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第1部

暗色讃美・Ⅲ

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 漆黒の闇に浮かび上がる金の十字架。見慣れたはずのそれすら、今の「彼」には恐怖を感じた。

 神は人を見捨てない。人が神を見捨てるのだ。
 その身に巣食った悪の存在をより近く感じながら、「彼」は半ば救いを求めるように十字架の前にひれ伏した。
 金色の髪に隠された頬を、一筋の涙が零れ落ちる。


「彼」がエレンシアに来たのは、今から三年程前になる。人々の期待を裏切らず、穏やかな微笑みと偽りのない純粋な性格によって厚い信頼を得た「彼」は、ここで静かに暮らしていくはずだった。

 そんな彼の静かで穏やかな日常を破ったのは、眩しい金色の髪とエメラルドのような翠色の瞳をしたひとりの女性。彼女はその無邪気な微笑みと真っ直ぐな瞳とで「彼」の心をあっという間に奪い、「彼」の平穏を打ち崩してしまった。

 しかし「彼」が彼女を求めることは罪になり、その思いは告げられることすら許されないものだった。それゆえに「彼」の思いは見えないところで膨張し、知らない間に闇を呼び出すまでに成長していたのだ。

 聖職者である「彼」の思いは、永遠に叶うことはない。


「……神よ……」

 喘ぐように呟いた声は、生気を奪われ掠れていく。枯れた声音だけが、誰もいない礼拝堂に崩れ落ちて消えて行った。

「……どうか……愚かな私に、救いを」

 胸元で揺れる銀の十字架を強く握りしめ、神父は再度強く神に願う。

「……っ。救いを、与えてください。汚れた体では……もう、生きていけない」

 十字架を握るその手が己の命を奪う刃を持つことは、聖職者として何よりも重い罪となる。闇に巣食う者と契約をし、その身を堕としてしまった神父は、それでも聖職者と言う名を棄てきれず無様に足掻き続けるしかなかった。

 もはやこの体は自分のものではない。闇に奪われてしまった体は、辛うじて残った神父の意識を喰らい尽くすと同時に、己の欲望のままに夜の闇を徘徊するだろう。そうなる前に、神父は自分が自分でいられる間に決着をつけなければならなかった。
 残された時間は、ない。

「神よっ。どうか、その手で……私を裁いてください! お願いです」

 声に応えるように、神父の背後で乾いた足音が響いた。

「そこまで悪魔と同化していながら、まだ理性を保てるとは」

 ふいに背後から聞こえた声に、神父ががたがたと体を震わせながらゆっくりと振り返った。
 誰もいないはずの礼拝堂、その扉の前に黒づくめの男がひとり立っていた。
 闇に漂う白百合の花に捕われた、あの男だった。

 その類稀な赤紫の瞳を見た瞬間、神父の中で闇が怯えたようにざわざわと騒ぎ始める。それは神父の髪を不気味に揺らし、薄い呼吸さえ奪ってしまう強烈な圧迫感。震えで僅かに開いた唇から、神父とは別の声が零れ落ちた。

『お前は……まさか!』

「おや? 私をご存知ですか?」

 嫌味に笑ったキールが、優雅な動作で右手を真上に掲げた。その手にどこからともなく現れた闇の帯がしゅるしゅると絡み付き、彼に漆黒の十字架を手渡した。
 神父の後ろにざわめく影を見、にやりと笑ったその顔が闇に不気味に浮かび上がる。

「お願い、だ。私を……。消えてなくなる前にっ」

「死を望む貴方に、神の救いはない」

 冷淡に突き放し、キールが右手の黒十字を神父へと向けた。

「それでも救いを求めるなら……神にも与えられぬ許しを、与えましょう」

 キールに手を伸ばしかけた神父の背中が、内側から縦にぱっくりと引き裂かれた。そこから勢いよく溢れ出した漆黒の瘴気が、わずかに人の形を留めながらその場から逃げようともがき始める。
 その闇を見据えたキールの前で、床に倒れ込んだ神父が救いを求めるように震える右腕をキールへと伸ばした。

「……どうか……」

 ――――あの人を汚してしまう前に。

 飛び散った鮮血と逃げ惑う闇の中で神父が最期に見たのは、自分を救う黒き神の十字架だった。



  †     †     †     †



 弾かれたように目を覚ました。ひどく嫌な夢を見たようで、体はぐっしょりと汗をかいている。呼吸は荒く、胸は内側から激しく叩き付けられていた。
 目を覚ます瞬間、懐かしい声を耳元で聞いたような気がする。

(あれは……そう、神父様の声だった)

 そう思うと同時に、妙な胸騒ぎがした。いつもとは少し違った神父の様子。その儚げな微笑みが消えてしまいそうだと、レベッカは何となくそう感じていた。

「……神父様」

 呟いた声は彼女の体を動かす合図となる。ベッドから飛び起き、急いで服を着替えたレベッカは、片手に剣を掴むなり風のように屋敷を飛び出していった。
 得体の知れない不安は、レベッカの胸の奥から徐々に不快な触手を伸ばし始めていた。





 教会の敷地内は、驚くほどしんと静まり返っていた。
 その静寂を壊すように、レベッカの荒い呼吸が響いていく。それに重なり合って、教会の中から激しい音が轟いた。
 レベッカを待っていたかのように響いた轟音は何かが倒れて壊れるような音で、教会内に留まりきれなかった音の破片が外のレベッカにまで届いてくる。その異常な音に驚くより早く、レベッカの体は教会へと走り出していた。
 近付くにつれどくどくと早まる鼓動は、もはや止まる術を知らない。震える手が教会の扉を押し開いた瞬間、彼女は今まででもっとも残酷な光景を目の当たりにした。



 鮮血に汚された礼拝堂。
 神聖な空気に溶けた、濃い血臭。
 無残に飛び散った肉片と、神父だったものの塊に突き立てられた黒十字。



 どこまでも続く明けない夜。
 その深く永遠に黒い闇を切り裂く悲鳴は、誰もいない真紅の教会にいつまでも響き渡っていた。
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