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第2章 花探し

10・私の聖女に手を出すとは、愚かにもほどがある

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「待って下さい!」

 会場を出てすぐに、花探しに参加していた男のひとりに呼び止められた。けれども敢えて聞こえないふりをして、ルシェラは中央区まで続く緩やかな坂を駆け足で下っていく。
 リナス広場に並んだ露店は既に閉まっているが、祭りの熱気が収まらないリトベルの街は未だ多くの人で賑わっていた。
 夜闇に沈む歴史地区の坂道を下りきった先、リナス広場を照らす明かりの中へ紛れ込もうとしたルシェラだったが、その足が明かりの中へ進むことはなかった。

「少し話を聞いて下さい!」
「きゃっ!」

 会場から追ってきた男に肩を掴まれ、ルシェラの体が力任せに引き戻される。そのままの勢いで建物の壁に押し当てられ、強かに打った背中にルシェラが眉を顰めた。ふっと濃くなった影に顔を上げれば、逃げ道を塞ぐように男がルシェラに覆い被さっている。

「どうして逃げるんですか。少しくらい僕と話をしてくれてもいいじゃないか!」

 あまりの剣幕にルシェラがびくんと身を竦ませた。肩を掴む手の強さ。焦燥に仄暗く揺れる双眸。わずかに色欲を滲ませた荒い呼吸が、怯えるルシェラの頬をねっとりと濡らすように滑っていく。

 明らかに異常をきたした男の様子に、ルシェラは本気で恐怖した。
 シャドウでもなく悪魔でもない。ただの人間なのに、溢れ出す欲望を抑えきれない男の下卑た笑みがルシェラの体を金縛りにする。

「僕と話を……話を、しよう」

 ルシェラの細い肩を左手で押さえつけ、うわごとのように男が呟いた。耳元を撫でた右手が髪に挿していたリュナスの花を抜き取ると、そのまま桃色の花弁でルシェラの頬を焦らすようになぞる。その不快なくすぐりに嫌悪を滲ませて顔を背ければ、ひどく興奮したように男の顔が醜く歪んだ。

「話……はな、し……シ、シタ……シタイ、シタイシタイ」

 小刻みに揺れる男の顔から、ずるりと粘着質な靄のようなものが溢れ出した。顔半分を黒く染めたそれは糸を引きながら滴り落ち、石畳をかすかに揺らしながらその奥へ吸い込まれていく。

「……っ、シャドウ!?」

 驚きに目を瞠るルシェラの眼前で、男の全身から溢れ出した靄が幾つもの蛇に姿を変えて石畳の上をのたうち回る。そのうちの何匹かがルシェラの足に絡みつき、ねっとりと舐め回すように膝頭まで這い上がると、鎌首をもたげて威嚇した。

 ダークベルへ引き寄せられるはずのシャドウがリトベルに留まっている現状は、以前セイルに送ってもらった時に現れた女のシャドウの時と同じだ。ならばこの蛇のシャドウもルシェラを狙って実体化したものになる。

 女のシャドウはルシェラへの嫉妬心。
 足に絡みつく蛇のシャドウが何に対して実体化したのか、考えなくても分かる。なぜなら、膝で鎌首をもたげていた蛇がするりとその先へ進み始めたからだ。

「……っ!」

 腕は壁に押し当てられ、シャドウにすっかり覆われた男の体がルシェラの逃げ場を完全に塞いでいる。太腿を這い上がる蛇の侵入を拒もうとしても、男の膝がルシェラの足を割って入り、最後の抵抗すらさせてもらえない。

 あまりの恐怖に視界が歪む。声が出ない。呼吸が出来ない。涙が出る。
 現状を否定したくてぎゅっと目を瞑れば、自然と銀髪の悪魔の姿が脳裏に浮かんだ。

「誰が触れていいと言った」

 体の奥底に重く響く声が、一閃の軌跡のように暗闇を切り裂いた。
 頬を不快に湿らす男の息が遠ざかり、同時に空気すら凍らせるほどの冷酷な気配がルシェラの周りを支配した。体の熱を一気に奪う冷気に目を開けば、まるで氷刃の名残のように闇に流れる銀色がルシェラの視界に滑り込む。

「……っ、レヴィ……」

 広場の明かりを背に、逆光になったレヴィリウスの瞳が怒りに赤く燃えたような気がした。
 全身をシャドウの影に覆われた男が、振り向く間もなく背後から頭を鷲掴みにされる。そのままルシェラから引き剥がされた男の体、その喉元に当てられた大鎌の刃が月光を受けて冷たく光った。

「私の聖女に手を出すとは、愚かにもほどがある」

 冷淡な声音に、いつもの穏やかさはかけらも見当たらない。細い手に握られた大鎌が何をしようとしているのかを知り、ルシェラが慌ててレヴィリウスへと手を伸ばした。
 レヴィリウスが掴んでいるシャドウの中には、まだ人間の男が取り込まれているのだ。狩られるべきはシャドウであって、人間の男ではない。

「レヴィンっ……待って!」
「月葬の刃に散れ」

 伸ばしたルシェラの指先で、細い三日月に似た大鎌の刃が微塵の躊躇いもなく男の首を狩り落とした。

「……っ!」

 悲鳴を押し殺し瞠目したルシェラの瞳に映るのは、石畳に転がり落ちるシャドウの黒い塊。見れば中に取り込まれていた男は無傷のまま石畳に放り出され、シャドウだけを引きずり出したレヴィリウスの大鎌には汚れた油に似た黒い雫が滴り落ちている。その鎌を大きく振るって半回転させると、未だ卑しくルシェラの足に絡みついていた蛇のシャドウが絡め取られるようにして引き剥がされていった。

 ふらりと傾くルシェラの体が、素早くレヴィリウスの腕に引き寄せられる。守るように、奪うように抱きしめられ、その腕の力にほんの少しだけ甘い鼓動が疼いた気がした。

「無事ですね?」

 吐息と共に掠れた声で問われ、ルシェラが無言のまま頷いた。
 ごくわずかな安堵の溜息をこぼし、レヴィリウスがルシェラの頭を優しく撫でてやる。その細い指をすっかり乱れてしまった纏め髪に滑り込ませると、ピンを抜いて胡桃色の柔らかな髪を解いていく。

「すみません。私の失態です」

 強い後悔を滲ませてこぼれ落ちた言葉に顔を上げると、間近に見下ろす菫色の瞳が不安げに揺れていた。

「シャドウをおびき寄せるためとは言え、君に魅了の魔法などかけるべきではなかった。――けれど、そうでもしないと君の元へ来ることが出来ない現状に焦燥する私もいる」
「……そんなの、言い訳だわ」
「そうですね。否定はしませんよ。……送りましょう、ルシェラ。今夜はもう休みなさい。シャドウも私も、君の休息を邪魔しないと約束しましょう」


 ***


 レヴィリウスが切り裂いた空間の隙間を通り抜けると、その先はもう自宅である古書店の正面だった。
 宣言通りレヴィリウスは中へは入らず、ルシェラが二階から顔を覗かせたのを確認すると、そのまま夜の向こうへ消えてしまった。

 両足を這ったシャドウの感触を洗い流したくてバスルームへと急ぐ。熱いシャワーを浴びると穢れと共に鬱々とした気持ちも流されていくようで、風呂上がりにメリダルのハーブティーを飲むくらいには気持ちも随分と落ち着きを取り戻していた。

 ハーブティーが体を内側から温めていくのを感じながら、ルシェラはソファにもたれたままぼうっと意識を揺蕩わせる。定まらない気持ちを表すように揺れる視点の先、棚に置かれたアイスブルーの箱の中身が触れてもないのに音を鳴らしたような気がした。

「……ルダの揺り籠」

 聖女の力を封じたと言われるその箱を手に取って凝視してみても、青く透き通った箱の中身はやっぱり少しも見えることはなかった。

 もしもルシェラが力を取り戻し聖女として覚醒したのなら、きっと今夜のようにシャドウに蹂躙されることはないのだろう。自分の身は自分で守り、レヴィリウスに助けを乞うこともない。
 ――けれど。

『すみません。私の失態です』

 自分の過ちを悔いて零れた謝罪は、今まで聞いたどんな言葉よりも感情の波に揺れていた。
 柔和な笑みの仮面で隠された真実の顔を、あの時ほんの少しだけ垣間見たような気がした。そしてそんなレヴィリウスを、ルシェラはもっと知りたいと思ってしまった。

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