初恋の公爵様

柴田はつみ

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第七章「十年越しの誓い」

夜会から一週間が経った。
セラフィーナは朝から庭に出て、スノードロップの手入れをしていた。春の終わりが近づいて、白い花びらがそろそろ散り始めていた。

「お嬢様、またルシアン様からお手紙です」
マリアが封書を持ってきた。
今週だけで三通目だった。
セラは土のついた手袋を外して封書を受け取った。

几帳面な筆跡で、短くこう書かれていた。
「庭の花の具合はどうだ。ルシアン」
「……何を聞いているのかしら」
「可愛いじゃないですか」
「どこが」

「不器用な気遣いってやつです」
セラは封書を見つめたまま、小さく笑った。
一週間前から、ルシアンは毎日のように短い手紙を送ってきた。内容はどれも他愛ないものだった。今日の天気、読んでいる本の話、屋敷の庭木が剪定された話。

まるで、会話の糸口を手探りで探しているようだった。
十年間黙っていた人が、急に饒舌になった。
セラは便箋を取り出した。
「スノードロップが散り始めました。でも根は元気です。来年また咲きます。セラフィーナ」

「マリア、これを届けて」
「かしこまりました! あ、それと」
マリアが少し改まった顔になった。
「フィリップ様から伝言がございました。今日の午後、ご挨拶に伺いたいと」
セラは静かに頷いた。
「わかったわ」

午後の応接間。
フィリップはいつもの笑顔で現れたが、今日はどこか晴れ晴れとした雰囲気を纏っていた。
「やあ、セラフィーナ。元気そうだね」
「フィリップ様こそ。夜会の後、ご連絡がなかったから心配していました」

「少し考えることがあって」
フィリップは紅茶のカップを手に取り、ゆっくりと一口飲んだ。
「俺さ、しばらく旅に出ようと思う」
セラは目を瞬かせた。
「旅、ですか」

「ああ。留学先でやり残したこともあるし、新しい商会との交渉もあって。しばらくここを離れる」
「……そうですか」
「引き止めてくれないの?」
「フィリップ様が決めたことなら」

フィリップは苦笑した。
「冷たいなあ」
「そういうわけでは」
「わかってる。冗談だよ」

フィリップはカップを置いて、セラをまっすぐ見た。
「ヴァレンクールとのこと、うまくいきそう?」
セラは少し俯いた。
「……まだ、ちゃんと話せていないんです」
「なんで」
「怖くて」
「何が怖いの」

「また傷つくのが、と言いたいところですが」
セラはゆっくりと顔を上げた。
「本当は……ちゃんと伝えたら、もう逃げられなくなりそうで」

フィリップは少し間を置いてから、声を出して笑った。
「それはもう好きってことじゃん」
「笑わないでください」
「だってさ、セラフィーナ。逃げたくないから怖いんでしょ。そんなの答えが出てるじゃないか」

セラは頬が熱くなるのを感じた。
「……意地悪ですね、フィリップ様も」
「似た者同士だよ、俺とヴァレンクールは」
フィリップは立ち上がった。
「俺が旅に出る前に、ちゃんと話せよ。いい報告を手紙で送ってくれ」

「……約束はできません」
「するの。約束」
「……わかりました」
フィリップはにっと笑って、帽子を手に取った。
「じゃあセラフィーナ、元気でな」

「お気をつけて、フィリップ様」
「ああ。……幸せになれよ」
フィリップは振り返らずに、応接間を出ていった。
セラはしばらく、扉が閉まった後も動けなかった。
胸の奥が、温かくて、少し切なかった。
ありがとう、フィリップ様。

その夕方。
セラはマリアに一枚の手紙を書いた。
几帳面な文字で、短くこう書いた。
「明日の午後、お時間をいただけますか。お話ししたいことがあります。セラフィーナ」
「マリア、ヴァレンクール邸へお願い」
「……お嬢様」
マリアが目を潤ませた。

「なぜ泣くの」
「嬉しくて」
「まだ何も言っていないわ」
「でも、お嬢様がご自分から手紙を書かれたのは初めてです」
セラは少し照れて、視線を逸らした。

「……早く届けてちょうだい」
「かしこまりました!」
マリアが小走りで駆けていく背中を見送りながら、セラはそっと胸に手を当てた。
心臓が、煩いくらいに鳴っていた。

翌日の午後。
ヴァレンクール公爵邸の庭園。
クロードから「庭にいる」と聞かされたセラは、石畳の小径を歩いて奥へ向かった。

春の終わりの庭は、色とりどりの花が咲き乱れていた。薔薇の蕾が膨らみ始め、甘い香りが風に乗って漂っていた。
庭の奥の東屋に、ルシアンがいた。
椅子に腰かけて本を読んでいた彼は、セラの足音に気づいて顔を上げた。
「来たか」
「はい」
「座れ」

「ルシアン様の口癖ですね、それ」
「……そうか」
セラは東屋の椅子に腰を下ろした。
ルシアンは本を閉じて、テーブルの上に置いた。

しばらく、春の風だけが流れた。
薔薇の香りが漂う。鳥が遠くで鳴く。
穏やかな、静かな午後だった。
「……お手紙、ありがとうございました」
セラが切り出した。
「毎日届いて、驚きました」

「……迷惑だったか」
「いいえ」
セラは膝の上で手を組んだ。
「嬉しかったです。不器用な気遣いだと思いましたが」

「不器用で悪かったな」
「褒めています」
ルシアンが、かすかに表情を緩めた。
セラは深呼吸をひとつした。
怖くても、言わなければ。
逃げないと、決めたから。

「ルシアン様」
「何だ」
「お伝えしたいことがあって、今日参りました」
「聞く」
セラはルシアンをまっすぐ見た。
金の瞳が、静かにセラを映していた。

「十年間、ずっと好きでした」
東屋に、静寂が落ちた。
「嫌いになろうとしました。何度も。でも、なれませんでした。ルシアン様の前に立つと、心臓が痛くなって、目が合うだけで息が詰まって……それが嫌で、逃げたかった」
声が震えた。それでも、セラは目を逸らさなかった。

「婚約破棄を申し出たのも、本当は……これ以上傷つきたくなかったから、だと思います」
ルシアンが、静かに立ち上がった。
セラに向かって歩いてくる。
「でも」

セラは続けた。
「コサージュを見せてもらった時、わかりました。ずっと、ここにいてくれていたんだって」
ルシアンがセラの前に立った。
大きな手が、そっとセラの頬に触れた。

「……セラフィーナ」
「はい」
「俺も、言わせてくれ」
セラは静かに頷いた。
ルシアンは珍しく、言葉を探すように少し間を置いた。

普段は完璧に整った所作の彼が、今は指先がかすかに震えていた。
「十年間、お前だけを見ていた。他の誰かに本気になれなかったのは、お前がいたからだ」
「……はい」

「冷たくして、傷つけた。十年分の謝罪など、言葉では足りない」
「……はい」
「だが」
ルシアンの金の瞳が、真剣に揺れた。

「一生かけて、返す。傍にいさせてくれ」
セラの目から、涙がひと粒落ちた。
「……泣くな」
「泣いていません」
「泣いている」
「……少しだけ」

ルシアンが、不器用な手つきでそっと涙を拭った。
セラは小さく笑いながら、俯いた。
「ルシアン様は、本当に不器用ですね」
「わかっている」
「もう少し、優しい言い方があるんじゃないかと思います」
「……努力する」

「十年分、練習してください」
「そうだな」
ルシアンの手が、セラの手をそっと包んだ。
大きくて、温かい手だった。
この手を、知っていた気がする。

子供の頃から、ずっと。
「答えを、聞かせてくれ」
低い声が、静かに問うた。
セラは顔を上げた。
金の瞳が、間近にあった。

「……婚約破棄は、取り消します」
ルシアンが、目を細めた。
「それだけか」
「それだけでは、不満ですか」
「不満だ」
「強欲ですね」

「お前が悪い」
「私が?」
「十年待たせたんだ。それくらい言わせてくれ」
セラはしばらく、ルシアンの顔を見つめた。
普段は決して見せない、不器用で、真剣で、少し必死な表情。

こんな顔をする人だったんだ、と思った。
「……好きです」
セラは、はっきりと言った。
「ずっと、あなたのことが好きでした」
東屋に、春の風が吹き抜けた。
薔薇の香りが漂い、遠くで鳥が鳴いた。

ルシアンは少しの間、動かなかった。
それから、セラをそっと引き寄せた。
大きな腕が、包むように背中に回った。
耳元に、低い声が落ちた。
「……十年分、返す」

「一生かかっても、構いません」
「かかる」
「知っています」
「逃がさない」
「もう逃げません」
セラはルシアンの胸に額を預けた。

規則正しい心臓の音が聞こえた。
この人も、緊張していたんだ。
それがおかしくて、温かくて、セラはまた少し泣きそうになった。

その頃、公爵邸の屋敷の中では。
妹エリーゼが窓から庭を覗き、両手を口に当てて悲鳴を押し殺していた。
「クロード! クロード、見て! お兄様が!」

「拝見しております、エリーゼ様。お静かに」
「だってだって……! やっと! 十年越しに!」
「左様でございます」

クロードは窓から庭を眺め、長年仕えた主人の姿を見て、静かに目を細めた。
「……お待たせいたしました、旦那様」

エルウィン伯爵邸では。
夕方になっても帰らないセラを心配して、マリアが父アルノーに報告していた。
「旦那様、お嬢様がヴァレンクール邸からまだお戻りになりません」
アルノーは目を潤ませた。

「そうか……そうか!」
「お父様、よかったですね」
イザベルが静かに微笑んだ。
「イザベル、我が家の財政は」
「そちらは後でよろしいでしょう」

「そうだな! そうだな!!」
廊下ではエドガーが、珍しく口元を緩めながら窓の外を眺めていた。
「……ルシアン」
静かな声で、呟いた。
「セラを、頼んだぞ」

翌朝、セラからフィリップに手紙が届いた。
旅先の宿で封を切ったフィリップは、短い文章を読んで、しばらく天井を見上げた。
「報告します。約束通り。セラフィーナ」

「……そうか」
フィリップは手紙を丁寧に折って、胸ポケットにしまった。
窓の外に、見知らぬ街の景色が広がっていた。青い空、賑やかな市場、知らない言葉が飛び交う石畳。

「さて」
フィリップは立ち上がり、帽子をかぶった。
新しい街で、新しい出会いが待っている。
「俺も、前を向くか」
扉を開けると、春の風が吹き込んできた。


エピローグ
それから半年後。
王都の大聖堂に、白い花が溢れていた。
祭壇の前に立つセラフィーナは、真白のドレスをまとい、緊張で指先が震えていた。
隣に立つルシアンが、小さな声で言った。
「震えているな」

「……見ないでください」
「かわいい」
「っ……そういうことを急に言わないでください」
「努力すると言ったが、方向が変わった」
「どういう意味ですか」

「冷たくする努力より、喜ばせる努力をする」
セラは俯いて、頬が熱くなるのを感じた。
「……十年分、練習してください」
「している」
「今日が初日ですよ」

「そうだな」
ルシアンが、かすかに微笑んだ。
セラが生まれて初めて見た、あの柔らかい笑顔だった。
「十年待たせた分、一生かけて返す」
「受け取ります」

セラは涙をこらえながら、まっすぐに前を向いた。
祭壇の向こうに、大切な人たちの顔が見えた。

泣きじゃくるエリーゼ。冷静を装いながら目を赤くしているエドガー。堂々と泣いている父アルノー。静かに微笑む母イザベル。目元を押さえるマリア。珍しく表情を崩しているクロード。厳格な公爵夫人グレイスが、小さく頷いた。

そして遠い旅先から、一通の祝電が届いていた。

「おめでとう。幸せになれよ。フィリップ」
セラはルシアンの手を、しっかりと握った。
ルシアンが、同じ力で握り返した。
十年分の春が、ようやく、ここに咲いた。

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