。
「テレサ」
「はい」
「便箋を用意してくれる?」
テレサの表情が、わずかに明るくなった。
「グランフォード公爵閣下へ、でございますか」
「ええ」
答えた途端、胸が少し熱くなった。
手紙を書く。
それは、レオナードを呼ぶということだ。
セシリアが自分から会いたいと伝えるということだ。
以前なら、そんなことはできなかった。婚約者だから会う。父が決めたから会う。公爵家から呼ばれたから行く。そういう形ばかりだった。
けれど今は違う。
自分が会いたいから、手紙を書く。
そのことが、少し怖く、同じくらい大切に思えた。
テレサが便箋とインクを整える。まだ右手首に負担をかけられないため、代筆はテレサがすることになった。
「何とお書きいたしましょう」
セシリアは、すぐには答えなかった。
窓の外では、雨上がりの庭が夕方の光を受けている。濡れた葉がきらめき、遠くの空には雲の切れ間が見えた。美しい景色だったが、セシリアの胸には、まだ車輪の音の余韻が残っている。
その余韻ごと、言葉にしたかった。
「まずは……昨日はお時間をいただき、ありがとうございました、と」
テレサが筆を進める。
「はい」
「今日、公爵様はお越しになりませんでした。約束を守ってくださったのだと分かっています」
そこで、セシリアは少し迷った。
けれど、続けた。
「けれど、来ないことを少し寂しく思った自分もいました」
テレサの筆が、一瞬だけ止まりそうになった。
「お嬢様、本当にそのままお書きしてよろしいですか」
「ええ。隠す必要はないわ」
むしろ、ここを隠してしまえば、また以前と同じになる。
言いたいことを飲み込み、相手が望む形だけを差し出す自分に戻ってしまう。
「続けて」
「はい」
「夕方、馬車の音を最後まで聞くことができました。怖くなかったわけではありません。けれど、逃げずに聞くことができました」
セシリアは、胸の奥で言葉を選んだ。
「その時、公爵様のお言葉を思い出しました。怖い時は、怖いと言っていいと」
テレサは黙って筆を進めている。
セシリアは、少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、最後の文を告げた。
「少しだけ、お会いしたいです」
その一文を口にした瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
テレサは丁寧に書き終え、そっと顔を上げた。
「お嬢様」
「何かしら」
「とても、よいお手紙だと思います」
その言い方に、セシリアは少し困ったように笑った。
「恥ずかしいわ」
「恥ずかしくても、お嬢様のお気持ちです」
「そうね」
セシリアは、便箋に視線を落とした。
少しだけ、お会いしたいです。
たったそれだけの言葉なのに、胸が大きく揺れる。
返事が来るだろうか。
レオナードは、どんな顔をするだろうか。
すぐに来ようとするだろうか。それとも、こちらの体調を案じて、また丁寧に返事をくれるだろうか。
考えるだけで落ち着かない。
けれど、その落ち着かなさは、昨日までの不安とは違っていた。
怖いだけではない。
期待が混じっている。
セシリアは、その期待を否定しなかった。
「このまま出してちょうだい」
「かしこまりました」
テレサが封を整え、従僕へ託すために部屋を出ていく。
扉が閉まると、小応接室にはセシリア一人が残った。
外は、少しずつ夕暮れへ向かっている。庭の影が長くなり、雨上がりの空気が窓の向こうで澄んでいた。
しばらくして、レイン侯爵邸の従僕が戻ってきた。
「お嬢様。グランフォード公爵閣下より、ただいまお返事が届きました」
セシリアは驚いて顔を上げた。
「もう?」
「はい。公爵閣下は、先ほどまでレイン侯爵様と公務の件でお話しされており、まだお屋敷にいらっしゃいました。お嬢様のお手紙を受け取り、すぐに返事をお預かりいたしました」
胸が大きく鳴った。
レオナードは、来なかったのではない。
レイン侯爵邸にはいたのだ。
けれど、セシリアが望むまで、会いに来なかった。
その事実を知った瞬間、胸の奥が温かくなり、少しだけ痛んだ。
テレサが戻り、手紙を開く。
そこには、余計な言葉はほとんどなかった。
手紙をありがとう。
君が怖い音を最後まで聞けたことを、心から尊く思う。
会いたいと言ってくれたことが、私には何より嬉しい。
君の体調が許すなら、庭で少しだけ話したい。もちろん、今日でなくてもいい。君が選んでほしい。
セシリアは、その文面を見つめた。
今日でなくてもいい。
君が選んでほしい。
最後まで、彼は待とうとしてくれている。
セシリアは、便箋を胸元に寄せそうになり、少し恥ずかしくなって手を止めた。
そして一週間後に会う事にした。
‥‥一週間後
夕方の庭は、雨上がりの匂いがしていた。空は淡い紫を帯び、花壇の濡れた葉が傾いた光を受けている。馬車寄せとは反対側の庭へ続く扉から出たため、車輪は見えない。遠くの音だけが、庭木の向こうでやわらかく響いていた。
東屋のそばに、レオナードがいた。
彼はセシリアを見ると、すぐに近づこうとはせず、その場で深く礼をした。
「会いたいと言ってくれて、ありがとう」
その一言だけで、セシリアの胸はまた揺れた。
「こちらこそ、すぐにお返事をくださり、ありがとうございます」
「嬉しかった直ぐに会いたかったから」
レオナードは静かに言った。
「今日は、レイン侯爵様とお話しされていたと」
「はい」
暫くして
「公爵様は、本当に待ってくださっていたのですね」
「君が待ってほしいと言った」
「本当は正直、少し寂しかったです」
レオナードの表情がわずかに揺れる。
「……それを聞けて、嬉しいと思ってしまう自分がいる」
「ずるいです」
「すまない。けれど、君が寂しいと感じてくれたことを、嬉しいと思わずにはいられなかった」
その率直さに、セシリアは少しだけ困った。
けれど、嫌ではなかった。
「わたくしは、今日、馬車の音を最後まで聞けました」
「手紙に書いてくれていた」
「怖くなかったわけではありません。けれど、逃げずに聞けました。その時、公爵様の言葉を思い出しました」
「私の?」
「怖い時は、怖いと言っていい、と」
レオナードは、少しだけ視線を落とした。
「君がそう思い出してくれたなら、あの時の言葉にも意味があったのだと思える」
「だから……ひとつ、お願いがあります」
「何だろう」
セシリアは庭の向こうを見た。
馬車寄せは、木々の向こうにある。直接は見えない。けれど、そこに馬車があることは分かっている。
胸はまだ反応する。
それでも、今なら進めるかもしれないと思った。
「馬車のそばまで、行ってみたいのです」
レオナードの顔に心配が浮かんだ。
「無理をする必要はない」
「無理をしたいのではありません。今日、音を最後まで聞けました。次は、近くまで行けるか確かめたいのです」
「乗る必要はない」
「はい。今日は、そばまで行くだけでいいと思っています」
レオナードは、すぐに頷かなかった。
セシリアを案じているのだと分かった。けれど、止められるのとは違う。彼は、セシリアの選択を奪わないよう、言葉を選んでいる。
「私が隣にいてもいいか」
「はい」
「手を貸すのは、君が望んだ時だけにする」
「分かりました」
セシリアは、テレサとオリヴィア叔母様へ視線を向けた。二人とも心配そうではあったが、止めなかった。
それだけで、背中を支えられた気がした。
庭の小道を進み、木々の間を抜けると、馬車寄せが見えてきた。
レイン侯爵家の馬車が一台、離れた場所に止められている。黒い車体、磨かれた金具、石畳の上に落ちる車輪の影。何も危険はない。馬も落ち着いている。御者も、セシリアの様子を見て深く頭を下げたまま動かない。
それでも、足が少し止まった。
肩の奥が痛みを思い出す。
手首の包帯が重く感じられる。
車輪の丸い形を見るだけで、あの日の揺れが体の奥によみがえりそうになる。
「怖いです」
セシリアは、はっきり言った。
レオナードは、すぐそばで答えた。
「わかってる」
「でも、逃げたくはありません」
「分かった」
それ以上、彼は言わなかった。
がんばれとも、大丈夫とも言わない。その代わり、そばにいてくれる。
セシリアは、一歩進んだ。
また一歩。
馬車の扉まで、あと少し。
けれど、指先が冷えて、足が止まった。
セシリアは、少し迷ったあと、レオナードへ左手を差し出した。
「手を貸してください」
レオナードの表情が、深く揺れた。
慎重に、セシリアの手を受け取る。強く握りすぎず、離れすぎもしない。必要な分だけ支える手だった。
「怖ければ、ここでやめよう」
「いいえ。もう少しだけ、このままで」
「分かった」
セシリアは、レオナードの手に支えられながら、馬車の扉に触れた。
木の感触が、手袋越しに伝わる。
冷たい。
けれど、怖さに飲み込まれるほどではない。
あの日の馬車とは違う。
ここには、荷馬車は迫ってこない。
テレサも無事にそばにいる。
御者も、こちらを案じて待ってくれている。
そして、レオナードが手を握っている。
「触れられました」
セシリアが小さく言うと、レオナードは静かに頷いた。
「ああ。君が自分で決めて、ここまで来た」
「たった、扉に触れただけです」
「たった、ではない。君にとっては大きな一歩だ」
その言葉に、胸が温かくなった。
セシリアはしばらく扉に触れたまま、ゆっくり息を整えた。怖さはある。けれど、立っていられる。手を離しても、倒れないと思えた。
やがて、セシリアは自分から馬車の扉から手を離した。
「今日は、ここまでにします」
「それで十分だ」
レオナードは、そう言ってくれた。
帰り道、セシリアはまだ彼の手を借りていた。庭の小道へ戻る頃には、胸の動きも少し落ち着いていた。
東屋の近くまで戻ると、セシリアは足を止めた。
「公爵様」
「何だ」
「もう一つ、お話ししたいことがあります」
レオナードは、真剣な顔で頷いた。
「聞かせてほしい」
セシリアは、自分の左手をそっと引いた。レオナードはすぐに離した。
その距離が、今は心地よかった。
「この婚約についてです」
レオナードの表情が変わる。
だが、彼は黙って待った。
「最初、わたくしはお父様の言葉で公爵様と婚約しました。愛されなくてもかまわないと思っていました。公爵様には他に大切な方がいらっしゃるのだと知っていたから、期待しないようにしていました」
言葉にすると、胸が痛んだ。
けれど、もうその痛みから逃げたくはなかった。
「わたくしに優しくしてくださらなくてもかまいません。どうぞお好きな方と仲睦まじくなさってください。そう言った時、わたくしは自分を守ろうとしていたのだと思います」
レオナードの顔に、深い悔いが浮かぶ。
「君に、そんな言葉を言わせたのは私だ」
「公爵様だけではありません。お父様の言いなりだったわたくしにも、自分の気持ちを見ないようにしていたわたくしにも、理由はありました」
「だが、傷つけたことは変わらない」
「だから、全部をなかったことにはできません」
セシリアは、静かに続けた。
「でもこの一週間、公爵様が来ないことを寂しいと思いました。馬車の音を聞いた時、公爵様の言葉を思い出しました。馬車の扉に触れる時、公爵様に手を貸してほしいと思いました」
「‥‥」
「わたくしは、もう父に命じられたからここにいるのではありません」
胸の奥に、確かな答えがあった。
「わたくしは、この婚約を続けます。ただし、お父様の命令ではなく、わたくし自身の選択として」
レオナードは、すぐには答えなかった。
その顔に浮かんだ感情は、言葉にできないほど深かった。喜びだけではない。安堵も、痛みも、これまでの後悔も、すべてを抱えた表情だった。
やがて彼は、ゆっくりと頭を下げた。
「選んでくれて、ありがとう」
「まだ、全部を許せたわけではありません」
「分かっている」
「まだ、馬車も怖いです」
「わかってる」
「それでも、少し期待しています」
レオナードは顔を上げた。
「その期待を、裏切らないように生きる」
まっすぐな言葉だった。
セシリアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「それから、ひとつだけ言っておきたいことがあります」
「はい」
「わたくしは、完璧な妻にはなりません」
レオナードの表情が、少しだけやわらいだ。
「完璧な妻が欲しかったわけではない」
彼は、セシリアをまっすぐ見て言った。
「私が向き合いたいのは、君自身だ。怖い時に怖いと言い、傷ついた時に傷ついたと言い、好きなものを選び、自分の足で立とうとする君と、これから一緒に共に歩んでいきたい」
セシリアの胸に、言葉にならない温かさが広がった。
「では、わたくしはこれからも好きなように生きます」
「わかった」
「公爵様のためだけに笑う妻にも、家のためだけに我慢する妻にもなりません」
「それでいい」
「怖い時は怖いと言います。嫌な時は嫌だと言います。会いたい時は、今日のように手紙を書きます」
「待っている。何度でも」
その返事に、セシリアは少しだけ笑った。
「公爵様も、無理をなさらないでください。わたくしに許されるためだけに、ご自分を責め続ける必要はありません」
レオナードは、驚いたようにセシリアを見た。
「君は、私の心配までしてくれるのか」
「婚約者ですから」
その言葉を口にした瞬間、セシリア自身が一番驚いた。
婚約者‥
自分で選んだ言葉だった。
レオナードも、それを分かったようだった。
「セシリア」
優しい声‥
「君の隣に立てる男であり続ける。何度間違えそうになっても、君の言葉を聞く。君を決めつけず、君の選択を奪わない。その約束を、これからも続ける」
「はい」
セシリアは頷いた。
「わたくしも、公爵様を信じたいと思った今日の気持ちを、大切にします」
夕暮れの光が、庭の木々の間から差し込んでいた。濡れた葉が静かに光り、雨上がりの空気が冷たく澄んでいる。遠くで馬車の音が聞こえた。
胸は、少しだけ反応した。
けれど、もう逃げたいとは思わなかった。
セシリアは、その音を聞きながら、レオナードの隣に立っていた。
愛されなくてもいいと思って始まった婚約だった。
優しくされなくてもかまわないと、自分に言い聞かせた日もあった。
けれど今は違う。
愛されたいと思うことも、期待することも、怖いまま手を伸ばすことも、恥ずかしいことではないのだと知った。
セシリアは、レオナードを見上げた。
「公爵様」
「はい」
「いつまでもそばにいてください」
レオナードの表情が、やわらいだ。
「‥‥君が望むなら、いつまでも」
セシリアは夕暮れの庭で、静かに笑った。
愛されないことを受け入れるために始まった婚約は、いつの間にか、自分の意思で隣に立ちたいと思える人の場所へ変わっていた。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
傷つきながらも自分の意思で幸せを選んだセシリアを、ここまで見守っていただけたことに心より感謝いたします。
またいつか、新たな令嬢の恋 、切なさすれ違いの物語でお会いできましたら嬉しいです。
この作品は感想を受け付けておりません。
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