初恋の公爵様

柴田はつみ

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番外編「あの夜、君を見ていた」 ―― ルシアン視点 ――

十年前の春。
俺は十六歳だった。

舞踏会というものが、昔から好きではなかった。
煌びやかなシャンデリア、甘ったるい香水の匂い、どこまでも続く社交辞令。どれを取っても、俺には馴染まないものばかりだった。

しかし国王陛下の即位記念ともなれば、ヴァレンクール家が欠席するわけにはいかない。父の隣に立ち、次期公爵として完璧な笑顔を貼り付けるのが俺の役目だった。
そういう夜だと、思っていた。
セラフィーナ・エルウィンに会うまでは。

彼女とは幼い頃から顔を合わせていた。
家同士の婚約で結ばれた、いわば契約上の相手。最初はそれだけだった。
しかし気づけば、セラフィーナが来る日を、俺は密かに待つようになっていた。
理由は、自分でもわからなかった。

ただ彼女は、俺の前でだけ正直だった。社交界の令嬢たちが俺に向ける媚びた笑顔ではなく、困ったら困った顔をして、嬉しかったら素直に目を輝かせる。俺が無口でも怯えずに、ぽつりぽつりと話しかけてくる。

それが、たまらなく居心地よかった。
好きなのかもしれない。
そう気づいたのは、あの夜会の少し前だった。

認めたくなかった。公爵家の嫡男が、婚約者に本気で恋をするなど、どこか滑稽な気がして。
だから俺は、気づかないふりを続けていた。

その夜、会場で彼女を見つけた瞬間、息が止まった。
白いドレス。柔らかく結われた淡い金髪。人込みの端に立って、少し居心地悪そうにしている横顔。
綺麗だ。
今まで思っていたより、ずっと。
胸の中で何かが音を立てたが、俺はそれを表情に出さないよう、慎重に歩み寄った。
「セラフィーナ」
「……ルシアン様」

彼女が振り返った。
俺を見た瞬間、頬がうっすら赤くなった。
その顔を、ずっと覚えていることになるとは、この時は知らなかった。

しばらく、ふたりで言葉を交わした。
他愛ない話だった。庭の花のこと、読んでいる本のこと。でも俺はそれが嬉しかった。彼女と話す時間だけが、この息苦しい夜会で唯一、自然に息ができる気がした。

そしてセラフィーナが、小さな手を差し出した。
「あの……よかったら、つけてください。お守りです」
白いリボンで束ねられた、小さなコサージュ。
庭で摘んだのだろうか。飾り気のない、素朴な花飾りだった。

俺はしばらく、それを見つめた。
令嬢たちから贈り物をされたことは、今まで何度もあった。しかしどれも、家格へのあてつけか、媚を売るための道具だった。
これは、違った。

ただ俺のために、彼女が作ってきたものだった。
「……もらう」
胸元につけた。
セラフィーナが、ほっとしたように微笑んだ。
ああ、この笑顔のために生きていける気がする。

馬鹿げたことを考えた。しかし本当にそう思った。
その時、母に呼ばれた。
「ルシアン、少しよろしい?」
「……すぐ戻る」

セラフィーナに短く告げて、俺は母のもとへ向かった。
話は長くなかった。来賓への挨拶の段取りについて、いくつか確認するだけだった。
五分も経たないうちに、俺はセラフィーナのもとへ戻った。

彼女は、いなかった。
いや、いた。
ただ、場所が変わっていた。
フロアの中央。音楽に合わせて、誰かと踊っていた。
フィリップ・モンテーニュ。

モンテーニュ家の嫡男で、俺の幼馴染。快活で口が達者で、誰とでも打ち解ける男。俺とは正反対の人間だった。
ふたりは笑いながら踊っていた。

セラフィーナの笑い声が、ホールに溶けた。
俺の前では、一度もしない笑い方だった。
胸の中で、何かが焼けた。
名前もわからない感情だった。ただ、息ができなくなるほど苦しかった。
なぜあいつと踊っている。なぜあいつには、あんな顔を見せる。

理不尽だとわかっていた。俺が席を外した隙に、フィリップが声をかけたのだろう。それだけのことだ。
しかし。
フィリップがセラフィーナの耳元に何かを囁いた。

セラフィーナが、顔を赤らめて俯いた。
その瞬間、胸に刺さった何かが、ぐっと深くなった。
俺には聞こえなかった。
内容など、関係なかった。
ただ。

俺が五分間席を外した隙に、あいつはセラフィーナを笑わせて、あんな顔をさせた。
俺にはできないことを、いとも簡単に。
胸元のコサージュに、無意識に手が触れた。
もしかしてこれも、俺への気遣いに過ぎなかったのか。

こういう令嬢だから。誰にでも優しくする人だから。
俺が特別だと思っていたのは、俺だけだったのか。
馬鹿げた思い込みだった。

公爵家の嫡男が、婚約者の顔を見るたびに胸が痛くなるなど。
俺は静かに、その感情に蓋をした。

曲が終わった。
フィリップとセラフィーナが、フロアから戻ってくる。
セラフィーナが俺に気づいて、振り返った。
「……ルシアン様?」

「帰るぞ」
それだけ言って、俺は踵を返した。
後ろで彼女が何か言った気がした。
しかし聞こえないふりをした。
聞いてしまったら、蓋をした感情が溢れ出す気がして。

馬車の中で、窓の外を眺めながら、俺は一つだけ決めた。
これ以上、本気になってはいけない。
どうせ俺には、あいつのように笑わせることができない。

どうせ俺には、あいつのように傍にいることができない。
なら、最初から距離を置いていた方がいい。
婚約は家同士の契約だ。感情を持ち込むべきではない。

そう、結論づけた。
帰宅して、自室に戻った。
脱いだ夜会服の胸元に、コサージュがまだついていた。
捨てようとした。

できなかった。
俺はそれを、小さな木箱に入れた。
引き出しの奥に、しまった。
誰にも言わないまま。

それから十年。
俺は完璧な公爵嫡男を演じ続けた。
夜会に出るたびに令嬢たちが寄ってきた。適度に相手をして、適度に距離を置いた。本気になることは、一度もなかった。
なれなかった。

淡い金髪の令嬢を見ると、胸がざわいた。柔らかな笑い声を聞くと、別の声を思い出した。
俺は十年間、何をしていたんだ。
セラフィーナが婚約破棄を申し出てきた時、初めて焦った。

いや、正確には違う。
怖かった。
本当に失うかもしれないと、初めて思った。
だから俺は言った。
「破棄は認めない。お前は俺のものだ」
今思えば、最悪な言葉だった。

しかし他に言葉が出てこなかった。
十年間、感情を押し込めてきた俺には、それ以上の言葉を持っていなかった。

あの夜、書斎でセラフィーナに言った。
「十年間、誰にも本気になれなかった」
彼女は涙をこらえながら、俺を見た。
「捨てていなかったの」

震える指先で、枯れたコサージュに触れた。
その顔を見た瞬間、十年分の後悔が一気に押し寄せた。
十年間、俺は何と馬鹿なことをしていたんだろう。

たった五分の誤解で。
確かめることもせずに。
ただ意地を張り続けて。
セラフィーナが泣きそうな目で言った。
「……ずるいです」
本当にそうだった。
俺はずるかった。

自分が傷つくのが嫌で、全部蓋をして、彼女を十年間待たせた。
「……十年、無駄にした」
絞り出した言葉は、謝罪にもなっていなかった。
しかしセラフィーナは、それでも傍にいてくれた。

コサージュをもう少し預かっていてくれと言った。
その言葉の意味を、俺はゆっくりと噛み締めた。
まだ、間に合うかもしれない。

翌日から、手紙を書き始めた。
何を書けばいいかわからなかった。
愛の言葉など、書いたことがなかった。
だから他愛ないことを書いた。
庭の木が剪定された話。読んでいる本の話。今日の天気。

我ながら馬鹿げていると思った。
しかしクロードが「よろしいのではないでしょうか」と言ったので、続けた。
セラフィーナから返事が来た時、俺は珍しく、しばらくその便箋を眺め続けた。

「スノードロップが散り始めました。でも根は元気です。来年また咲きます」
根は元気。
来年また咲く。
彼女はそういう人だ。

どんなに寒い冬でも、春を諦めない。
俺が十年間、冷たくし続けても。
それでも根を枯らさずにいてくれた。
俺には、もったいないくらいの人だった。

庭の東屋で、セラフィーナが言った。
「十年間、ずっと好きでした」
俺は動けなかった。
十年間待ち望んでいた言葉が、こんなにも静かに、真っ直ぐに届いた。
「好きです。ずっと、あなたのことが好きでした」

セラフィーナの目から、涙が落ちた。
俺はその涙を拭いながら、自分の指先が震えていることに気づいた。
公爵家の嫡男が、指を震わせるなど。
しかし止められなかった。
「一生かけて、返す」

それしか言えなかった。
十年分の言葉を、どう返せばいいかわからなかった。
しかしセラフィーナは微笑んで言った。
「一生かかっても、構いません」

その瞬間、ようやく。
十年間、俺の胸の奥で凍りついていたものが、静かに溶けた気がした。

後になって、クロードに言われた。
「旦那様、あの舞踏会の夜から、ずっとおわかりだったのではないですか」
「何が」
「セラフィーナお嬢様のことが、好きだということが」
俺は答えなかった。

「なぜ十年間、何もなさらなかったのです」
「……意地を張った」
「左様でございますか」
クロードは静かに微笑んだ。
「コサージュを捨てられなかった時点で、答えは出ていたのではないですか」
俺は黙った。

「旦那様は昔から、大切なものほど、引き出しの奥にしまってしまわれる」
「……うるさい」
「申し訳ございません」
クロードは涼しい顔で言った。
「しかしこれからは、引き出しの奥にしまわれませんよう」

「わかっている」
「お嬢様に、毎日伝えてください」
「毎日は」
「毎日でございます」
俺はため息をついた。
しかし。
毎日、か。
悪くない、と思った。

あの夜会から十年。
大聖堂の祭壇に立ちながら、俺はセラフィーナの横顔を見た。
白いドレス。柔らかく結われた淡い金髪。
十年前と同じで、しかし何もかもが違った。
あの夜は遠くから眺めるだけだった。
今日は隣にいる。
「震えているな」

小さな声で言うと、セラフィーナが俯いた。
「……見ないでください」
「かわいい」
頬が赤くなった。
この顔が見たくて、十年待ったのかもしれない。
馬鹿げた話だと思う。
しかし。

「十年待たせた分、一生かけて返す」
セラフィーナが、涙をこらえながらまっすぐ前を向いた。
「受け取ります」
俺はセラフィーナの手を、しっかりと握った。

もう、引き出しの奥にはしまわない。
胸の中で、静かに誓った。
春の光が、大聖堂の窓から差し込んでいた。
十年前に凍りついた夜が、ようやく、春になった。

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