氷の王妃は跪かない ―褥(しとね)を拒んだ私への、それは復讐ですか?―

柴田はつみ

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第三章:毒を盛る微笑、あるいは寵愛の誇示

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 北塔の執務室は、昼間であっても薄暗く、芯まで冷えていた。エルフレイデは凍える指先に息を吹きかけながら、領地の横領疑惑が記された帳簿を鋭く睨みつけていた。
 そのとき、場違いなほど軽やかな衣擦れの音と、むせ返るような薔薇の香りが室内に満ちる。

「まあ――なんて湿っぽくて惨めな場所でしょう。正妃様のお部屋とは思えませんわ」

 扉の脇に立っていたのは、燃えるような赤髪を扇で隠し、勝ち誇った笑みを浮かべる美女――公爵令嬢ヴィオラである。彼女の胸元では、王家秘蔵と名高い大粒のルビーが、これ見よがしに輝いていた。

「……ご用件は何かしら。ご覧のとおり、私は公務の最中です」
「陛下から伺いましたの。王妃様は夜のお相手よりも、埃まみれの紙屑を数える方がお好きだとか。あまりにお可哀想でして、陛下に代わって“お見舞い”に参りましたのよ」

 ヴィオラは優雅な所作で合図し、従者に豪奢な食卓をエルフレイデの汚れた机の隣へと広げさせた。
 極上の白ワインと、宮中でも限られた者のみが口にできる贅を尽くした料理が並べられる。

「昨夜も陛下は仰いましたわ――『やはり愛嬌のある女が一番だ』と。ああ、これもお裾分けですの。陛下が私のために特注なさったドレスの端切れ。何かにお役立てくださいませ?」

 無造作に投げ落とされた絹の切れ端を見つめ、エルフレイデの胸が激しく波打つ。
(……側室。そう、これが陛下の次なる“嫌がらせ”なのね)

 初夜に自分を拒みながら、別の女を公然と抱き、その女を嘲笑の刃として差し向けてくる――。

「陛下は、私という人間をどこまで辱めれば気が済むのかしら。女としての価値すら、この暗い塔の中で否定し尽くさなければ満足なさらないのね……」

「あら、そんな怖い顔をなさらないで。陛下はこう仰っていましたわ――
『王妃には、一生その冷たい石壁に張り付いていてもらう。それが、いちばん似合っている』と。ふふ」

 嘲笑が、冷えた壁に鈍く反響する。
 エルフレイデは震える手で羽ペンを握り締め、真っすぐにヴィオラを見据えた。

「ヴィオラ様。陛下にお伝えくださいませ――
『お心遣い痛み入ります。ですが、私は貴女のように肌を売って地位を繋ぐほど、暇ではございません』と。……お引き取りを。この部屋の空気が濁ります」

「……っ、負け惜しみを! せいぜい一人で凍え死ぬがいいわ!」

 ヴィオラは怒りを装い、足早に部屋を去った。
 だが、塔の階段を降り切った途端、その瞳から嘲色が消え、冷徹な“工作員”の光が宿る。

(……やれやれ。あんな哀しい目をなさるなんて。陛下も、もう少しまともな言い訳をお考えになればよろしいのに)

 ヴィオラは、袖に隠した小瓶をそっと撫でた。
 彼女が並べた豪華な料理には、王妃の衰弱を防ぐための秘薬が、味を損なわぬよう精巧に調合されていた。
 そして、投げ捨てられた「布切れ」には――母国との通信を傍受するための特殊な術式が編み込まれている。

 すべては、エルフレイデを“愛されていない王妃”として周囲の目を欺きながら、同時に彼女を外敵から守るための防壁であった。

 一方、北塔に残されたエルフレイデは、冷めた料理を虚しく見つめ、ただ一人、静かに誓いを新たにする。

(……いいわ。側室を何人お作りになろうと、ご自由に。私は、死んでも貴方の前で涙は見せない。貴方が私を無視すればするほど――この国を、私の力で掌中に収めてみせる)

 王の「歪んだ献身」は、側室という毒を添えられ、王妃の「深い憎悪」へと昇華していく。
 二人の心が重なる日は、なお遠い。
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