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第2章 新しい隣人
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翌週の午後。
春の風はやわらかく、庭園の薔薇がつぼみをふくらませていた。
けれどリディアの胸は、少しだけ落ち着かなかった。
「……今週は、来てくださらないのかしら」
紅茶の湯気が静かに揺れる。
テーブルの向かいは、まだ空いたままだ。
アーヴィンはいつも時間ぴったりに現れる人。
けれど今日は、いつもより遅れている。
侍女のマリアが心配そうに首をかしげた。
「お嬢様。……お知らせいたしますが、今朝、新しく伯爵家がこの辺りにお引っ越しなさったとか。旦那様も少しご挨拶に行かれるかもと、奥様が——」
「伯爵家……?」
「はい。ローラン伯爵家。お嬢様はご息女のミレーユ様とおっしゃるそうで、とても明るく可愛らしい方だとか」
マリアの言葉に、リディアはわずかに眉をひそめた。
ローラン伯爵家——どこかで聞いた名だった。
確か、王都の社交界で評判の高い家。
若くして舞踏会の花と称えられた令嬢がいると。
(あの方の屋敷からも近いわ……)
胸の奥が、かすかに波打った。
理由のわからない不安を押し殺し、リディアは紅茶をもう一杯注ぎなおした。
そのとき——。
「リディア!」
名前を呼ぶ声が、風を切って届いた。
顔を上げると、見慣れた黒髪の青年が庭の門をくぐるところだった。
その隣には、見知らぬ女性がいた。
陽光を受けて金色に輝く髪。
笑みを絶やさず、ドレスの裾を軽やかに持ち上げて歩く姿。
その人こそ、伯爵令嬢ミレーユだった。
「紹介しよう。ローラン伯爵家の令嬢、ミレーユ・ローラン嬢だ。今日、ご挨拶がてらこの庭を見てみたいと言われてね」
「まあ……ようこそ。エルフォード家の庭など、たいしたものではありませんけれど」
「とんでもありませんわ! あの噂の“紅茶の庭園”でしょう? 香りが風に乗ってくるのですもの。うっとりしてしまいます」
ミレーユは屈託のない笑みでリディアの手を取った。
その瞬間、彼女の明るさがまるで光のように周囲を照らした。
リディアは少し戸惑いながらも、微笑み返す。
「よろしければ、ご一緒にお茶を」
「まあ嬉しい! アーヴィン様もご一緒に?」
「もちろん。……君がよければ、だが」
「ええ、もちろん」
リディアは静かに頷いた。
けれど胸の奥では、ほんの小さな痛みが生まれていた。
この席は、いつも二人だけの時間だったから。
──紅茶を注ぐ音が、妙に響く。
ミレーユはすぐにカップを手に取り、楽しげに香りを嗅いだ。
「まぁ、いい香り! アーヴィン様、この香り、貴方のお好きな茶葉では?」
「ああ、よく覚えているな。王都の商会で買ったんだ。リディアが見つけてくれてね」
「まぁ、そうなんですの? 素敵。わたくしもこの香り、大好きになりそう」
アーヴィンは、どこか照れたように笑った。
その笑みを見た瞬間、リディアの指がわずかに震える。
カップのふちに映る彼の横顔が、ほんの少し遠く見えた。
「アーヴィン様は、こういう穏やかな午後がよく似合いますわね。
きっと仕事でも厳しいお顔をされているのでしょう? でも、今はとても優しそう」
「……いや、優しく見えるだけだよ。実際は、君が想像しているより頑固かもしれない」
「そういうところ、素敵ですわ」
ミレーユの明るい声に、リディアは小さく笑みを作った。
彼女は悪気があるわけではない。
むしろ、人の心を自然に惹きつける人なのだ。
だからこそ、余計に胸が痛む。
「リディア様も、幼い頃からアーヴィン様をご存じなのですよね?」
「ええ。……幼なじみですの」
「まぁ! 羨ましい。あのアーヴィン様の少年時代を知っていらっしゃるなんて。
どんなお子様だったのかしら?」
ミレーユが瞳を輝かせる。
リディアは少しだけ視線を落とし、淡く微笑んだ。
「真面目で、頑固で……けれど、いつも優しい方でした」
「ふふ。今と同じですわね」
アーヴィンが少し咳払いをした。
「子どもの話はいいだろう」と言いたげに視線をそらす仕草が、懐かしくて愛おしい。
けれど同時に、リディアは気づく。
その視線の行方が、もう自分には向いていないことを。
「リディア、今度この庭の薔薇を見に来たいという方がいてね。ミレーユ嬢もご一緒にどうだ?」
「……ええ。もちろん」
言葉にできるのは、それだけだった。
声を出すたびに、胸の奥で何かが崩れる音がした。
ミレーユが笑うたび、アーヴィンがその笑顔を返すたび、
リディアの世界から少しずつ色が失われていくようだった。
ティーポットの湯気がゆらぎ、風が頬を撫でる。
沈黙を破ったのは、ミレーユの明るい声だった。
「ねぇ、リディア様。よければ今度、私の屋敷にもいらして? お庭を見せていただいたお礼に」
「ありがとうございます。……ぜひ、伺わせていただきますわ」
言葉だけは穏やかに返した。
けれど心のどこかで——もう、今日のような時間は戻らない気がしていた。
お茶会のあと、アーヴィンはミレーユを馬車まで見送っていった。
その背中を、リディアは玄関の陰からそっと見つめる。
ミレーユが笑い、アーヴィンが微笑み返す。
その光景が、胸の奥を静かに締めつけた。
マリアが背後で小さくため息をつく。
「お嬢様……」
「ええ、大丈夫よ」
リディアは微笑んで答えた。
けれどその声は、少しだけ震えていた。
(どうか、この胸のざわめきを、紅茶の香りで隠せますように)
そう祈るように、彼女はもう一度ティーポットを手に取った。
けれど香りは、もうあの頃のように広がらなかった。
庭園の風が、花の香りを連れ去っていく。
その先に、アーヴィンとミレーユの笑い声がかすかに聞こえた。
——春は、優しい顔をして、残酷に人を引き離す季節だった。
春の風はやわらかく、庭園の薔薇がつぼみをふくらませていた。
けれどリディアの胸は、少しだけ落ち着かなかった。
「……今週は、来てくださらないのかしら」
紅茶の湯気が静かに揺れる。
テーブルの向かいは、まだ空いたままだ。
アーヴィンはいつも時間ぴったりに現れる人。
けれど今日は、いつもより遅れている。
侍女のマリアが心配そうに首をかしげた。
「お嬢様。……お知らせいたしますが、今朝、新しく伯爵家がこの辺りにお引っ越しなさったとか。旦那様も少しご挨拶に行かれるかもと、奥様が——」
「伯爵家……?」
「はい。ローラン伯爵家。お嬢様はご息女のミレーユ様とおっしゃるそうで、とても明るく可愛らしい方だとか」
マリアの言葉に、リディアはわずかに眉をひそめた。
ローラン伯爵家——どこかで聞いた名だった。
確か、王都の社交界で評判の高い家。
若くして舞踏会の花と称えられた令嬢がいると。
(あの方の屋敷からも近いわ……)
胸の奥が、かすかに波打った。
理由のわからない不安を押し殺し、リディアは紅茶をもう一杯注ぎなおした。
そのとき——。
「リディア!」
名前を呼ぶ声が、風を切って届いた。
顔を上げると、見慣れた黒髪の青年が庭の門をくぐるところだった。
その隣には、見知らぬ女性がいた。
陽光を受けて金色に輝く髪。
笑みを絶やさず、ドレスの裾を軽やかに持ち上げて歩く姿。
その人こそ、伯爵令嬢ミレーユだった。
「紹介しよう。ローラン伯爵家の令嬢、ミレーユ・ローラン嬢だ。今日、ご挨拶がてらこの庭を見てみたいと言われてね」
「まあ……ようこそ。エルフォード家の庭など、たいしたものではありませんけれど」
「とんでもありませんわ! あの噂の“紅茶の庭園”でしょう? 香りが風に乗ってくるのですもの。うっとりしてしまいます」
ミレーユは屈託のない笑みでリディアの手を取った。
その瞬間、彼女の明るさがまるで光のように周囲を照らした。
リディアは少し戸惑いながらも、微笑み返す。
「よろしければ、ご一緒にお茶を」
「まあ嬉しい! アーヴィン様もご一緒に?」
「もちろん。……君がよければ、だが」
「ええ、もちろん」
リディアは静かに頷いた。
けれど胸の奥では、ほんの小さな痛みが生まれていた。
この席は、いつも二人だけの時間だったから。
──紅茶を注ぐ音が、妙に響く。
ミレーユはすぐにカップを手に取り、楽しげに香りを嗅いだ。
「まぁ、いい香り! アーヴィン様、この香り、貴方のお好きな茶葉では?」
「ああ、よく覚えているな。王都の商会で買ったんだ。リディアが見つけてくれてね」
「まぁ、そうなんですの? 素敵。わたくしもこの香り、大好きになりそう」
アーヴィンは、どこか照れたように笑った。
その笑みを見た瞬間、リディアの指がわずかに震える。
カップのふちに映る彼の横顔が、ほんの少し遠く見えた。
「アーヴィン様は、こういう穏やかな午後がよく似合いますわね。
きっと仕事でも厳しいお顔をされているのでしょう? でも、今はとても優しそう」
「……いや、優しく見えるだけだよ。実際は、君が想像しているより頑固かもしれない」
「そういうところ、素敵ですわ」
ミレーユの明るい声に、リディアは小さく笑みを作った。
彼女は悪気があるわけではない。
むしろ、人の心を自然に惹きつける人なのだ。
だからこそ、余計に胸が痛む。
「リディア様も、幼い頃からアーヴィン様をご存じなのですよね?」
「ええ。……幼なじみですの」
「まぁ! 羨ましい。あのアーヴィン様の少年時代を知っていらっしゃるなんて。
どんなお子様だったのかしら?」
ミレーユが瞳を輝かせる。
リディアは少しだけ視線を落とし、淡く微笑んだ。
「真面目で、頑固で……けれど、いつも優しい方でした」
「ふふ。今と同じですわね」
アーヴィンが少し咳払いをした。
「子どもの話はいいだろう」と言いたげに視線をそらす仕草が、懐かしくて愛おしい。
けれど同時に、リディアは気づく。
その視線の行方が、もう自分には向いていないことを。
「リディア、今度この庭の薔薇を見に来たいという方がいてね。ミレーユ嬢もご一緒にどうだ?」
「……ええ。もちろん」
言葉にできるのは、それだけだった。
声を出すたびに、胸の奥で何かが崩れる音がした。
ミレーユが笑うたび、アーヴィンがその笑顔を返すたび、
リディアの世界から少しずつ色が失われていくようだった。
ティーポットの湯気がゆらぎ、風が頬を撫でる。
沈黙を破ったのは、ミレーユの明るい声だった。
「ねぇ、リディア様。よければ今度、私の屋敷にもいらして? お庭を見せていただいたお礼に」
「ありがとうございます。……ぜひ、伺わせていただきますわ」
言葉だけは穏やかに返した。
けれど心のどこかで——もう、今日のような時間は戻らない気がしていた。
お茶会のあと、アーヴィンはミレーユを馬車まで見送っていった。
その背中を、リディアは玄関の陰からそっと見つめる。
ミレーユが笑い、アーヴィンが微笑み返す。
その光景が、胸の奥を静かに締めつけた。
マリアが背後で小さくため息をつく。
「お嬢様……」
「ええ、大丈夫よ」
リディアは微笑んで答えた。
けれどその声は、少しだけ震えていた。
(どうか、この胸のざわめきを、紅茶の香りで隠せますように)
そう祈るように、彼女はもう一度ティーポットを手に取った。
けれど香りは、もうあの頃のように広がらなかった。
庭園の風が、花の香りを連れ去っていく。
その先に、アーヴィンとミレーユの笑い声がかすかに聞こえた。
——春は、優しい顔をして、残酷に人を引き離す季節だった。
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